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平成22年4月18日 校正すみ

大山裕正君の空戦記

平野 律郎

大山 裕正 平野 律郎

昨年春、大山裕正君と飛行学生以来、50数年振りに再会した。彼が奥様同伴で戦時中配属された厚木基地と、そのまえ艦上攻撃機の学生として過ごした百里ケ原基地を訪れるという回想の旅が目的であったが、その旅行も終わり、離京する前の数時間を小生との再会に割いてくれたという訳である。積もる話と一口に言うが、なにしろ半世紀以上の間の出来事を、食事を挟んで喋るのだから、あっと言う間に時間が経って、名残惜しいが席を立たねばという事になってしまった。

話半分の欲求不満のままの数日を過ごしていたが、彼も同じ気持ちだったのか、文林堂刊『月光』特集号を積もる話に替えて送って来てくれた。内容は夜間戦闘機月光の開発から始まって性能、戦歴などを解説したものだが、その中に搭乗員撃墜リストがあった。それを見て大山君がB-29を3機撃墜している。そして撃墜数上位10位以内であることを初めて知ったわけである。     

既にこの事を知っている人も何人かはいる事と思うが、彼が終生、積極的には黙して語らずで、この戦功が埋もれてしまうのは残念と敢えておせっかいを顧みず、彼の代筆を買って出る次第である。

以下の記録は『月光』誌の記述と大山君に問合わせたメモで、小生が修飾したもの、細部について誤りが有ってもご海容を請う。

 

光、第302航空隊

ラバウルでB-17の来襲に悩まされていた台南空副長小園中佐が、敵機と同航すれば見越し不用の射撃でよく当たる。として斜め固定銃を立案、中央の拒絶反応を押切り、放置状態の双発戦闘機試作機に上下それぞれ30度の向きに機銃を装着した。ラバウルに進出すると、その1機が初戦でたちまちB-17を2機劇的に打ち落としてしまった。このため双発戦闘機には不適確として陸上偵察磯になった2式陸偵の夜間戦闘機への改修と、『月光』の新名称が決められた。

302航空隊は海軍初の局地防空部隊として昭和19年3月に新編、月光と局地戦闘機雷電を主装備とした。同隊月光の初出撃は7月で以後、終戦まで活躍する訳だが、その一端を窺がい知る事の出来る次のような記述が『月光』誌にある。『搭乗要員も初夏から秋にかけて、予備学生及び予科練の出身者が逐次着任した。5千名もが任官し、殆どの部隊に行きわたった13期予学出身者のうち、B-29の迎撃戦で最高に活躍するのが302空の月光隊員だと言っていい。』また『昭和20年元旦の24機をピークとして、302空の月光は20機前後の保有………これで総撃墜数約130機の3分の1以上を稼ぎ出し、全月光部隊のうち最高の数字を残した。』

 

大山君の戦記

昭和19年7月末、艦攻課程を卒業した彼の赴任先は厚木航空隊、着任するまでは当然艦上攻撃機が待っていると思っていた。が、発令されたのは302空 月光乗りと言うわけで、練成訓練が姶まった。単発機から双発機へ、そして夜間の長距離航法と戦闘訓練と3ケ月に及ぶ練成期間が終わった11月1日がB-29の関東地区への初来襲という、めぐり合せもちょっと面白い。最初の頃敵機は偵察が主で高々度のため、戦果は思うように上がらなかったが、空襲の規模が大きくなると、彼我入り乱れての激戦の場面も多くなった。その中から、大山君が敵機を撃墜した空戦に絞って、話を進める。

 

