平成22年4月23日 校正すみ
短い海軍の記録
和田 恭三
和田 恭三 | 戦艦 金剛 | 震洋艇 |
私は大正12年8月7日東京で生まれ、当時の東京府立五中(現小石川高校)から海軍兵学校に入校、昭和18年9月卒業、海軍少尉候補生となり、短期間の練習艦隊を経て、軍艦金剛の乗組となり、トラック諸島、シンガポール付近の海域で、戦備訓練の後「あ号作戦」として知られるサイパン沖の海戦に参加した。時は昭和19年6月であった。
当時私は海軍少尉に任官していて、「金剛」の通信士兼第3戦隊司令部の通信士として、命令や情報の受信や発信の仕事をしていたので、常に艦橋におり、司令官や艦長と接していた。「あ号作戦」というのは、当時残っていた日本海軍の決戦兵力の大部分を集中して、東正面に備え、一挙に敵艦隊を撃破してしまおうとするもので、サイパン島への上陸を目指して来攻してきた米国艦隊と決戦を交えた。しかし、軍艦の大砲や魚雷を撃ち合う海戦というよりは、飛行機による攻撃・防御の戦となって、結果は敵の優勢な航空機に圧倒されて、我が艦隊は空母を始め多数の艦艇を失い、遂に目的を達成せずに引き上げざるをえなかったのである。私にとって始めての実戦で、しかも戦況がよく分かる艦橋にいたので、味方が思うように戦えなかったのがとても歯がゆく残念だったことをよく覚えている。
この作戦のあと、レイテ沖の海戦等々と続くが、我が海軍の劣勢ははっきりとしてきた。艦隊は一時、内地に帰り、対空戦闘のため、機銃の増設などを終え、シンガポールへ帰った頃、私は転勤命令によって退艦、海上特攻隊の震洋隊の指揮官として、九州の佐世保近くの川棚に着任し、独立の部隊として「海軍和田部隊」を編成した。部隊は士官が7名、下士官兵が約250名の所帯であった。当時22歳の海軍中尉には重過ぎる荷であった。しかし、日本は敗色濃厚になり、国を救うのは我々しかないのだという自負心と、兵学校や艦隊で教わった部下の統率ということに対する自信とがこの大役を乗り切らせたのだと思う。
和田部隊も任務は、「震洋艇」という1トンぐらいのベニヤ板で作ったモーターボートの先に500キロの爆薬を乗せて、敵の艦船に体当たりして撃破するというもので、震洋艇50隻と、それに付属する基地隊、整備隊、主計隊その他からなっていた。艇の搭乗員は予科練出身の下士官で、その他の隊員は応召兵が大部分であった。それでも、この部隊の荷物は、弾薬、燃料、兵器、食料等全部では貨車に100輌分もあり、移動には大変な努力と気をつかった。
訓練と整備を終わった「和田部隊」は昭和19年12月20日沖縄根拠地隊に配属すべく、輸送船に積荷したが、フィリッピンの戦局急変によって、マニラ方面へ出撃することに変更され、昭和20年1月21日佐世保を出港した。ところが、出港2日後に電報が入り、マニラの戦局急変のため、間に合わず、馬公特別根拠地隊の指揮下に入れとの命令があり、1月20日に台湾基隆に入港、部隊は揚陸後、列車にて高雄へ、さらに駆潜艇に分乗して馬公に移動して基地を建設、訓練を続けた。
ところが、6月になって沖縄の戦局が急となったので、またまた、当部隊は沖縄に近い基隆への移動を命ぜられ、連日の空襲の中を強行移動したが、この間敵機と交戦中数次にわたり計32名の戦死者を出してしまった。
そして、8月15日は終戦、部隊は現地入隊の予科練生を帰省させ、兵器や燃料の大部分は警備隊に引継いで、東海岸に移り、高砂族部落に入って自活態勢をとり、翌年3月に内地に帰って解散、帰省した。
短い私の海軍服務であったが、海軍兵学校に入校以来教わったことや、経験したことすべてが身にしみこんでいるといってよいと思う。不屈の精神、強健な体力、機敏な動作と判断力、どれもみな今の生活や仕事にもなくてはならないものだと思う。
(なにわ会ニュース90号68頁 平成16年3月掲載)