平成17年3月寄稿
栗田艦隊の反転
左近允尚敏
巡洋艦熊野 | 左近允尚敏 |
目 次
一 戦場心理
二 田村氏の『海交』誌記事
(一)いきさつ
(二)小沢艦隊の電報
(三)不戦兵士 小島清文
三 栗田長官の追撃並びにレイテ突入の中止
(一)経過
(二)日本の文献
(三)米英の文献
四 フィリッピン沖海戦の総括
一 戦場心理
朝雲新聞社は以前、月刊『朝雲』を出していた。21年も前に書いたことをすっかり忘れていたが、「戦場心理」と題した拙文の切抜きが出て来たので、大要をここに再録したい。
「戦争になったら、今の自衛隊員、大丈夫ですかねと」聞かれることがあるが、その答えは難(むずか)しい。何しろ人の命の重さは、戦前には「鴻(こう)毛の軽さ」だったのが、「地球より重い」になってしまったのだ。前者は軍人の、後者は一般論としての人間の命についてなのだが、それにしても違い過ぎる。その上、自衛隊員には実戦の経験がない。これは誠に幸せなことなのだが。
世間の風潮はともあれ、自衛隊員はいざとなれば「身の危険を顧みず」戦わなければならない。果たして弾丸の下で職務を遂行できるだろうか、と自問した読者もおありだろう。
戦前、戦中には子供の頃からお国の為に命を捧げるよう教育されたものだが、軍人でも殆んどの者は死に対する恐怖から完全に解放されなかったのではないかと思う。
私は1943年(昭和18年)の11月から1年間、熊野という基準排水量13,000トンの重巡洋艦に乗り組んでいたが、戦闘になっても最初の内は恐怖心が全くなかった。それが、敵の艦上爆撃機(SB2C)や戦闘機(F6F、F4F)が怖くなった。配置が艦橋だから、「天が下には隠れ家もなし」とはこのことか。重巡ぐらいになると、魚雷が当たっても自分が吹き飛ぶことはまずないからだ。これが、下の方の、例えば機関科員になると逆である。
内心では怖いと思ってもユメ顔には出せぬ。周りにいる部下の手前、毅(き)然としていなければならない。これは別に意識しないで出来た。虚勢を張らずにすんだのだが、部下にとっては例え虚勢であっても、頼もしく見える上官の方がいい。苦しい戦闘場面では、「部下は上官の顔を見る」のである。
部下のあるなしには関係なく、死に対する恐怖という人間の本能を押さえつけ、或いは忘れさせるのは、職務に対する使命感だ。しかし、職務は人によって異なる。私の場合は航海士で艦位を求めて海図に記入したり、艦橋の信号員や見張員に指示を与えたりするのが仕事だったが、頭上の敵編隊が一列縦隊になって急降下に入ると、そういった仕事は中断されてしまう。
そうして、「まな板の上の鯉(こい)」という心境になって、ただ耐えるだけになる。攻撃が終わるまでの間、考えていたのは「やられるなら重傷を負うのは御免だ。一発でやってくれ」だった。
一度だけ例外があった。10月25日夕、サンベルナルジノ海峡の狭い海面で30数機の攻撃を受けたが、座礁したり、味方が入れた機雷原に突っ込んだりしたら大変だから、刻々と艦位をチェックして、回避のための操艦号令を下す航海長に報告しなければならなかった。雑念が入り込む余地は全くなかったのである。
機銃群指揮官や機銃員の場合は弾雨に身を曝すけれども、こっちも機銃で敵機と真剣勝負をする訳だから、恐怖心や雑念とは無縁である(と思う)。正直な話、私は羨ましい配置だと思っていた。
では職務を与えられないで戦闘になったらどうなるか。例えば、重巡・摩耶の乗員は10月23日に乗艦を沈められ武蔵に移ったが、同艦は翌24日に終日攻撃を受けて夕方沈没した。
摩耶生存者の多くは特に仕事を貰うことはなかったと想像されるが、繰り返し攻撃される間の気持ちは想像に難くなく、同情に耐えなかった。私も熊野が沈んだ数日後、マニラまで一晩駆潜艇に便乗したが、気持ちのいいものではなかった。
戦場心理が絡んだ事象として古今東西を問わず、味方撃ちがある。私の最初の経験は、44年6月のマリアナ沖海戦だった。日本の空母部隊は前衛(丙部隊)と本隊(甲・乙部隊)に分かれており、熊野は大和、武蔵などと共に前衛の軽空母3隻の護衛に当たっていた。
6月19日、前衛が攻撃隊を発進させた後、西方から本隊を発進した128機が飛来した。天山艦上攻撃機(雷撃、水平爆撃)、彗星艦上爆撃機(急降下爆撃)、ゼロ戦、いずれも単葉低翼で米艦上機と変わらないから正面からの識別は国難である。各艦迷っているうちに、瑞鳳が発砲し、やっぱり敵だという事になって熊野を含め殆んど全艦が打ち上げた。
前衛の指揮官は栗田中将だったが、宇垣1戦隊(大和、武蔵、長門)司令官は日誌(戦藻録として有名)に書いている。
「・・・次第に接近し来るも敵味方不明なり。よって増速回避準備運動を行う。この時に至り巡洋艦まず発砲せば、われ遅れじと空母、駆逐艦まで猛射を浴びす。距離15キロ付近、わが射弾の前方に落つるを見て初めてバンクを行いたるを以って、直ちに射撃中止を電話にて令せるも通達にはなかなか時間を要し、遂に撃墜2機を生じたるは遺憾なり。・・・敵来るに備え張り切りあるところに何の味方識別も行わず、高度高く大群をもって進行し来る。当然の結果なるべきも、西方に甲乙部隊あり。味方識別に注意すべく警告を発したり」(甲部隊は大鳳、瑞鶴、翔鶴基幹、乙部隊は飛鷹、隼鷹基幹)
数年前、月刊誌『東郷』だったと思うが、この場面について小文を書いたところ、警視総監や、防大校長をされた土田国保氏(短現10期)から「乗艦していた武蔵だけは発砲しなかった。見張士が極めて優秀だった」とお手紙を頂いた。
10月25日朝、魚雷を喰らって栗田艦隊から落伍した熊野は単艦でサマール島沖を北上中、飛来した水上爆撃機・瑞雲、次いで艦上攻撃機・天山に爆撃された。基地航空部隊指揮官は
「熊野2回ニワタリ友軍ニヨリ誤爆撃ヲ受ク、(瑞雲、天山)異常ナカリシモ味方識別ニ関シ厳ニ注意セヨ」と打電したが、栗田艦隊もまた九九式艦上爆撃機2機に爆撃されたことを知り、「今夜ノ航空攻撃ヲ取リ止メヨ 味方打チ多シ」と下令したのだった。
