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平成22年4月23日 校正すみ

パラオ恋しや 戦陣に在った私の青春

 正一

第1 少年の心に映った戦前昭和史の一こま

1 青年将校とマルクス学生を動かせた共通のもの

昭和11年、中学の入学試験に合格した直後のことです。2・26事件が起こりました。

はっきり覚えているのは、そこらの路地を歩きながら、姉の亭主になる義兄が「あの人達の動機は純粋なんだ」と言っていたことでした。

これは国民全般とはいかないまでも、当時の多数日本人の本音に近いところではなかったでしょうか。

政党政治の腐敗という言葉が、微かに幼な心に刻まれていました。田舎の小学校を転々としていた私には、「貧しい農家」のイメージが同級生たちの服装や弁当から実感として伝わってきていました。それだけに、娘が売られるというような、子供には分かりにくい話も、満更この世の外の事とは思っていませんでした。

それが、子供達が漠然と話に聞くのと違って、一人前の陸軍将校の立場になっていればどうでしょう。自分が「陛下からお預かりしている」兵士から、妹が売られていると聞いたら、義憤に燃えずにいられるでしょうか。 

昭和の歴史はその初頭の世界恐慌を抜きにしては語れないのでありますが、そのシンボル的事例としての「娘が売られる」という現象に、多感な青年の目が鋭角的に注がれたとしても不思議ではありません。

最近になって思うことなのですが、5・15事件や2・26事件の青年将校達が、もう少し家計にゆとりがあって、(旧制の)1高や3高に行っていたら、マルクス・レーニンに走っていた可能性は多分にあると思います。

逆に、旧制高校でマルクス・レーニン主義に傾倒し、ブタ箱入りで殉教者気取りにさえなっていた天下の秀才達が、もし陸軍士官学校あたりに入っていたら、かの青年将校のような行動に走っていたかも知れません。

1高生や3高生がどれほど秀才だったとしても、果たしてきちんとマルクスを勉強したのかどうか、勉強はしてもよく分かったのかどうかは怪しいものです。大まかに言えば、マルクスかぶれの風潮に染まって行ったと見るのが正解で、それを原体験的に支えていたのが、当時全人口の半分を占めていた貧しい農村の姿ではなかったでしょうか。

 

2 海軍の風潮

私が旧制中学から海軍経理学校に入学したのは2・26から5年目の昭和15年の暮でした。海軍の学校で一番怖いのは一号生徒と呼ばれる最上級生で普段の日はこてんこてんに鍛えられましたが、日曜日に外出している間だけは人が違ったような優しい兄貴になる。そういう中で一号生徒から5・15事件の三上卓が作った有名な「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ・・・] の歌を教わったのですが、その際一号生徒は「2番だけは外で歌うなよ」と注意してくれていました。

「財閥富に奢(おご)れども」という悲憤のくだりです。一つのバランス感覚として面白いではありませんか。

それが、私が2年生から3年生になる頃になると、今にして思い当たることなのですが、海軍にもナチスかぶれの傾向がそろそろ現われ始めていたように思います。

海軍省で戦時国際法の権威だった杉田教官の講義では、捕虜待遇の個所などきちんと教えてくれていました。ところが生徒の中からは「教官の言うようにしていたら戦争は負けるよ」とか、「何でもいいから一人でも多く敵を殺すんだ」とかいう反発の声がチラホラ出ていたのです。兵学校では、軍歌「上村将軍」のうち、沈み行く敵艦リユーリック号の乗員救助を命じた次の一節を歌わせない分隊もあったそうです。

 

恨みは深き敵なれど

捨てなば死せん彼らなり

英雄の腸(はらわた)ちぎれけん

救助と君は叫びけり

 

総力戦を強調しただけとは思えない。日本古来の思想でも、楠木正行の敵兵救助は天晴れ武士の鑑とされてきたではありませんか。そんな事を考えると、これはどうもナチスの影響でもあったように思えてなりません。

 

第2 いい加減だった戦争目的

いま振り返ってみて全く解せないのは、あの戦争の3年8月間、前半は海軍生徒、後半は南太平洋転戦ということでありながら、戦争目的が語られるのを耳にしたことがないということです。

