平成22年4月15日 校正すみ
重巡熊野の最後
連合艦隊最後の決戦場 レイテ沖海戦回顧録
左近允尚敏
巡洋艦 熊野 |
1 艦首を失う
栗田健男中将が率いる遊撃部隊主力は、昭和19年10月22日の午前8時、ブルネイを出撃した。第1(第2)部隊に分かれ、戦艦3(2)、重巡6(4)、軽巡1(1)、駆逐艦9(6)から成っている。
予定航路はパラワン島西岸沿いに北上、ブサンカ島北端を東に折れ、ミンドロ島南岸を東に進んで、シブヤン海を通過、サンベルナルジノ海峡を突破ののち、サマール島に沿って南下、タクロバンに至る。
翌23日午前6時30分、パラワン沖で、米潜水艦の雷撃を受け、旗艦「愛宕」に4本、「高雄」に2本命中した。6時53分、「愛宕」は沈没、6時57分、「摩耶」も魚雷4本を受け8分後に沈没。「愛宕」「摩耶」の乗員は「朝霜」「岸波」に救助され、午後4時前後にそれぞれ「大和」「武蔵」に移乗し、「大和」に栗田長官の将旗が上がった。中破した「高雄」は、「朝霜」護衛のもとにブルネイ回航を命ぜられた。
24日朝、艦隊はタブラス海峡をへてシブヤン海に入り、第1部隊は「大和」「武蔵」を、「熊野」(7戦隊旗艦)が所属する第2部隊は「金剛」「榛名」を中心に輪型陣を制形した。午後8時ごろ、B241機、次いでグラマンF4F2機を発見。10時過ぎからF6F、SB2C、TBF混成の艦上機群が来襲、午後3時30分ごろまで対空戦闘が続いた。第1波40数機、第2波約30機、第3波約50機、第4波約30機、第5波100余機であり、延べ250機以上を数えた。
「熊野」には第3波の5機が来襲、爆弾1発が4番砲塔に命中したが不発で、測距儀を貫いて舷外に落ちた。さらに第5波のSB2C2機が爆撃したが被害なし。この時左隣にあった「清霜」の中部に1発命中、火柱が上がった。「妙高」は第1波来襲時、魚雷1本を受け、ブルネイ回航を命ぜられた。
「武蔵」は「大和」とともに多数の米機の目標となり、第3波が去るころには艦首が半分ほど沈下したものの、なお高速で航行していたが、第5波が終わるころには、艦首が水面すれすれまで沈み、ついに停止するに至った。
第5波が去った午後3時30分ごろ、艦隊はレイテに向う針路と反対の西北西に航路をとった。日没までにはかなり時間があり、なお多数の米機の来襲が予想されたが来ない。午後4時40分ごろ、第2部隊に対し、タブラス海峡に向かえとの信号が出され、レイテ突入は中止かと思われたが、制形もまだ終わらない午後5時14分に再び東進が下令され、艦隊はサンベルナルジノに向かった。
サンベルナルジノ海峡を通過したのは、24日の真夜中すぎで、当初の計画から約5時間遅れていた。
いよいよ敵中である。これまでは、航空機と潜水艦だけが相手であったが、今や、いつ水上部隊と遭遇するか分からない。
艦隊は厳重な燈火管制のもとに、サマール島東岸に沿って南進、レイテ島タクロバンを目指して漆黒(しっこく)の海を進む。緑色信号灯の小さなあかりが点滅して、機関待機や陣形の変換を伝える。2重の厚い黒のカーテンをくぐって海図台の前に立った私は、そこで1通の電報を読んだ。
『「武蔵』沈没・・・」
群がる米機と戦っている「武蔵」の姿が、そして最後に見た、うつむいてじっとしている「武蔵」の姿が目の前に浮かんだ。
昼の疲れがどっと出たような感じがした。少し眠らなければならない。当直員以外は誰もが戦闘配置についたまま仮眠を取っている。私は暗闇の中でようやく旗甲板のすみに隙間を探し当て、ごわごわした旗の中に首を入れて一眠りした。
敵影を見ることなく10月25日の朝になった。曇り、ところどころスコールがある。艦隊の針路170度速力20ノット、7戦隊は左前方を進撃、「熊野」はその先頭にある。午前6時40分ごろ、「熊野」は哨戒中らしいSB2Cを発見、これに対して主砲、高角砲を打ち上げた。2機が姿を消して間もなく「鳥海」から電話。
「敵水上部隊見ゆ、真方位110度」
同時に天蓋の見張員から
「マスト数本・・・」
がぜん艦橋は色めきたった。次いで艦橋の左2番見張員が目標を捕らえる。私はすぐ代わって大型眼鏡についた。灰色の水平線上にマストがずらりとならび、濛(もう)気にゆれて見える。空母や巡洋艦らしきものも見える。まさしく敵艦隊、距離はまだ3万メートル以上はあろう。
艦隊旗艦「大和」につぎつぎと信号が上がる。白石萬隆7戦隊司令官は、「砲雷同時戦用意、130度方向へ回頭、32ノットに増速」など、つぎつぎに下令した。
史上空前にして、おそらく絶後となるであろう水上部隊対空母部隊の水上戦闘の幕は切って落とされた。敵空母は少なくとも3隻、「熊野」は艦隊の先頭に立ってこれに肉薄する。巻き起こる強風、艦尾がひく航跡は白く長い。左後方に「鈴谷」「筑摩」「利根」と、轡(くつわ)をならべて驀(ばく)進する。
突如、遠雷のごとき響き。振り返ると、右後方の「大和」が主砲射撃を開始したのであった。時刻は6時59分。射撃距離3万2千メートル。7戦隊は有効射距離2万メートルまで間合いを詰めるべくまだ放たない。
「『大和』の弾着、空母に命中!」
見張員がかん高い声で報告する。
敵空母部隊(護衛空母6、駆逐艦3、護衛駆逐艦4だった。戦後判明)は煙幕を展張し、避退しつつ急ぎ艦上機を発艦させている。以後、わが艦隊は対空戦闘、水上戦闘を同時にやらなければならないことになった。
7時3分、突撃が下令され、最大戦速(35ノット)に増速。敵針は東北東、7戦隊はその退路を断つべく、やや北よりに針路をとった。ようやく1万8千メートルまで接近した「熊野」は午前7時10分に20センチ主砲の火ぶたを切った。だが、この間にも、2機、3機と米艦上機は執拗(よう)に攻撃を加えてくる。「艦尾急降下!」と見張員が叫ぶ。8門の12.7センチ高角砲と56門の25ミリ機銃が応戦し、主砲は空母をねらう。回避運動が主砲の照準を著しく困難にしているようだ。急速発艦したためであろう、敵機で爆弾を積んでいるものは少なく、ほとんどが機銃弾の雨だけを注いでいく。