25日夕、熊野はコロン湾在泊のタンカー日栄丸の左舷に横付けしていたが、ゼロ戦1機が前方から低空で接近、右舷に横付けしていた那智の前部機銃が発砲した。私は熊野の艦橋で見ていたが、紛らわしい運動をしたゼロ戦に非があると思った。味方打ちは大昔から戦争の歴史とともに存在してきたが、二つほど挙げておく。
日本は42年7月、アリューシャンのキスカ、アッツ両島を占領したが、43年5月にアッツを奪還され、7月キスカから撤退した。(この年の2月のガダルカナル撤退と合わせて、極めて困難な撤退作戦の稀有(けう)の成功例とされている。尤も43年以降成功した作戦としては、この二つの撤退作戦くらいしか挙げられないのは残念な話である)
米軍はキスカ占領を計画していたが、空襲から帰ったパイロットからの報告は対空砲火が皆無となり、損傷した施設も全く修復されていないというものだったから、最高指揮官だったキンケード少将は、日本軍は撤退したようだと判断した。
もう一つ紹介したい例は42年2月のヨーロッパ戦線で起きた。ドイツの戦艦、シヤルンホルスト、グナイゼナウ、重巡プリンツオイゲンの3隻はキールに向けてフランスのブカレストを出港、ドーバー海峡の昼間突破を図った。英海軍は可動兵力を動員して阻止を図ったが戦場は混乱した。
出動した英駆逐艦6隻のうち1隻だけ遅れて航行中だったウオルポールは英ウェリントン爆撃機に爆撃された。そこにメッサーシュミット戦闘機が飛来してウェリントン機を追い払ってから上空を旋回し始めた。護衛してくれる積もりだったようだが、そのうち英艦であることに気付いたらしく前方の海面を機銃掃射してから飛び去った。ウォルポール以外の5隻も英ハンプトン爆撃機に2回爆撃されている。味方の爆撃機に爆撃され、それを敵戦闘機が追っ払ってくれたという、ウソのような本当の話である。
二 田村氏の『海交』誌記事
(一)いきさつ
『水交』誌と同様、旧海軍関係者の団体が出している機関誌『海交』がある。一昨年、桂 理平君から同誌に連載の田村俊夫「栗田艦隊の反転は予定の行動だった」のコピーが来て、コメントを求められたので書き送った。
(二)小沢艦隊の電報
田村氏の論点の一つは、小沢長官が打った電報についてで、従来旗艦、瑞鶴の送信機故障で栗田艦隊司令部では状況が分からなかったとされているが、実は何通も栗田艦隊の旗艦、大和では受信している、その殆んどを参謀が(共同謀議して)栗田長官に届けなかったというものである。
大和が受信したという根拠は半藤一利著『レイテ沖海戦』で、それによると小沢長官は次の8通を送信している。
@ 10月24日に敵機動部隊に対する航空攻撃開始を知らせた電報
A 伊勢、日向を中核とする前衛部隊の、前方への派遣を知らせる電報
B 小沢艦隊上空に敵偵察機が現れ、ハルゼーに発見された事を知らせた電報
C 25日朝、再び敵艦上機の触接を受け、ハルゼーの攻撃が近いことを知らせた電報
D 敵艦上機80機来襲、交戦中であることを知らせた電報
E 瑞鶴に魚雷命中を知らせた電報
F 小沢長官が大淀に移乗、作戦を続行中であることを知らせた電報
G 敵機100機の攻撃を受け、秋月沈没、多摩落伍を知らせた電報
半藤氏は「このうちDとEは、発信の前後に瑞鶴自体が沈没したため、発信を確認出来ないままに終わったから、結局のところ6通になる。しかし、この6通だけからでも、小沢艦隊のオトリ作戦成功が、言い換えれば、ハルゼー機動部隊が北に吊り上げられ、敵主力は南方にいないことが十分に読み取れる筈であった」と書いている。
半藤氏は優れた歴史研究家だと思うが、ここは首肯出来ない。Cは0732発信の「ワレ敵艦上機ノ接触ヲ受ツツアリ 地点ヘンホ41 0715」だが、@からCまでは交戦とは無関係。DとEは発信が確認出来ないとなっているが、Dは、「敵艦上機約80機来襲 ワレ之卜交戦中 地点ヘンニ13 0815」であって、小沢艦隊は発信しているが、他の艦隊はどこも受信していない。Eは、「瑞鶴魚雷命中1 人力操舵中 瑞鳳爆弾1命中 速力14節 ソノ他20節付近 航行差シ支エナシ」で、0947に送信の手続きが取られたが、実際には11時前の送信になったようで、これも小沢艦隊の伊勢は1105に受信したが、他の艦隊には届いていない。
Fは、「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス 1100」で大和は1215に受信している。旗艦変更は珍しいことではない。ミッドウエイ沖で南雲長官は赤城を失ったし、小沢長官自身が6月のマリアナ沖で大鳳を失っている。
Gは、「0830カラ1000マデ敵機約100機ノ来襲ヲ受ク 戦果撃墜10数機被害秋月沈没 多摩落伍 ソノ他・・・概ネ・・・」(「ソノ他」以下の原文は、「ソノ他損害アルモ概ネ18節航行可能 瑞鶴通信不能」)であって、発信は1231、大和は1441に受信した。1000までの情況を2時間以上経ってから打電したのは旗艦変更のゴタゴタがあったからと思われる。
FGで栗田艦隊司令部が知ったのは、小沢艦隊は約100機に攻撃され、旗艦は沈んだらしい、駆逐艦1が沈没、軽巡1が落伍した、ということだけである。
栗田長官は前日午後、250機以上の攻撃を受けた事を打電(この電報を小沢艦隊司令部も見ている、)したが、一体何隻の空母から攻撃されたのか分かりはしなかった。実際にシブヤン海で栗田艦隊を攻撃したのは4個空母群のうちの二つ、ボーガン隊(TG38・2)とデイビソン隊(TG38・4)で空母は正規(CV)が計3、軽(CVL)が計4だった。軽空母はベースが巡洋艦、護衛空母(CVE)はベースが商船である。搭載機はCVが70ないし90、CVLが約30、CVEが30弱だった。(拙稿から。)
「小沢艦隊がハルゼーの空母群を引き付けていることが判ったのは戦後であって、つまりこの通説は『後知恵』なのである。小沢艦隊は25日朝から次々と空母機の攻撃を受けたが、一体何隻の攻撃を受けているのか分からなかった。
