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平成22年4月23日 校正すみ

海軍機開学校入校50周年の思い出

森川 恭男

生徒時代の森川 恭男 森川 恭男

 麦島 修君のこと

昭和15年11月末、海軍機関学校入校のため、最後の身体検査を受けるべく入校予定者が、夫々、東舞鶴市内の成田クラブ他、三つのクラブに分宿した時、黙々として行動している少し年配者と同室になった。彼も私も同様に田舎育ちだと感じた。そして、妙に親近感を持った。彼とは其の後第11期潜水学生で一緒になったが特別親しく話し合うといった事もなかった。

寡黙だがしっかりと己の道を進む人物として心に残る人、彼の名は麦島 修。

 

 16分隊生徒長 小川毅一郎氏のこと

「これから鍛えてやるから、しっかりついてこい」

小柄だががっしりとした体格の、見るからに精悍な突貫小僧を彷彿とさせる頼もしい男、四号生徒時代の第16分隊生徒長小川毅一郎氏である。体操と「ラグビー」の係生徒であったから俊敏この上もない。「この方にしっかりついて行こう」と心に決めた。

昭和1512月8日 日曜日、晴れ後雨の舞鶴軍港見学は生徒長の引率であった。何もかも珍しかった。1226日木曜日から上級生は冬期休暇。生徒長は四号生徒の我々に置き手紙をして留守中の注意書とせられた。

年改まり昭和161月5日 日曜日、生徒長は一日早く学校に戻られて、我々四号を尋ねて成田クラブに来られた。そして四号の我々に御馳走をされて、これからの生徒生活を励まされた。

1月下旬風邪で入室した時、生徒長も入室しておられた。そこで歌を教えられた。それが軍歌ではなく、ハワイ民謡「アロハオエ」であった。初めてであったがすぐ覚えた。「貴様は音階がしっかりしている」と妙なことで誉められた。

 御父上が日本郵船豪華客船鎌倉丸の船長である小川生徒長とは、僅か4ケ月の師弟の関係であったが、昭和16年3月20日御卒業の時の別離の式典は、涙に濡れて前が見えなかった。「士は己を知る者のために死す」私は生徒長の進まれる道筋について行こうと決心した。

それから小川生徒長は潜水学校学生から潜水艦乗りの道を進まれた。

私も「ドン亀」乗りの道を進んだ。11期潜校普通科学生の発令を「ボルネオ」の「タウイタウイ」で知った。ア号作戦開始発令後であったので「ミンダナォ」島「ダバォ」に立寄る艦隊随伴の先遣燃料輸送船団5隻を護衛する駆逐艦「響」に便乗させて貰い、途中敵潜の攻撃を受けて2隻を沈められながら「ダパオ」に到着した。

そこから二式飛行艇で台湾の東港経由で羽田に帰った。1番機はサイパンに向かったが撃墜された。私は2番機であったので幸いした。そして潜校着任の前日、呉潜水艦基地隊で小川大尉に偶然にお会いした。

当時小川大尉は新鋭口36潜の機関長であったが、私は候補生から少尉に任官したばかりで、候補生の制服の侭であったので、小川大尉が気の毒がって自分の着ている第一種軍装の上着を頂いた。

そして、「俺は間もなく出撃する。貴様もしっかりやれよ」と励まされた。暫く間をおいてから「俺は結婚してなあ」と空を見ながら呟かれた。それが最後であった。小川大尉の着ておられた形見の上着は今も大切に保有している。

 

 三品彰英教官のこと 

三品教官は我々生徒にとっては、雲の上の人の如き存在であった。歴史の講義時間の時、謦咳(けいがい)するだけであった。同教官は東大出の歴史学者で当時既に高名な方であった。私の保証人の関係で、大東亜戦勃発直後、自宅に呼ばれた。

その時、同教官がエール大学に留学しておられた時、当時、日本では珍しかった自家用車で米大陸を横断旅行された話やアナポリス兵学校を見学され、機関学校生徒に取っては珍しい話を沢山された後、米国に対しての戦争開始の無謀さを心配されており、しっかりした覚悟を持つ様に諭された。

