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平成22年4月12日 校正すみ

小沢艦隊五十鈴乗組

 輝雄

旭 輝雄 五十鈴

小生が練習艦隊旗艦出雲より第31戦隊旗艦五十鈴へ転勤したのは昭和19108日であった。

後方勤務3ヶ月あまり、腕を撫し、時来るを待った身にとっては実に欣喜雀躍勇みに勇んで、満員のギューギュー詰めの列車をものともせず、大竹より佐伯へ廻わり、風荒き佐伯湾にて乗艦、いよいよ前線へと希望に燃えたっていたのである。司令官江戸少将、艦長松田源吾大佐、副長兼砲術長大谷少佐、航海長斉藤少佐、副長と航海長は兵学校時代の教官ではないか、それに前任者は同期の栗原 博である。

いや驚きましたね。修理後の艦というものはこんなにキタナイものかなと、それに兵隊さんよりは白面の貴公子が、海兵団出身と思われたらしい。だいぶ年寄りとみられ色男だいなしである。(コンチクショー)

ニワトリ(甲板士官の別称。裾をまくり、はだしで歩き廻わるのに由来する)どころかドン亀のごとく何処へも入り込み直接指導するので、たまったものではなかったろう。一週間かかつて600人の名を覚えた頃は何となく兵隊さん達の空気が変わった。こんどの甲板の目はごまかせないぞと。もっとも点検時便器の中までなめたのだから(キタネーゾというな・・・)そしてガンルームはホシ、コシ、ツシ、の3人が73期であり、学徒出身の少尉が6人いて雑然として統一がなかった。ケップ(第一次士官室の長で若い中少尉の帝王)としての責任将に重かつ大である。まあ余談はいずれ稿を変えて行なうとして、1010日、呉に廻航(これでは陸を廻わるのではなかった。グランドでゆっくりしていたほうが・・・)

31戦隊は機動部隊に編入されて出撃準備に入る。小沢中将閣下の編制は別掲の通り、囮艦隊である。

1018日捷一号作戦発動。1020日いよいよ豊後水道を後に思い出の日本列島に永遠の緑なす山々の豊かなのを祈って、最後の戦闘へ。ほのかに聞く、これが我が海軍の最後の決戦となると。また聞く、これが敗れれば終り、勝てば残ると。頬がしまり武者振いが出る。

2122、23日と索敵しつつ南下を続ける。索敵磯による「敵発見」の報まだなし。南方の海は紺碧の平穏をたたえ、あと何日か、何時間後の惨状を知らず、一時の安らぎを我等に与えた。

23日朝、艦橋の空気重苦しく、通信長より愛宕(重森「機」戦死)、摩耶(東郷戦死)沈没、高雄被雷を聞く。

24日悲報次第に入る。陸上航空隊は何をしているのか。我々は黙々として南下を続ける。我々に飛行機のある強みであったろうか。それとも死としての諦めであったろうか。

1115、敵空母発見の電報に我が空母より全将兵の祈りを込めて、114558機が出撃する。(但し攻撃終了後は最寄りの陸上基地へ帰れと指示ある由、搭乗員の練度不足と囮艦隊として、搭載機が母艦に帰りついたとしても、その頃は収容する空母はないであろうとの小沢長官の決断によるもの)

然し、出撃機からの報告が無く戦果は不明。敵よりの攻撃もなく南下、いよいよ囮の真価、丸裸の艦隊が一路与えられたるバーベキューへの地点へ。

25日、今日はやられるぞ、朝から異様なる雰囲気が艦内にこもる。「サァー、朝食をしっかり喰っておけ、昼は握り飯だぞ」と顔を合わす。ガンルーム諸士、晴れ晴れとしている。食事終わって0650、艦橋へ出る。皆は緊張そのものだ。直掩戦闘機は10数機しかなくとも、全砲火でやっつけるだけやっつけようと。

0810 見張りより「右40度敵機」

来るは、来るは、雲霞のごとく蟻が水平線上を歩くが如く、来るは、来るは。

0900 打ち方始め、打ちます、打ちます。艦はジグザグ航行。艦長、航海長が艦橋で「面舵」「取舵一杯」。

水平爆撃、急降下、雷撃と来るは来るは、その度毎に上手に外していく。

0915 突如右301,000米位の処にいた秋月に急降下が突っ込んだ。「アッ危イ」爆弾が落ちる。途端である。(きのこ)雲がモコッと赤褐色の色を沖天高く吹き上げた。