空母機の攻撃を受けた時、何隻の空母の搭載機か分からないと述べたが、その一例をあげる。開戦劈(へき)頭、南雲機動部隊は6隻の空母をもって真珠湾を攻撃したが、当時ハワイの通信情報班にいたホルムズ大尉(のち大佐)は著書の中で、『私は当時、他の人たち(ロバーツ委員会を含む)と同じように、真珠湾攻撃に参加した日本の空母は2隻だけだと思っていた』と述べている。
瑞鶴の通信機について田村氏は書いている。
「結果的に小沢長官の通報は、栗田艦隊に何ら利用されなかったが、小柳参謀長はそれを通信機故障の為としている。しかし通信機の故障はなく、小沢長官の通報は大和で受信されているのであるから、この通報をなんら利用しなかったのは参謀長側の都合によるものではないかという疑問が起きてくる」
半藤氏もまた、「大和の受信記録に@AFGは載っており‥・。即ち、瑞鶴の送信機は故障していなかったのである」と書き、「故障」以下に傍点まで付けているが、既述したように半藤氏自身、「DとEは発信の前後に瑞鶴自体が沈没したため、発信を確認できないままに終わったから・・・」と書いた事と矛盾する。瑞鶴は1414に沈んだから、Gの発信から1時間半以上経っている。
実際にはどうだったか。瑞鶴の送信機は0846に全部使用不能になっていた。(0835に爆弾1発命中、0837に魚雷1本命中したから、このための『結果』であろう) 長官は0946に大淀に対し通信機の情況知らせと指示している。
つまり1100に送信したF(大淀に移乗)も、1231送信のG(敵機約100機来襲)も大淀からの送信なのである。(大和が受信した@Aは瑞鶴発信だが、栗田長官にとっては単なる参考情報に過ぎない)
さて栗田長官がレイテに向かっていた艦隊に反転を令したのは1226(1236に連合艦隊長官に報告)である。Fは大和が1215に受信しているが、翻訳清書の所要時をみれば、司令部に届けたのは、明らかに.反転下令の後である。Gは1441に受信だから、反転後2時間以上たっている。
つまり小沢長官の電報と反転の決定との間に因果関係は存在しないのであり、田村氏の「この通報をなんら利用しなかったのは、参謀長側の都合によるものではないかという疑問」は、まるで的外れなのである。田村氏は、(参謀が)電報を届けなかったので、栗田長官は反転を令したという、初めて目にする珍説も書いている。
「これまで言われていることで理解出来ないことは、栗田艦隊が作戦命令通りレイテ湾に突入しなかったにも拘わらず、そして、その原因が栗田長官に電報が届けられなかった為とされているのに・・・」
彼は小柳参謀長以下がレイテには行かない事を予め決めていたという驚くべき前提に立ち、小沢長官からの電報が第1遊撃部隊(栗田艦隊)の戦闘詳報に出てこないのは何故だろうかと書いている。
田村氏はまた書いている。
「連合艦隊長官の1647番電、
『(1)第1遊撃部隊ハ今夜乗ズべキ好機アラバ残敵ヲ捕捉撃滅スべシ
(2〉今夜夜戦ノ見込ミナケレバ・‥補給地ニ向カエ』
を大和では1812に受信したのに1925に届けられた。夜戦の見込みを考えてここで待機するなど全く頭にはなかったと思われる栗田艦隊の参謀達は、ここでの長居は無用と考えて再び情報操作を行ったものと考えられる」と。
参謀長以下の共同謀議、という思い込みがあると、すべてが色眼鏡を通して見えるらしい。
日本海軍の通信はどうしてこうも時間が架かるのかと思う向きもあるかと思われるので、キンケードからハルゼー宛の電報を参考までに示す。いずれも、平文だったから翻訳清書は不要だった。なおLeeは戦艦隊の司令官(中将)である。
(参考の電報の表省略)
(三)「不戦兵士 小島清文」
田村氏は小島少尉(予備学生3期)の図書「不戦兵士 小島清文」を全面的に支持している。
「小島の推理は明快である。・・・ヤキ1カ電は虚報だったのではなく、嘘で、でっち上げとしか考えられない。・・・そしてこの電報にある米空母を攻撃するという事を根拠に栗田艦隊がレイテ湾への突入を止めて反転北上したことを考えると、小島少尉の推理の通り、この電報は栗田艦隊の参謀のでっち上げと考えなければ説明が付かないのである」
小島清文(当時大和暗号士)著の『栗田艦隊』が嘘ででっち上げだと書いている、このヤキ1カ電というのは、大和が1100ころ受信した、0945に敵機動部隊がスルアン灯台の5度113マイル地点で発見されたという趣旨の電報で、結局何処が発信したものか分からずじまいになったものである。この地点は航空用地点符号でいうと「ヤキ1カ」なので、「謎のヤキ1カ電」とされている。(拙稿から。)
では次はどうなるのか。敵を『でっち上げ』て『攻撃されたし』はないだろう。
『・・・栗田長官1150番電
宛 南西方面艦隊、第1航空艦隊、第2航空艦隊各長官。
ヤキ1カ ノ敵ヲ攻撃サレタシ。
同1445番電
戦史叢(そう)書は、この謎の情報について書いている。
「栗田長官が1120発信でレイテへの進撃開始を報じた電報にはこの敵情も含まれている点から推して、同時刻以前に栗田長官が問題の敵情を人手していたことは明らかである。その時刻は・・・、1100前後であったことは間違いないように思われる。」・・・以上から明らかなように、大体1100前後に現地部隊だけでなく、内地でも空母情報を受報していたのである。
換言すれば、1100に誰かが空母情報を打電し、それを大和などでそれぞれ違った形で受信したもののようである。・・・問題の空母情報は第1遊撃部隊だけではなく、マニラでも内地でも受領されたことは紛れもない事実であるが、その情報源は分からない。
その情報を栗田艦隊司令部の「嘘でっち上げ」とは非礼極まりない。尤も、小島少尉によると戦史叢(そう)書がすべて間違っているそうである。小島清文「栗田艦隊」のいい加減なところを一箇所だけ指摘しよう。