それだけに、唯一の例外、東大橋爪教授の講義から受けたショックが忘れられません。

「この戦争は祖国防衛戦争ですよ」と言われる。ビンとこない。それどころか酷い違和感を覚えたものです。「アジアの解放」が目的と信じて疑うことのなかったところへ「そんな呑気なもんじゃありませんよ」と水をぶっ掛けられたんですから無理もありません。

「東亜侵略百年の野望をここに覆す」と国中が高らかに歌っていたご時世、まだ日本が負けるなんて思ってもみなかった時期ですから、戦争の大義名分に掲げられていた謳い文句を、そつくりそのまま、戦争で達成しょうとする具体的「戦争目的」と取り違えていた。

どの国にだってあり勝ちな事ではありますが、我々軍人を含めて国民全体が戦争目的の意味が分かっていなかった。それを橋爪先生が衝(つ)いてくれたのだと思います。

その橋爪先生が薦めてくれた本に「戦争指導の実際」というのがありました。分厚い本でしたが、卒業後も軍艦に持ち込んで読み耽ったものです。

第一次世界大戦の時、陸軍からのフランス派遣観戦武官だったこの本の著者は「戦争目的」について、実に目の覚めるような見事な解説をしてくれていたのです。

「戦争を始めるには目的がはっきりしていなければならない。また、戦争目的を達成したと思ったらすぐに止めるのが戦争指導の鉄則である」

「逆に目的を達成出来そうにないことが分かったら、何時までも目的にこだわっていてはいけない。すぐさま戦争目的を縮小し、素早く手を打たないと大変なことになる」

「戦争指導の実際」は私が今までで最も愛読した本の一つですが、著者の目から見れば日支事変も大東亜戦争も、目的がはっきりしないまま、だらだら続けた戦争だったに違いありません。

 

第3 戦争の「陽」の半面、勝ち戦さ

1 幕末生まれの伯父の生涯

海軍生徒として婆婆気もすっかり抜けたころ、退役陸軍少将で日清戦争では功三級をもらったという伯父が亡くなりました。大東亜戦争で日本が勝ちまくっていた最中でした。私とは随分と年の違った伯父でしたが、その伯父が死ぬ2日前に言った言葉がとても印象的なのです。

「英国は滅亡だ」という。

伯父にしてみれば、幕末に生まれ、日清戦争で初めて鴨緑江を越える。

爾来国運いよいよ隆盛に向かい、大東亜戦争の緒戦で海軍は英国太平洋艦隊の旗艦プリンス・オブ・ウェールズ号を撃沈、陸上ではマレーの虎と勇名を馳せる山下奉文の兵団がアジアにおける大英帝国の牙城シンガポールを衝こうとする。

そこまでを見届けた伯父の一生は、明治建軍から登りつめて頂点まで。それをすっぽりきれいに生身の視界に収めきった生涯でした。

そんな生涯の幕を勝ち戦の中で閉じた伯父の最後の言葉が、先に述べた 「英国は滅亡だ」であったのです。

ミッドウェーの敗戦を知らずに息を引き取った黄海海戦(日清戦争)生き残りの提督がいたとしたら、維新この方敗れることを知らなかった大海軍の面影を、一点の曇りなく心に収めて世を去ることができたに違いありません。

私が素朴に羨しいと思う伯父の生涯をこんなところで引き合いに出したのは、今の日本人には分かりにくい勝ち戦さの実感を、多少なりとも後世に伝えたいと思うからです。

戦争とは負けるものだというような、一方的思い込みの感覚で軍事を論じていたら、世界の常識からかけ離れた珍論になりかねないし、世界の歴史そのものの理解も怪しくなります。

「治にいて乱を忘れず」 しかも、物事を見る目は陰陽の両面、戦で言えば勝ち負け双方の局面に向けられていなければなりません。陽にしろ、陰にしろ、一面しか知らないでいることは物の見方を偏らせる基になるのです。

 