終戦後、同教官が大阪市博物館長をしておられた時、或る用件で御尋ねしたが、極めて御元気で明るく溌剌としておられたのが印象的で今も鮮明に頭に焼き付いている。

我々は其の他にも立派な文官教官に恵まれて本当に幸福であった。

 

 平田(山田)伝蔵教官のこと

一、 昭和17年9月23日、学年訓諭の中より。英国の諺に「戦は初めに負けて最後に勝つものだ」というのがある。英国の指導者は線が太い。

二、 昭和18年3月29日、最後の学年訓諭より「この戦争はうまくいって日付変更線で停戦。然し普通に考えて多分日本にとっては不幸になるかもしれぬ。生か死か迷った時は死を選べ」

(以上日記帳より)

山田(平田)学年監事の学年訓諭の中でこれだけが強烈に頭に残っている。

山田教官は少しクセのある人であったが、個性的であったからこそ、よけい懐かしさがある。

 

 2分隊(一号時代)「つわ者」達

2分隊の一号生徒は高脇圭三、増井吾郎、林清之輔、佃次郎、寺岡恭平の戦死した5生徒と生き残った私との6名であった。

 、高脇圭三君は2分隊生徒長、相撲の係生徒で貫緑充分だった。けれども仲々のハートナイス。三号生徒のよき兄貴で、彼とは候補生から少尉迄6カ月間、戦艦大和で蔵元と共に指導官の50期今岡潔大尉に鍛えられた。

戦艦大和には相撲部があり、罐分隊や運用分隊等から強者が多く部員として参加し、彼は指導官付をやっており、停泊中は上甲板でマットを敷き、呉では上陸して元気に練習した。

私は剣道部の指導官付をやらされ、停泊中、特に呉では天下御免で下士官兵集会所に部員を引率して練習した。上陸できて嬉しかった。

彼はその侭、戦艦大和乗組一筋で勤務をした。戦後同じく戦艦大和乗組だった54期の今井勝君から次の様な話を聞いた。

『いよいよ大和の最後の時が来た。「総員上甲板」の命令があり乗組員多数が艦より退去して一面重油の波間にあった。海水既に右舷舷側を浸しはじめ、正に横転寸前の時、艦内拡声器より大声あり。「只今より機関科の指揮は高脇中尉がこれを取る」と、語る吉田満氏の眼に涙が浮かんでいたそうである。正に高脇君の真骨頂である。

 

 林清之輔君は高脇君とは同じ浜田中学出身であった。

13潜で戦死した。私と同じ第1潜水隊に所属して、同じ作戦に参加して彼は戦死した。

 

 増井富郎君は歌をよく知っていた。

卒業してすぐ候補生がトラック島に行くべく空母翔鶴に便乗して同じ居住区に居った時、彼から当時の流行歌を教えて貰った。生徒時代はそんな事が全然なかったので、彼の一面を知って喜んだ。今も、灰田勝彦の「新雪」を歌えば彼を思い出す。

 

 佃次郎君の兄は甲飛2期の飛行機乗りであった。私の従兄も甲飛2期の陸攻操縦員で「プリンスオブウエールス」と「レパルス」を撃沈し、その後、ニューギニア沖で戦死して、二階級特進していたので、よくその話をした。

彼はハートナイスでよく三号の面倒を見た好青年であった。2分隊の一号は兎に角よく気が合った。写真もよく取り合った。それが残っているのが何よりも嬉しい。

 

 11期潜校普通科学生12名の思い出

池沢幹夫、井上哲、梅原芳人、川崎順二、鴫野辰雄、寺岡恭平、都所静世、豊住和寿、福田斉、麦島修、村上克己、山脇美代治の12名の戦死者と佐藤謙、佐原進、森川恭男の3名の生存者、計15名が普通科学生として大竹で起居を共にした。その内、川崎、都所、豊住、福田、村上の5名が、回天特攻隊員として散華し二階級特進した。