「折も折り、それまで全くその消息が分からなかった小沢艦隊から一通の電報が大和の暗号室に飛び込んできた。空襲の合間の12時過ぎである。私は暗号室に戻ると翻訳にかかった。『大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス 1100』
小沢艦隊は作戦通り比島北東水域で米機動部隊と遭遇したのだ。そしてこの電文は旗艦、瑞鶴の沈没を、更には小沢艦隊の命運を示唆していた。
『もう、我々しか残っていない』私は敗北感に打ちのめされ、暫く電文の文字を眺めていた。 電報はすぐ艦橋に届けられた。 ハルゼー艦隊が戻ってくる!栗田長官は躊躇(ちゅうちょ)することなく連合艦隊司令部あてに打電した。
『1YB第251236番電
第1遊撃部隊ハレイテ突入ヲヤメ サマール東岸ヲ北上シ敵機動部隊ヲ求メ決戦後、サンベルナルジノ水道を突撃セントス・・・』
どこがいい加減か.まずこの電報は小沢艦隊が米軍と戦闘したことを示す最初の電報だが、何によって瑞鶴が大破、あるいは沈没したかを示していない。
第2にこの旗艦変更の電報でどうして小沢艦隊の運命を示唆していると言えるのか。どうして残るは栗田艦隊だけだと敗北感に打ちのめされたのか。
第3に栗田艦隊は、9時過ぎまでハルゼー艦隊と戦ったと思っていたのだ。この電報でどうして「ハルゼー艦隊が戻ってくる!」と思うのか。
第4にこの文章には書いていないが、既述したように1236に連合艦隊司令部に電報を打つ10分前、1226に栗田長官は部隊に反転を命じている。大和が小沢長官の旗艦変更の電報を受信したのは1215であり、翻訳清書の時間を考えれば栗田長官は明らかに電報を見る前に反転を命じている。
この話には続きがある。田村氏は、今度は私をターゲットとして『海交』本年5月号から議論の蒸し返しを始めた。前出の我孫子氏が連載(1)を送って下さったので、やむを得ず再びコメントを書いたところ7月号に掲載された。田村氏の連載は「紙面の都合により」打ち切りになった。
三 栗田長官の追撃並びにレイテ突入の中止
(一)経過
栗田艦隊は10月25日の午前7時前からタフィ3のCVE群を追撃したが、栗田長官は0911に追撃撃破を断念して「逐次集マレ、針路0度、速力20節」を令した。不思議なのはこの時、大和がレイテ湾とは逆の北に向かったことである。
南方には残留した煙幕があって視界が悪かったとも言われるが、大和は8時をはさんで約10分間、敵の魚雷に挟まれて北進したため他艦はずっと南方にあり、集まるのに長時間を必要とした。
「集まれ」から1時間後の1014、輪形陣の制形を令したが基準針路0度、速力22ノットだった。さらに40分後の1054にも同じ命令を出し、1057に270度、1100に225度に一斉回頭してようやくレイテに向かった。
しかし栗田長官は1226に反転を令し、1236に豊田連合艦隊長官に対し、レイテ突入を止めて北上、敵機動部隊と決戦後、サンベルナルジノ海峡を突破すると報告したことは既述した。戦闘詳報には「ワガ突入ハ徒ラニ敵ノ好餌(じ)タルノ恐レナシトセズ ムシロ敵ノ意表ヲツキ 0945出現ノ・・・地点ヤキ1カ・・・・ノ敵機動部隊ヲ求メテ反転北上スルヲ事後ノ作戦上有利ト認メ北上スルニ決ス」とある。
栗田艦隊司令部はタフィ3を高速空母群(機動部隊)と見て追撃、更に新たな高速空母群(タフィ2)を発見したが撃滅できないと判断して追撃を断念した。にも拘わらず北方の機動部隊(高速空母群)と決戦するというのは矛盾している。
(二)日本の文献
豊田副武(当時)連合艦隊長官
『最後の帝国海軍』
アメリカでは・・・そして暗に、栗田君の追撃―攻撃精神が十分でなかった事を非難しているのだが、私はそれに対してコメントしないことにしている。・・・
何千海里も後方から連合艦隊司令長官が、追撃しろのどうのと言うべきものではない。
宇垣 纏(当時)第1戦隊司令官
『戦藻録』
(栗田艦隊司令部は)大体に闘志と機敏性に不十分の点ありと同一艦橋にありて、相当やきもきもしたり。
奥宮正武(当時)軍令部員
『日本はいかにして敗れたか』(下)
「謎の反転」と評している人々がいる。が、彼らの主張には大きな疑問がある。・・・栗田中将は、24日から25日にかけて、一日半以上も、レイテ湾の敵情について何処からも報告も通報も受けていなかった。・・・そのような事情があったので、東京にいた私は、この日の栗田部隊の行動について何の疑問も感じなかった。というよりは、連合艦隊が既に組織ある戦力を失っていた情況下で、可能な限りの努力をした栗田部隊の行動は評価されても非難されるべきではないとさえ考えていた。
桂 理平(当時)瑞鳳乗組
『空母瑞鳳の生涯』
航空兵力を持たない艦隊が敵機動部隊に接近して、砲戦、魚雷戦を実施できる可能性は殆んどない。しかし今朝には奇跡的に実現したが、残念ながら相手は二流の護衛空母群であった。・・・再び空母に追い付いて砲雷戦が出来ると考えるとは虫がよすぎると思う。・ ・・局地突入の場面にあっても近くに機動部隊が現れたら、後者に突撃しますとはマニラの作戦会議で意見を具申して了解を得ていた。その時がきたとの認識があったと思う。
半藤一利、秦 邦彦、横山恵一
『日本海軍 戦場の教訓』
秦:(集まれについて)なんで南方のレイテ湾に向けて集まらないんですかね。一刻も早く突入せねばいかんのに。
半藤:栗田艦隊の旗艦、大和は全部で4回敵に背中を見せるんです。1回目がハルゼーに退却と思わせた反転です。2回目が魚雷に挟まれた時、3回目がこの集結運動になります。この後、もう一度「運命の反転」をするのです。
半藤:もともと豊田は栗田が大不信なんです。常に「おい、大丈夫か、栗田はちゃんと突っ込むか」と気が気でない・・・。
秦‥それまでの栗田の行動を見ていると、ミッドウェー海戦以来、この人が突っ込んだ例がないんです。むしろ逃げる方が多い。それを何でこの時司令長官に起用したんですかね・・・。
半藤:小沢は・・・豊田不信なんです。・・・小沢はまた栗田も全然信用していない。マリアナ沖で痛い体験をしている。「栗田、また逃げてるんじゃねえか」と。
