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平成22年4月17日 校正すみ

大村海軍航空隊回想記

恒川 愛二郎

昭和19年8月1日、粟屋 徹・遠藤晴次・合原 直・品川 弘・杉本広安・村上 達と小生の7名は長崎の大村海軍航空隊に着任した。(同時に同じ飛行場の352空に伊吹明夫・泉本 修・岡本俊幸・小林 晃・沢田浩一・田尻博男・中西健造・森 一義の8名が着任したが、彼らが実戦部隊なのを密かに羨んだ。)然し大村はあの「佐原砂漠」の砂に悩まされた神ノ池と全く違って、眼前に大村湾が広がり緑の多い気候も温暖な好い所だった。

大村空は大正1112月1日開設の長い歴史を持つ航空隊で、支那事変中にはかの有名な千田・三木両部隊長指揮の96式陸攻による渡洋爆撃隊の発進基地であった。

我々が著任した時、司令はかって講義を受けた寺崎大佐、飛行長小松少佐、飛行隊長中島大尉、小林・高橋両中尉の先輩のほか、昔の源田サーカスの一員だった操練出身の大ベテラン、予備学6・101112期の兄貴分、同じく13期前期の同輩、予科練出身の腕自慢達などで活況を呈していた。

昭和19年8月と言えば全体の戦局が愈々緊迫の度を加えていた時であるが、中部九州には未だ空襲もなく、大村空では暑い中で予備学生・予科練の飛行訓練と自らの練虔向上の為の飛行作業が連日行われ、我々分隊士兼教官にはかなり(きび)しい勤務であった。

 

雷電で遂に初事故

小生は飛行学生全期間を通じて全く無事故だったのに、遂にその記録が破れた。1回目は高圧油系故障でフラップが出ず、着陸やり直し23回の後地上滑走中、13期予備学生後期学生長の零戦と衝突し怪我をさせてしまった。幸い大事には至らなかったが、これで雷電がすっかり嫌いになった。こちらが嫌えば向うも嫌うのか、今度はエンストと来た。あと数十米で飛行場という芋畑に不時着し機体は大破したが何とか脱出した。

 雷電の多い352空から小林 晃が乗って来たトラックに乗せられ指揮所で報告しお詫びを言った(らしい)所、貴様は何と悪運の強い奴だと呆れられた。

しかし接地の瞬間「南無三」と称え乍ら計器盤を左手で強く押さえても肩バンドが切れて額を防弾ガラスにぶつける程の衝撃の為、接地から短時間だが記憶を失っていたようだ。その後1週間程は食事のとき以外眠っていたが、ある晩本を読んでいると何者かがこっそり後から近づき冷たい手で目隠しをした。ギョッとして手を払いのけて振り返ると、学生のとき同室で親友の村上が居た。暗いスタンドのせいかも知れないが村上の輸郭がぼやけていてゾーツとしたので、思わず「気味悪いな、よせよと言ってしまった。元来茶目な村上は小生の反応が意外だったのか、「冷てえなー」と悲しそうな顔をしたので却って気の毒になり謝った。

 

村上の死

この事があってから約3日後、小生が飛行止め解除で慣熟飛行のため96式練戦で離陸しようとしていた所、90機練が先に上がってそのまま急上昇し30米程の高度で典型的な失速を起こし墜落した。いそいで駆けつけ他の人達と羽布を切り制いて1人ずつ引き出したが、最後の1人が村上少尉と書かれた救命胴衣を着けていた。確か搭乗割りの黒板には△印の村とあった筈で、これは村田掌通信長が予科練の電話訓練に行くと了解していたのでまさか村上が△を○に直して乗ったとは知らず、何かの間違いと思ったが体を上向きにして見ると正しく村上だった。

