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平成22年4月19日 校正すみ

大浦崎の想い出

三笠 清治

 

大東亜戦争開戦劈頭、ハワイ真珠湾攻撃の特殊潜航艇の偉名は当時大きく報道されたものであるが終戦と共に立ち消えた。

甲標的が回天より早く生まれ、また大浦崎が本家であり、大津島は分家であることも、一般の人はご存知ないだろう。かの回天生みの親、黒木・仁科両先輩は、甲標的艇長出身者であり、大浦崎での生活も長かったのである。終戦後20数年を経て、世相も大きく変りつつある時、大浦崎についての思い出を書くのも、意義あることと思う。

 

 P基地

笹川兄とともに大浦崎に赴任したのは昭和19年5月頃であった。第6艦隊司令部付呉工廠付という奇妙な辞令を貰い、呉工廠魚雷実験部の桟橋から音戸の瀬戸を通過して倉橋島の一角の大浦崎に着任したが、当時大浦崎はP基地と称し、秘密基地として海軍部内でも一部の人しか知らされておらず、P基地山田事務所といわれていた。所長は山田中佐であり、主として71期の先輩を中心に講習が実施されていた。P基地は潜水学校の分校でもあり、甲標的艇長講習の開講式、卒業式には潜水学校の校長が臨席された。

着任当時の大浦崎は呉工廠の分工場があり大入(だいにゅう)とよく似た魚雷実験所といった、こじんまりした基地で200名足らずの小部隊であった。小生も8期甲標的艇長講習員として、又同教官として大浦崎に住み、安芸灘等で訓練したのである。狭水道通過訓練、急速潜航訓練、夜間泊地襲撃訓練等、潜水艦乗りの人に取っては懐かしい言葉かも知れませんが、厳しい危険な毎日でもあった。思えば大浦崎は辛い思い出と楽しい憩いの場所として、懐かしい基地である。

粗末な木造2階建ての庁舎と宿舎に、整備工場が主体であり、講義よりも海上での潜航訓練に重点が置かれた。学生は自分の乗る甲標的は責任をもって前日中に電気系統、機械、電池及び操舵系統の試験に備えた。自分の生命に関する問題であるから真剣である。現在のジェット機パイロットと同じ心境であった。それでも遭難者が不幸にも相当数出たのは遺憾である。

今でも思い出すのは予備学生出身の某中尉が遭難した時だった。しっかりした人物であり、まさかと思ったが、事故の報で急遽現場へ向ったが、当日は寒い雨の降る中での作業であった。潜水夫により遭難位置を探すのに時間がかかり発見した時は絶望的であった。呉工廠からの大型「クレーン」で引き上げられた遭難艇、切断された艇から収容された遺体、国家の危急存亡に当り、優れた人材を一人でも失うことは残念であり、本人もさぞ無念だったろうと思う。

大浦崎で訓練を受けた人は、大なり小なり危険な場面を何回も体験させられて来たのは事実である。毎日が死との対決であった(これは戦に参加した人の誰もが直接経験されたものだが)。

彼の回天の黒木・樋口両先輩が訓練中、大津島沖で遭難された悲報は、司令部のあった大浦崎に直ちに知らされ、勤務中であった小生も水雷参謀が急ぎ大津島に出発されるのを見送った。人の出入も激しく、皆その無事を祈りつつ、落ち着かない多忙だった当時の思い出がくっきりと眼に浮ぶ。両先輩の殉職の報に、大浦崎は大きな衝撃と暗い悲嘆の中に打ち沈んだ。確かこの日も天候はよくなかった様に思われる。小生等も応用訓練として伊予灘での深々度潜航訓練(100米以上の耐圧試験を兼ね)沈座訓練、猫瀬戸狭水道通過訓練、柱島泊地での夜間及び黎明襲撃訓練、内海回航、T型の実験航海、各種領収試験と種々の体験をし、思い出も多い大浦崎と共に広島湾、安芸灘、伊予灘、周防灘、豊後水道等の海は懐かしい。

 