半藤:戦後になって僕は伊藤正徳さんと二人で栗田さんと直接会ったんです。栗田さんは通信の事などで色んなことを弁解していましたよ。そして一番最後に、「結局、おれは疲労困憊(ぱい)していた」とポッリと言うんです。それが印象的でした。
児島 襄
『太平洋戦争』(下)
午前9時11分、栗田艦隊は・‥の地点で突然、反転したのである。お陰で、重巡・利根、羽黒に1万メートル以内に追尾されていたスプレーグ部隊は、虎口を脱した思いでレイテ湾に逃げ込んだ。:‥・栗田艦隊司令部はもともと輸送船攻撃には熱意がない上に・・・により、レイテ湾の敵艦隊の準備は完了していると判断した。
「丸」 平成5年1月号増刊
「職争と人物」
・・・レイテ沖で有名な第2艦隊司令長官栗田中将の場合など、その典型的な一例であろう。起死回生のこの作戦で、重要な役割を演ずることになった栗田中将は、その能力を買われて任についたのでは全くなかった。
若し、海軍中枢部が開戦以来の栗田中将(開戦時は少将)の働きぶりを的確に把握していたら、こんな人事は行われなかったであろう。
・ ジャワ攻略作戦時における第7戦隊司令官としての退嬰(えい)的な行勤、次いでミッドウェー海戦で露呈した怯懦(きょうだ)というほかない行動を見れば、いかに艦隊指揮官として栗田中将が不適格な人物かは自ら明らかな筈であった。
この弱将を漫然とレイテ沖海戦における水上部隊の長に据えた結果は、周知のように九仞(きゅうじん)の功を一簣(き)に虧(か)くことになった。抜き難い年功序列主義の弊害が、食うか食われるかという戦いの局面においても、拭(ぬぐ)いがたく蔓延っていたのである。
(三)米英の文献
Winston
Churchill 「World
War 2」
勝利は栗田の手にあると思われた。彼がレイテ湾に突入してマッカーサーの上陸部隊を撃滅するのを阻止する兵力は何もなかった。しかし彼は再び反転した。理由ははっきりしていない。自分のフネの多くは(軽)空母部隊に叩(たた)かれて分散した。西村艦隊は酷くやられ、オトリの小沢艦隊はどうなったのか、又米部隊がどこにいるのかは分からなかった。傍受電報からするとキンケードとハルゼーの大兵力がやって来るのではないか、マッカーサーの輸送船は既に逃げたのではないか・・・。
彼はレイテ突入を止め、サンベルナルジノ海峡に向かった。途中でハルゼー隊と戦えたらと思ったが駄目だった。栗田の心がプレッシャーで混乱していたという事は大いにありうる。彼は旗艦を失い、3日間絶えず攻撃されて大きな損害を出していた。彼を裁くことが出来るのは、似たような試練に耐えた者だけである。
Samuel Morison
「Leyte-History
of United States Naval Operations in WW2」
2時間半近くの追撃戦でタフィ3のCVE 6、DD 3、DE 4は、タフィ2の援護を受けつつ、強力な栗田の中央部隊を阻止し、自隊より多大の損害を与えた。栗田はCVE 6のうち5 をとり逃がした。
クリフトン・スプレーグは、「敵がわがタフィ3を撃滅できなかったのは、わが方の有効な煙幕の展帳、魚雷攻撃、それと航空機が爆弾、魚雷、機銃で絶えず敵を悩ましたこと、適切な運動、そして間違いなく神のご加護に依ってである」と語っている。
0911から1236までの栗田の明らかに目的のはっきりしない運動は、航空攻撃を避けながら決心しようとしていたからだったが、決心がつき兼ねていた。
23日に旗艦が沈められて泳ぎ、24日にはハルゼーにひどく叩かれ、25日早暁には志摩提督から引き揚げるとの電報が入り、その直後の駆逐艦・時雨からの電報は同艦が西村艦隊の唯一の生き残りであることを報じた。
彼の幕僚はCVEをCVかCVL、フレッチャー級DDをボルティモア級重巡と判断している。タフィ2の存在が報じられた時、彼等は新たな高速空母群と見た。
米軍の平文電報からすれば、強力な水上部隊がレイテ湾に向かっており、且つ多数の航空機がタクロバンに集まりつつある。レイテ湾で成功する見込みは極めて低い、艦隊は次の機会に備え温存した方がベターである、と栗田は判断したのだった。
・ Thomas Cutler
「The
Battle of Leyte-Gulf」
栗田はなせ勝利は確実という時機にタフィ3に背を向けたかを正確に見積もることは難しい。彼は矛盾した発言をほんの少ししているに過ぎないが、分かっている証拠からすると、次のような理由からかと思われる。
このまま追撃を続ければ殆んど完全に敵を撃滅出来たという状況にあった事、即ちタフィ3、更にはタフィ2さえ全滅出来たということを認識出来なかった。全般的な戦況を把握出来なかったのである。
栗田は戦後の質問に、30ノットの空母を追っていると思ったと答えている。
キンケードの平文電報を傍受して、それが絶望的な救援の要請だったのに、強力な部隊が今にも駆けつけて来ると判断した。レイテ湾は運動海面が制約されており、駆けつけた敵部隊によって動きを封じられる。
敵のレイテ上陸から既に一週間たっており、上陸部隊はレイテにはいないであろう、多数の敵機がレイテに向かっているが、間もなく大規模な空襲を掛けて来るのではないか、北の方の空母と戦う方がベターである。狭い海面より広い海面で戦いたい・・・。
戦後の質問に対する栗田の答えは明確ではない。
「北方に進撃して小沢艦隊と合流、北方の敵機動部隊に対して共同行動を取ることにした」、「北方に進んで敵空母部隊を探して交戦すれば、小沢艦隊を支援することになる。といって小沢艦隊と合流しようというのではなかった。」、「若し、北方で何も見つからなかったらサンベルナルジノ海峡に引き揚げる積もりだった」、「私は日没時にサンベルナルジノ海峡に到達して夜の間に極力西進したいと思った」
栗田を強く批判する人は、彼はこれ以上戦う気持はなかった、ただ逃げることしか頭になかったと主張する。然し、それだけで彼を臆病者と呼ぶのは余りにも失礼である。軽率にかかる非難をすべきではない。