 先輩たちの勝ち戦

というわけで、勝ち戦の話をもう少し続けましょう。

外務省の先輩で最後にはフランス大使を勤められた力石さんがジュネーブ在勤中のことでした。私が出張してのある酒の席で話がインド洋作戦に及んだことがあります。カルカッタやコロンボの空襲などはほんのつけ足しで、元気一杯に洋上作戦を展開する南雲艦隊の有様が力右さんの口を衝(つ)いて出てくるのには、こちらがすっかり当てられてしまいました。同じように勝ち戦さしか知らない人でも、海軍生活の印象がよく、戦後もずっと陽の当るところにおられたから、平気でそんな話もできたのだと思いますが、とにかく痛快でした。「もう2年早く卒業していたらなあ」と力石さんが羨しかったものです。

もう一つは昨年のことです。日銀出身の岡田さんという方にロータリークラブの会合でお会いし、先方から「海軍出身でしてねぇ」と自己紹介されました。

「どこにおられたのですか」

「インドネシアです」

「今村大将がおられたでしょう」

「立派な方でね」

「そのコロの印象はどうでしたか。」

「いや、アメリカが日本を占領していた時と同じようなもので、日本の威勢がよく随分いい思いをしました。」そんなやりとりでありました。

私にとって勝ち戦は、生徒時代に一般国民と同じように新聞やラジオで聴くだけ。たまに、先輩がパールハーバーの話をしてくれるぐらいで、体験したことがない。つまり、新聞を通じて知る勝ち戦でした。しかし、それもミッドウェーの海戦を境に一挙に怪しくなっていくのです。

 

3 勝ち戦の終り

ミッドウェーといっても若い人にはピンとこないでしょうが、維新この方、負け戦を知らぬ帝国海軍が、圧倒的に優勢な兵力でミッドウェーに襲いかかった、勝つのが当たり前の戦です。

それが何ということでしょう。運命の5分間、いわば一瞬の判断ミスで大敗を喫し、主戦力の空母4隻を失ってしまうのです。

それこそ卒業が私より2年早い青木先輩の、戦艦榛名艦上からの目撃日記があります。要約してみましよう。

着艦するに母艦なしI.

洋上機動作戦の華、練達のパイロットたちは、搭乗機も無傷、燃料の不足もないのに、空しくハンケチを振りながら海の中に突入して行く。

 

こうして、太平洋上における我が海軍破竹の勢いは頓挫し、その勢いを取り戻す夢は遂に実る事がなかったのであります。

この後、勝ち戦らしいものと言えば、愛宕時代に仕えた荒木艦長ご自慢のツラギ夜戦くらいのものではなかったでしょうか。

戦さというものには完全ゲームから引き分けまで、色々の勝ち負けがありますが、どんな場合でも双方にミスが続出するのがむしろ常態だと言えます。

そして、ミスが相手のミスで救われたりもしながら、総じてミスの少ない方が勝つ。戦はこういう感覚で捉えると実感が出てよく解かるのでありまして、どう見ても勝つ筈の戦でも、やはり敗れることはあるのであります。

戦争は外交の延長であり、それを締めくくるのも外交ですから、作戦用兵だけで勝負が決まるわけではありませんが、若しもミッドウェーであんな番狂わせがなく順調に勝ち進んでいたら、戦局はどう展開していたでしょうか。

それは日露戦争での奉天大会戦か、日本海海戦直後の段階に少しばかり似通ったものになっていたかもしれません。

そんなことを考えておりますと、勝ち目のないという点では日露戦争だって大東亜戦争と、どっこい、どっこい、ではなかったのか、という気がしないでもないのであります。

 

第4 大戦争の中の長閑な日々

1 遠洋航海

私が逆にもう2年遅く卒業していたら、「のどかな帝国海軍」など知る由もなかったでしょう。在りし日の大海軍、連合艦隊の威容を目の当たりにすることもなく戦争を終えていたに違いありません。

しかし、ミッドウェーで帝国海軍が致命的敗北を蒙った後でも、あの戦争には、まるで嘘のような静かな時間帯があったのです。

卒業後、初めて乗った戦艦山城で、遠洋航海と称するトラック島までの研修航海が始まります。兵科、機関科、主計科、合わせて330名、卒業したての候補生が2隻の戦艦と1隻の巡洋艦に乗って悠々、トラック島を目指しました。この年の海軍3校卒業生の艦艇乗組要員の7割5分をゴッソリ、たった3隻の艦に満載して行くわけですから無用心もいところ、まだ、太平洋西半分の制海権に自信ありと言わんばかり、大胆不敵の行動です。