{1} 川崎順二君のこと

彼とは生徒時代よく角力をした。休憩時間や少し暇な時、トラストで事業服の侭、倒れれば赤い土が着いて、はたき落とすのに苦労をした。最後にはケンカまがいのこともやった。そんな彼と潜校で、又同じ学生生活をした。彼と最後に会ったのは、昭和20年1月初め、イ400潜に乗組みの時、訓練の後大津島付近で仮泊していた時、夕陽を背に受けながら一人乗りの艇が近づいて来た。それが川崎君であった。「元気か?」「元気だ」

それだけであった。今も眼を瞑ると波にゆられる艇上に立つ薩摩隼人の口を少しゆがめてニコツと微笑んだあの顔が浮かんで来る。

(2) 豊住和寿君のこと

「森川」と呼ばれて気が付くと豊住であった。昭和20年1月初め、呉潜水艦基地隊内の事である。バスに入って寝室で語り合った。生徒時代のこと、潜校時代のこと、家族のこと等々。

彼は間もなく再度、イ48潜にて回天特攻隊金剛隊として出撃すると話してくれた。「お互いに全力を尽くそう」と眠れぬ夜を語りあかした。

翌朝潜水艦桟橋迄歩いていった。そこには出撃を控えた10数隻の潜水艦が朝の作業開始時間の準備に慌ただしく活動を始めようとしていた。手を振って別れた。

そして彼は昭和20年1月21日、米機動艦隊基地ウルシー泊地に侵入して、予定通り特攻攻撃を行って戦死した。

(3) 都所静世君のこと

11期潜校学生の内、彼だけが呉に下宿を持っていた。彼は土曜日に外出するとよく其処に私を連れて行ってくれた。少々寂しがり屋であった彼は、亡くなった母上のこと、戦死された弟さんのこと、そして兄嫁さんのこと等、よく家族の話をした。

そして、最後には「俺は祖国日本の純真な子供達のために死ぬのだ」 と言っていた。彼は回天特別攻撃隊金剛隊でイ36潜に乗組み豊住と同じウルシーで戦死した。

(4)村上克巳君の思い出

卒業を間近に控えて彼と軍刀を見せあった。彼の軍刀は実に立派な名刀であった。古刀特有の反のきつい刀身には、見事な彫刻が彫られていた。流石村上水軍の末喬であると感心した。彼とは潜校卒業後会っていない。

37潜で昭和1911月パラオコツソル水道に於いて、特攻菊水隊で戦死した。元気な張り切りボーイであった。

(5) 福田 斉君のこと

二号生徒6分隊で共に学んだ。そして潜校11期学生でも一緒であった。硬骨漠の彼は、それを表面に出さずよく勉強した。痩身に一杯の闘志をみなぎらせて突き進む彼の姿が今も眼に浮かぶ。

彼も又、昭和191120日イ17潜に乗組み回天特攻菊水隊でウルシーに散華した。

(6) 井上 哲君はイ17751期の竹林大尉と交代して、昭和1910月ウルシー周辺で戦死した。

(7) 梅原芳人君は、ロ46潜で昭和20年4月29日、空母ツラギの搭載機により沈没、戦死した。

(8) 池沢幹夫君はイ44潜で昭和20年4月17日から18日まで空母バタンの搭載機攻撃及び米駆逐鑑3隻との戦闘で沈没、戦死した。

(9) 山脇美代治君はイ54潜で昭和191028日比島東方海面スルアン島近くで米駆逐艦2隻と交戦戦死した。

3人と共に宮島の厳島神社に参拝した時の初夏の海の輝きと朱塗り鳥居が、今も頭に鮮明に焼き付いている。

そして私は豊住、都所、福田、村上、そして井上の5名の戦死したウルシーを指呼の間にして終戦を迎えた。

同じ潜校11期普通科学生として大竹に学んだあの時が、今も青春の燃えたぎる熱気として胸中に感じ、死に遅れを恥じる時がある。

戦死した12名の戦友たち、皆勇者であった。熱血の士であった。全てを其の一瞬に燃え尽きさせた美しい男達であった。

勇士諸兄の冥福を祈る。

 

 鴫野辰雄君のこと

昭和56年3月31日午前10時より、呉海軍基地に於いて、「伊号第8潜水艦之碑」が建立せられ、その除幕式並に追悼慰霊祭が盛大に施行せられました。集う者、遺族79名、伊8潜旧乗員関係者69名、計148名の多数に登りました。

