平成22年4月18日 校正すみ
夏の日 終戦
平野 律朗
私は海軍兵学校を昭和18年9月15日に卒業して、19年の7月から終戦まで、茨城の「百里原航空隊」で艦攻の教官をしていた。「百里空」というのは、練習航空隊であった。ここには
第1飛行隊(艦爆の操縦)、
第2飛行隊(艦攻の操縦)、
第3飛行隊(偵 察)
の三つの飛行隊があって、これらを教育する練習航空隊であった。私は「九七式艦攻」とか「天山」とか、魚雷を抱えて征く艦攻の操縦の教官をしていた。
この「百里空」のある百里原の基地には、我々のほかに「601空」というあちこちでやられた部隊を再編成した隊、「秋水」という飛行機の隊、特攻兵器「桜花」の「神雷部隊」がここで練成されていた。
広島・長崎への原爆の投下。ソ連の我が国への宣戦布告など知る度に、日本の勝利は絶望的であると感じましたが、一方では、降伏という事など考えられなかったのです。 それが、当時の私たち軍人の考えでした。 私にとって、終戦の玉音放送はショックでした。私は終わりまで聞かずにその場を離れました。
その時、日本全国民のそれまでの価値観の崩壊があったのです。それに対応出来ず、沢山の人々が、自決などしました。
私達は、9月に予備役に編入ということで、復員する事になりました。心の整理は全くついていないまま、常磐線の高浜駅まで来ますと、父がいるので吃驚しました。
父がどうしてそんな所にいるのか、私は驚きましたが、家の方には私が自決したという噂があったりしたようです。それで、心配して、基地まで行ってみようという事でやって来たというのでした。
再度のパイロット
こうして、私は9月初めの頃、復員しました。その後、舞鶴復員局から復員輸送業務の誘いがあり、21年2月からもと海軍の輸送艦で「荒崎」という1,000トンクラスの船の乗組みとなり、バンコックと本土の間を数回往復しました。先の事を考えると、あまり希望もなさそうなので、この年の夏に船を降りました。その後、敦賀で畑仕事の真似事、東京で会社勤めをしていましたが、会社勤めは、どうも私の性に合わないらしく、少し働いて、もう辞めることを考えていたのです。
そこへ昭和29年に海上自衛隊が発足し、航空部門も出来ると聞きました。矢張り、この道に進みたいと思った私は、第二のパイロット人生を送ることになったのです。
戦う百里空
昭和19年の秋だと思うのですが、特攻兵器「桜花」の実験を百里でしたのです。一式陸攻という、アメリカで葉巻とかライターとかいわれた双発の攻撃機から「桜花」が出るのです。最初はロケットですから、パーッと煙をふいて出るのですが、そのあとはグライダーとして滑空していきます。
年が明けて、私のクラスの中西健二が、突然「俺は、神雷を志願した」というのです。私には、そんな神雷部隊の募集があったのも分からなかったのですが、それから一日か二日して、飛行隊長の後藤仁一さんが、部屋へ来て「神雷特攻隊の志願者がいたら言って来い」というようなことを言って来ました。隊長の後藤仁一さんは海兵66期で大尉でしたが、ミッドウェーの時「赤城」に乗っていたが、物静かな人でした。
隊長はそれだけ言うと、兵舎二階の隊長室へ帰って行きました。私は、その隊長とはしょっちゅう話していました。そこで、すぐ、隊長の部屋へ行ったのです。そして、「さっきお話がありましたが、私は出来たら行きたくない」と云いました。それは、死を恐れるというのとは、違うので、説明しておきます。
私は、艦攻の、特に「天山」という飛行機に集って、これまで訓練してきた訳ですから、行くならそれで行きたいのだ、と言いました。特攻隊かどうかは別です。神雷で行きたくない、と私は言ったのですが、これまで「天山」という飛行機と一緒に生活してきたのだ。自分の乗った「天山」は私の愛機なのだという気持ちが強くありました。
俺は愛機と共に死にたい、と思いました。道連れなら愛機としたい、という強い気持ちが働いていたのです。死ぬのは構わないが、戦って死にたい。ともかく、戦わないで死ぬのは嫌だったのです。
そして、 出来るなら、神雷では死にたくない。これは、当時の私自身の偽りのない気持ちだったのです。ただ、誤解しては困りますが、特攻攻撃に対する抵抗感というものは無かったのです。私自身、その後、第3次の特攻隊に選ばれましたが、当時、死ぬという事について、とやかく考えていませんでした。我々は職業軍人としての教育を受けていたし、死ぬことには変わりないと思っていたのです。
