平成22年4月21日 校正すみ
思い出すままに
小田 正三
小田 正三 | 富田 育雄 |
平成2年10月18日、入校50周年記念の慰霊祭に元気で出席できて感無量でした。それから思い出の記を書かねばと思い乍ら、毎日の生活や仕事に追われてとうとう2月になり、慌てて思い出そうと努力しても出てこず困った。せめて一号11分隊の中で、唯一人の戦死者である富田育雄兄の事を書きたいと思い立った次第です。彼と私は飛行学生の練習機教程を共にしたので、書くことは沢山あるものと思い込んでいたし、目を瞑ると彼の笑顔や姿が目の前に浮かんで来るのであるが、それ以上の事になると出て来ないのに困ってしまった。それではと一号時代同分隊の詫摩、福嶋、橋元の諸兄に電話で聞いて廻った。それで分ったのは、彼が体操係生徒であったこと、穏やかで柔和、何時もニコニコしていたが度胸があり、大胆不敵な一面と抜群の運動神経の持主だったこと迄は皆一致するが、それ以上は出て来ぬ始末だった。何分にも生徒時代は皆まじめであり、50年後に各々の記憶に残るような特別な出来事は無かったのかも知れない。<BR>
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それで飛行学生時代、三座水偵操縦のコレス市瀬兄を通じて調べて貰った結果、13期予備学生出身の宮野藤平氏(埼玉県浦和市在住)が富田兄戦死の時、936空のペナン派遣隊に居られた事が分ったので早速電話してお尋ねした処、快く引受けて頂いて、次の様な内容のお手紙を頂きましたので御紹介致します。<BR>
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富田中尉のことについて思いつくままに御報せ申し上げます。彼がペナンに着任したのは、19年9月頃だったと思います。当時、936航空隊は本隊をシンガポールに置き、ペナンは派遣基地としてマラッカ海、印度洋、アンダマン諸島、ニコパル諸島等の対潜哨戒に当って居りました。ペナン基地は特務大尉を長とし、富田中尉は飛行士並びにケプガンとしての任にありましたが、我々予備士官と同年令であり共によく「レス」に通いました。彼の一寸頭の先を潰した軍帽が、仲々に格好よく似合っていました。<BR>
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20年1月2日、アンダマン諸島に敵潜現わるとの報にて3機で出撃致しました。その日はアンダマン諸島の中のポートブレアにあった、海軍第12特別根拠地隊の基地に碇泊しました。翌1月3日昼過ぎ、基地の沖に敵潜が現われたとの報に直ちに飛びたち水偵3機で反復攻撃をしました。1回目の攻撃では敵は潜航するものとみて、遅発信管付き爆雷で攻撃しましたが効果が挙らなかったので、2回日以降は瞬発信管付き60キロ爆弾を装着して、攻撃を繰り返しました。彼自身の3回目の攻撃で、彼は必殺を期して肉迫攻撃を敢行しましたが、この時、残念乍ら敵の機銃弾により撃墜され、水中に突込んだようです。水偵で対潜攻撃をする場合は、遅発信管の付いた爆雷で緩降下爆撃をするのが通常であり、この場合のように敵が水上航走で逃げる場合は特殊であり、却って困難を伴います。当時、学生を終って戦地に出た許りの私達は怖さ知らずでしたから、彼の肉迫攻撃は尤もだと思います。もし、小生が彼の立場に居れば、同じ行動をとったと思います。当時の我々は、必殺とは肉迫攻撃か体当り攻撃と思っていました。<BR>
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一般に対空砲火を持った敵艦を水偵で攻撃するのは、非常に困難なことで、ましてこの場合の様にスピードの遅い大型水偵が1機宛緩降下爆撃をして来る場合、敵から見れば対空砲火の威力を最大限に発揮出来たし、且つ操艦による爆弾の回避も可能だったと思われます。<BR>
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ここで一言申し添えますと、地上の目標に対する降下爆撃では、肉迫すればする程敵弾が我が方に対する命中率は格段に向上する反面、我が方の爆撃の精度はスピードの過上昇による浮力オーバーと操縦困難とのために低下をきたします。勿論、彼はこのことは充分に承知していたと思いますが、眼前の敵潜を照準器に捉えて狙いつつ、逃がしてなるものかと云う気持で肉迫し過ぎたのではないかとも考えられます。これは小生の推測ですので、本当の事は操縦していた彼以外には分かりません。<BR>