除幕、軍艦旗掲揚に始まり、第4代艦長内野信二氏の祭文、呉総監、呉市長の追悼の詞、本橋建立委員長の経過報告、献花等次々と取り行われ、午前1130分無事諸行事を終了しました。

なにわ会関係戦没者は次の通りです。

     増田 佐輔(通信長 大尉)

       鴫野 辰雄(機関長付 大尉)

尚、遺族出席者として、故鴫野大尉の兄鴫野久雄氏御夫妻が参列され、慰霊碑に山梨特産のブドー酒をお供えになり、散華された英霊の御冥福をお祈りになりました。

「伊号第8潜水艦之碑」は、第5代軍医長元海軍軍医大尉本橋政男氏の献身的努力に始まり、実行委員会の協力により建立せられたものです。

特に元軍医長本橋氏は、昭和51年6月に、お祭りしておられる千手観音を拝んでいる時一念発起せられ、独力で著書を出版販売せられてその資金作りを始められ、昭和50年伊8潜会に於いて、その事業として決定の上実行せられたものです。同氏の熱意と努力に深く感謝の意を表するものです。

「伊号第八潜水艦史ー伊八潜の輝ける航跡」が伊八潜史刊行会編として出版されています。刊行会代表者は本橋政男氏です。

同史に掲載されている伊8潜の最後は次の通りです。

 「米国海軍省戦闘史料」

米国駆逐艦DD560モリソン号、DD640ストックトン号は、我軍の機動部隊偵察行動に昭和20年3月28日以降より作戦行動に入りたる敵伊8潜が水中攻撃をしかけ来り、直ちに挟撃態勢に入り、両艦ともに伊8潜の潜航位置を確認、ともに水上より爆雷攻撃を加え夜間12時間後浮上し来たれる伊8潜を捕え、集中砲火を浴びせ、一挙に爆沈せしめた。

昭和20年3月31日午前4時12分敵潜の沈没を確認す。(沈没位置) 東経12835 2529 那覇の南東約1,026km

 「モリソン号とストックトン号 伊8潜を撃沈」 (米国資料)

 本橋政男氏訳

ストックトン号(艦長WRグレノン海軍少佐) が最初に伊8潜を発見した。即ち伊8潜は、本艦のレーダー上に放映され最終的には破滅の結末を見ることになった。

それは昭和20年3月30日〜31日の夜半に起こり、その時ストックトン号は油槽船、輸送艦及び他の駆逐艦を含む機動部隊の一艦として慶良問列島に行こうとしている矢先の出来事であった。

2308目的地から東南90マイルの地点で、ストックトン号は12,000ヤードの位置でレーダー上に映像を捉らえた。機動部隊司令官は、隊内通話(無電) で、この見慣れぬ艦に話しかけようとした。

何故なら、この海域は友軍船団の集結地点であったからである。しかし応答はなかった。ストックトン号は目標を追跡せよとの命令を受けた。直ちに変針すると、消えつつあるー潜航せんとする一隻の潜水艦が映った。

3月30日の夜間2339から3月31日の仏暁0239の間、わが駆逐艦は深度70爆雷攻撃をもって、潜航中の敵潜に対して攻撃した。7回目の攻撃の内、海面に重油が噴き出し、敵潜は傷つき出血した。そうこうする間に、味方の対潜攻撃機が照明弾投下のため現場に飛来した。他の駆逐艦も近接して来た。

この艦がモリソン号(艦長jRハンセン)で、ストックトン号を援護するように命令を受けた。指定集結地点に到着してみると、モリソン号は煌々と照らし出されている海の生け贄(伊8潜のこと)を発見し、ストックトン号が照明攻撃法を指揮しているところであった。ストックトン号は敵潜との接触を見失った。然しモリソン号は2分以内に捕捉しこれを援護した。