トラック島からの帰りに艦内新聞で知るのですが、東の防衛最先端、マキン、タラワが玉砕します。

ヒットラーはその直前に「友邦日本は、数千マイルの彼方に敵を峻拒し続けている」

と演説していましたが、それで気をよくしていたのですから、負けることを頭から考えない国というものは恐ろしいものです。

マキン、タワラ玉砕の後も、それで緊張が高まるというわけでもなく、平穏な航海、以前と変らぬ艦内生活の日々が暮れていきます。

 

2 2度目のトラック島

やがて、新候補生全員は皇居参内、拝謁を済ませ、私は横須賀で修理中の巡洋艦愛宕に着任、第2期研修に入ります。

昭和18年の暮れ、空襲警報が鳴ったという記憶もありません。中岡前艦長戦死後いくらも経っていない愛宕の一室で、静かに吉田松陰講孟余話の筆写をしながら大晦日、満20歳誕生日の感慨に耽っていたのであります。まもなくトラックに向け出撃、勇ましく出航用意のラッパが鳴り響きます。

「椿咲くかよあの大島を越せば黒潮渦をまく」歌の文句の通りであります。

トラックには武蔵、大和以下連合艦隊の主力が、広大な環礁一杯に錨を下ろしていました。

覚えているのは夜、明々と電気をつけ、甲板上での夕涼みよろしく、乗り組み下士官兵のため映画を上映していたことです。太平洋のど真ん中トラック環礁は、昭和19年の正月明け、まだまるで温泉地か保養地のようなリラックスムードだったのであります。

当然ながら風紀も、うぶな私にはどうかと思われる状況でした。先輩たちの女遊びを見ていて、こんなことで戦争に勝てるだろうかと思ったものです。

でも、その中には、ラバウルなど南の前線から帰投してホッとした、束の間の骨休めであった人、生きて再び帰ることのなかった人も少なくなかったはずです。

[思いを祖国の明日に馳せ、今日の戦さに散る]

そんな日が何時やって来るかも知れない。

時にはそんな日の連続でさえある、熾烈な南太平洋の戦闘海域と、中部太平洋に位置していた根拠地トラックとは矢張りどちらが欠けてもいけない持ち合いの相互関係だったのでしょうか。

戦争が始まって2年と少し経っていた頃のことです。

そんなトラックで或る日、紛れ込んできたような感じの敵偵察機を打ち漏らしてしまいました。

トラックにいた連合艦隊の主力が一斉にパラオへ移動します。

敵機動部隊の初攻撃で、残った艦船部隊が壊滅するのが、それから僅か10日後、同期生から最初の戦死者も出ました。

中部太平洋の楽園は、こうして一挙に、それまでの連合艦隊前進基地としての地位を失い、我が制海権すれすれの最前線と化してしまうのです。

 

3 パラオ恋しや

突如トラックを襲った悲運をよそに、移った先のパラオはというと、昨日までのトラックそっくり、敵機の姿を見ることもない平和の別天地でありました。

私にとってのパラオは、今思い出しても「パラオ恋しや」の舟歌が洩れてくる、そんな桃源郷だったのです。

愛宕艦内にも平時の海軍の面影が残っていました。その一つに、今の日本人の戦争イメージからは想像もつかないような昼時の風情がありました。

司令長官(後の栗田艦隊の栗田中将)が昼食の箸をとると、軍楽隊の演奏が始まるのです。勇ましい軍歌ではありません、荘重なクラシックなのです。

マキン、タラワが玉砕し、トラックがあれほどの打撃を受ける状況下に、海軍では第2艦隊の旗艦愛宕にまだ軍楽隊を乗せていたのです。

毎日のように軍楽隊の演奏のもとで食事をとる風景、皆さん想像が出来ますか。私のように音楽の素養のないものでも優雅な気分にだけはなったものですよ。

在りし日の海軍、その威容を語る懐かしの風景でありました。

休みの日がこれまた傑作、パラオで一番大きいコロール島の山登りが楽しみでした。余分におにぎりを作ってもらって、「お腰にさげて」という気分で出かける。パラオの子供達がぞろぞろついてくる。まるでパイド・パイパー、日本流だと桃太郎の絵図です。