追撃急、空はいぜん曇っている。「熊野」の主砲が数斉射を浴びせ、ようやく目標を捕捉しようとするころ、1隻の敵駆逐艦が飛び出してきた。煙幕を張りながら接近し、7戦隊の右舷を反航しようとする。その前部と後部の砲塔は連続して閃光を放つ。強力な探照灯が点滅しているように見える。「熊野」と後続の「鈴谷」の中間につぎつぎと火柱が上がる。着色弾らしく、赤、青、黄のきれいで小さな水柱だ。「熊野」は主砲を右に旋回して、敵駆逐艦に向けた。電測距離1万・・・9千7百・・・。
またしても、SB2C3機が来襲、急降下に入ったので「熊野」は転舵した。艦橋の前に赤い火の雨が降る。機銃弾が船体に当たる、あられがトタン屋根を叩くような音が遠く近く響く。次いで、ダイブから引き起こした敵機のキューンという爆音。1回転した「熊野」
「両舷前進原速・・・両舷停止」
天蓋から航海長山県少佐の落ちついた声。
ゆっくりと「熊野」の行きあしが落ちていく。あとから分かったことだが、水線下2.3メートルのところに命中した魚雷は、艦首約13メートルを吹き飛ばしていた。上甲板の鉄板だけが残って垂れ下がり、以後波よけの役をはたすことになった。
魚雷は反航した敵駆逐艦が放ったものに違いないが、対空戦闘に気をとられて発見が遅れた。雷撃されることには思いが及ばなかったために、前もって雷跡をよく見張るよう指示した者は誰もいなかった。
爆撃回避のため1回転したところに命中したのであるから、敵の発射が巧妙であったわけではない。運悪く当たるように運動したことになる。「熊野」は近くのスコールに向って、惰力でゆっくり進む。
白石司令官は「熊野」が戦列から落語したとみるや、旗艦を変更することに決めた。
「『筑摩』を呼べ!」
だが、どこにいるか分からない。戦場は混沌(とん)としている。敵機の来襲と、わが各隊の速力差からか、どうやらばらばらになって追撃しているらしい。どこに何戦隊がいるのか、スコールもあっていっこうに分からない。やや離れていた「鈴谷」に「近寄れ」の信号が送られ、「鈴谷」は速力を落として近づいてきた。弾片でもかすめたのか、左のこめかみから少し血を流している先任参謀西川亨大佐が信号員に指示する。
「旗艦を『鈴谷』に変更する」
艦橋左舷の発光信号灯がカシャカシャと軽い音をたてる。続いて「鈴谷」から返信が来た。「われ至近弾のため出しうる最大速力20ノット・・・」
「鈴谷」も被害を受けている。しかし、見たところはどうもない。
かくして、敵中の洋上というきわめて困難な状況のもとで、白石司令官、西川先任参謀、砲術参謀貞閑勝見少佐、機関参謀入谷清明少佐、通信参謀梅津修少佐、司令部付飛行長武田春雄少佐以下5名をカッターで「鈴谷」に送ることになった。カッターは戦闘準備の際、厳重に甲板に繋止されている。「特別短艇員集合」が令されたが、なかなかはかどらない。
敵艦上機が数機ずつ現れては、ほとんど漂泊している両艦を攻撃する。このころには敵機はどれもが爆弾を積んでいた。対空戦闘が断続的に続く。
ようやく用意ができた。白石司令官は艦長人見大佐に2言、3言、今後の措置を指示した後、私たちの敬礼に答礼して階段を降りた。ザーッと水しぶきを上げてカッターが水面に下ろされた。波はないがうねりが高い。一刻の猶予も禁物である。やがて、甲板士官大場少尉の指揮する12名の艇員は掛け声も勇ましく全力でこぎ始めた。「鈴谷」は左前方5、6百メートルにある。やがて、カッターは「鈴谷」の艦尾に着いた。索(なわ)はしごからまず白石司令官が上がったらしく、「鈴谷」の後部マストに中将旗が揚がる。同時に「熊野」が下ろす。時刻は8時30分。被雷してから1時間以上が経過している。
またもや、SB2Cが数機来襲した。「鈴谷」は高角砲、機銃を打ち上げながら行進を起こし、友軍の後を追った。「熊野」はただ1隻、戦場に取り残されたのである。
[米側の記録]
「熊野」を雷撃した米駆逐艦はジョンストン(フレッチャー型21〇〇トン)であった。会敵と同時に日本艦隊に向かい、午前7時10分、距離1万8千ヤードで射撃開始(「熊野」を目標に200発以上)、午前7時20分全魚雷(10本)を発射した。午前7時30分ごろ、わが戦艦の16インチ弾、軽巡の6インチ弾各3発が命中して、17ノットに落ち、午前9時前後から「矢矧」、駆逐艦数隻と交戦し、多数の命中弾を浴びて午前10時10分に沈没した。このほかに護衛空母、駆逐艦、護衛駆逐艦各1が撃沈されている。
2 再度誤爆される
カッターが帰艦して揚収された。司令部付の最後の1人は索(なわ)はしごに手をかけようとしたとたんに「鈴谷」が動き出したため、乗れずにまた「熊野」に戻ってきた。
「両舷前進原速・・・両舷前進強速」
退艦の際の白石司令官の指示に従い、「熊野」は単艦で前夜通過したサンベルナルジノ海峡に向かうことになった。
「航海士、針路はどうか」
伝声管から聞こえた山県航海長の声に私は慌てた。会敵以後のコースは複雑で艦位がはっきりしない。・・・ままよ、西に進んでサマール島に近づき、そこから北上すればよかろう。
「航海長、33〇度にお願いします」
間もなく1戦速が下令された。普通なら20ノットが出る回転数である。やがてサマール島が見えてきた。空はこのころから憎らしいほど晴れ上がった。水上戦闘の戦場ははるか東に移動したと見え、艦艇は1隻も視界内にいないが、ときおり遠方に敵味方不明機の編隊を視認する。
「熊野」は徐々に針路を北にひねった。陸測艦位を入れて計算すると14ノット程度出ている。この調子なら、日没後間もなく海峡に達することができよう。
艦橋から見下ろすと、変形した艦首から両側に流れる波はがっかりするくらい大きく、艦尾波とともにはるか後方まで続いている。これではかなり遠くても上空からは容易に視認できるにちがいない。
単艦になると気分が違う。警戒も戦闘もすべて自力である。1人ぽっちの淋(さび)しさはあるが、司令部が「鈴谷」に移乗したため艦橋はずいぶんと広くなり、のびのびとした気持ちになる。
そのとき左1番見張員が、ゆっくりと回していた大型眼鏡を艦首方向にぴたりと止めて報告した。
「戦艦らしきマスト」
見張士の三宅兵曹長が代わって眼鏡につく。
「戦艦らしい、駆逐艦もいる。」
味方がいるはずはない。敵艦隊だ。
「戦闘」
人見艦長は凛(りん)然と下令した。警急ブザーに続いてラッパが艦内に鳴り響く。ところが間もなく・・・・それは岩であることが分かった。疑心暗鬼から枯尾花を幽霊と見てしまったわけではない。それは、どう見ても戦艦の前檣(ぜんしょう)に似ていた。