ストックトン号は攻撃目標を見失っていたが、0324再び捕捉し、爆雷を深度11、浅く調整して0330投下した。鯨が噴気孔から塩を吹き上げ、吹き降ろすようにして、敵潜は鯨のように艦首から浮上してきた。敵潜の艦首は、わが駆逐艦の後方僅かに900ヤードであった。転蛇するにも衝突させるにも余りにも近かすぎるのでモリソン号は全火器で水平射撃を開始した。

伊号型潜水艦の上部構造物は吹っ飛び、気泡を噴出した。わが艦は片舷用爆雷投射機3基で攻撃した。30分以上もわが艦はローリング・ピッチングする潜水艦に対して集中砲火を浴びせた。

敵潜は頑丈な潜水艦であった。船体は命中弾を受けて穴があき、全甲板は剥ぎ取られ、艦橋は爆発によって粉砕され、0412艦尾から沈んでいった。夜が明けると共に、いつも潜水艦の墓場に見られる重油と破壊物がごちゃまぜになって一杯現われた。

この漂流物の真中に2人の日本人の死体が浮遊し、3人目の潜水艦乗組員が泳いでいた。通訳を介して沈んだ潜水艦名を尋ねた処、「若し逆に貴様の艦が沈められたら、貴様は自分の艦名を公言するか」と。この唯一人の生存者から軍人精神の籠もった返答が帰ってきた。

この艦名は、戦後になって三輪海軍中将の記録に全部載っていたので判明した。ストックトン号とモリソン号に抵抗してその犠牲になった日本の潜水艦は伊号第8潜水艦であった。(尚伊8潜を沈没せしめたこのモリソンDD560は、昭和20年5月4日沖縄洋上で、わが特攻機によって撃沈された。)

この唯一の生存者、向井隆昌二曹は昭和21年9月28日、名古屋に上陸して復員せられたが、「貴様が沈められたら貴様は自分の艦名を言うか。」と言い切ったその事は今日に至るも、何等触れられていない。

謙虚な同氏は、静かに慰霊祭会場に姿を見せておられた。同氏は、伊八潜史に次の如く当時を語っている。  

「急速浮上砲戦メンタンクブロー」が発令されました。……艦長の「しっかりブローしろ」の声。発令所から浮上ります′の声。艦は艦首を上に20度位の傾きで飛び上がるようにボンと浮上しました。ハッチを開き、見張り員を先頭に、砲員がブリッジに出ました。

私達砲員が艦橋に出ると右側に敵駆逐艦が見えました。すぐ砲戦、機銃戦です。ドイツから持ち帰った20ミリ連装機銃が一番早く応戦して火を吹きました。私は、砲員なので左側から甲板に飛びおり、杉本哲夫二曹と二人で、35口径14インチ連装砲へ駆け寄り、2発装填した瞬間、敵弾の直撃で破片を両足と胸に受け、こん畜生と思いました。

その時、私の名を呼ぶ砲長岡田茂郎上曹の声がするので、そばに駆け寄りますと、顔が半分とび散り、電波探知器にもたれたまま戦死されました。……艦橋は直撃を受けて大破し、人が自由に出入り出来る程の大穴が開いていました。……

そこで私は、砲側へ引返して応戦しようとした時、巡洋艦を発見しました。2隻の米艦に挟撃されていたわけです。この時負傷した砲員の欠員補充に主計兵が「一人どうですか?」と云ってこの大穴から飛び出して来ました。私は返事をする間もなく射手席にもどり、大砲を発射しょうと懸命に努力しましたが、どうしても発射出来ません。

互いに交戦しながら、相対する角度は90度、距離3,000メートル付近になった時、わが伊号第8潜水艦は機銃戦を続行しつつ、しかも銃口からは、最後の最後まで火を吹きながら一瞬の間に海中に突っ込み、私を除く全乗組員艦長以下138名は艦と運命を共にしました。

かくて伊8潜は沈んだ。慰霊碑の前で 「海行かば……」を歌っていると増田佐輔、鴫野辰雄両君の勇戦奮願の姿が眼に浮かんで来る。正に潜水艦魂の権化であり、闘魂の固まりである。