彼は他にも矛盾した説明をしているが、当時疲労の極にあったことを考える必要がある。栗田自身、「当時は疲れているとは思わなかったが、3日間寝ていないので、大きなストレスを感じていた。」と語っている。
Paul Dull
「A Battle
History of Imperial Japanese Navy」
サマール島における栗田の指揮は拙劣だったが、反転の決定は健全だった。戦いの結果はいかに強力な水上部隊であろうとも、エアカバーがなければノーチャンスであることを明白に証明した。
相手がDDとDEだけに護衛されたジープ空母であろうとも、反撃に十分な艦上機を持っていればである。
戦いの結果に誰か責任を負うとすれば、不可能な使命を与えられて出撃した乗員達ではなく、巨大な米海軍と戦って勝てると考えた豊田連合艦隊長官と軍令部でなければならない。
James Dunnigan
and Albert Nofi 「Victory at Sea WW2 in the Pacific」
栗田はタフィ3にもっと損害を与えられたであろうが、タフィ2とタフィ1が支援を始め、また、彼は西村艦隊がスリガオ海峡で壊滅したことを知って気後れがし、1226に北上を開始したのである。
Harry Gailey
「War in
the Pacific」
栗田はハルゼー隊が接近中との報に影響されてレイテ湾突入を止め、1230に上層部に引き上げを報告した。
Edwin Hoyt
「The Men
of Gambia Bay」
栗田は躊躇(ちゅうちょ)した後レイテに向かったが、敵機の攻撃は激しかった。彼は西村艦隊の壊滅を知り、レイテに突入してもノーチャンスであると判断してサンベルナルジノ海峡に向かったのである。
Nathan Miller
「War at
Sea‐Naval History of WW2」
レイテを攻撃しなかった事で、栗田は手に入りかけていた勝利を投げ捨てたと批判されたが、ウインストン・チャーチルが述べたように、彼を裁くことが出来るのは、似たような試練に耐えた者だけである。
John Costello
「The
Pacific War」
次いで1235に栗田は、基地航空機が間違って報告した、北方にある別の空母部隊と決戦するために反転した。彼は探したが、見付けられないうちに空母機の攻撃を受けた。今度は南から急いでハルゼー隊に復帰したマッケーンのTG38・1だった。
疲労し、戦意を失った栗田は各艦の燃料が少なくなったこともあって、ついに任務を放棄して,サンベルナルジノ海峡に引き揚げた。彼は後に「ハルゼー隊が北上していた事は知らなかった。私は自分の目で知った情勢の中で動いたのであって、もう少しで勝利を手に出来たという事は分からなかった」と語っている。
John Prados
「Combined
Fleet Decoded」
レイテ戦については多くの議論があるが、最もシャープな議論は多分栗田の決定についてである。彼の追撃中止、集まれの命令は今にも作戦が成功するという時に出た。決定の一因は執拗(しつよう)な米機の攻撃だったと思われる。
今や、どの機も大型艦攻撃用の武器を積んでいた。鳥海、筑摩は航空魚雷を受け、鳥海は味方の魚雷で、筑摩は,さらに米機の攻撃を受けて沈没した。栗田はそれまでも多くを失い、この朝も熊野と鈴谷が落伍した。
艦型識別の失敗も影響した。空母撃沈の報告は入ってくるが、航空攻撃は寧ろ激しさを増している。追いかけても距離が詰まらないから敵は30ノットを出しているのではないか、長門は24ノットしか出せないからとても追いつかない・・・。
小柳参謀長は、「敵艦のタイプ、数、速力が分かっていたら追撃を止めることなく殲滅(せんめつ)出来たであろう。こうした重要な情報が分からなかったので敵に逃げられたのである」と書いている。
栗田は戦後、「1時間もすると大編隊が来襲するのではないかと思ったので集まれを命じた」と述べている。 彼は制形後レイテに向かう積もりだったが、レイテに向かいながら制形すれば容易に出来たのに、北に向かいながらやったため、10戦隊や金剛は集まるのに時間がかかった。
レイテに突入するのを止めた理由について作戦参謀の大谷中佐は、「既に可なりの戦果を挙げたこと。レイテ突入は大幅に遅れていること。敵は我々のレイテ突入を予想して、艦上機をタクロバンに集中し、水上部隊も迎撃準備を完成しているであろうこと。一方我々はレイテ湾の実情が不明であること。西村艦隊に起きたことからして、我々が敵のワナにまることは、あり得ないことではないと思われること。依って取るべき賢明な道は敵の意表を衝き、0945にスルアン灯台の北、やや東よりで距離113マイルに発見された敵機動部隊を攻撃することであると考えた。反転北上してこの敵を探す方がベターと思ったのである」と述べている。
Kenneth
Friedman
「Afternoon
of the Rising Sun The Battle of Leyte-Gulf」
栗田は東京の幕僚達よりは優れた戦略家だった。計画には基本的欠陥があった。航空機と訓練された搭乗員がないことから、日本はガダルカナル以来勝てていない。出来ることは敗北の日を延ばすことである。このことが栗田の決定に無意識に働いたという事が大いにありうる。
・・・栗田は自分の艦隊だけが日本に向かって進撃してくる米軍と対抗出来ることを知っていた。失えば本土は侵攻に対して無防備になる、せめてこれ以上自分の部隊に損害を出さないようしなければならない・・・。そう思ったのではないか。
彼が疲労しすぎて戦いを続けられなくなったのかどうか、我々が知ることはない。彼が何かを恐れたのか、なぜ戦意を喪失したのかは謎である。
彼を臆(おく)病者と呼ぶ者がおり、より寛大な見方をする者もいる。いずれにせよ彼は、レイテ進撃は取り止めるべきであるという小柳参謀長の進言を容れた。
四 フィリッピン沖海戦の総括