「なに、魚雷は完全だし、1合戦やれるぞ。」
人見艦長はこう言って破顔一笑した。
何時ごろであったか、まだ正午前であったろう。上空見張員から報告が入った。
「零式水偵3機、左百50度250、近づく!」機影が大きくなった。零水らしい。
「日の丸が見える」
誰もが安心しきって思い思いの方向に目をやっていた。そのとき、ダダーンという大きな音にはっとして見ると、中部左舷から数十メートルの海面に水柱が上がり、続いて艦橋前方を爆音高らかに上昇していく水上機が目に入った。艦尾方向から降下爆撃したのだ。
「日の丸はつけているが、零水ではない。」 と見張員が報告した。
「撃ち方始め」
間髪を入れず、人見艦長が下令した。爆撃した2機は左前方数千メートルを左に旋回している。その横からの機影が私の記憶を呼び起こした。
「艦長、瑞雲という水爆のようですが・・・・」 と私は言った。
「かまわん、撃て」
前部の機銃が火をふき、高角砲も1、2斉射撃ち上げたが、2機はたちまち遠ざかってしまった。瑞雲は新しい水上爆撃機で、零水によく似ているが、エンジンと尾部に相違点がある。間もなく見張長の東兵曹長が識別資料を持ってきて、「いまのは、瑞雲のようでした」と報告した。私は1年前に横須賀航空隊で見ていたが、他の乗員には初めてであったのである。
ともかく、けしからんと話し合ったのであるが、ものの1時間もたたぬうちにまた同じようなことが起こったのだから、実に奇怪至極な話であった。今度は爆装した天山艦攻1機で、気づかぬうちに投弾され、お義理にも至近弾とは言えないほど離れて弾着した。
ただただ唖然(あぜん)とならざるを得ない。なるほどわが重巡特有の形をした艦首は欠けているが、ちょっと注意すれば最上型であるくらい分かりそうなものだ。陸軍機ならまだしも海軍機である。当たらなかったから良かったが、はじめの瑞雲が落とした爆弾のかなり大きな断片が、1つ後甲板に飛び込んでいた。もし命中していたらと思うとぞっとする。味方がいるはずがない所なら敵と思っても仕方がないが、この日、遊撃部隊がこの海面に出ていることを航空部隊はよく知っているはずである。
艦艇が航空機を識別することは、その逆の場合よりはるかに難しい。相手が小さいし、艦上機はほとんどが単葉の低翼か中翼である。とりわけ正面からだとよほど接近してもお手上げになる。
6月のマリアナ沖海戦では、本隊を発進して敵機動部隊攻撃に向かう100余機の大編隊が前衛部隊の直上に飛来し、味方識別のバンクをしなかったため、「熊野」を含めほとんどの艦が対空砲火を撃ち上げた事例がある。
単艦になってから数時間が経過したが、この間に敵機の来襲はなかった。むしろ味方機に気をつけてもらわなければ、ということになって1番砲塔の上に大きな日の丸の旗が展張された。人見艦長は午後1時40分、次の電報を発信した。
「ワレ2回ニワタリ味方機(瑞雲、天山)ノ爆撃ヲ受ク 異常ナシ 1400ノ位置サンベルナルジノ灯台ノ90度45マイル 針路西 速力15ノット」
午後3時30分前後であったか、サマール島の北側を西航中、味方機の編隊が飛来した。零戦、99艦爆の計39機が整然と東に向う。これだけの味方機は初めてだった。それまでは10機以上だったら敵と思えばまず間違いなく、事実そのあともこれだけの編隊を見ることはなかったのである。
さすがに頼もしく嬉しかった。私たちは帽子を打ち振って、これから敵機動部隊を強襲するであろう搭乗員たちを見送り、心から成功を祈った。
予定より早く、「熊野」は日没の1時間ほど前にサンベルナルジノ海峡に入った。これから前日の逆コースをたどり、比島中部を西進してコロン湾に向う。
速やかに米機の行動圏を脱してどこかで修理し、戦闘力を回復しなければならない。日の暮れるのが待たれた。夜になれば空襲の恐れはまずないからだ。
海峡の最狭部を通過して間もない午後5時過ぎ、にわかに艦橋の付近がざわめいた。見上げると小型機4機だ。近い。
「航海士、敵か味方か。」
人見艦長に言われて私は大型の眼鏡に飛びついた。黒い胴体に明瞭な星のマーク、角ばった尾翼と魚雷倉のふくらみ・・・。
「敵です。TBF、間違いなし」
「対空戦闘」
あたかもラッパを合図にしたかのように、つぎつぎと敵機が現れた。TBF約20機、SB2C10数機、計30数機である。やっかいな相手だ。1番砲塔の国旗が急いで引っ込められた。増速が令されて航跡はますます大きい。編隊は1万数千メートル離れて「熊野」の周囲を旋回する。
対空戦闘準備完了。「熊野」が波を切る音と爆音が交錯するうちに、不気味な時間が刻一刻と経過する。島に囲まれた海面は運動力の大きい「熊野」にとってやや狭く、しかも付近には機雷を敷設したところもあって、そこは避けなければならない。
轟然、主砲と高角砲が火をふいた。編隊の近くに黒い花が点々と音もなく開く。SB2Cの編隊は高度を上げて1列の縦隊を作り、TBFは散開して高度を下げた。「熊野」の機銃も射撃を開始する。
雷爆同時攻撃が開始された。「熊野」の左右につぎつぎと水柱が上がり、機銃弾が雨と注ぎ、4方から魚雷が這(は)い寄る。水柱の飛沫が艦橋を叩(たた)いていく。
一瞬、攻撃がと絶えた時、伝声管から山県航海長の声。
「航海士、機雷堰(せき)はどうか」
回避運動で大きく傾いている艦橋で、足を踏みしめてコンパスをかかえ、急いで島の頂や先端の方位を測ってから海図台に走る。3角定規をあてると黒っぽい海水がくっついてやりにくい。
「280度3000です。陸岸は300まで大丈夫!」
と山県航海長に報告する。攻撃を終えた敵編隊は再び旋回を始めた。もう一度来るらしい。私は見張員に指示した。
「見張員、魚雷と爆弾を持っているかよく見ろよ」
「まだ相当持っています。」
何分かが経過して戦闘が再開された。右上方からSB2Cが突っ込んでくる。13ミリ機銃弾を浴びせ、爆弾を投下するや引き起こして遠ざかる。つづいて1機、また1機。弾着は近くビリビリとこたえる。機銃弾が船体に食い込む音が対空砲火の咆哮(ほうこう)から分離して耳を打つ。
1、2、3、4、5本、異方向から魚雷の航跡が迫る。こうなると、すべてをかわせる回避運動など存在しない。当たるも当たらぬも運ひとつ。右40度方向のが危ない。
