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平成22年4月21日 校正すみ

思い出(口述筆記)

大津懿徳
大津康子

海軍機関学校第53期記念誌発行に就いて、安藤、斉藤両兄より経過報告を頂き、その紙面より、並々ならぬ御苦労を思い、感謝と畏敬の念を持って居ります。<BR>

残念ながら2年前より、病床に伏す身なれば投稿思うに任せず、私のK・Aと相談の結果、口述にして、私の遠い昔、機関学校入校当初、強く印象に残っていること等、K・Aに認めて貰い、ここに拙文ながら述べる事に致したいと思います。<BR>

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○学校から入校前日に云われた事<BR>

一 清潔な下着を持って来る事。<BR>

二 ゲートルである事。<BR>

三 校門の門衛を通過する場合は、歩調を取る事<BR>

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○自己申告<BR>

 細かいことは覚えていないが、入校当日、新入生は分隊毎に集まるように通知されたと思う。そこで申告をやるということであった。<BR>

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 最初に指名されたのは、多分、菊池だったと思う。型通り、氏名、出身校をモソモソと申告する。その時の人の配列はどうかというと、四号は部屋の中央に、二列横隊に集まる。向かい合って、三号を前にして二号、三号が同じように横列になって並んでいる。一号は群を囲んで、ブラリブラリと散歩をしているような格好である。<BR>

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 菊池の発言が終わるや否や、一号が突然、「声が小さいッ〓‥わからんッ〓‥やり直しッ〓‥」と一気に怒鳴る。菊池は声を張り上げて応答するが、その声は、一号のそれより、はるかに小さく、どうも太刀打ち出来ない。<BR>

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 一人々々申告者がこのような格好で申告を行っていった。周りでは自分の分隊以外でも喧々轟々、凄まじいものである。(あとで聞いたことであるが、これで入校を諦めた者もいるような話だった。)<BR>

では、俺の場合はどうか、<BR>

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 「神奈川県立横須賀中学校出身〓‥、大津懿徳ッ〓‥と云ったと思う。直ちに反撃を食らった。<BR>

「何を云っとるかわからんッ〓‥」<BR>

というのは、大津を大きな声でいうと、<BR>

「ワーツ〓‥」<BR>

と聞こえるというのである。何回かの後にやっと御放免になった。イヤハヤ大変な目にあったものだ。<BR>

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○衣類に就いて<BR>

 衣類の支給を受ける場所は柔道場だった。それまで来ていた衣類一切は、ひと纏めにして、風呂敷に包み、直ちに実家に送り返された。これで機校のいう娑婆との別れであった。<BR>

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 柔道場には、これから着用する衣類一切が個人別に仕別けられていた。直ちに着用〓‥と命ぜられたが、そこで俺にとっては、ひとつの大変な事件が起きた。<BR>

俺を含めて4、5人、すぐに医務室に行って検査を受けるように云われた。<BR>

これは落ちるかナ?と一瞬ドキッとしたが腹をくくって検査に赴いた。<BR>

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 30分程で帰ってみると、私の割り当て分とあと1、2人前しか衣類が残っていなかった。仕方なくそこにあるものを全部着かえたが、なかには、身体に合わないものもあって閉口した。靴等は小さく痛くて困った。入校前の説明によると、各自それぞれ寸法に合った衣類を支給されることになる筈なのだが、現実は大いに違った。<BR>

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○食について<BR>

 食物は学校で支給される以外は、全く持ち込み禁止である。例えばお伊勢さんに修学旅行に行った時、買って来た「あかふく」を持って帰校した。各自相当量買って来ていた。<BR>

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 校門に近づくと、学年監事が行軍停止を命じて、買ってきた「あかふく」を正門通りの小川に捨てるように命ぜられた。以後度々同じような事があった。要するに我々生徒は、海軍機関学校から支給される物以外は使用禁止ということである。<BR>

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○ラッパに就いて<BR>

 海軍では動作の切れ目は5分前に知らせることになっている。<BR>

その5分前は、非常に重要である。当時、我々のクラスと別に下士官より選抜された学生のクラスがあった。<BR>

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 この二つのクラスの間で、ちょっと時間の観念の違いがあった。<BR>