米側の呼称によるが、レイテ湾の戦いはシプヤン海の戦い(栗田艦隊)、スリガオ海峡の戦い(西村、志摩艦隊)、サマール沖の戦い(栗田艦隊)、エンガノ岬沖の戦い(小沢艦隊)の総称であり、1944年10月24日と25日に生起したが、日本海軍は23日と26日にも損害を出したので23日から26日までを概観する。
豊田連合艦隊長官は20日の0813番電をもって作戦要領を令した。栗田艦隊(第1遊撃部隊)と小沢艦隊(機動部隊本隊)についての部分を示す。
(1)、(2)状況説明なので省略する
(3)第1遊撃部隊ハ25日黎(れい)明時タクロバン方面ニ突入 先ヅ所在敵海上兵力ヲ撃滅 次デ敵攻略部隊ヲ殲滅(せんめつ)スベシ
(4)機動部隊本隊ハ第1遊撃部隊ノ突入ニ策応 ルソン海峡東方海面ニ機宜行動シ 敵ヲ北方ニ牽(けん)制スルト共ニ好機敵ヲ攻撃撃滅スベシ
(一)愛宕、摩耶の沈没
10月21日に栗田艦隊がブルネイを発してレイテに向かった時の兵力は戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15であった。23日朝パラワン水道において米潜の攻撃を受けた。ダーターは雷撃で愛宕を撃沈、高雄を中破させた。次いでデースが摩耶を撃沈した。長官は大和に移った。高雄は朝霜が護衛してブルネイに向かった。損失は重巡2。これで栗田艦隊は重巡3、駆逐艦1が減となった。戦果なし。
(二)シブヤン海の戦い
栗田艦隊は24日午前、午後、フィリッピン東方にあったハルゼー艦隊のうちの二つの高速空母群(TG38・2とTG38・3。正規空母3と軽空母4)からの延べ261機の攻撃を受けた。武蔵は沈没、妙高は中破し長波に護衛されてブルネイに向かった。清霜と浜風は武蔵の生存者を収容してマニラに向かった。損失は戦艦1。これで栗田艦隊はさらに戦艦1、重巡1、駆逐艦4が減となった。戦果は撃墜18機(米側の数字)だった。
基地航空部隊の援護は受けられなかった。この日、航空部隊は敵機動部隊攻撃に190機を繰り出したが、うち132機は戦闘機だった(ゼロ戦111、紫電21)。
豊田連合艦隊長官は書いている。
「24日にシブヤン海で栗田の第2艦隊が非常な被害を受けたのは、やはり航空兵力の援護が足りなかったからだ。・・・空中援護は・・・第1、第2航空艦隊からやるということになっておったのだが、その根本はやはり・・・基地航空部隊と水上部隊との協同に関する兵術思想の統一と実際の訓練とに欠陥があったことが揚げられると思う。・・・
基地航空部隊と艦隊との協同ということについては、私が連合艦隊作戦の全期間を通じてどうも物足らんという感じが非常にあった。もともとこの作戦は栗田隊を枢軸として各部隊が協同作戦を・・・」
まるで他人事のような書き方である。「戦闘機を出してくれ、出せない」の「協同」ではうまくいく筈がない。なぜ連合艦隊長官が作戦の枢軸である栗田艦隊のために、戦闘機を極力出せと基地航空部隊指揮官に命じなかったのか。基地航空部隊自体の作戦には戦闘機を132機も出しているのである。
(三)24日の基地航空部隊の攻撃
第1次攻撃隊(前記の190機)は敵戦闘機に迎撃され戦果なし。第2次攻撃隊の彗星艦爆12機はTG38・3を攻撃、1機が軽空母プリンストンを撃沈。第3次攻撃隊47機(九九艦爆25、ゼロ戦22)は戦果なし。
(四)スリガオ海峡の戦い
西村艦隊(戦艦2、重巡1、駆逐艦4)が24日夕接近したので、キンケードに迎撃を命じられたオルテンドルフ少将は、スリガオ海峡とその前方に戦艦6、重巡2、軽巡4、駆逐艦28、魚雷艇39を配置した。
25日の早い時間の水上戦闘により、山城、扶桑、山雲、満潮が沈没。損傷して微速力で航行中の朝雲は米軽巡2、駆逐艦3に捕捉されて0721に沈没。微速力で避退中の最上は7時過ぎから9時過ぎまで航空攻撃を受けて停止。味方駆逐艦の魚雷で1307に沈んだ。時雨のみ脱出した。損失は戦艦2、重巡1、駆逐艦3。戦果なし。
やや遅れてスリガオ海峡入り口に来た志摩艦隊(重巡2、軽巡1、駆逐艦4)は敵らしき目標に魚雷を発射した後に避退した。阿武隈は魚雷を受けて離脱を図ったが、26日午前Bー24 21機に攻撃されて1242に沈没した。損失は軽巡1。戦果なし。
(五)サマール沖の戦い
栗田艦隊(戦艦4、重巡6、軽巡2、駆逐艦11)は25日朝レイテに向け進撃中だったが、キンケードがレイテ東方に配備した三つの護衛空母群のうち最も北にあったタフィ3(護衛空母6、駆逐艦3、護衛駆逐艦4)と遭遇して追撃した。
タフィ3は艦上機と護衛の駆逐艦クラスをもって反撃した。 後にタフィ2の艦上機も栗田艦隊を攻撃した。被害は航空攻撃により鈴谷、鳥海、筑摩が沈没。野分(筑摩の警戒を命じられた)は夜南下してきたハルゼー艦隊に捕捉されて沈没。損失は重巡3、駆逐艦1。戦果は撃沈護衛空母1、駆逐艦2、護衛駆逐艦1、撃墜機数不明。
(六)エンガノ岬沖の戦い
小沢艦隊(正規空母1、軽空母3、戦艦2、軽巡3、駆逐艦8)は、24日正午前に56機を発進させたが、16機を失った。戦果なし。
ハルゼーは24日午後小沢艦隊を発見、三つの高速空母群(正規空母5、軽空母5)を率いて北上、25日午前、午後、延べ527機(使用431機)をもって攻撃を加えた。
午前、千歳と秋月が沈没。小沢長官は損傷した瑞鶴から大淀に移乗した。
午後、瑞鶴、瑞鳳が沈没。損傷した千代田は夕方ジュポース少将指揮の軽巡4、駆逐艦9の水上部隊に捕捉され沈没。初月も夜になって同部隊に捕捉されて沈没。損傷した多摩は夜潜水艦ジャラオに雷撃されて沈没。損失は正規空母1、軽空母3、軽巡1、駆逐艦2。撃墜機数不明。
(七)25日の基地航空部隊の攻撃
第1次攻撃隊104機(ゼロ戦75、九九艦爆24、彗星5)。戦果なし。
神風攻撃隊の菊水隊、朝日隊(攻撃4、援護2)はタフィ1の護衛空母サンティとスワニーに損傷。敷島隊9機(攻撃5、援護4)はタフィ3の護衛空母セントローを撃沈。大和隊(攻撃2、援護2)はタフィ3の護衛空母カリニンベイに損傷。