 出撃

サイパンが陥落してから、比島、台湾、沖縄等の防衛強化が叫ばれ、大浦崎からもミンダナオ(島隊)ダパオ(小島隊)父島(篠倉隊)沖縄(鶴田隊)等へ出撃した。この中には同期の笹川、後藤 脩、更に大浦崎で共に訓練した水野兵曹長(セブで戦果をあげ戦死)等の勇士も含まれていた。

小生も昭和20年2月頃、沖縄向け大浦崎を後にした。絞竜T型は自力回航する事になり、広島湾の島々を見ながら関門海峡、玄海灘を経由、鹿児島へと向った。途中、回天の光基地に寄り、橋口達にも会い、別れを告げた。内海とはいえ冬の周防灘は荒れていた。関門海峡を通過し、六連島を目にした時、僅か60屯余の小型潜水艦は玄海灘の荒れ狂う波浪に柿の葉の様に翻弄された。厳冬季の日本海の荒海を突破する蚊竜は苦しい危険な航海を続け難航した。悪天候のため、博多、呼子等に避難の上、平戸瀬戸を経て佐世保に入港、ドック入りをした。佐世保の基地隊に暫く滞在、山田富三とも会い、再び東支邦海へ、野母崎沖では吹雪の真ん中に突入、視界不良と岩礁等の危険区域に悩まされ、潜望鏡からの位置測定を頼りに前進した。今当時を思うとよく無事に航海したものだと思う程の難航海であった。天草島にも避難した。坊津には空襲を避け、寄港した。鹿児島県に入る頃は、沖縄、九州方面は既に険悪な情勢下にあり、毎日の如く敵機動部隊の航空機による来襲が激しくなっており、B-29の大編隊が出水等の特攻基地を絨毯爆撃に来襲する姿も見た。我々もしばしばその洗礼を受け、艇を沈座させたり、急速潜航等をして空襲を回避した。山川港に避難した上、屋久島、種ケ島方面へ進んだ。硫黄島(南西諸島の島)の噴煙がよく見え、南海の色は澄んでいた。海蛇にも出会った。種子ケ島に近づいた処、本土決戦の為、急ぎ鹿児島に引き返すよう、司令部から指令を受けた。

 

3、終戦直後の大浦崎

終戦直後の大浦崎は、私自身本部にいるよりも各基地、工廠を往来した方が多いので、詳しいことは知らないが、敵機動部隊の本土来襲に備え、蚊竜は宿毛、佐伯等各地に展開し(足立の資料参照のこと)、一方呉工廠等で偽装されていた。

当時の大浦崎は第2特攻戦隊司令部及び大浦突撃隊の基地としてP基地時代より飛躍的に大きく成長し、多くの隊員が本土決戦に備え、訓練していた。期友の定塚、畠中和夫、足立英夫、小西、十時、田上、飯田他諸兄も訓練あるいは展開中であった。

大浦崎の近くの情島には戦艦日向が錨泊し敵の空襲時の的となり、同艦乗組員が敵機と交戦した。(多くの戦死傷者が出たが)悲壮な戦闘の状況が、大浦崎からよく見えた。

各地を往来していた処、終戦となり、急遽大浦崎に帰って来た時、畠中兄の自決の悲報を聞いた。同君の自決前後の模様については、小生より詳しい人(定塚)がいるので省略するが、大浦崎の近くにある波多野の寺だと思うが、定塚、飯田、足立英夫、田上他諸兄と共にお通夜をしたことを覚えている。

終戦時の大浦崎は特に米軍から特攻基地として恐れられた関係上、終戦処理も大童だった。書類等は焼却された為、貴重な資料が失なわれたのは残念である。航空機による抗戦ビラも撒かれた。呉鎮長官も大浦崎に説得に来られた。蛟竜は遂に呉工廠のドックへ回送する事になり、小生等もこれに加わった。

(その後蛟竜は解体処分されたようであるが回天と同様、1基(T型)でも残っておれば戦史上の貴重な資料となったものと思う。)

最後に、真珠湾、シドニー等に参戦した特潜の発祥地、大浦崎に特潜碑を建立し、永久に記念し、後世に伝える事は、回天の大津島と共に日本海軍史引いては日本歴史の一端として極めて有意義であり、戦没及び殉職された英霊に対する我等の務めであると思う。

 

(なにわ会ニュース1934頁 昭和45年2月掲載)

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