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平成22年4月21日 校正すみ

入校時、戦中、戦後の想い出(遺稿)

大山 隆三

一 入校時の想い出

 四国高松桟橋で歓呼の声に送られて舞鶴に到着し初登校、身体検査で視力0608 二日間の再検で何んとか合格させてくれた様でした。この視力も卒業まで元に戻らず、講義中、後ろの席に坐れば、黒板の字が見えず、まあいいやで過してきた。従って学業成績は藏元流の「恩賜の次」と子供達に言ってきたが、之も長男(現、神戸製鋼エンジニャリング、担当課長)が野崎君のスキーの特訓時にバレて了った次第である。

二 在校時、入室等なし

 四号(十五分隊)当時‥猩紅熱、ジフテリヤが流行したが遂に入室かなわず、七人の内四人まで入室して、鉄拳の数が多くなった事を恨んだものでした。以来卒業まで、病室の厄介にはならなかった。

 

三 二号時代、剣道で優勝

 自慢できるメダルが、二号(十二分隊)時代の剣道の優勝である。一号の今田生徒に「コテ」技で勝ち、鍋島校長より「大山生徒の健闘は見事なり」と褒められた事が、小生機校当時の「誇り」でありました。

 

四 一号第二生徒館時代(十六分隊)

 一号時代は、第二生徒館で大いに暴れた時代であった。他の分隊まで押しかけて、気合いを入れたものでした。未だに会えば、竹俣君、大阪の五十五期及び関西の幹事をしている阪神ビルの横山常務に、当時の事を冷やかされる次第であります。又、戦後これら五十五期の人々に御世話に相成った事は、忘れることが出来ない。

 

五 機校卒業式の毎日ニュースを見て

 月一回、ビデオで卒業式の毎日ニュースを見て当時を想い出し、又心を新たにしている次第である。当時の戦友の事を偲び、冥福を祈っている今日此の頃である。

 

六 潜校第十二期時代

 最も激戦で戦死者が多く出た昭和十九年九月から十二月までの間、大竹潜水学校普通科学生として級友十名と学んだ。当時、潜水艦の出撃、回天特攻創始者の黒木少佐との会食(会食の数日後、殉職する)、我がクラスの回天出撃者の呉にての送別会等、昨日の様に鮮明に想い出される次第である。

 

七 再就職時、級友森川兄(大淀小松K・K)の会社に就職し、第二の人生に出発す

 昭和五十七年五月、青木建設三十五年勤務退職後、大淀小松に就職し、級友森川兄に世話になったことは、一生忘れない。

(三年間役員待遇、二年間嘱託待遇)、在職中、シールド機械のサービス体制の確立、アメリカのターボチャージャーのメーカーと、日本の合弁会社とのサービス契約等を結ぶ功績を残し、森川兄に恩返しをしたと思っている。

 

八 平成元年八月、大手術を行う

 八月十三日、神戸市の川崎病院にて胃と胆のう除去手術を行い、十一月退院、自宅療養中のところ、平成三年二月四日、急激に食慾不振におちいり、腹水たまり胃腸圧迫、三回目の入院をし、目下静養中であります。

 二月十六日、外泊許可をとり、自宅にて本原稿を書いている次第である。級友諸兄、自覚症状なくとも年一〜二回は、精密検査を受ける事を切に御願いしたい。諸兄の御健闘と、人生最後の総仕上げに奮励努力を期待する。小生も闘病に頑張る積りである。

(編集部注)大山兄は寄稿して十日後、二月二十六日に逝去した。噴

(機関記念誌197頁)

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