「あの魚雷、当たるぞ」測的士の熊川博中尉が思わず叫んだ。私も思った。これは当たるな・・・。
「熊野」は左に回頭している。人見艦長も水雷長河辺忠四郎大尉もこの1本を凝視する。魚雷は艦の中部からはそれ、艦尾に向う。今か。今当たるか・・・。
敵の魚雷は幸いぎりぎりでかわっていった。だが、まだ1本、2本と、TBFの投下した魚雷は黒ずんだ海面に白い尾を引いて疾走して来る。
「零戦3機、右30度!」
と見張員が報告した。遅まきながらありがたい。右の方でTBF1機が撃墜された。目を左舷に転ずると海面すれすれを飛ぶ零戦にTBFが追いすがって機銃を撃ちまくっている。なんだ、逆ではないか。
戦いは終わった。敵機は集結してから姿を消し、零戦も去った。夜のとばりが下りてきた。命中した魚雷、爆弾はなく、至近弾で艦底の1部に浸水したが、航海に支障はない。しかし、機銃掃射による死傷者が各部に出ている。朝の魚雷命中前の対空戦闘のとき、1発は天蓋にあった高射指揮官付葮葉利定少尉の腹部を貫き、足下の甲板、つまり艦橋の天井を抜けて、私の左隣にいた電測士宮地睦雄少尉の臀部から右足を貫いた。宮地少尉は重傷を負い、葮葉少尉は間もなく死亡した。
夜、なんと待ち遠しかったことか。「熊野」は西進を続ける。鉄かぶとも防弾チョッキもぬいで身軽になった私のからだに夜風がまつわり、そして流れていく。
3 漂流2時間
「熊野」はその夜、潜水艦の襲撃を受けることもなく、24日の激戦で「武蔵」が眠るシブヤン海を抜け、明けて10月26日の朝、ミンドロ島南方にさしかかった。
1晩、西航したが、依然米機の行動圏内にある。目指すコロンの島々は前方の水平線にその頂きを見せ、そこには油槽船が待機しているはずだ。「熊野」の燃料はブルネイ直行を許さないまでに減少している。
夜がすっかり明け、強い陽ざしに島々が輝き始めたころ、対空電探が敵機らしきものを探知した。
「150キロ・・・・120キロ・・・・105キロ、だんだん近づく」
機影が見え出した。SB2C2機。左舷の高射砲がまず1斉射を浴びせる。
やがて「熊野」の上空では、またしても敵艦上機の編隊が旋回しつつあった。
F6F、SB2C、TBF計32機だ。昨日と似た状況だが、海面が広いので運動に制約はない。
敵の編隊は悠然と高角砲の射程限度付近を旋回する。間もなく、戦闘隊形に移った敵艦上機群は「熊野」に殺到してきた。爆撃、銃撃、雷撃・・・。「熊野」もまた全火力をもって応戦する。すさまじい音響の中で山県航海長の操舵号令がとぎれとぎれに聞こえる。
「戻ーせえ、取舵いっぱい!」
最後とおぼしいSB2C3機が、左上方から突っ込んできた。1番機投弾、2番機投弾、そして3番機。その瞬間、私の身体は飛び上がった。
爆弾命中・・・。艦橋の上部に張り巡らせた電纜(らん)の幾本かが切れてぶらんと揺れ、マグネットコンパスが転がり落ちた。速力が落ちて航跡が次第に小さくなった、敵機は近く遠く、なお乱舞している。機関科から缶室火災の報告が入る。
「熊野」はほとんど停止した。空襲はと絶え、対空砲火も沈黙した。
「雷撃機! 左50度、突っ込んで来る。」
停止していては避けようがない。艦橋の前下部と左舷中部の機銃が射撃を開始した。低く迫り来るTBFの周囲に、曳痕弾が赤い尾をひいて飛ぶ。魚雷投下、かなり遠い。雷跡ははるか前方を通過した。
敵機は去り戦闘は終わった。私は艦橋からあたりを見回した。爆弾は煙突に命中したらしく、あの大きな煙突の艦首寄りの8割ほどがまるで焼いたスルメのように、しわくちゃな1枚の鉄板と化して、左1番高角砲にからんでいる。
煙突の中で爆発したらしい。付近の高射器、高角測距儀は破壊されるか、あるいは黒焦げになっていて壊滅に近い。マストの側にある対水上電探室もひどくやられている。爆弾が炸裂すると同時に全部の缶室が火をふいて、たちまち航行不能におちいったのだ。
艦橋の左舷から見下ろすと、もう1発が檣楼の付け根あたりで炸裂、航海科倉庫など付近の構造物を吹き飛ばし、3番砲塔の左にある25ミリ3連装機銃についていた指揮官菊谷兵曹長以下を全滅させている。
操舵室の窓を破って飛び込んだ弾片は、操舵長の東本兵曹長を除き、数名の操舵員に重軽傷を負わせた。銃撃による死傷者も多く、その交代に忙しい。
「上空をしっかり見張れ!」
「どんどん弾を運べ」
高角砲の薬莢がガラガラと音を立てながら片付けられ、新しい砲弾が準備される。煙突の跡から湧き出す黒煙が、青空を舞い上がっていく。「熊野」は潮のまにまに漂流する。機関科指揮所からの報告はまちまちだ。
「・・・缶は見込みがある」
「30分ほどで動ける見込み」
「2時間ほどかかる」
「動く見込み全くなし」
「・・・缶を試してみる」
1時のろのろ動き出したが、また止まってしまった。機関科員の懸命な努力が続く。
「庶務主任、機関科に甘い物、冷たい物をどんどん出してやれ」
人見艦長の指示で飲み物や食べ物が送られた。艦橋にもサイダー、乾パン、みかんの缶詰などが上げられ、立食する。死傷者は下に運ばれ、破壊された兵器以外は戦闘準備を完了した。
このころ対空電探がまたしても敵機の反射波をとらえ、間もなく見張員が約40機の敵艦上機を発見した。これだけが航行不能の「熊野」にかかってきたなら、結果はただ1つ、沈没であろう。
「来やせんよ、これだけやられているのにかかってくるようなやつのタマは当たらんさ」と人見艦長は、平然と言い放った。
やはり編隊は近づかない。どうやら別の目標を発見したらしい。大型眼鏡で見ると、水平線のかなたの何かにさかんに急降下している。弾幕がつぎつぎに上がる。
そのとき、B24 1機が現れた。高度約4千、4基のエンジンは重々しい爆音を響かせ、左60度方向から向かってくる。
轟然と前部の主砲が発砲する。艦橋の前が黄色く光った。目標からやや外れ、紫色の弾着がインクをにじませたように青空に描かれる。敵機は直上まで来ないで反転した。いつしか、水平線のかなたの戦闘もやんだらしい。敵の機影は見えない。
24日の対空戦闘に先立って、サンホセ基地に派遣された熊野1号機(零式水偵)が飛来し、傷ついた母艦を守るかのようにゆっくり旋回する。
漂流2時間余り、正午前にようやく1缶だけ修理ができた。艦尾に航跡が現れ、舵が利き始めた。3ノット・・・、4ノット・・・、5ノット・・・。煙突跡から上がる黒煙はすさまじく、低速で追い風のため、艦橋は時おり濃い煙に襲われ、その都度、手ぬぐいで顔を覆って防ぐ。