私は機関長付として昭和19年8月、印度洋方面ペナン島基地にて伊8潜に着任した。10月呉に帰投し、軍需品の積み降ろしを行なった際、増田君が着任して砲術長となった。そして其侭横須賀に回航し、横須賀に於いて鴫野君が着任し私と交代した。

「伊号第8潜水艦之碑」には戦死者名と共に次の通り戦歴が刻まれている。

戦歴

伊号第8潜水艦は、昭和1212月5日株式会社川崎造船所で竣工、同月15日聯合艦隊に編入され、猛特訓に従事。昭和1612月8日大東亜戦争が勃発するや、ハワイ作戦に参加。引き続き北米西岸の偵察通商破壊作戦を行い、昭和17年3月2日呉入港。

4月15日同港発、内南洋海域作戦に参加、5月16日呉着。9月15日呉出港、9月下旬より12月末まで南方作戦数次に亘るガダルカナル島への輸送作戦や撤退作戦に従事。

昭和18年1月23日と31日の2回カントン島を砲撃、続いてフィジー諸島、サモア島等偵察のあと、トラック島を経て3月21日呉入港。

訪独作戦のため6月1日佐伯湾発、南阿喜望峰を大迂回し、敵の制海制空圏の下大西洋の万難を突破し、8月31日独軍占領下の仏国ブレスト入港、10月5日出港、1221日呉帰投。その全航程34,000浬。訪独任務を完遂したのは、5隻中本艦只1隻である。

昭和19年2月19日呉出港、ペナンを基地とし印度洋通商破壊作戦に従事、敵船5隻を撃沈、10月9日横須賀入港。

昭和20年3月米軍沖縄来航と共に、3月20日呉出港、同海域に進撃。3月31日午前4時12分、那覇東南約50浬(北緯N2529 東経12835分)の地点において米駆逐艦2隻と浮上砲戦を交え、壮烈なる最後を遂げた。

【注】 伊号第8潜水艦史より次の通り引用させて頂きました。元軍医長本橋政男氏に深く感謝致します。

@ モリソン号とストックトン号が伊八潜を撃沈」米国資料 本橋政男訳

       伊8潜史 66ページより抜粋

A「米国海軍史戦関史料」 伊8潜史

     452ページより抜粋

A 向井隆昌氏談」 伊八潜史

     453ページ「栄光の巨潜、獅子奮迅の最後」より抜粋

 

 寺岡恭平君のこと

「おお、また一緒になったね」恭平君と、ボルネオのタウイタウイから帰って来た私は、昭和19年5月の末日、共に海軍潜水学校第11期普通科学生となって、卒業以来9ケ月目に大竹で再会しました。海軍少尉になっていました。そして海軍機関学校一号生徒の10ケ月間、第2分隊で起居を共にした事を懐かしく語り合いました。

故寺岡恭平君は、勉強に訓練にどんなに厳しい時でもユーモアを忘れたことのない、悠々の人物でした。

「こんな俳句が出来たぞ」と夜の温習室で私と机を並べていた君は、よく俳句を私に披露してくれたものでした。訛声で歌を歌って聞かせてくれた君は、今、私の手元にある君と共に写した2枚のスナップ写真は、すべて笑ったものばかりです。

君は身長160センチと少々でした。私は君より更に1センチ低いのです、海軍におりながら、私は水泳が苦手でした。君も水泳は余り上手ではありませんでしたね。そんな二人でしたから、何となくよく気が合って、とりとめもないことを駄弁り合ったものでした。

昭和19年6月にはサイパンが陥落し、戦局は日に日に我に非となって来ました。戦局を語り国の将来を案じながら、潜水艦乗員となるために一生懸命の4ケ月でしたね。君の国を思う至情、民族を愛する情熱は、瀬戸内に映える夕陽の様でした。

そんな時、回天創始者で我々の一号だった黒木大尉とも会いましたね。15名の11期学生の内、村上克己・福田斉・都所静世・豊住和寿・川崎順二の5君が、回天特攻隊となりましたね。