(八)26日の海上部隊
栗田艦隊は25日夜サンベルナルジノ海峡を通過してブルネイに向かったが、艦上機とBー24の攻撃を受け、能代は26日1123に沈没した。損失は軽巡1。撃墜機数不明。
第16戦隊の鬼怒、浦波はレイテのオルモツクへの陸兵輸送を終え、マニラに向かう途中、26日昼前からタフィ1の52機の攻撃を受け、いずれも午後に沈没した。損失は軽巡1、駆逐艦1。撃墜機数不明。
(九)終わりに
以上を纏めてみる。被害極めて大、戦果極めて小であることに暗然とさせられる。
参加部隊別の損失
月日 | 部隊 | 損失 | 撃沈 | 部隊 | 損失 | 撃沈 |
10.23 | 栗田艦隊 | 重巡2 | なし | ー | ー | ー |
10.24 | 栗田艦隊 | 戦艦1 | なし | 基地航空部隊 | ー | 軽空母1 |
10.25 | 西村艦隊 | 戦艦2、重巡2、駆逐艦3 | なし | 志摩艦隊 | 軽巡1 | なし |
10,25 | 栗田艦隊 | 重巡3、駆逐艦1 | 護衛空母1、駆逐艦3 | 小沢艦隊 | 空母1、軽空母1、軽巡1、駆逐艦2 | なし |
10.25 | ー | ー | ー | 基地航空部隊 | ー | 軽空母1 |
10.26 | 栗田艦隊 | 軽巡1 | なし | 16戦隊 | 軽巡1、駆逐艦1 | なし |
日米参加(損失)兵力の比較
国 | 空母 | 小型空母 | 艦上機 | 戦艦 | 重巡 | 軽巡 | 駆逐艦クラス |
米 | 8 | 24(3) | 1712 | 12 | 24 | ー | 141(3) |
日 | 1(1) | 3(3) | 104 | 9(3) | 13(6) | 7(4) | 32(7) |
注 小型空母は軽空母と護衛空母、 駆逐艦クラスは駆逐艦と護衛駆逐艦 |
fの問題だが、栗田艦隊がレイテに突人していたら、どうなったかという興味あるテーマがある(レイテ湾の全艦船は、栗田艦隊反転の報に一斉に汽笛を鳴らして歓喜したという)。アメリカ側に大きな損害が出てレイテ作戦に多大の支障が出ただろうというのがアメリカ側の見方としては主流になっているが、果たしてどうだろうか。いずれにせよ大和以下全滅したに違いない。
一般に日本では小沢長官の評価は極めて高く、栗田長官の評価は極めて低い。栗田長官は開戦以来積極性に欠けていると見られてきた。例えば半藤氏は『帝国海軍の栄光と挫折』の中で書いている。
「そしてその栗田中将の消極さを、過去においてたっぷり味わわされていたのが、あ号作戦における小沢治三郎中将であった。航空戦に敗れた小沢中将が、最後の手段として第2艦隊に命じた夜戦に対し、栗田部隊は極めて消極的であったのである。
後に小沢中将は痛烈極まる皮肉を放ったという。『もし自分が連合艦隊司令長官として現場に来ていたのであったとすれば、20日夜、全部隊を率いて徹底的に夜戦をやったであろう』」
この小沢中将の発言は極めて疑わしい。6月20日の薄暮時には甲部隊(小沢長官は羽黒)、乙部隊、丙部隊(栗田長官は愛宕)とも同一海域にいた。つまり小沢長官は「現場」にいたのであるから、その積もりになれば「全軍を率いて」ミッチャーの部隊に向かえたのである。
ミッチャーの機動部隊(スプルアンスの第5艦隊所属TF58)の226機は、6月20日の薄暮時(1830ころから1900すぎまで)3群に分かれていた小沢艦隊を攻撃した。
この時のミッチャー部隊との距離は250ないし300マイルだった。敵が同じ場所にいたとして25ノットで到達は0500から0700の間になる。夜戦は出来ず、確実に892機(空母15隻)の餌食(えじき)になっただろう。そもそもアメリカの空母が日本の戦艦の射程内に入る筈がなかった(ミッチャーは新型の戦艦7隻も持っていた)。
奥宮中佐(当時乙部隊航空参謀)は、「小沢中将は、このような状況下では第2艦隊による夜戦の成功も期待できなくなったと判断して2000栗田中将に対して、「夜戦ノ見込ミナケレバ速ヤカニ西方ニ避退セヨ」と命じた。(『日本はいかに敗れたか』)と述べている。<br>
なお豊田長官はこれより先の1945、「機動部隊ハ当面ノ情況ニ応ジ機宜敵ヨリ離脱、指揮官所定ニヨリ行動セヨ」を令していた。(2046受信)
ミッドウェーでも山本長官は南雲、近藤の両長官に夜戦を命じたが、間もなく断念した。宇垣連合艦隊参謀長は南雲長官の消極性を批判(戦藻録)しているが、米空母は当然、夜の間東進して距離を開いたのであり、水上部隊がいくら急いでも会敵は不可能だったのである。
小沢オトリ艦隊に戻るが、連合艦塚司令部はもともと空母4隻を捨てるつもりだったのか。宇垣一戦隊司令官は、「一方機動部隊本隊は・・・これまた絶対惨敗を喫せり。牽制にしては猛進に過ぐ。100機くらいの飛行機にては強気に出すべからず・・・。一体如何したものならんと怪しまる」(戦藻録)と手厳しいコメントを書いている。
奥宮中佐(当時軍令部)は、「端的に言えば、小沢部隊の作戦は、労のみ多くて全くといってよいほど、効果のない結果に終わってしまった。別の見方をすれば、それは、米機勤部隊の飛行機隊の搭乗員たちに、好餌(じ)を与えたに過ぎなかった」(『日本はいかに敗れたか』〕と批判している。
これは些か酷に過ぎるだろう。小沢艦隊がいなければハルゼーは北上しないから、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を出た処で発見されてハルゼー艦隊と交戦し、僅かな戦果と引き換えに全滅した可能性が高い。
駆逐艦1隻を残して全滅した西村艦隊は司令官戦死のためか批判は殆んど目にしないが、猛進して何らの戦果を挙げる事なく数千の将士と戦艦2隻を含む6隻を失った事は批判の対象としていいような気がする。明るくなってからオルデンドルフ隊と交戦していたら、多少の損害は与えられたではないか。
(終わり)
(なにわ会ニュース92号27頁 平成17年3月掲載)