平成22年4月16日 校正すみ
戦艦武蔵とともに
村山 隆
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村山 隆 | 戦艦 武蔵 |
伊勢、山城、竜田による乗艦実習を終え、実施部隊への配属が、昭和18年11月15日発令された。私は、森下正美君、斎藤義衛君 (臨時乗組とのこと) と共に戦艦武蔵乗組員となった。
武蔵は、トラック島泊地に所在しているので、赴任する級友等と航空母艦翔鶴に便乗、横須賀軍港からトラック島泊地に向った。
航程2,000浬、概ね5日間の航海である。練習航海は、トラック島の往復であったので2度目の航海となった。便乗した翔鶴の機関科事務室、機械操縦室或いは居住区などは、練習艦に比べ、ゆったりしており、大いに羨ましく思ったものである。途中、何事もなくトラック島泊地に入港、無事着任した。
先の乗艦実習の時、トラック島泊地において、武蔵と同型艦である大和を見学し、その大きさに度肝を抜かれた思いがあるので、さ程驚きはしなかった。然し、各科に配属をされ,各部の研究をした時には,その部位が多くて憶えきれず閉口したものだ。
艦の周囲には防潜綱が張り巡らされてあり、内火艇を下り約50mの浮き橋を渡って、やっと艦の舷側に到達する。艦に対し厳重な警戒が行われていた。
戦局は、ギルバート諸島、マーシャル諸島などが点在する中部太平洋の線において、熾烈を極めていたが、トラック基地における艦内生活は、平穏そのもの、冷房完備、食事は陶器を使い豪勢なもので、戦場の緊迫感は、殆んどない。
私と森下君が交替で、機械、罐、工作、補機、電機の分隊を順次廻り実務訓練を受けた。配属されている下士官は、殆どがマーク持ち (高等科・普通科練習生課程卒業者) で優秀な者が揃っていて懇切に教えてくれたものである。
最上甲板の構造物には工夫が凝らされ、艦の外部に出ている給排気口や兵員出入口は、艦橋や煙突の附近に集められていた。甲板は広々として運動などをするには好都合で、剣道、銃剣術、或いはマットを敷いて柔道をしたものである。
夜は、南十字星の輝く星空の下、週一回、最上甲板前部 (約400畳) で艦首付近にスクリーンを張り映画大会が催され、時には、夏鳥や冬島への上陸が許可され、初めて見る椰子に見入ったり、その実が石鹸臭くて飲めなかったり、楽しい一時を過ごしていた。 島には飲食街もあって大いに賑っていた模様である。
トラック島泊地の2ヶ月余りの快適な艦内生活はマーシャル群島の陥落によって終止符が打たれた。
トラックの基地が近々のうちに空襲にさらされる予兆とも思える米軍偵察機の飛来があり、在泊の全艦艇は環礁外に出てパラオ、シンガポール、内地へ分散退避し、武蔵は、昭和19年2月19日横須賀に帰着した。
陸軍部隊将兵、銃砲弾薬、貨物自動車、食糧などを運搬する新任務を帯びて横須賀を出港した武蔵は、2月29日パラオ諸島のコロール泊地に投錨した。
ここの生活もトラックでの生活と殆んど変わらず刺激の乏しい平穏な日々が続いた。
パラオの島々は実に美しい。機関科短艇指揮官となり、カッター訓練にかこつけて島々を回遊したものである。海は透き通り水面下10米位にある海草が、手を水に入れれば届きそうに近くに見え、色鮮やかな熱帯魚が、群れ泳ぎ廻り、小島の海面と接するところは、海水に浸蝕されて「く」 の字にくぼみ、そのくぼみとくぼみの間をカッターですり抜けていった快感は、今でも忘れない。もう一度訪ねてみたいと思う。
このような別天地が、戦地であるとは思えない。実に奇妙な感じである。
ある一日、森下君と一緒にコロール島に上陸、護国神社に参拝した。
この時、森下君から社会常識について話を聞かせてくれたことがある。彼とは海軍生徒時代三号生の時、同じ6分隊で起居をともにした。彼に対する印象は、大人しくて、あまり目立つ方でもなかったし、世間の常識にはそれほど詳しいとは思っていなかった。然し、この時の話し振りには、彼を見直したものである。
森下君は、艦内では、実務訓練よりも人との付き合い,特に下士官との接触に大変力を入れていたように思う。彼が配置されている事務室や機械室などを訪ねると、殆どその場所にいなくて専ら先任下士官室に入り浸って碁をうったり、酒を酌み交わしたりして、下士官連中の人気者になっていた。彼の人懐っこさを知ると共に彼の行動が羨ましくもあった。