すると、私の言うことを聞いていた隊長の後藤さんは「そうか、分かった」と言われたのです。
その特攻隊の話は、それっきりになったのですが、暫くして中西が特攻隊の小隊長として出掛けるいうことを聞きました。どうして、中西が第1次の特攻隊の小隊長として出掛けるようになったのか。
彼は「神雷に志願した」と言っていましたが、そういうことが、第1次の時の特攻隊の条件の中にあったのかどうか。しかし、その辺の事情は分かりません。
彼は飛行隊士という役目でした。飛行隊士というのは、米軍流にいうとスケジュールオフィサーという役で、これは隊員の搭乗割りを決めるとか、隊員のスケジュールを予め知るという立場にあるのです。そんな時、隊員や学生出身者が特攻隊として行くのを事前に知っていて、黙って見送られるものかどうか。やむにやまれぬ気持ちで特攻隊に志願した、そういう事もあったのではないかと思います。
友人や部下が行くのを知って黙っていられなくなった。矢張り、立場にある者として、自分の意思をそういう形で表したのだと、思います。若し、そういう時に、隊長や分隊長から、君は残ってくれと言われても、とても残れなかったと思います。これは推測です。 中西とは、そういう事を特に話したことはありませんでしたから、分かりませんが、彼が志願したという事の大きな理由の一つは、そういう僚友だけを見殺しに出来ぬ、という気持ちが強くあったと思います。
逐次的に羅列すると、いま申し上げたような事になって、当時の気持ちは鮮明に覚えていて、その一つ、一つは正直な気持ちですが、一言では中々言い尽くせません。 その頃の事を後藤さんに尋ねた事もあるのですが、後藤さんは余り覚えていないということでした。
フィリッピンで戦死された関行夫大尉という方も、私が霞ヶ浦空で練習機の学生の時、教官として見えました。この方は私が海軍兵学校に入った時の同じ分隊の一号生徒だったのです。
責任と立場
特攻隊と直接関係はないのですが、職業軍人の責任と立場について、これは私が教官をしていた時、起こした衝突事故の時のことです。
それは三重衝突で、私は尾翼をもぎとられても操縦できましたが、あとの2機は落っこちたのです。
どういう状況かといいますと、私は艦攻の教官で、学生の卒業飛行の時なのです。艦攻というのは、ご存じのように、各機が目標に向って魚雷を発射するという運動をして、終了すると、集合するわけです。魚雷は持っていないけど、そういうことをやるわけです。
その時、最初8機の飛行機が予定されていたのに、どんどん故障して最終的には3機になっていました。1番機は私です。 2番機は、ハワイ真珠湾以来の歴戦の勇士で飛行兵曹長の人でした。3番機は練習生なのです。
で、想定の攻撃が終ってから集るのですが、1番機の次に2番機が来て、其処へ3番機が突っ込んできたのです。それで、私の尾翼をすっ飛ばして、2番機に衝突したのです。私は、やられた瞬間、何とかしなきゃ、と思ったのです。こんな時、慌てて何かしたら、皆に笑われる。そんなことを瞬間的に思いました。操縦桿もきかなかったのですが、私は何とか降りて来られました。
その時、偉いと思ったのは、ハワイ帰りの飛曹長ですね。私は、後でその現場に行きましてね、驚きました。彼は墜落して死んだのですが、瞬時にエンジンのスィッチを切っているのです。ガチャンとやられ、翼をもろにもぎ取られている状況の時においてです。要するに、火災を起こさないように、ですね。
大事な飛行機を燃やしてはいかん、という使命感というのですか、ともかく任務を第一に遂行することが死の前にあったのです。今では、考えられない事かも知れませんが、当時は死ぬという事より任務を遂行するのだという考えが先で、恐怖感は余り無かったように思います。
結局私は、沖縄が玉砕して、第3次の特攻攻撃に参加しないまま、8月15日を百里空で迎えました。あの時の事を思い出すと艦爆第1次で、クラスの牛尾久二、前橋誠一が行き、艦攻第2次で中西達二が行き、第3次で畑 岩治が行きました。皆優秀な連中でした。
しかし、皆の目の前には、今のFー15が並ぶ百里基地ではなく、昔の百里空の第2飛行隊だけが確かに存在しているようでした。 60年前の 「天山」が幻影でなく、老人になった私達の前でエンジンを響かせているのでした。
(なにわ会ニュース88号52頁 平成15年3月掲載)