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彼は穏やかな中に一本筋の通った厳しさを持った人でした。<BR>
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彼と一緒に出撃した松尾中尉(13期)が、昨平成2年亡くなって居りますので、詳しい話が開けなくて残念です。彼とは同じ操縦で気が合い、仲良くレス通いをしました。彼の面影は今も私の中に鮮明に生きて居ります。戦後、遺族の方を訪ねなくてはと会に問い合わせたところ、兄さんが御殿場にお住いと聞きましたが、未だにお訪ね出来ず申し訳なく思っております。<BR>
以上、思いつくままに書きました。取敢えず御返答迄、草々。<BR>
以上が宮野藤平氏より頂いたお手紙の要点であります。<BR>
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また、クラスの福嶋兄に聞いた処、45期の高野正好教官が富田中尉の最後を詳しく知って居られるとのことで、教官のお宅に電話して聞きました処、昨日の事の様に覚えて居られ、次の様に教えて頂きました。<BR>
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当時、高野教官はポートブレア基地の第12根拠地隊司令部の機関参謀として在任されていた由で、輸送船の入港予定もあり、且つ敵潜の出没もあり、ペナン基地から水偵3機の来援を受けたが、その指揮官が富田中尉であったので、久し振りの再会を喜び合ったそうです。また高野教官は体操の指導官をされていましたので、特に嬉しく思われたとのこと。一緒に夕食をしたが、回りは皆予備士官ばかりだったが後で皆が彼のマナーとスマートさに感心していたとのことです。<BR>
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1月3日昼すぎ、目の前500乃至600米位の処に、敵潜浮上のまま逃走中との報に彼と列機は直ちに出撃、その時、高野教官は俺も乗ってゆこうかと云われた処、彼は任して下さいと飛びたったそうです。岸の望楼から見える処で戦闘が繰り返されたが、残念乍ら運悪く彼は撃墜された模様です。岸から見ていた人は、彼が敵潜目がけて体当りをしたように見えたそうですがそんな筈はありません。恐らく彼自身が被弾したか、操縦系統をやられて操縦不能となり、海面に突込んだものと思われます。<BR>
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以上が富田中尉の最後であります。なお彼は卒業アルバムを始め、機会ある毎に「同行5人」と書いて居りました件で、兄上の富田芳雄様(現裾野市長)にお電話して聞きました処、やはり御兄弟が5人だったとの事ですので、兄弟仲の良かった彼は何時も同行5人と書いたものの様ですが、彼の母校、沼津中学より機関学校志望で且つ入校した5人組のことも、心の片側に置いていた様です。小生飛行学生のとき、本人に尋ねたのは覚えて居るのですが、彼の返答の内容はどうにも思い出せません。<BR>
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さて機関学校時代のことを思い出そうと努力しますと、一号、二号時代のことよりも四号時代の苦しかった思い出ばかりが出てきますのでその中の幾つかを書いてみます。