パラオに入泊して1ケ月目の3月27日敵大機動部隊、ニューギニヤ北方を西進中との情報によって、トラックの場合と同じように至急避退作戦が取られ環礁外に出た。この時潜水艦の魚雷攻撃をうけ、3本のうち1本が左舷前部の錨鎖庫付近に命中、浸水量は2,000トン、戦死者7名負傷者11名が出た。
私は、第2機械科指揮所に詰めていたが、微かに艦が振動する程度で魚雷の命中とは思わなかった。艦内情報で魚雷の命中であると知った。流石に、武蔵は不沈艦であるとの思いを深くした。
修復のため、呉に回航、3月29日呉の造船ドッグに入渠した。
ドックの排水が終って武蔵の全貌が現われた時は、その大きさに改めて驚嘆した。
艦底から最上甲板まで30m (最も高い射撃指揮所は60mある)、全長263m(東京駅正面の長さにほぼ同じ) 幅39m(容積は丸ビルに同じ)で、海に浮んだ横の姿はスマートであるが、後方からみた姿は大きな円い 「たらい」が浮んでいるようでスマートさはない。
船体を修復し、対空装備を強化した武蔵は、5月11日佐伯湾を抜錨、ボルネオ島北東のタウイタウイ環礁に急行、連合艦隊に合流した。
6月10日同環礁を出撃、渾(こん)作戦、あ号作戦に参加したが、何らなすことなく、6月22日沖縄の中城湾に仮泊、6月24日呉港外の柱島泊地に帰投した。
この作戦は、航空母艦を中心とする母艦同士の決戦となった。三田 道君 (翔鶴沈没)、石間正次郎君 (瑞鶴損傷) が戦死した。
三田君は、クラスの中では一番背が高く、整列する時は前列最右翼である。その為殴られる時は、いつも一番最初であり、殴る側の力が入っているので一番こたえたのではないかと思う。ラグビーでは必ずフォワードのフッカーを勤め馬力を発揮していた。性格が優しく、何でもハイハイと人の言うことをよく聞き、諸事全般にわたり手を貸してくれた。
石間君は、商業学校から入校してきた変り者である。一見ゴツゴツした感じを受けるが、地味な性格で地道に訓練に励み不言実行型であった。
武蔵の艦内にいると、戦闘の間は殆んど情報らしい情報を聞く事はなかった。ただ、敵艦隊を追撃、夜戦に転ずるとのことで最大戦速にて航行した。士気は大いに上った。夜明けと共に警戒配備が解かれ、甲板に上がって見ると遥かに陸地が見えた。
沖縄島であると教えられ、意気込みが強かっただけに肩透かしを喰った思いで、大いに落胆したものである。
再び輸送任務に従事することになった武蔵は、ビルマ作戟に補充される陸軍将兵約3,000名と兵器類を載せ、7月9日柱島泊地を出港、シンガポールの南約220浬にあるリンガ泊地に、7月16日投錨した。
航空母艦群を除く連合艦隊の大部が集結し壮観であった。
あ号作戦の失敗により、マリアナ諸島、パラオ諸島など西太平洋の重要拠点を失い、次の戦いは最後の艦隊決戦になるかも知れないと、リンガ泊地における訓練は、実戦さながらに厳しいものとなっていた。
ある一日、慰労のためシンガポールへの旅行が計画され、長門に便乗、シンガポールに行った。戦跡、宮殿、市街を見学し、根拠地隊司令部で堀江文彦教官にお目にかかつた。
堀江教官は、機関学校入校の時の私の分隊監事であった。熱血漢で、キビキビした態度は実に清々しく、大いに面倒を見て貰い懐かしい教官である。
8月5日、森下君が戦艦金剛に転勤、相談相手がいなくなって淋しい思いをしたものである。
10月初め、艦内の編制改正によって内務科が編成された。内務科は、艦が被害を蒙った時、消火作業や注排水など応急処置をする部署である。
私は、機械科分隊士から内務士に配置替えになり内務長を補佐することになった。補佐といっても伝令のような役である。配置は、第2防禦指揮所で右舷中央後部付近アーマー(37mの防禦甲板) の下に位置する。
米軍のレイテ島進出によって捷号作戦が発令、連合艦隊は、10月18日リンガ泊地を出撃した。10月23日6時30分頃、パラワン島西水路を航行中、巡洋艦愛宕が潜水艦の魚雷攻撃(右舷に魚雷4本命中)を受けて沈没した。この日は、愛宕のほかに巡洋艦摩耶が被雷沈没、巡洋艦高雄も被雷損傷した。
愛宕には、重森光明君が乗艦していた。愛宕の沈没は、被雷から20分位の短い時間であったので退避する余裕もなく艦と運命を共にした。