外傷は何もなく、ただ目を閉じているだけなので失神しているのだと考えてクラス3人程と医務室へ同行し、軍医長に蘇生手当をお願いした。

 人工呼吸などの処置の途中で突然軍医長が手を止め、諸君これは駄目だと言い乍ら見せられたのは耳からの出血と足首が360度回転することだった。つまり全身骨折で即死していると言う訳である。

時に昭和19年9月5日、着任後僅か1ケ月余であった。(因みに352空の泉本は既に8月25日空戦訓練開始で編隊を解散した直後に、3番機の上方離脱がおくれ、泉本1番機と空中接触し、大村湾に墜落死している。)

運命の皮肉雷電で不時着したらベテランでもまず助からないというのに、防弾ガラスを額で割りながら生きていた自分、搭乗予定だったのに身代りが出てきて助かった村田掌通信長と、村上および小生の2回目事故となった雷電に乗る筈だったが繰り下がり事故を免れたかに見えた一飛曹が、この90機練を操縦して殉職したのを比べて運命の皮肉さを感ぜざるを得なかった。

 

-29来襲始まる

2機しかない雷電を壊してしまったので、この嫌な訓練はなくなり、性に合った零戦と新着の紫電を中心に飛行作業は順調に進行して19年9月は過ぎて行った。ところが10月に入ると様相が俄然一変し、中国奥地から飛来するB-29が北部九州爆撃の後、第21航空廠のある大村地区にも来襲するとの情報が入り始めた。

果して1025日、B-29の大編隊が大村方面に向かったとの情報が入り、352空・大村空とも即時待機に入ったが、当時は今と違ってリアルタイムの情報ではなく、又その内容も高度・速度に大違いがあって、発進の指令が出て飛び上がった時は既に手遅れ。352空の先頭隊が漸く8千米の同高度に達したのみで、殿りの大村空戦闘機隊は遥か上空に銀色の綺麗な敵編隊を眺めるだけとなってしまった。この結果に対して佐世保鎮守府の長官からきついお叱りを受け、両戦闘機隊一同地団太踏んでくやしがったものである。

 

-29の巨大さに驚く

この初空襲で航空廠はかなりの被害を受けたが、敵側にも損害が出た模様で1機が有明(海に不時着か水平スピンで落ちたのを引き揚げて航空廠に持って来てあった。その大きさは96式や一式陸攻の比ではなく、翼の全幅が32米もあり、垂直尾翼が格納庫の天井に届きそうなのには驚嘆した。

防御火力も強力で、13粍機銃を2挺ずつ備えた砲塔が機首・機尾・上部・下部・両側.面と6基もあった。第一次邀撃の際352空の菅野大尉が大戦果を挙げた方法「背面の姿勢から直上方攻撃に移り、20粍機銃で主翼の右側にあるウイークポイントを撃ち抜いて垂直に離脱する」が効果的とされたが、浅い角度で追尾した場合被害のみ大きかった理由を証明していた。

 

復讐戦

10月に大恥をかかされた352・大村空両戦闘機隊は、これらの戦訓を生かすための作戦会議を重ね手ぐすね引いて待っていた。果して約1ケ月後の11月下旬、B-29の大編隊が上海上空を通過東進中との情報が入った。今度は352空の先頭隊から早めに離陸して1万米の上空に待機し、大村隊も帰路を待ち伏せ出来る8千米の高度に比較的早く到達した。小生は運良く搭乗番に当たり、大村空でも腕こきの部下を率いて上がって敵編隊の帰路に位置して待つこと数分、あの巨大なB-29の密集編隊と真っ向から遭遇する形となったが、武器は三号爆弾(30KG、空対空)2発と7粍7機銃2挺しかなかった。三号爆弾の使用法は飛行学生の時に机上で習っただけで実際に使った事はなかったが、いざ敵と遭遇する段になって忘れていた事を突如思い出した。「B-29に対する投下のタイミングは、光像式照準器の外輪一杯に翼端を合わせ十字目盛の中心から下2段目に機首を捉えた時」というものであったが、この通りの状況が眼前に現れた訳である。「今だっ」とレバーを引いて後は左下方に機を滑らせながら離脱した。初陣でもあり上方を振り返る余裕もないまま帰投したが、続いて降りて来たベテラン下士官が飛行長に小生の投下した三号爆弾で敵2機が火災を起こして東支那海の方に下降して行ったと報告した為、未確認ながら一応戦果と認められ佐鎮長官にも報告された模様である。なお三号爆弾は信管の調節によって3〜6秒で爆発し無数の黄燐弾子が飛び出し蛸の足の様に敵機を包む。この弾子がジュラルミンの機体に付着すると、その成分の一つのマグネシュームと化合して発火する。この場合密集編隊は被害が大きいが、当日の米空軍は三号爆弾の存在を知らなかったのではないかと思う。