今になって思うと、その子供達の中から大統領や閣僚が生まれているかも知れないんですね。パラオの子供達にはいい思い出ばかりです。

第2艦隊、艦隊会議の記録係もさせて貰って、戦局の大きな動きも頭では分かっていながら、こんなパラオにいては長閑な気分をどうすることもできません。

やがて太平洋戦争の天王山、空前絶後の大海戦の舞台になる海域にありながら、私はいかにも平和なパラオの雰囲気の中で、副官事務と庶務主任の仕事に精出していたのであります。

戦争というのは、戦国時代にあっても大名たちが毎日戦闘していたわけではないんですね。インターバルがある。その間に何年もの「平和の時」が入っている事さえ珍しくはなかったはずです。

日本の歴史でも世界の歴史でも、小説家が描くものに影響され、戦争と言えば戦いの連続のように思いがちですが、現実の戦争はそういうものではありますまい。国民全部が戦争をひしひしと身近に感じた大東亜戦争末期の主要都市無差別爆撃は、半年近く切れ目無く続きましたが、あれはもう、勝負が決まって止めを刺す行動の時期だったと見るべきではないでしょうか。

そのパラオも私が転勤命令を受けて去った直後、アメリカ機動部隊の猛攻撃を受けることになります。

私は幸か不幸か、そういう戦争の苛烈な場面をすり抜けてきた格好になっていまして、命を長らえていることが申し訳なく思うことが今でもよくあるのです。

私が乗った5つの戦艦のうち4隻が沈没し、後任者はみんな戦死しています。その4人が私を生かすために私の死に場所だった筈のところへ転勤して来てくれたようなものなのです。

 

第5 この一戦

1 一路決戦場へ

パラオで愛宕を退艦し、長崎で艤装中の駆逐艦霜月へ。佐伯沖での訓練が終わるのが、態勢を挽回して戦局の一大転換を図ろうとした「あ」号作戦発動の直前でありました。

「タウイタウイ島に向け出撃すべし」という命令なのですが、「おい、タウイタウイってどこだ」とガヤガヤ子供のようにはしゃいでいた初陣霜月の出撃風景、私にとっては、咲く花の匂うが如き青春の一こまです。

タウイタウイ島を目指してフィリピンのスールー海に入った時、シンガポールに近いリンガ泊地を出撃して北上中の我が大艦隊に合流出来ました。

霜月は早速空母瑞鶴の直衛を命ぜられます。全艦隊が燃料補給のため、ギマラス泊地に到着した頃、「あ」号作戦は既に発動されていて、関連軍機書類を旗艦大鳳へ貰いに行きます。

艦長のお供は、副官でもある主計長職務執行の私です。こうして私は最高の機密書類を艦長の次ぎに見ることのできる立場にいたのです。

分厚い軍機書類に目を通して作戦の全貌が分かっていく、その興奮といったらありません。

 

2 敵機動部隊を求めて

翌朝はいよいよ敵を求めての艦隊出撃、ギマラス泊地発進です。名は第1機動艦隊でも実質はほとんど連合艦隊そのもの、海軍の誇る大小の艦艇が次々と泊地を出て行く、その光景は壮観の一語に尽きます。

それまでに駆逐艦は随分消耗していましたが、戦艦や巡洋艦は昭和19年6月の時点では大部分が健在だったのです。空母も一旦ミッドウェーで壊滅状態に陥ったものの、その後大鳳が竣工し、瑞鶴、翔鶴に仮装空母も加えると、かなりの規模の勢力に戻っていました。

それが陣容を整えて、いよいよ敵撃滅の壮途に就くのですから、万葉の歌さながら「御民われ生けるしるしあり」の思いに心が弾んだのも無理はありません。先程引用した「想いを祖国の明日に馳せ、今日の戦に散る]というのは、この時の武人としての心境を50年後に回想し、第1回の戦史講話で披露させて頂いた自作の短句であります。

 

3 皇国の興廃この一戦に在り

いよいよ6月19日、決戦の日がやって参ります。

真っ青な空、真っ青な海の中を行く空母瑞鶴、その飛行甲板上に次々と艦載機が運び上げられ、キラキラと朝日を浴びて輝きます。

そして1機また1機と紺碧の空に舞い上がっていく。

各空母の艦載機が発艦を終え、艦隊の上空を覆い、やがて幾重にも銀翼を連ねて視界を去る。第1次攻撃隊の発進であります。

「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の指示を表すZ旗が揚がります。

明治38年5月27日帝政ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った日本海海戦から38年目、同じ旗譌信号が旗艦大鳳の上に翻るのであります。