人見艦長はコロン行きを変更して、パラワン島中部の西岸にあるウルガン湾に向うことにした。針路を南西にとり7ノットで進む。左前方の水平線にマストが見えてきた。フネなら味方である。駆逐艦らしい。もう1隻、妙高型だ。1水戦の「霞」と21戦隊の「足柄」だった。両艦とも24日の夜にスリガオ海峡へ突入した第2遊撃部隊の所属である。救援にきてくれたのだ。
「霞」に座乗する木村昌福1水戦司令官から激励の信号が来て、人見艦長は信号員に返信を命じた。了解の手旗が接近した「霞」の艦橋で振られた。両艦は「熊野」の左右によりそった。「熊野」は再び行き先を変えてコロンに向かい「霞」「足柄」に続いて午後3時すぎにコロン湾の水道を通過した。
島の西岸近くの南寄りに1水戦の駆逐艦数隻が停泊しており、さらに進むと、これも岸よりに1万トンの油槽船日栄丸が停泊、その右舷に第2遊撃部隊の旗艦「那智」が横付けしている。
「熊野」は午後4時30分ごろに、この日栄丸の左舷に横付けした。ここも米機の行動圏内であるが、島の西側は険しい断崖で発見されにくそうであり。急降下爆撃も地形的にやりにくいように見える。日没も近い。対空警戒はおろそかにできないが、ともかく横付けしたのである。私は艦橋を降りて、艦内を歩いてみた。午前の戦闘で被爆した跡も冷え、まだ残されていた測距儀や高射器の中の遺体が運び出されるところだった。毛布に包まれて後部兵員浴室に安置されるのである。
ガンルームをのぞくと、ここにも機銃弾が飛び込んでおり、至近弾と直撃弾の衝撃で陶器の食器類はメチャメチャになっている。従兵長が後始末をしていたので、従兵たちの様子を聞いてみると、たいていのものは元気でいます、という返事だった。
日榮丸の反対舷にいる「那智」の艦橋に、志摩清英5艦隊長官のかっぷくのいい姿が見える。私は信号員に手旗を送らせた。
「発左近允中尉 あて長官 私信
ゴ清武ヲ祝ス」
中尉から中将あてとは無茶なようだが、私信だからよかろう。長官は父の1期上で、2人は親友である。
「健在ヲ祝シ奮闘ヲ祈ル」と返事が来た。
日没が近づく。湾口の方向 ―艦の真正面になる― から1機が低空で突っ込んできた。零戦だ。「那智」の艦橋下の機銃が発砲した。機は爆音を残して直上を通過した。まずい運動をやるものだ。どういうつもりなのか。
このころ、湾口のかなたに2水戦の駆逐艦数隻が見え出した。日が暮れた。太い蛇管を通じて日榮丸から給油が続けられている。
私はさきほど「那智」から1水戦に送られた信号文の中にあった『鬼怒』『浦波』沈没という字句が気になっていた。両艦は16戦隊に所属し、司令官は私の父で、軽巡「鬼怒」に乗っていたはずだからである。
もともと、南西方面艦隊の所属であった16戦隊は、捷号作戦を前にして第1遊撃部隊に編入され、第4部隊となったが、前年に父が志摩司令官と交代して着任したころは、重巡1、軽巡4、1個駆逐隊であった兵力もその後激減して、「青葉」「鬼怒」「浦波」の3隻だけとなっていた。
10月18日、第1、第2、第3部隊とともにリンガを発したが、この日第2遊撃部隊に編入され、陸兵のマニラ輸送のため、第1部隊より1日早い10月21日、ブルネイを発して、まずマニラに向ったところ、23日に「青葉」が米潜の魚雷1本を受けたので将旗を「鬼怒」に移揚したのだった。
すでに栗田長官は「熊野」に対してマニラに回航のうえ、修理に従事すべきことを命じ、「浜風」と「清霜」が護衛艦に指定されている。しかし人見艦長は両艦の到着を待つことなく深夜に出航し、西進して翌朝までに米機の行動圏を脱したのち北上、機をみてマニラに入港しようと決意した。
私は艦橋のすぐ下にある作戦室(戦闘中は使用されない)に入って、ソファーに腰を下ろした。ここにも機銃弾が2、3発駆け巡った跡がある。厚いシェードをかけられた電灯が中央のテーブルに光の輪を投げかけていて、主計長の鳥越大尉と庶務主任の高橋少尉が、分厚い海軍諸令則をその光の中に置き、水葬の規定を調べている。
信号員が入ってきた。
「航海士、『島風』から信号です。砲術長より、航海士 健在ナリヤ、です」
私は艦橋にかけ上り、右舷の発光信号灯に飛びついてキイを握った。「島風は第1部隊の2水戦所属、砲術長は兄である。しめた、兄貴は健在だ。いつの間にか横付けを離した「那智」のあとに夜目にも黒々と見えるのが「島風」らしい。姿は見えないが、私は艦橋をじっと見ながら、「ワレケンザイ」を送った。
燃料搭載は午後8時ごろ終わっていた。私はマニラまでの予定航路、時刻、速力を記入した紙片を日榮丸のオフィサーに届け、「浜風」か「清霜」が横付けしたら渡してもらうよう依頼した、
午後9時30分、「熊野」は横付けを離し行進を起こした。針路を南西ないし南南西にとり、クリオン島東側の小さな島々を縫うようにして進む。横付け中に機関を整備した成果であろう、測定すると約12ノット出ている。
出港後2時間ほどして戦死者の水葬が行われた。55名の遺体が艦尾から順次すべり落とされ、黒々とした深夜の比島の海に沈んでいく。全艦が厳粛な空気に包まれた。私は位置を航泊日誌に記入した。
ようやく広い海面に出て西に変針、ついで北西に転ずる。私は艦橋を降りて作戦室のソファーで横になった。
10月27日の朝になった。起き上がって艦橋に上がると、左前方に「沖波」がついている。「鈴谷」の生存者を救助した艦だ。
午前7時30分ごろ北に変針、どうやら空襲のおそれは少なくなった。時おり2機、3機と味方機を視認する。
午後9時すぎに進路を北東とし、28日の未明、湾口に近づく。このあたりは名だたる米潜の巣である。厳重な対潜警戒を続けながら、バターン半島とコレヒドール島の間を通り、マニラ湾に入ってさらに2時間余りで港内に達したが、主錨を2つとも失っているので錨泊はできない。
援助してくれるよう依頼電を打ってあったが、いっこうに出迎えてくれる気配がないので、キャビテ軍港沖に停泊中の特務艦「隠戸」に横付けした、午前7時20分であった。