 

-29編隊に単機で挑戦

その後B-29は北中部九州に反復来襲して大村空も爆撃され戦死者も出たが、水平爆撃の場合どこに落ちてくるか分からない為、非番で地上にいるのは恐ろしかった。偶々搭乗番に当たり上空哨戒中北方から来るB-29の編隊と遭遇し、もう一度やってやれと落とした三号爆弾の炸裂前に大きなバンクをとって逃げられてしまった。後は豆鉄砲しかないが(しゃく)にさわったので機編隊を単機で追跡して爆弾倉に撃ちこんだ。勿論効果はなく燃料切れも近かったので止むなく帰投し、爆撃による多くの穴を避けつつ列線に辿りついたが、自分では気付かなかった大きな孔を整備員が発見して驚いていた。その孔は燃料系・操縦系・電気系のどれも関係のない只の合せ板を撃ち抜かれただけのもので、又々悪運の強さを証明することになった。

 

特攻身近に始まる

 

19年終り頃から20年始めにかけて愈々風雲急を告げ、全国から特攻隊が集まって来て特攻訓練が始まり、野中少佐率いる八幡大菩薩の神雷部隊も立ち寄って行った。

 

大村空でも特攻隊志願者の募集が行われ、我々兵学校出はみな率先して応募した。クラスでは合原・遠藤が大村から直接出陣し我々は厳粛な気持ちで見送った。粟屋・品川は沖縄経由台湾へ向かったが、粟屋は沖縄に給油で立ち寄った際、翼に漏れた油で足を滑らせ脚を折ってしまった。(これは後に小生も一員として特攻機を別途空輸する途中、沖縄に給油で降りたので判った。)空輸の目的地台南に着いて品川に会ったが、片目に眼帯をしているのでどうしたのか聞いた所、作戦会議のあとディバイダーを逆さに持って走っていて転んだとき眼を突いてしまったとの事であった。独眼竜では搭乗できず如何にも悔しそうだったが、小生も飛行止めを食った事があるだけに彼の気持ちがよく判り同情した。

 

大村空の終焉

20年春頃からは敵機動部隊から艦上機が来襲し始め、その都度飛行機を林の奥に隠したり、時には遠く山陰まで避退させたこともあった。訓練どころか飛行そのものが危険となり機材の補充も困難になってきた為、練習航空隊の存続が不可能となった。かくて20年5月5日大村海軍航空隊は遂に解隊され、23年に亘る歴史の幕を閉じたのである。

 

サイド・ストーリー

 

〔単座機航法の悲しさ〕

 

202月霞ヶ浦航空廠で新しい零戦を4機受領し、途中1機故障のため岩国に1泊後大村へ急いだが、雪の幕に遮られて雲上飛行となった。偏西風に対して針路修正を行い、丁度時間に大村南方と思われる所で雲の孔を見つけて下降し、飛行場があったのでとりあえず降りようとしたが、着陸不可の赤旗を振られてしまった。辺りを見回すと南の方は乱雲の壁で北の方は晴天だったので、北へ向かうほかなかったが、ここで錯覚があった。