さあ次は第2次攻撃隊です。発艦作業開始。艦隊上空での勢ぞろい。200機はいたでしょうか。艦隊全員の期待を背にして乾坤一郷の壮途に就きます

その瞬間には神ならぬ身の知る由もなかったことですが、この偉観は私にとって、勝利への希望に輝いた眼で見る最後の海戦絵巻となったのであります。

 

第6 戦い敗れる

1 焦 燥

それから1時間、2時間「どうも様子がおかしいぞ」ということになります。第1次攻撃隊の戦果が判明していい時刻なのに、入電なし。

敵空母は沈めなくていい、甲板を使えなくすればいい。知りたいのはそこなのにウンともスンとも言ってこない。

そうこうしている中にこちらの方に被害が出て参ります。視認距離にある空母翔鶴から黒煙が上がる。旗艦大鳳の沈没したことがわかる‥…・というわけであります。

第1次攻撃隊の報告がないということは、攻撃失敗と断ずべきなのですが、そう考えたくないからでしょう、「どうもおかしい」で頭の働きが止まっている。

ついさっきまで、この1年半の態勢挽回に気負い立っていた我々にしてみれば、戦場心理として無理からぬことで、この時のいたたまれぬ気持ちは生涯を通じ比べるものがありません。

 

2 万事休す

そうこうしている中に、1次も2次も攻撃は失敗に終ったことが判明、翌20日夕刻近くの迎撃戦が終る頃には艦隊空母機のほとんどはマリアナ海域の空に散っていたのであります。

やがて水上部隊を挙げて敵機動部隊に突入、夜戦を決行することが全軍に布告されます。

「勝負はついた。あとは帝国海軍の死に花を咲かすのみ」というあたりが、ひょっとしたら小沢第1機動艦隊司令官の秘められた胸の中だったのではないでしょうか。

満天の星の下旗甲板で涼みがてらに、ついうとうとしていた私・・・・。

それがどれくらい経ったでしょうか、ふと目が覚めると南十字星が昨日までとは逆の方角になっているではありませんか。

ちょうど横にいた後宮水雷長に聞きました。

「どうしたんですか」

「柱島から、再起を期して沖縄中城湾に帰投すべしと言ってきてなあ。夜戦決行は取りやめだよ」

気が抜けたというのでしょうか、「もう少し生きるのか」という気持ちもあるにはありましたが、考えることなど何もできないで美しい夜空を見ていただけだったように思います。

 

3 退き潮

一夜が明けます。航空戦力をなくして機動部隊の実を失ったとはいえ、水上部隊として大艦隊はなお無傷のまま、針路を北へ、静かな航海を続けて行きます。

要衝サイパンの運命は決まった。サイパンと共に、広く果てしない西太平洋の制空、制海権が一挙に敵の手に落ちる。

次はもう真っ直ぐに朝鮮海峡ではないか。すっかり明治に戻ってしまうではないか。

しかもその退き潮の、何と無残に急なことよ・・・・

20になったばかりの私が、祖国の命運を体で感じる、初のしかも生涯で最も衝撃的な体験でありました。

万事休すであります。降伏が考えられない当時の私に思い浮かぶことは、栄光の滅亡でしかありません。最後まで勇敢に戦って、桜の散るように美しく。努力目標はもうそれしかありませんでした。

 

4 東条幕府を倒せ

沖縄中城湾で仮泊の後、瀬戸内海の柱島へ。霜月はそれから、戦況奏上に参内する豊田連合艦隊司令長官坐乗の大淀を護衛して横須賀に向かいます。

横須賀で上陸を許された私はその足で、経理学校時代に商法を教わった石井照久先生を訪ねます。一体日本はどうなるのか、お話を聴きたかったからです。

すると生徒時代に受けた温厚な印象とは打って変わった興奮の面持ち。そして、「東条を倒さなければいけません」と語気を強められるのです。

「太平洋の制海権が危なくなっているのに、飛行機の資材配分は陸海軍半々です。こんな時、陸軍に我慢させるくらいの決断ができなくて内閣総理大臣が勤まりますか」

最近の内閣の公共事業費配分そっくりですね。政治家に決断力がなくなったのは平成の今に始まったことではない。昭和のかなり前から、あの国家存亡の時にさえこの体たらくだったのです。維新直後のあの決断力はどこへ行ったのでしょうか。