ほっとした気持ちが人見艦長以下だれの表情にも表れた。マニラもすでにしばしば空襲を受け、あちこちの水面には沈座した輸送船のマストや煙突が突き出しているが、何といっても1大基地である。100機や200機来ても目標にはこと欠くまい。「熊野」にくるにしてもほんの1部だろう。
街の南側にあるニコルス飛行場では味方機が離着陸を繰り返しているが、飛行場あり、施設あり、艦船も「熊野」だけではない。味方の戦闘機も舞い上がるだろうし、陸上、海上の対空砲火もかなり期待できよう。1隻でノコノコ歩くのとは気分が違う。
この日、まず、前部で2名の遺体の収容が行われた。25日朝の被雷の際、瞬時にして満水した区画で、航行中は収容できなかったのである。遺体は陸上に送られて荼毘に付された。
「熊野」の戦死者は50名を超え、約100名が重軽傷を負っている。死傷者の多くは対空射撃関係員であり、ガンルームも機銃群指揮官の配置にある者の被害が大きい。26日に掘武次郎少尉は胸部に1弾を受け戦死、大場少尉が重傷を負った。吉川、宮地、大場の3少尉を含め、重傷者はこの日、マニラの海軍病院に送られた。
4 マタ31船団
久しぶりで熟睡をとり、10月29日の朝を迎えた。空は今日も晴れている。
「熊野」は横付け中の特務艦「隠戸」から離れようと、機関の準備を進めた。横付けでは片舷の対空砲火が利かないし、攻撃される目標としては大きくなる。港務部の手を借りて浮標に係留しようというのだった。
午前8時少し前であったか、間もなく横付けを離そうというころ、街の上空に小型機の編隊が現われた。
「零戦らしい」と見張員が報告する。
なるほど零戦らしい。ところが・・・先頭機は身をひるがえして急降下に移った。2番機、そして3番機。下はニコルス飛行場だ。黒煙が上がった。零戦ではなかった。グラマンF6Fだ。
「配置につけ、横付け離し方用意」
「横付け関係員以外、対空戦闘」
「横付け離し方」
やつぎばやに号令がかかる。ほかの在泊艦に目をやると、いずれもバタバタと配置につき始めた。警戒警報も出ていない。爆撃が始まる瞬間まで、陸も海も静まりかえっていたのである。しばらくしてから、ようやく陸上の対空砲火が上がり始めた。
「熊野」はやや広い海面に出て応戦することになった。そこへ新たな編隊が現れた。すべてF6Fだ。今度は艦船をねらって上空にやってきた。3日ぶりで主砲、高角砲が発砲した。「熊野」には約十機が襲ってきた。周囲に小型爆弾の水柱が上がる。12ノットでは、実にのろのろと感ずる。やがて1合戦終了、被害なし。
午後になって、さらに空襲があったが、海上には来ない。「熊野」は機を見てキャビテ港内に停泊中の「青葉」「那智」と3角形を作る位置に後部の小錨を入れた。回避運動はできないが、3隻の砲火で協同して撃退しようというのである。
日が傾いてから、SB2C、F6F約40機が出現、そのほぼ半数が3艦に殺到してきた。「青葉」が水柱に隠れる。「那智」の後部マスト付近から火炎と黒煙が吹き上がった。
「熊野」には6機来襲したが、ほとんど被害はない。「青葉」も被害はないようだが、「那智」は火災を生じた。後部マスト下の機銃砲台を直撃したらしい。一時は火勢が強まり、水雷砲台から魚雷を海に投棄していたが、そのうち下火になった。静かな夜が来た。今日の様子ではマニラも危険である。これ以上の被害は「熊野」にとって致命的なものになろう。
戦闘力回復のための修理はマニラでなく、内地でなされなければならない。長途、潜水艦が伏在する海面を低速で航行することはもとより危険であるが、ここでみすみす動けなくなるよりはいい。人見艦長は、マニラを出て高雄に行くことを決意し、機関の準備を命じてから内火艇で上陸、南西方面艦隊司令部に赴いた。そして、護衛艦をつけて欲しいと要望したが、今は1隻の余裕もない、なるべく早く都合をつけるからしばらく待ってくれ、との回答しか得られなかった。深夜に帰艦した人見艦長は出港準備作業の中止を命じた。
翌10月30日、浮標に係留。マニラ在泊は11月5日まで10日近く続いた。「熊野」は29日の苦い経験から、陸上や他艦に頼ることなく、1番に敵機を発見しようという意気込みで対空見張りを強化したが、いちど哨戒中のB24 1機を視認しただけであった。
その間にマニラの第103工作部の手によって煙突の残骸は除去され、機関の整備が続けられた。垂れ下がった艦首甲板の1部も切断されて、応急的な波よけの鉄板が取り付けられた。弾薬、中でも機銃弾は欠乏している。当初、6万発ほど積んでいたと思うが、2、30機と交戦すれば、1万発ぐらいは消耗する。入港後、間もなく「青葉」から1万発譲ってもらったがなお心細い。
その際、「青葉」の乗員に父のことを尋ねると、健在で当地に来ており、16戦隊は解隊されて、近く内地に転任との話であった。大破した「青葉」1隻では解隊も当然である。
11月1日であったが、「島風」が細長いスマートな姿を見せ、「熊野」のとなりに投錨した。ただ1隻、40ノットの高速を誇る駆逐艦である。
兄が手旗で父の安否を問い合わせてきた。私は父が元気であることと、今日マニラから空路帰国するはずであることを返信した。肉眼ではよく見えないので、眼鏡について兄の顔を見、それからたがいに白い戦闘帽を振り合った。
連合艦隊司令長官は10月31日、「熊野」「青葉」に対し、11月4日以降、呉に回航、修理に従事すべき旨を命じた。そして11月3日、「熊野」は「青葉」とともに4日の深更にマニラをたち、「マタ31船団」と同行して高雄に向うこととなった。
この船団は3千トン以下の油槽船3隻と海上トラックと呼ばれる小型貨物船3隻より成り、駆潜艇5隻が護衛する。平均速力は9ノットで、ルソンの西を陸岸ぎりぎりに北上するが、米潜の襲撃を顧慮して。走るのは昼間だけに限り、毎夜、港に入る計画なので、高雄着は1週間後の11日になる。
「熊野」としては、機関科の努力で16ノット以上出せる見込みなので、1、2隻の護衛艦をもらい、一気に沖に出てから北に変針して高雄まで突っ走りたいところである。1日半もあれば着く。しかし、すでに命令は出された。
4日の日没後、「島風」の兄から信号が来た。
「出港時刻知ラセ」
「5日0100」
かすかな青い光が点滅する。
「安全ナル航海ヲ祈ル」
「アリガトウ、衷心ヨリ武運ノ長久ヲ祈ル」