重森君は、生徒時代二号生の時5分隊で一緒であった。中肉中背、がっちりした体格で、なかなか凄味があった。剣道の猛者で上級者も一目おいていた。一号生の時は、下級生の指導に極めて積極的であった。
10月24日、艦隊はシブヤン海を東進、この日は、武蔵にとって運命の日となった。
10時30分頃から15時30分頃まで、5次に亘る米軍機の空襲を受けた。
ズドーン、ズドーン、ズドーンと20秒〜30秒間隔で腹部に響くような発射音、次にダーン、ダーンと鈍い音、続いてパン、パン、パンと絹を裂くような連続音に変ってくる。最初の音が主砲 (46cm砲)、次の音が高角砲 (12.7cm砲)、最後の音が機関銃 (25mm〜13mm) のものである。敵機接近の状況について艦内放送があるが、これらの音の変化で、飛行機が次第に艦に近付いてきて頭上に達したのだと判断する事が出来た。
第一次空襲(1026〜1040) 時、右舷中央後部付近で、ドーンという音がし、艦が左右に揺れるのを身体に感じた。主砲の発射か、魚雷の命中か判断に迷う程度の揺れであった。暫くすると艦が右舷に徐々に傾斜し始めたので魚雷の命中であると判断できた。(魚雷1本右舷中央後部に命中) 左舷防水区画への注水が行われ、5度位の傾斜は、直ちに復元した。迅速な傾斜復元能力に大いに自信を持ったものである。
第2次空襲(1207〜1225)は、左舷側の攻撃が多く左舷前部に魚雷を受けた。(魚雷3本命中) 船の傾斜は、注排水操作により復元に努め、左舷への傾斜1度位まで復元したが、艦首が浸水によって沈下 (2m位) し、速力が低下した。(22ノット)
第3次空襲から第5次空襲(1330〜1530)は、多くが武蔵に集中し、多数の魚雷が命中した。(魚雷左舷10本、右舷7本命中) 空襲が終った頃には左舷へ大きく傾斜(10度) し、艦首左舷部は更に沈下し、海水に洗われ始めていた。(8m沈下)
第5次空襲が終った頃には防禦指揮所と注排水指揮所との電話連絡が取れなくなっていた。そこで、指揮所を出て後部注排水指揮所に移った。
艦の傾斜が5度位までの時は、何んとか歩くことが出来るが、10度を超えてくると滑って歩くことが難しく、手すりや突起物などに掴まってやっと歩くことが出来た。
空襲は、15時30分で止んだ。
防水区画への注排水、右舷後方居住区への注水、右舷第3機械室への注水、重量物の右舷への移動など傾斜の復元に努め、傾斜は5〜6度位まで復旧安定していた。
懸命の傾斜復元作業にも拘わらず、左舷前方への傾斜が徐々に進み手の打ちようがない。18頂50分頃機関が停止した。
総員上甲板の指示が伝わってきた。
私は殆んど垂直になったタラップを昇り艦外に出た。右舷後甲板3番砲塔の付近であった。既に夜の帳(とばり)は下りて、あたりは暗く、月の光で漸く近くの者を識別することが出来た。
下士官で気転のきく者がいて、握り飯を烹炊所から持ってきていた。急いで食べた。朝食を始めようとした時、配置に付けの命令が出て食事をとり損ない、昼は、戦斗配食で応急用糧食のカンパンだけしか食べていないので、この握り飯は非常に美味しかった。
負傷者を艦尾から退避させる処置などをしていると、急速に艦が左舷に傾き、甲板上の人や物が左舷の方に滑り落ちていった。私も滑り落ちた。しかし海面にまで達しないで「何かのところ」で止まった。その上に人が折り重なってきて身動きがとれない。私はおし潰されるのではないかと観念していた。そこへ海水がきて投げ出される感じで海中へ吸い込まれていった。
「何かのところ」を後で考えてみると、砲塔の側面が艦の左舷への傾斜で水平になり、砲塔の右側にいた私は、左舷に滑り落ちていってその部分で止まったのではなからうかと思う。息が苦しくなり、夢中で浮上動作をした。数回海水を呑んだ。海面に顔が出た。
程なく艦の中央付近から火柱が上り、艦尾のスクリューが立ち上るような格好で武蔵は沈んでいった。
重油の中、材木、マットなど浮いているものに掴まり、助かった者が集まって自然にグループを作り、軍歌を歌い、声を掛け合い、笛を吹いたりして(私は首に警笛をぶらさげていた)、互に励まし合いながら漂流した。
浜風、清霜の2隻の駆逐艦に、生存者の収容が終ったのが23時30分頃である。武蔵が沈んだのは19時35分、約4時間海に浸かっていたことになる。