その時、もう一人海軍技術大尉の方を訪ねましたが、ここでもえらいことになっていました。「実は、島田海軍大臣の暗殺計画を練っているんです。東条の言いなりでは、国が滅びる。東条の言いなりになっている島田をまず殺さなくては……」という話を聞かされるのです。

艦への帰艦時間がなかったら、私も血の気の多い方でしたから「仲間に入れて下さい」と言い出していたかもしれません。

幕府さながらで倒す手立てがないとまで言われた。さしもの東条内閣もその後間もなく総辞職、島田海軍大臣の暗殺計画はどうなりましたか。

 

第7 戦争収拾

1 打つ手なし

マリアナ沖海戦の後、まだ日本に勝算があると思っている者は、恐らく全艦隊中に1人もいなかったと思います。それくらいのことは当然、大本営特に海軍上層部には分かっていたに違いありません。

内聞の更迭もあり、戦争収拾に動く重要な節目ではなかったでしょうか。陸軍はインパールで作戦部隊が壊滅していました。だが、当時そのような動きがあったのかどうか。

チャーチルが連合国側の主導権を握ってでもいたら話は別だったでしょうが、無条件降伏一点張りのルーズベルトが主役では、例え仲介役にふさわしい国があったとしても、こちらから和平工作の手が打てるような状況ではなかったように思われます。

日露戦争の時のように事が運ぶ客観情勢は全くありませんでした。更にもっと日本にとって不幸だったのは、政治の中枢に明治時代の外交感覚が全く欠如していたことです。

 

 天晴れ日清戦争の幕引き

戦争の収拾について、最近読んで感心させられたのは日清戦争の収拾です。旅順を落した山県有朋は一気に北京を突こうとするのですが、大本営の中に強引に割り込んできていた内閣総理大臣伊藤博文は「絶対にまかりならん」と強硬な反対論を展開します。

「いま北京を攻略して清朝が滅びでもしたらどうするんだ。誰を相手にこの戦争を収拾するんだ。」

というのが伊藤の論拠です。

列強が鵜の目鷹の目で見ており、どんな干渉が入るか分からない。そんなときに、あくまで清朝を戦争収拾の相手と見定め、勝ち戦さで鼻息の荒い軍を制止したシビリアン伊藤の指導力は、絶妙というほかはありません。

そのお陰で、日清戦争では泥沼に入らずに済んだわけです。

 

3 日露戦争の収拾も見事

次の日露戦争では、もっと複雑な状況がありました。その中で何とも感動的なのは、満州派遣軍で参謀長の要職にあった児玉源太郎が、奉天大会戦の後、素早く東京に戻ってきて「もう続かん。万難を排して戦争を収拾してくれ」と政府に訴えたことです。

奉天の戦いでは、こちらが勝っていながら、敗走する何万というロシア兵に向かって撃つ弾丸がなくなっていたと言われます。日本の戦力がぎりぎりの限界点に来ているのが児玉源太郎の目の前にさらけ出されている。

その緊迫した一瞬を押さえる機敏さ、聡明さが日本政府にも軍人側にもあったということが素晴しいではありませんか。

 

4 見劣りのする昭和の国家運営

それでは昭和日本はどうだったかといいますと、日支事変の場合、始まって1年も経たないうちに近衛内閣は「蒋介石を相手にせず」という声明を出してしまいます。

ここが日清戦争とは大違いのところです。

あの広い中国大陸で蒋介石を相手にしなかったら誰を相手にするのですか。汪精衛を担ぎ出して南京政府を作らせるのですが、これは小細工の域を出ません。

こうして日支事変はすっかり泥沼に足を突っ込んでしまうのです。

南仏印進駐だって迂閥な話でした。それが日本の命取り、アメリカの対日石油禁輸につながろうなどとは夢にも思わず、近衛首相も後になって事の重大さに驚いたというのですから話になりません。