だが、「熊野」の航海は安全ではなくなるのであり、兄の武運も長久ではなくなるのである。誰も数日後の運命を測り知ることはできない。この信号が2人きりの兄弟が交わした最後の挨拶になった。
午前零時過ぎ、艦橋に上がる。午前1時、「熊野」はゆっくりと動き出した。再びバターンとコレヒドールの間を抜けて湾外で船団と合同、北上を始めた。右側、つまり陸寄りに「熊野」「青葉」油槽船2隻、左側に油槽船1隻、海上トラック3隻、さらに外側に駆潜艇4隻と3列縦隊を作り、司令駆潜艇が中央列の前についている。
コースは陸岸ぎりぎりをとる。米潜の雷撃を受けるにしても左からだけとし、警戒の重点も左に置く。座礁したら大変だから、艦位は常に正確に出していなければならない。「熊野」は運動基準艦になっているから、船団の変針信号も出す。航海士はなかなか忙しい。とうとう1睡もせずに夜が明けた。コンパスと海図台を、行きつ戻りつだから、いささかこたえる。こんなことなら出港前、だべらずに少し寝ておくのだったと悔やんだが後の祭りである。どうにも眠くなって、立ったまま居眠りしそうだ。
午前7時40分前後だったか、艦橋から降りて厠(かわや)に入ろうとしたとたんに警急ブザー、続いて対空戦闘のラッパ・・・。私は回れ右をして階段をかけ上がった。
畜生、また、グラマンか。バターン上空に数機があり、どうやらマニラが空襲されているらしい。と、右前方から、もつれるようにして3機が現われた.F6F2機と零戦1機だと見た瞬間、零戦はフラフラと前方の海面に墜落、しばらく逆立ちしていたが沈んでしまった。脱出した搭乗員は、そばを通る「熊野」の艦橋に立ち泳ぎしながら敬礼したが、間もなく駆潜艇に救助された。
その後も、幾度か敵艦上機を視認したが来襲はなく、磁気探知機装備の96中攻や、爆装した2式練習機の対潜警戒をときどき受けた後、日没少し前にサンタクルーズ湾に入港した。
「熊野」は「青葉」に横付けし、造水装置を破壊されている同艦に真水を供給した。同艦には「浦波」で泳いだクラスメイトの堀剣二郎中尉が便乗しており、しばらく歓談することができた。
翌11月6日の午前7時、サンタクルーズを出港、昨日と同じく陸岸沿いにサンフェルナンドに向け8ノットで北上を始めた。間もなくマニラ方面の上空に敵艦上機多数を視認したが飛来しない。
午前9時20分ごろ、突如轟(ごう)音とともに左舷中部から正横約100メートルの海面に巨大な水柱が上がった。敵機か。空を見上げたがそれらしいものは見えない。
続いて、右後方約3千メートルの陸岸にもう1本水柱が上がった。敵潜の襲撃だ。1本は何かの原因で自爆、1本は目標をそれて岸まで走り、そこで爆発したらしい。戦闘配置につき、警戒を強化しつつ進む。時々駆潜艇が潜水艦探知の信号を掲げる。雷撃から半時間ほど経過した午前9時55分ごろ、距離にして5マイルほど来た時、
「潜望鏡! 左60度」
と、艦橋見張員が報告した。
「配置につけ」
「取舵いっぱい」
「潜望鏡潜没、魚雷発射」
と、左前方からクシの歯をひくように、ぴたりと並んで6本の魚雷が迫る。「熊野」は左に回頭を始めた。魚雷が速いか、回頭が速いか・・・。 ようやく魚雷の束の直前で反航の形となった。雷跡は右舷至近を通過していく。赤い頭部が見えるもの、薄い紫色の煙を吐いているもの・・・。
駆潜艇と上空警戒中の零式水偵1機が、敵潜の潜没位置とおぼしきあたりに攻撃を加える。魚雷のうち3本は、陸岸の砂岩を吹き飛ばした。
「熊野」は速力を8ノットに落とし、針路を旧に復した。見張員の報告が30秒遅れていたら恐るべき結果となったに違いない。海上は穏やかで潜望鏡の見張りには幸いしている。
午前十時40分ごろ、「青葉」が潜水艦探知の信号を掲げたのに続いて、
「潜望鏡!左60度、25、近い」
状況は前回と同じで、取り舵一杯、前進一杯が令され、「熊野」は左に回頭し始めた。発見した2番眼鏡が回頭につれて右に回る。
「潜望鏡は」
「まだ出しています」
「棒切れか何かじゃないか」
潜望鏡にしては時間が長すぎるようだが、と私は思って言った。「潜望鏡間違いありません。・・・潜没・・・発射・・・」
この時、左2番眼鏡はほとんど艦首まで回っていた。
今度も6本が密集してやってくる。敵潜の側に転舵して向首したのだからすこぶる近い。しかし、舵を取ってから発射まで時間があったから、前ほど危ない思いはせず、雷跡は右舷をやや外れて疾走し去った。
「熊野」はそのまま敵潜の潜没位置に突っ込んでいく。巡洋艦以上の大艦は雷撃されたら遠ざかるのが常道だが、こう近くては自ら敵潜を攻撃するほかない。
「熊野」は、敵潜の直上と思われる海面を走りながら、爆雷攻撃を加えた。
「発射用意・・・テー・・・テー・・・」
艦尾から連続して投下された8個の爆雷は水中で爆発し、後方の海面をつぎつぎに盛り上がらせる。至近弾のような衝撃を感じる。
1度、2度、衝撃が大きく、水柱が黒ずんで見える。
「ようし、撃沈だ」
河辺水雷長が痛快そうに大きな声で言った。このころ魚雷は、ルソン島に命中して土砂を吹き上げ始めた。1、2、3・・・6本すべてが爆発した。
ようやく1隻し止めたか。しかし、次の瞬間、爆雷などのそれとは異なる衝撃が「熊野」を揺るがせた。艦橋の左前部にあった人見艦長の目が右前部にあった私の目と合った。今のは何だ、と艦長の目が尋ねている。私は左を振り向いた。右舷中部からやや後方寄り、カタバルト付近にすさまじい水柱・・・。
「艦長、右舷中部に魚雷命中です」
と報告し終わったとたん、前にも増した激動が大音響とともに襲って、艦橋はグラグラと揺れた。艦首に魚雷命中。巨大な海水の筒が吹き飛んだ船体の一部とともに、眼前に湧き上がった。時刻は午前十時48分。
「熊野」はぐっと右に傾いた。前部の水柱は鉄片の雨を甲板に降らせてから消滅した。速力が落ちた。傾斜は約11度。
艦は完全に停止した。艦首と呼べる部分は、もはや跡かたもない。機関科からの報告ははっきりしない。
直ちに、魚雷の投棄と左舷注水が令された。カラの区画に水を入れて、傾斜を直すのである。黒い重油が周りの海面に漂い始めた。どうやら沈没するような気配はない。
ようやくまとまった機関科の報告によれば、右舷前部機械室に魚雷が命中し、隣接区画の隔壁も破れて左右前後の4室すべて満水という。万事休す。
[アメリカ側の記録]