機関学校へ来て最初の驚きは紹介式でした。我々新入生の自己紹介が一通り済んだ後、52期の戸田淳生徒が出て来て、我々の前に直立不動で立たれました。私は色が白く、目がパッチリとした可愛いい人だなあとボンヤリと見ていましたが、矢庭に一尺位も飛び上りざま、地段駄踏んで怒り出し怒鳴り出しました。我々が上級生に対し先に敬礼せぬからと分る迄に大分時間が掛りました。その後次々出てくる上級生の元気の良い声と、その内容の恐ろしさに震え上りましたが、その内に出て来られた50期桜井生徒は、自己紹介を終った後矢庭に短剣を引き抜き、それを我々の眼の前に突きつけて廻り乍ら、東北弁で「貴様達覚悟は出来ているか。死ねるか」と問われた時には、何と答えてよいか分らず迷いに迷って居りました処、小生のすぐ隣の中川大忠兄の処でピタリと止りました。次の瞬間、中川兄は「今の処まだ死ねません」との名返答をしてくれた時の嬉しかった気持は、未だに昨日の事の様に思い出されます。<BR>
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その後、彼の頓智や天真爛漫な言動は、鬼のように恐ろしかった一号生徒を時々笑わせて呉れました。彼は吃音のために苦労をして居りましたが、一方で我々より数秒間考える時間が永かった分を、活用している様にさえ見えました。日曜日になると見違える様に元気になり、京都弁丸出しで皆を笑わせていたものです。典型的な京都人らしく、普段は大人しく見えても、いざとなると芯が強く強靭な精神と体力をもっていました。彼は生れてから飲んだ薬は二つだけとのことでした。胃が痛くても、下痢しても、兎に角、腹具合の悪い時だけでした。何時も「ダラスケ」という苦い薬を飲み、それ以外の病気はすべて「ノーシン」だけということでした。何時も「ダイバー」で苦しんでいた小生にとって羨ましい限りでした。朝晩のモーションレースも、彼は早く常にトップを争っていました。邪気が無く集中力があり、精悍さを持った人でした。卒業アルバムの「俺は軍人だ」と云うのも、その辺の彼の特徴が良く出ている様に思えます。<BR>
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さて四号時代の思い出の内、忘れられないものに駆け足訓練があります。海軍に入れば余り走らなくて済むと思って志望した小生、長距離走は全くの苦手で万年落伍組だった。この駆け足の弱い者にとって、これがどんなにキツイものであるかは他の人には全く分らないものです。落伍するにも、両側から一号が抱えて走るのだから、全く死ぬ程キツかった。然しこれを何とか堪え忍んだ我々駆け足落伍組は、それなりに心の底に誇りを感じて居ります。戦後45年間の生活を通じ、大変役に立ちました。<BR>
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更に一つ、未だに気になるのは各分隊の先任者の苦労は、大変な事だったろうと思われることです。特に1部長三沢生徒の苦労は、言語に絶するものであったと思います。当時の小生は自分自身の事で精一杯であり、他人の事まで考える余裕も無く過したものでしたが、今考えても気の毒な事だったと思っています。もし小生が先任であったとしたら、途中で病気になるか、落伍したことだろうと思う次第です。<BR>
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いま生徒時代を顧みて、校長閣下以下多数の且つ優秀な武官、文官教官の薫陶、教員各位の実技指導、又先輩生徒の模範に囲まれるようにして教育され、鍛練された我々は、大変な幸せ者だったと感謝して居ります。又、当時受けた物心両面の成果を根本に、社会の為に尽くしたいと念じつつ生活して釆ましたが、小生の心情が余りにも潔癖すぎたためか、大した成果を挙げることなく馬齢を重ねてしまったのを、残念に思う今日この頃です。<BR>
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昨年10月18日の舞鶴での記念級会の際、喜多見教官のお嬢様から「皆さん背筋が伸びていて頼母しい」という様な話をされた時、内心ドキリとしたのは小生だけだったでしょうか。50年前、喜多見教官と顔を合せる度に何時も「小田、胸を張れ、背筋を伸せ、元気を出せ」と云われた時のこと、又、教官の慈顔と大きな眼の玉を思い出しました。<BR>
我々もいま老境に入ろうとしておりますが、お互いに健康に留意して最後まで頑張りたいものです。日本の国と大和民族の発展と幸福を念じつつ、散華した諸英霊の魂魄(こんぱく)の加護を信じて、社会の発展の為に尽くしたいと思います。<
(機関記念誌 106頁)