第1話

1227日、B-29大編隊北上中とのレーダー情報が入り、会敵空域駿河湾に向け発進、高度1万米で哨戒任務に入った。やがて、南西方向に敵影が光るのを発見、高度我よりやや低く9千米ぐらいか、北上中の9機編隊である。敵発見と突撃開始を打電、編隊の左端撥に向かった。主翼付根を狙って20ミリ2丁で2連射をかけると、巨大な胴体と左エンジンから煙が噴出した。敵の後下方30度に占位同航しての射撃なので、こちらの弾丸も良く当たるが、敵の弾丸もよく当たる理屈。1機11挺ずつの9機の射出す曳光弾はまさに火の雨、射撃時以外は右に左に機を大きく滑らせて避弾運動をするが、ついに座席近くに当たった弾丸のため、煙で外が見えなくなった。火災かと判断、急降下したが白煙はすぐとれた。敵の被弾機はいかにと見ると、煙を吐きつつ右旋回、高度を下げながら洋上に離脱、50キロまで追掛けたが雲に入ったので追撃を断念した。さて、自機はというとガタガタで、潤滑油が風防にペッタリで外が見えないぐらい。なんとか厚木に辿り着いたが、恐らくタイヤもパンクしているだろう、滑走路を使用すると他の飛行機の迷惑になるだろうと考え、芝生の上に着陸した。案の定、接地するとパンクの脚を軸に2回転したが、どうやら、事無きを得た。点検の結果、弾痕は23発あった。また、戦果の判定は撃墜不確実ということになった。

 

第2話

昭和20年1月23日、B-29編隊は三菱名古屋発動機製作所を爆撃した。この侵入コースでの迎撃は中京と阪神の防空戦闘機隊が行い、302空は東寄りの敵避退コースで待受ける事になった。敵機群が遠州灘へ抜けかけるところへ我が機が駆けつけた。敵は爆撃終了後だったので、散開隊形をとっており、前回のような集中砲火を浴びる事は無かった。いわば一対一の対決で下方に占位、弾丸を打込むと右翼内側エンジン発火、続けて左翼内側エンジンも破壊、両プロペラが止まり速度は落ち、高度もどんどん下がって行く。僚機が寄添うようについてゆく。が、我が方も全弾射ち尽くしていかんともしがたく、引き返した。戦果判定は、基地帰投は不可能と推定、撃墜とされた

 

第3話

事後来襲の規模は逐次大となり、機動部隊戦闘機、硫黄島陥落後は同島発進の援護機等が制空する昼間は被害のみ多く地上分散、奥地への避退など、迎撃戦以上に心身の負担が大きかった。そして、名実ともに、夜間戦闘機となったが、会敵の機会は訪れなかった。

5月23日深夜B-29400機は東京南西部を目標に侵入してきた。月光8機が発進、大山機は横浜付近の海上哨区だった。発見した敵機は単縦陣で高度2000米、翼端灯を点灯したまま、目標に直進している。こちらは翼端灯を消し、敵針路を同航し、敵が頭上に被さってきたら攻撃しようと決心、後席の偵察貞・山本上飛昔に「うしろから来るのをやるから、左右の誘導をするように」と指示した。林立する地上からの探照灯光の柱の中を後席の声だけに精神をこらし操舵すると、超重爆機が50米上に覆い被さってきた。「今度こそ撃墜をみとどけるぞ」と決意、ぴったり着いたまま全弾を射ち込んだ。敵に発見されないように、予め曳光弾を入れていないので、さく裂の火花とジュラルミンのめくれ飛ぶのが見えるだけ。が、間も無く火が出る、炎はみるみる膨らんで我が機も包みそうになる。そして火ダルマのB-29はどんどん降下して視界から消えた。この時の敵群は探照灯で目がくらみ、こちらが隠密行動をとっているのでどこから射たれているのか分らず、めくら滅法に射撃しているだけで、当たる気遣いも無く、会心の空戦であった。当夜の302空の戦果は大きく、撃墜8機、撃破6磯を記銀した。以後、我が機に終戦まで会敵の機会は訪れなかった。

 

 

終戦時、302空は徹底抗戦を主張する司令に従って反乱行動に入る。

 (中略) 

月光隊は加わらなかった。(『月光』記事)

 司令が戦争継続の指導をするのだから、当時の雰囲気から言って大半の隊員がその積りになるのは当然の事だっただろう。これを心配された高松宮が副長を東京に呼び寄せられ、終戦は天皇の御心である旨を諭された。帰った副長は分隊長以上を集め、事情を説明、これ以上の反抗は出来ないとの結論に至った。しかし混乱の中で継戦を主張して行動しようとする者もあり、大山分隊長は命を賭けて反乱のための飛行を止め、1名の抗命罪者も出さずに済んだが、評しくは聞いていない。

 

(なにわ会ニュース79号19頁 平成10年9月掲載)

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