潜水母艦の上で、クラスの15名の諸君と夏の夜空の星を見ながら語り合ったあの時……それからすぐに君と私は別れました。5日ほど早く繰り上げ卒業をして、私は印度洋作戦部隊の第8潜水艦に乗艦すべく潜水学校を去る時、君と手を堅く握り合ったあの時の事が忘れられません。夏の太陽がぎらぎら輝く暑い日でした。その時、君から戴いた君の父上の撰になる「武経七書」 は今も私に色々のことを、教えてくれています。

12月初めペナンより呉に帰って来た私は、比島・レイテ方面作戦より未だ帰還しないという君の乗艦伊45潜の事を知りました。そして君は遂に帰って来ませんでした。

50年の月日は流れました。赤い血潮に燃えて君と共に過ごした青春は遠い彼方に過ぎました。然し君が記した赤誠は、日本民族の血の中に永く永く受け継がれていくと確信しています。恭平君、君の御冥福を祈ります

 

 二谷嘉部署のこと

二谷君を最後に見舞ったのは昭和61年9月16日遠路はるばる舞鶴迄来てくれた野崎、広田それに上田の諸兄であった。その時はもう意識がなかったそうである。痩せ細った体をベッドに横たえていたが、顔は安らかな笑みを浮かべて寝ていたと、その時の状況を京子未亡人が御葬式の翌日語ってくださった。

又、病院の窓外は稲穂がたわわに実った夏正に過ぎんとし秋漸く来らんとする風情に満ちた光景でしたと、側に座って居られた高校の先生をしておられる長男益孝氏が膝の上で、可愛い子供さんをあやしながら話をして下さいました。

二谷君とは入校直後四号の時第16分隊で、そして引き続き三号では第7分隊と機関学校の最初の最も印象深い期間、起居を共にした。彼の実家は舞鶴であったから、日曜日の外出時には常に自分の家に帰っていた。学校でさんざん鍛えられて青息吐息の四号生徒の我々は羨ましくてならなかった。

時々彼の家に押し掛けてボタ餅を腹一杯御馳走になった事が、彼の家にあった柿の木の実の色と共に何時までも忘れる事が出来ない。

四号生徒の時は生徒長が小川毅一郎生徒で非常に立派な人であったから、意義ある充実した生徒生活を過ごさせて貰った。16分隊での四号生徒は、戦死した小山力、堀哲男そして今も健在で活躍している岩間正春、安藤満、佐丸幹男更に広田隆夫の面々で、第二生徒館の毎日であった。

三号の時は7分隊で亦も一緒、第二生徒館では掃除の時、オスタップで水拭きだったが、第一生徒館ではモップで油拭きだから楽だ等と云いながら戦死した牧太郎、亡くなった角田武之助、それに書道家として活躍している松塚勇、元気な蔵元正浩、福島弘、西川生士、山下武男、更に大学教授の海原文雄等と共に、駆足で我々を鍛える本房義光一号生徒の後から顎を出しながら鉄砲かついだ長田野演習場を思い出す。

そして四号三号と引き続いての最下級生生活を彼が時々実家に連れていってくれて励まし合った事が何よりも嬉しかった。

戦後彼が自衛隊を退職して地元の会社で勤務していた時も、時々彼の家に短時間ではあったけれども立ち寄った。彼の家の周囲もすっかり変り、家が立並ぶ町中となってしまっていたが、胃の手術をした後も、折にふれ写経に安心立命の境地を得ながら元気に勤務を続けていた。

しかし昭和60年9月の舞鶴での海機慰霊祭並びに合同級会で皆の前で姿をみせてくれていたのが最後となった。

二谷君は闘志を露わに表に出すタイプではない、しかし確固たる信念を内に秘めて、あく迄も貫く立派な人物だった。胃手術の衰えた身体も厭わずに合同級会にも出席し、報告迄書いてくれた事には敬服あるのみだ。

京子未亡人は私に云った。「主人がクラスの皆様に最後に会えた時、意識不明であった事がよかったです。」この言葉が深く私の頭に残っている。

       

 