(搭載魚雷に命中したものの如し)そしてそれが終わった時は何も海面に残らなかった。空襲は約30分、これが終わってやっとホッとする。

艦隊は戦列を整え、やれ一服と煙草を吸う。ものの30分であろうか。再び見張より「右敵機大編隊」と・・・その中に多摩に向って雷撃機が・・・実に見事である。魚雷を落した。アー 命中する。ズボッと水煙が多摩の右舷に上る。多摩は戦列を離れて高雄港に向った。その後消息はない。よたよたと帰りながら・・・(増田 弘 戦死)思えば気の毒である。

左を見れば空母群が空襲中である。1機、2機、3、4、5機、急降下が狙う。あっ危ない。瑞鶴の回わりに水煙が上る。ヤラレタカ? 水煙の中よりスーツと艦が出てくる。ヤレ無事だ。ホッとする。1度、2度、3度と交わしていたが、遂に前部と後部へ被爆、次第に艦速が落ちる。

火煙は上る千代田、瑞鳳が・・・千歳が、イルカが顔を出すような形をして(末岡信彦 戦死)沈没し、 瑞鳳も沈む。「桂 理平 乗艦、桑に救助される。」

暫くして瑞鶴が遂に沈んだ(都野隆司、佐野 寛(機) 戦死)。五十鈴はどうやら無傷、生存者も救助する。私(甲板士官)の番だ。手空きも指揮して救助する。艦尾へ行って何の気なしにヒョット見ると右舷にカッターが着いている。「これもだいぶやられたな」と・・・柄沢だ。艇長として戦傷者をはじめ生存者を乗せて本艦へ来たのだ。

「オーッ 元気か」「ァー 願います」と・・・「貴様もう一度拾ってこい」 「ヨシ行ってくる」そして2度、3度、柄沢が拾っては本艦へ収容したが、空襲の合間なので最後の時はやっと引きずり込んで移乗するのがやっとだった。

「柄沢、貴様もう役目は終わったのだから、俺の部屋でゆっくりしとれよ」と防暑服を着替えさせ(体は小生と同じ位だったので間に合った)一次室に入れてまた艦橋へ。

来る、来る、また来る、何と1500までの間、空襲されること17度、どうやら五十鈴は戦い残った。

1530 千代田が航行不能となっているので、これから乗員の救助に行く、空襲もなし、鏡のような海だし、艦を接舷させる予定で両艦整動旗を上げ、旗流信号と手旗で合図しながら近寄る。千代田の飛行甲板は生存者全員が整列してラッパの音も悲しく軍艦旗を降下している。

艦橋では達着針路に入って機関の発停、舵の操作が忙しい。若月、初月は周りを警戒している。もうすぐだ。艦で防舷物(注5)を出した。左舷達着なのだ。甲板士官も忙しい……やれやれ、やっと千代田乗員が収容できる。連中もホットしたことだろうな。

この時である。右水平線、敵大編隊。畜生! 折角ここまできながら。救助を後にする。対空戦闘終了後だ。

対空戦闘、千代田の艦橋よりラッパ「戦闘」。整列中の将兵が雲の子を散らすように配置につく。高角砲が打ち始める。来る、来る。本艦に、若月に、初月に、千代田に・・・回避運動をして30分位か、右遥か水平線に黒煙が上った。千代田の最後らしい、(甲賀公夫、西 尚夫、早川 洞、稲葉 博、 戦死)それから更に数10分の戦闘後敵機は帰っていった。

艦橋を降りる。何たることだ。空襲下、多くの人命を救い、本艦に運んだ当の柄沢が敵弾に倒れるとは・・・(遺髪と爪を切り12センチ砲弾を抱かせて水葬した)。

本隊は如何、伊勢は、日向は、大淀は・・・皆無事で沖縄へ引き返し中であった。

司令官江戸少将は沖縄へ帰港を指示された。囮がその本領を発揮したか、しないのか。完全なる敗北に沈みつつ、3隻で北へ、北へ…小沢艦隊はその囮の目的を充分達したが、旗艦瑞鶴の発信能力弱く、敵機動部隊誘致に成功の電報は栗田艦隊に到着しなかった。

2105 突如として艦砲射撃を受けた。初月の勇敢なる最後がこの時である。五十鈴と初月、若月が2100敵大艦隊、30数隻より砲撃を受け、五十鈴の方位盤故障全滅必定となった時、初月が

「ワレ タンドクトツニユウス キカンナラビニワカツキノケントウヲイノル」

の発光信号を発し敵艦隊に突入、15分後火柱と共に沈没(島本紀久一戦死)した。

(なにわ会ニュース9号15頁 昭和41年9月掲載)

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