私は、浜風に救助された。身体に付着した重油を洗い落していると、顔に血が流れてくる。右前頭部に手を当ててみると血がついている。艦内医務室で直ちに手当を受けた。6針の縫合であった。沈没の時、落下物が頭に当って負傷したものと思う。夢中の行動で、気が張っていたので負傷に気付かなかったのでおろう。
生存者を乗せた浜風、清霜はマニラに向け航行を続けた。
途中、対潜警戒配備が発令された時、付くべき配置がなく待機しているのであるが、この時ほど恐ろしく思ったことはない。武蔵がさんざん叩かれている時や、正に沈没せんとする時でも全然恐怖心が起らなかったのに、どうしたことであらうか、責任感の違いであろう。
攻撃を受け艦が危険になった時には、真っ先に海に飛び込んで犬死はすまいと心に決めていた。
異変はなくマニラ港に入港したが、行先をコレヒドール島に変更され、重傷者を下船させ、10月26日コレヒドール島に回航上陸した。武蔵の沈没を秘匿するための処置である。
以前米軍が使用し、日本軍の爆撃によって大分破損(窓ガラスなどは一切ない) しているが、三階建の頑丈な兵舎が山の中腹にあり、そこに落ちついた。
この時から副長加藤憲吉大佐の姓をとって「加藤部隊」と呼称することになった。
兵舎では、戦闘詳報作成の会議が連日開かれた。(武蔵の被雷本数20本、「左舷12本右舷7本」直撃弾17発至近弾18発となっている。)
武蔵沈没の傷付いた心がまだ癒えない10月29日、私達が仮住まいしているコレヒドール島の目の前の沖合で、空襲をうけ、対空戦闘と回避運動を続け苦闘している日本軍艦 (戦後巡洋艦那智と知る)を望見した。
当事者同士は喰うか喰われるかの死闘を繰り返しているのであるが、観客席から眺めている私達は、オモチャの戦争ゴツコを見ているようであった。
激しい対空射撃ではあるが、殆んど飛行機が落ちず、こちらからは手を貸す手段は何一つなく傍観するのみで地団太を踏んだものである。
やがて、魚雷か爆弾が命中したのであらうか、戦闘数時間して艦は沈没した。悔しくて皆泣いていた。
那智には藤井弘元君が乗艦していた。私は、偶然、藤井君が戦死した戦場を見たことになる。藤井君は、ファイトマンで、剣道の時の気合と果敢な技は群を抜いていた。持ち前の明るさ、強靭な体力、不屈の精神力をもって降りかかる多くの困難を吹き飛ばし、持場において獅子奮迅の活躍をしたことであらう。反面被弾による爆風、火焔、熱気に煽られ、さぞかし辛い、苦しい思いをしたことと思う。
副長加藤大佐の転任発令があり、11月17日加藤部隊は解散、武蔵の生存者は、内地送還者、マニラ防衛隊に配属される者、マニラ湾口防備隊に編入される者、クラーク飛行場支援要員となる者など四散していった。
私は、内地への転属命令(11月16日付呉鎮守府付)を受け、マニラ市内の宿舎に移り、内地への便を待った。
11月23日、内地へ帰還する兵員を乗せた「さんとす丸」をマニラ桟橋で見送った。(同船は11月25日台湾沖で潜水艦による魚雷攻撃をうけ沈没)
内地への便を待っていた私達は、12月初め、3機の二式飛行艇に分乗し、キャビテ軍港を離水、内地に向った。途中、米軍機の攻撃を受け、3機は分散、1機は台北に、1機は鹿児島に不時着したが、私の便乗した機は、幸運にも目的地である横浜まで飛行することが出来、横浜海軍航空隊水上基地(構浜市杉田) に着水した。当日は、風雨が強く、気温も低くてマニで支給された防暑服一枚のスタイルであったので、内地の寒さに震えたものである。
早速、被服廠に案内され、身の廻り品一式の支給を受けた。紺色の詰襟の制服はなく、グリーン色の開襟服で帽子も同じ色の戦闘帽という陸戦隊らしい服装を整え、漸く士官らしさを取り戻した。
横須賀から汽車に乗り新任地である呉に向った。
私達海軍機関学校第53期生が、海軍に奉職した期間は、1年11ケ月の短い期間である。然しながら、60有余年の人生を顧みて、その期間は、苦しい体験をしたにも拘わらず、最も充実した時代である。
この短い海軍生活の中で、戦艦武蔵の乗組員となり、武蔵沈没の最後まで乗艦出来たことを誇りに思う。
当時、海軍戦略思想の転換により、大和型戦艦は、時代遅れの大艦巨砲主義の遺物であるとか、大和ホテル、武蔵御殿と皮肉られはしたが、熾烈な戦闘に耐え、その強靭さを世界に証明する事が出来たと思う。
(53期記念誌152頁)