戦後の極東軍事法廷でインドのパール判事は

「あんな締め付け(対日禁輸やハルノー卜)に遭えば、ミラノのような小国だって立ち上がったであろう」

と日本の開戦行動を弁護してくれましたが、そのきっかけが南仏印進駐にあったとすれば、その軽率さは、国家、国民に対して罪万死に値すると言わなくてはなりません。

 

第8 鳴呼、分水嶺

1 戦争を避け難いものにした運命の分岐点

アメリカとの戦争は、ある段階からは何をやっても阻止できなかったのかもしれません。もう少し早く手を打つべきだったと言っても、どの時点でどういう手を、というところまで踏み込まないとまともな論議にはなりません。

そこで、それに該当しそうな時点は何時かを突き詰めて考えておりますと、どうも第1次大戦中の対中国21ヵ条要求にまでは遡らなくてはならないように思えるのであります。或いはもっと前に運命の岐路、東アジア史の一大分水嶺があったとも考えられなくはありません。

 

2 太平洋を挟む2大勢力の登場

アメリカ、ドイツ、イタリアの3国は、日本の明治維新とほぼ時を同じくして、世界の主要国に列する体制固めを成し遂げます。アメリカは南北戦争の収拾で難局を克服、ドイツはビスマルクの登場でドイツ帝国を形成、イタリアが統一国家になるのもこの時期で、いずれも19世紀後半の出来事です。ヨーロッパに2つ、太平洋に2つの強国が誕生したわけであります。

その中で、ドイツとイタリアが帝国主義の戦列に加わるのは、何となく分かるような気がするのですが、日本とアメリカの場合は分かりにくい。

アメリカは19世紀末ハワイ王国を併合、米西戦争ではスペインからフィリッピンを割譲させています。

日露戦争の講和で仲介の労を取ってくれてはいますが、それはそれ、アメリカはフィリピンまで出てきておいて、その上になんでアジアの大陸部分 (満州)にまで手を伸ばそうとするのだ。欲張り過ぎではないか、と小村寿太郎あたりが考えたとしても不思議ではありません。

ポーツマス条約締結に関連してアメリカが南満州鉄道の共同経営を申し入れてきた時、日本はもう少しのところでそれを受け入れるところだったのですが小村の反対でご破算になります。

実はここらあたりから、極東における日米の利害が対立し始めるのです。日本の帝国主義化と目されるようになった、アジアでの権益拡大がアメリカの不快感を増幅させるという構図が定着していくのです。

 

3 両雄並び立たず

日露戦争直後の時点で、もし日本が、朝鮮半島を確保できたのだから満州は独占しなくてもいいという発想に立っていれば、それ以降の日米関係はすっかり違ったものになっていたかも知れません。

いまわしい話ではありましょうが、満州の経営についてアメリカに片棒を担がせてさえいれば、同じアングロサクソンの手前、英国も満州のことにそれほど口を挟むのを控えたでしょうし、ロシアもそう易々とは手を出せなかったに違いありません。そのような安定した国際関係を築くことができていたら、アジア太平洋地域であんな大きな戦争が起こる可能性はずつと少ないものになっていたのではないでしょうか。

しかし、日本はアメリカを満州経営から完全に閉め出してしまった。それ以降日米両国は海軍力の増強を競い、太平洋の覇権をめぐって、両雄並び立たずとも言うべき、誠に不幸な対立基調にはまり込んで行くのでありまして、こういう枠組みが出来上ってしまった以上、日米関係は、いずれいつの日か雌雄を決しなくてはならない宿命の下にあったということができるのかも知れません。

分水嶺の課題はこんな雑駁な話ではとても済まされないアジア史の大課題でありまして、只今申し述べましたところは序の口にもならない内容のものでありますが、私の一つの思い付きとして、頭の隅において頂ければ幸いに存ずる次第であります。

 

思い出の記とも戦争論ともつかぬこの小論文は、平成10年4月23日防衛庁統合幕僚学校で行った戦史講話に由来するものですが、何度も筆を入れている中に、何時の間にかすっかり別論文になってしまいました。

(平成11年2月20日)

(なにわ会ニュース81号9頁 平成11年9月掲載)

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