平成22年4月22日 校正すみ
回想 4題
野崎 貞雄
野崎 貞雄 | 戦艦 榛名 |
1 非常時のお蔭で落第を免れる
秋も深まった昭和16年10月始め某日、喜多見学年監事が当直の日のことである。夜の温習時「監事部へ来れ」と呼び出しを受けた。恐る恐る監事部のドアを開き、長テーブルにたった一人で座って居られた学年監事の前で直立不動「野崎生徒参りました」と申告すると、例の鋭い眼でギョロリとにらまれた。
之は唯事ではないなと直感した。学年監事は俺を睨みつけた侭、何も言わない。俺も眼をそらす訳には行かない。睨み合い数刻、と、突如大音声。
「貴様落第だ〓‥」
眼光けいけいとして俺は射すくまれて身動きがとれない。返事も出来ない。何秒か、何分かたったろうか。重苦しい沈黙。「ただし……」(低いドスのきいた声)「帝国海軍非常の折柄、目を瞑って進級させる。分ったか〓‥」
俺「ハいツ」一言返事するのがやっとことだった。
学年監事「よし、帰れ」
漸く無罪放免、監事室を出てふっと一息。10月の舞鶴の夜は既に寒い。汗びっしょりだった。
思えばあの時期は大東亜戦争開戦2ケ月前で海軍としては、一人でも多くの生徒を一日も早く鍛えて艦隊に送り込まねばならなかったのだ。平時であれば完全に落第か免生になっていたであろう。あれから50年たった。53期で卒業出来て本当によかった、としみじみ思っている。
学年監事、どうも有り難うございました。
2 強運戦艦榛名
昭和18年12月、横須賀より翔鶴に便乗、トラックで榛名に着任した。機関科は川崎と俺の2人、同期候補生は兵科8名、主計科2名であった。当時榛名は3戦隊(旗艦金剛)の2番艦であった。着任後間もなく3戦隊は整備の為、母港佐世保に帰り、鋭意補修整備に努め、19年3月末シンガポールを経てリンガ入泊、猛訓練が始まった。此の間、川崎は1月末、潜校学生へ転出した。
たった2ケ月余一緒に勤めた訳だが彼の勤務振りは謹厳実直の一語に尽きる。只ひたすら軍務に精励、軍神となったのも宜なるかな。
6月19日から戦端が切られたマリアナ沖海戦(あ号作戦)が俺の初陣だ。当時罐分隊士で罐部第1分掌指揮官として汽罐3罐及び担当の機関員約20名を直接指揮した。
此の戦闘で、艦は後甲板に250Kの直撃を受け舵取機室に浸水したが戦闘航海に支障はなかった。本艦の舵取機は旧式の蒸気型で、原動機が機械室の後部にありシャフトで連結、舵取機室のギヤを駆動していたのである。従って浸水はしたが舵の作動には支障なかった訳だ。新式の電動型であれば浸水により完全にアウト、操艦不能となり榛名の命運は尽きていたかも知れぬ。比叡、霧島はそれでやられている。榛名は旧式故に助かったのだ。
19年10月未のレイテ沖海戦(捷号作戦)にも出撃した。栗田艦隊は相当の被害を受けた中で、榛名には、至近弾は多かったものの一発の直撃弾もなく、被害は極めて軽微であった。同年末、呉に帰投、以後出撃することは無かった。俺は20年6月に退艦したが、その一ケ月後、米機動部隊の空襲により沈没(着底)した。卒業後終戦迄約2年、其の間の大部分を榛名で過した。
舞鶴が海軍生活の第一の故郷とすれば、榛名ー佐世保は、まぎれもなく第二の故郷と言える。榛名は全く運の強い艦だった。そして俺も強運だった。此の強運を消さずに今後共持ち続けるべく頑張るつもりだ。
3 小父さん小母さんと美代ちゃん
榛名と共に忘れられないのは佐世保末竹家の人々である。18年暮トラックより帰港した際、主計兵曹が候補生のクラブとして世話してくれたものだ。
主(あるじ)の東次郎氏は先代からの鮮魚卸商で軍需部への大手納入業者であった。豪放磊落、よく痛飲した。奥さんのキミさん、娘さんの美代ちゃんは無類のハートナイス、誰彼の区別なく我々若い士官を心からもてなしてくれた。そしてそれは戦時中のみでなく、戦後も続き現在に至る迄ご交誼願っている。唯、単に歓待してくれただけでなく我々を吾が息子と思っていた様な気がする。こんなこともあった。
20年の元旦、佐世保は暖かい気持の良い正月を迎えた。朝から小父さんとしたたか呑み、小父さんは沈没、俺は小母さん、美代ちゃんと3人連れで映画を見に行った。途中で小母さんが横から突っつく。