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我々生徒は5分前のラッパが鳴った時には、そく仕事が出来るような状態でなければならなかった。選修学生の方は、5分前が所謂5分前である。それで種々トラブルがあったようだ。<BR>

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また、ラッパの音色について、作業の内容が伝えられる。いろんな音色があったナ。朝は「起きろー 起きろー 」と音がついている。ラッパを覚えている人は是非発表して欲しい。<BR>

「タンタンタンタンタンター」<BR>

「タンタンタンタンタンター」<BR>

何かわかる?  寝るラッパだよ。<BR>

(彼はここで目をつむり、さも音を愛おしむように、ラヅパの音を口ずさんでおりました。)<BR>

待ては、待てーと聞こえる。<BR>

ラッパ手はその号令の意味とラッパの内容の意味を知っていればよいのだ。生徒はたまにある事柄に就いてもラッパの音で神経を使ならない。困ったものだ。<BR>

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○お金に就いて<BR>

 生徒は日常生活にお金を使う必要はなかった。国から支給される手当てを、学校のルートに従って積立てておいてくれる。それとは別に父親が、別途同じ口座にお金を振り込んでおいてくれる。それが生徒の一ケ月の生活費である。<BR>

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その中から、生徒は菓子代、洗濯代(洗濯代には、軍服、作業衣、F・Uから靴下迄含まれる)を出費する。ただしF・Uを洗濯に出せば怒られる。これでも卒業時、残高が出るみたいだ。<BR>

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 残高に不足分を足して、任官時に必要な軍服、軍刀代、その他諸々の必需品を購入するのである。<BR>

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「ひとつの項目をもっとくわしく書きたいが、覚えていないので書けない。大分ボケたナ!!」<BR>

 

50年記念誌発行の為、「投稿されたし」との御手紙を頂いた時は、既に主人の容態が余りかんばしくなく、日々痛く苦しい毎日でした。一日を過ごすのがやっとで、今日も無事生きていてくれたと、病院から帰る時は何時の間にか、自然に手を握り、心の中で明日来院する迄、生きていて欲しい……と萬感交々の思いで主人の顔をよく見つめて帰る毎日でした為に、主人がペンを握ることは到底適わぬことと思いましたが、主人に「貴方も投稿出来たらしてみたら?」<BR>

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「口述して下されば私が書きますよ。」

と、申しましたが、主人にその気力はありませんでした。<BR>

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 病状は日を追って悪くなり、話す声も弱々しく急激に痩せて参りました。身体を拭いたり寝巻と着かえさせたりする度、あの逞しかった主人の身体は、肉が落ち、小さくなり、その痛々しさに、たまらぬ思いで何度も涙がでました。<BR>

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 実は、主人が癌とわかってから当初は、これからの事を思い後悔や悲しみ、主人に対する今更ながらの自分でも驚く程の強い愛情のほとばしりで気も狂わんばかりの毎日でございました。私の思いに関係なく、月日は飛ぶように過ぎる感じで、季節は無情とも思える位、私の気持ちを無視して、花を咲かせ、若葉が繁り、葉を落としていきました。浅はかな私は、主人との貴重な一日一日を大事にし、私の気持ちの中に主人を、主人の目の動きを、そして言葉迄、心に焼き付けておきたい〓‥と願いました。<BR>

然し私の気持ちとは、うらはらに主人は無情な迄にたんたんとした毎日でした。<BR>

「用があって明日は来られませんよ」<BR>

と申しましても<BR>

「あゝ、いいよ」とあっさりしたものでした。<BR>

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 もっと私と一緒に、私のこの心と一緒にいる証しを、僅かでもいい、示して欲しいと時には腹をたてたことさえありました。その誰にも云えぬ心の懐悩は、私を責めさいなみました。<BR>