 西川生士君のこと

西川生士君は平成元年5月1日堺市の近畿中央病院に於いて逝去された。享年満65歳。

西川生士君とは三号時代7分隊の時、隣の机で並んで教育訓練を受けた。郷里が和歌山で奈良の私とはよく色々な事を話し合った。とに角真面目であった。そして決して弱音を吐かなかった。体育訓練については特筆する記憶がないが理数的な事については非常に綿密で凡帳面であった。特に実験データーの整理方法については大いに西川君から学ばせてもらった。

背筋を真直ぐに伸ばし、顎を引いて正面から物を見据える端正な西川君の姿勢は彼の全てを表現していた。昭和18年9月、機関学校卒業後は航空整備に赴任した。彼の志望であったので持味を生かして存分に活躍した。

戦後、西川君は丸善石油に奉職した。丸善石油には先輩の機42期の黒磯武彦氏や46期の森哲二氏等立派な方々がおられてよく彼の噂を聞いた。そして伸々に免状取得に困難な熱管理技術者として第一人者となり自社のみならず各会社で色々講演したり指導したり大活躍をしている話を聞いて大変嬉れしかった。私も色々教えてもらって自分の会社の体質改善に大きく役立たせていただいた。本当に西川生士君に感謝している。

日本の国も変わった。特にエネルギー関係産業の変化は激変である。西川君が関西石油鰍フ取締役工場長の時、丁度第一次石油ショックがあった。「灯油よこせ」の訳の判らない市民団体と呼ばれる共産系の人々に自宅に迄デモをかけられて苦労した話、四国の松山石油の取締役工場長の時には、化学繊維原料の原価低減に一銭を単位に血眼になっているのに、デパートで売っている衣料品は100円単位で値上りしている話等々。西川君の様な技術者が日本重工業化の発展のために大活躍し、現在の日本の経済大国を造りあげたと思う。戦中戦後を通じて、本当によく国家社会のために働き尽くした西川君であった。

西川君のゴルフは米国仕込みであった。野崎君と二人に勧められて私は初めてゴルフをプレーした。枚方のゴルフ場で二人が95を切った、切ったと言っていたのが今も目に浮かぶ。しかも西川君は借クラブを使用していたと覚えている。野崎君はその後、私の目の前でホールインワンを為し遂げたが、西川君のホールインワンを見なかったのが残念である。

西川君が病気になった時、近畿中央病院に見舞いに行ったが、何時行っても、主治医からの説明による自分の病状を克明にメモしたノートを示して私に聞かせてくれた。あの胆力、あの凡帳面さには兜を脱ぐ。医者に告知はされなくても自分の病気の事は知っていたと思われる。

それにしても、上野三郎君は本当によく西川君のために努力してくれたと同じ級友として感謝している。農学博士で抗ガン薬「クレスチン」 の発明者である上野君が、研究と勤務そして学会と大変忙しい中をよく主治医と連絡してくれた御陰で一年以上延命したと思っている。

本当に有難う。

西川君のお骨上げの5月5日、繰上げの初七日が行われ、自宅の霊前にお参りさせてもらった。

西川君の奥様が 「病院では一番の延命者で牢名主と呼ばれた」 と言っておられたが、心の底から上野君に感謝しておられた。西川君が息を引き取る最後の時、意識が戦闘中の事と混ざり合って「しっかりポンプを廻せ」と命令していたと話される奥様の両眼から熱い涙が溢れ出るのを見て、私はどうすることも出来なかった。西川君が奥様と共に今年の始めに、共に手入れをして春に咲く花を楽しみにしていたという立派な庭に眼をやりながら、西川君が示してくれた「現在唯今を一生懸命に生きる」という事を心に誓いながら故西川生士君の家を後にした。

 

海機53期入校50周年の思い出として、始めは入校以来の生徒生活から書こうと思ったが、何時の間にか教官・先輩、級友の戦死者及び戦後死没者の個人の思い出等を書く様になった。それだけ皆様の各個人が立派で私の全てに大きな影響を与えたと云う事である。級友全て立派であった。又立派である。

特に戦死した諸兄は、色々の心情を超えて自分の全力を傾注して、散華していった。

(しょう)々として易水寒し

壮士一たび去って復た還らず

(古詩源・荊軻)

亡き級友の若き姿を思い出しながら擱筆する。

(機関記念誌234頁)

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