「野崎さん′‥シャンとしなさい。向うから兵隊さんが敬礼していますよ。ちゃんと答礼しなさい‥」
我がクラスでも橋元、椎野、室井、福島等はしばしば出入していた様だ。小父さん自身商売柄佐世保の花柳界にくわしい。彼等の佐世保に於ける行状は小父さん、小母さん先刻ご承知の筈だが今は聞く術もない。
小父さん、小母さん、有難うございました。どうぞ安らかにお眠り下さい。
美代ちゃんは先年突然ご主人を亡くされた。全く同情に堪えない。最愛のご主人に先立たれ意気消沈して居られたが今はすっかり元気を回復され、息子さんとともに末竹商店を切り回されている。
一層のご発展とご多幸を祈るや切である。
4 海軍の遺産を土台に誕生した会社<BR>
終戦後2年余、復員輸送業務に従事の後、旭川へ帰郷、親父の元で百姓の手伝いをしたがどうも気乗りがしない。そこで終戦時小名浜(福島県)第17突撃隊修補長兼先任将校であった栗田さん(海機49期)にラブレターを書き職(食)の世話をお願いした所、直ぐ出て来いと云う。渡りに舟と神戸に出て来た。昭和23年初頭であった。
栗田宅に居候し同氏の勤務先である日本汽確製作所に工員として雇われた。
此の会社は円(まる)缶、各種タンク等の設計製作を主業とし、兼ねてボイラー、ドラム罐等の清掃、洗浄等も施工していた。社長以下50名程の小企業である。社長は別府良三氏(海機第21期、元海軍中将、海軍燃料畑の大御所、後昭和石油常務取締役)常務取締役工場長平松義雄氏(海機第33期、元海軍大佐)工務課長栗田春生民と云う顔触れである。小生はボイラー掃除とドラム鑵洗滌の現場監督を命ぜられた。監督とは云うものの小人数故工員と一緒に何でもやらねばならぬ。<BR>
数罐のボイラー掃除をしたが、何れも保守管理が全く無きに等しく、厚さ数ミリ、場所によっては1センチ以上、瓦せんべい状のスケールが固着しているのだ。驚くと云うより呆れた。
榛名の罐分隊士当時、何度か罐にもぐったが肉眼で認識出来る様なスケールは皆無で清掃洗浄後は罐肌がピカピカ光っていた記憶がある。此の差は何か。罐水管理である。艦では罐の給水罐水共浄罐剤の投入により厳しく規制管理されていた。戦後の民間ボイラーは水処理については殆ど放任状態で、之では熱効率も全く上らない。此処で小生は海軍の浄罐剤の販売を企業化出来ないか栗田課長に相談した。課長もそれは面白いと賛成し社長、常務に意見具申した。両氏共賛意を表され「浄罐剤は海軍多年の研究の結晶であり技術上又実績から見ても完璧で問題はない。之を民間に普及することは国民の血税で購(あがな)った技術を国民に還元することになり、極めて有意義なことだ。やり様によっては成功するだろう。但し当社としてはやらない。君等は若い。頑張って独立してやったらどうか」とすすめられた。
此処に於いて栗田氏は独立を決意、同社を退社、小生も之に同行した。諸準備の後24年7月資本金30万円で栗田工業株式会社を創立した。旗上げしたもののさっぱり売れない。此の時優秀なセールスマンに巡り合いスカウト出来たのは幸運だった。三号の竹俣外雄君である。彼に言はせれば「うす汚いそば屋でラーメン一杯ご馳走になったのが運の尽き、引きずり込まれて終った」そうである。彼は期待に違わず大活躍、全国隈なく走り廻り営業成績は急上昇し会社の基盤は固まった。同じ頃、元海軍汽罐実験部の水処理担当技師中山寛氏を招聘し、西宮に汽罐給水研究所を設立、所長に就任して頂き技術面を強化した。
業容の拡充と共に人材の充実を図る為、28年より大学高校の新卒の採用を始めた。「新入社月特別教育」と称して3週間の特訓を実施した。之は機関学校の入校特別教育を摸したもので、体操、駆け足は勿論、ラグビー、カッター訓練等相当厳しく、当時海軍式新入社員特訓としてマスコミの話題になった程である。此の特訓で鍛えられた連中から現在の社長始め経営中枢が生れて活躍中で何とも頼もしい限りである。
上原、福島、小田には一時期、栗田グループの一翼を荷って頂き、随分苦労を掛けた。感謝に堪えない。
取引関係でお世話になった海軍関係者は枚挙にいとまない。
栗田工業は誕生から今日迄、良き海軍の先輩、後輩及び同僚に恵まれ、暖かい支援を受けて成長して来た。
海軍に対し只々感謝あるのみである。
(機関記念誌227頁)