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 それ迄、全くの無関心でした主人の若い時代海軍機開学校時代を知りたくて、病院から帰って床に入り、眠れぬままになにわ会誌をはじめ「渚の跡」「生きている化石海軍機関学校」等を夜中に貪り読みました。<BR>

丁度その頃、椎野様から「東遊雑記」を当時の風潮が出ていておもしろいと思うからと送って頂きました。文面は闊達できめ細かく、当時の様子等本当に素晴らしい御本でした。何といっても終戦後、機関学校を出て戦争に参加し、終戦と同時に突然混乱の世の中に放り出されたお友達同士がめげることなく、逞しく、明るく、そして暖かな友情に浸りながら生きていくさまに、涙したり、笑ったり、感激したりでした。本の中の室井さん、小暮さん、広田さん達との余りの仲の良さに主人に尋ねたものでした。「貴方の親友は誰方?……と。主人は表情を変えることなく云いました。「誰ということはないさ。全員だよ」と。<BR>

それ迄の私には、まだまだ機関学校を出た人の親子兄弟にもまさる友情を理解出来ていなかったのです。本を読んだだけで、もっと突っ込んだその奥にある全員に共通する連帯感を感知することが出来ていなかったのです。第一段階で機関学校というものを一部氷解していたのが主人の言葉で忽ちすべてを理解することが出来たのです。その事を椎野様と手紙でやりとりしまして稚野様から「その通り。」「我々は同視同愛といいますか、差別なしです。まるで天皇の一視同仁のようなところがあります。奥さん′永解の氷解が正しい。あの当時、大津君と会っていれば、同じようにふざけ、同じように再会したことを喜んだでしょう」。とのお言葉を頂きました。主人と期友の方々との、はかり知れない迄の、そして羨ましく妬ましい迄の友情に酔いしびれました。<BR>

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 平成3年2月23日に、記念誌の投稿状態とまだ間に合うから出来たら投稿を、という安藤様からのお手紙を頂きました。<BR>

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 主人の状態は更に悪くなり、声は弱々しく、小さく、おまけに口跡がはっきりしませんので度々、口元に耳を寄せて聞き返す程でした。然し黙して語らぬ主人ながら、心に秘めた若い時代の想い、亡くなった期友の方々への愛惜、生き残った方々への言葉に言いあらわせぬ友情をこの頃になってはっきり理解出来ました。機関学校時代護国の為にと若く、たおやかな気持ちを一にし、腕もちぎれよとばかり全員一丸となって漕いだカッター。寒い舞鶴の中での棒倒し、めちゃくちゃに踏んだり蹴ったりしているうちに、その生徒の塊を白い湯気が包んだという感激。<BR>

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 今こそ主人がそのお友達と又一緒になって記念誌の為に、苦しくとも投稿する最後のチャンスであり、口述の筆記を担当する私も、大津懿徳のK・Aとして、主人に手をかす貴重な時間を無上の喜びとする機会と思いました。主人には酷とは思いましたが、主人を助けながら投稿出来ればと相談の結果、気分の少しでもよい時に、ポチポチと始めることにしました。<BR>

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 こうして筆記致しましたのが前述の主人の言葉でした。時々譫(たわ)(ごと)も出る毎日でしたので頭が混乱して、おかしなところも多々あると思いますが、主人の口述のままをのべさせて頂きました。<BR>

最後迄完結することは出来ませんでしたが、苦しい息のなか、主人はよく頑張ってくれたと思います。<BR>

4月12日通夜、13日告別式を行いましたが、関東地区にお住まいの殆どの方々が通夜告別式に来て下さいました。<BR>

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 告別式の日は花曇りで、また時おり小さな雨が降って居りました。<BR>

小坪の火葬場に向かう時、鎌倉山を抜けて参りましたが、鎌倉では丁度夜桜が満開で、桜のトンネルを車は右に左に迂回しながら進みました。涙でくもっている目に桜の薄いピンクが靄のようで、夢の中を、主人を抱いて走っているようでございました。<BR>

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主人は、本当は男らしく、そして言葉には出しませんでしたが、私には優しく凛としてあの世に旅立ちました。<BR>

         合掌

 

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