偏西風に対する修正不足で出水まで流されたと思い込んでいた為、有明海上空(と思い)を北へむかった。所が下を見ると小さい島が沢山ある筈なのに大きい島が時々あるだけなので変だなとは思ったが、最早やほかに方法は無くそのまま飛び続けた。次第に気温が下がり紫色の霜が掛かって来たころ禿山の間に飛行場らしきものを見つけ着陸したが、一体どこなのか判らず老司令に言われて始めて大村空の釜山分遣隊だと判った。「此処をよく見つけましたね」と感心されたが複雑な気持ちだった。とにかく全機無事に着いたことだし大村には正直に打電することとした。内容は「天候不良と誤判断のため釜山に到着、全機無事なり。天候良ければ明日帰隊す。」

 

大村帰着の際、航海屋の副長から「単座機の航法で5度の狂いならまあまあだ」と言われて何と答えるべきか戸惑ったが、一応恐縮した顔をしておいた。

 

〔北井 豊生徒のこと〕

 

20年4月頃だったか飛行予備生徒が入隊するとき、小生が担当分隊士を命ぜられた。名簿を見たところ生徒長に「北井 豊」と書いてあった。これは兵学校二号の時に同分隊の一号だった人と同姓同名だと珍しく思っていた所、実際に入って来たのは正しく本人で、まるで前のことは忘れた様に分隊士に対して礼儀正しく、作業は真面目で模範的生徒であった。兵学校を退校してからの事は省略するがとにかく錦の御旗に馳せかえる気持ちで一杯だった様である。

ある日の零戦単独飛行で、彼の機が、プロペラのピッチが巡航のまま戻らない状態で帰って来て、飛行場を低空で何度も通過したが着陸出来ず、大村湾の何処かへ消えて行ってしまった。捜索の結果湾内の出島に衝突・炎上した事が判明したが、恐らく彼が大事な飛行機をなんとか壊さないように必死の努力をしたことは明らかで、身につまされた。

 

〔陸さんのこと〕

-29が来襲していた頃の或る日、突然陸軍の屠竜という双発の戦闘機が着陸した。当時陸海航空部隊の間で緊急時には相互に施設や補給を提供する取決めがあったので、遊撃戦の途中不時の来着となった訳である。我々は好奇心で色々質問したりしたが、中でも一番聞きたかったのは英語禁止の陸軍では飛行機各部の名称や操作をどう表現するのかということであった。彼らは翌日帰隊準備を始めたがこのとき面白いことを言った。エンジンを起動するとき我々は「エナーシャ回せ」と言うが、彼らは「起動特把回せ」と言い、列線出発時「チョック外せ」に対して「三角形車輪止め取れ」で少々長いとは思ったが理解できるものであった。然し噴き出しそうになる程おかしかったのはエンジンが掛からなかったときに「残念」と言ったこと。これは弓の練習時に使った言葉で感じは判るけれどもエンジンが掛からなかったのは燃料系か電気系か何かの問題で、残念だとか何とかという事ではないのにと思ったことである。

 

〔クラスのこと〕

時期は正確ではないが、19年に上海から飯野伴七・山下茂幸たちが要務飛行で立ち寄り、ルビークイーン、スリーキャッスル等の煙草やウイスキーを貰ったことがある。また、20年の4月頃小生の留守中に加藤孝二達が来て官舎に砂糖を置いていって呉れたりして、クラスの友情をしみじみと感じた。

(小生は20年4月にKAを貰い若輩の癖に図々しく官舎を構えていた。)

 

〔結 び〕

大村空に着任した最初の7人の内、戦時中に村上・合原・遠藤を失い、戦後には粟屋・品川・杉本と死に別れ、後から着任して来た小林俊雄も戦死して、生残りは小生一人になってしまったが、これも天の定めと受け止めて期友・戦友諸兄の冥福を祈りつつ、この世にいる限り微力を尽くして世の為、人の為になる事をして行きたいと思っている。

(なにわ会ニュース6923頁 平成5年9月掲載)

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