「熊野」は11月初旬、船団とともに北上を命ぜられたが、これほど危険な旅はなかった。ルソン西岸では、ブリーム、グイタロ、レイトンの3隻からなるウルフパック(狼群)が哨戒中で、付近にはさらにレイがいた。
11月6日、グイタロがポリナオ沖で午前7時18分、北上する重巡2、貨物船7、護衛艦艇若干を発見、最大の艦 ―「熊野」だったー を目標に選び、約1時間かけて近接、魚雷9本を46秒間に発射。命中音を3回聴取した。
6分後にブリームが船団を発見、最大艦を目標に近接、午前8時43分、残っていた魚雷4本を発射、命中音2回聴取。レイトンは8時46分に発見、午前9時43分、最大艦に対し6本発射、命中音らしきものを3回聴取した。レイはこのころ近接中で、レイトンの魚雷の1部が直上を通過している。レイは午前9時46分。MK18魚雷4本を発射、潜航中に大爆発音を聴取した。命中した魚雷は、4隻目(メイ)の2本である。
時刻はわが方が東京時、アメリカ側が地方時を使ったので、1時間の差がある。両者の記録した時刻はきわめて近似しているといえよう。また、「熊野」は1隻目(グイタロ)の雷跡を発見しなかったので、新式の電池魚雷ではないかと見たが、アメリカ側にそのような記録はない。
5 変わり果てた雄姿
「熊野」被雷と見た「青葉」はただちに信号を送ってきた。
「ワレ曳航能力ナシ」
護衛隊指揮官は「道了丸、駆潜艇18号および37号を残す」と信号し、船団は3隻を残して再び北上を始めた。
「熊野」はなすすべもなく漂っている。なおも敵潜に襲われる恐れが大きい。加えて、この日も敵艦上機群はルソン各地を攻撃中であり、時々遠方にその一部を視認する。
私は機密書類を焼く準備のため、ガンルームに降りた。5、6人が集まってきた。どうやら、食べられる物は今のうちがよさそうだぜ、ということになり、めいめい棚から取り出し、みかんの缶詰にミルクをかけたりして立ったまま食う。空腹でもあった。
艦橋に上がると、道了丸と2隻の駆潜艇が付近を微速力で回っている。船団の姿ははるか彼方である。傾斜は8度ぐらいまで戻ったようだ。自力航行の見込みは万が一にもない。とるべき手段はただ1つ、曳航してもらってどこかの港か湾に入ることである。
午前11時30分ごろ、道了丸に曳航を依頼したいむね信号が送られたが、断りの返事がきた。無理もない。
道了丸は2270総トンの戦時急造型油槽船である。「熊野」は通常で約1万4千トンの排水量を持ち、そこへ約5千トン浸水している。傾斜はじりじりと回復して4度程度に減じたが誰もが曳航には首をひねるのが当然である。
午後になった。波任せ潮任せの漂流が続く。やっぱり曳(ひ)いてもらうほかない。また信号が送られて、ともかくやってみようということになり、私と同期の甲板士官小澤易一中尉が要具を積み、作業員を連れて道了丸に向かうことになった。
艦橋ではどこに曳いてもらうかが検討され、リンガエンにきまった。私は海図を小脇に抱えて内火艇に移った。
前進を令して舷側を離れてから、振り返ると、「熊野」の姿たるや、かっての勇姿はすっかり変わり果てていた。艦首は消滅して1番砲塔の砲身は、先のほうが海面に突き出ており、煙突の大部分もなく、やや右に傾き、後部は少し沈下している。美しかった灰色の船体も、潮と硝煙と被弾被雷で色あせてしまった。
日没近く曳(えい)航索が道了丸の船尾から「熊野」の艦尾に渡されて曳(えい)航準備が整い、道了丸が行進を起こした。速力1ノット。
奇妙な1組は午後8時ごろからノロノロと北上を始めた。
被雷当時を振り返ってみよう。中部やや後部にいた乗員のうち、幾人かが右後方から近接する雷跡を発見したが、報告のいとまはなかった。雷跡は3本であったというが、上空にあった水偵は4本と報告している。
直撃された前部右舷機械室では20余名が即死。前部左舷機械室もまたたちまち満水し、後部の機械室は満水まで若干の余裕があって、おおむね脱出できたらしい。
中部上甲板にあった某兵曹は衝撃で吹き飛ばされ、重傷を負って海に落ちたが、駆潜艇に救助された。艦橋右下の機銃台では、艦首飛散の際に落下した鉄片で、機銃員2名が即死した。魚雷の威力には改めて目を見はらされる。
前部の切断箇所付近はメチャクチャになり、リベットも吹き飛んでいる。右舷のカタパルトは直下に魚雷を受けたため、アメのように曲がっている。
機械室に魚雷命中との想定の下で、しばしば応急訓練が行われたが、右舷に当たれば、浸水は右舷だけと仮定して、処置を演練してきたのだった。それが現実には4つの機械室がすべて満水の結果となったのである。
その夜は何事もなく経過した。11月7日の朝がきて、目をこすりながら艦橋に上がると、陸岸が右舷に見える。おやと思ってコンパスをのぞくと、当然のことだが、針路が昨夜と逆になっている。聞いてみると、夜中に風と潮が向かいになり進まなくなったので、目的地をサンタクルーズに変更されたとのことであった。
相変わらず遅々としているが、たしかに進んでいる。夜のうちに駆潜艇と交代した海防艦18号と26号が前になり、後ろになりしてつきそっている。
「熊野」の速力は、比島の海に出撃してこのかた、さまざまに変わった。10月23日、ブルネイ出撃後は、18〜20ノットで走り、24日、シブヤン海では24〜28ノットを使用、26日、サマール沖の追撃では最大戦速35ノットまで上げた。そこで被雷して最高速力18ノットとなり、26日ミンドロ沖の被爆によって暫(しばら)く速力ゼロ、やがて9ノットまで出せるようになり、コロン出港後は12ノット、11月4日深夜のマニラ出港後は18ノットまで出せたが8〜9ノットで航行、6日ついに速力ゼロ、今は1〜1.5ノットで後ろ向きに走っているのである。さて、道了丸はどうにか「熊野」を曳いてはいるが、なにしろ重いので、変針が極めて難しい。入港前には狭い水道を幾度も変針しながら通らなければならないが、うまくできるだろうか。
艦橋では人見艦長、山県航海長、星子運用長の間で協議が続けられた。
まず、午前7時ごろ、2隻の海防艦が艦尾の両舷に曳(えい)索をとってやってみたが、うまくいかない。1時間ほどして、今度は海防艦18号が道了丸に曳(えい)索をとった。曳(ひ)くというよりも道了丸の船首を曲げてやるのである。この試みは見事成功した。海防艦、道了丸、そして後ろ向きの「熊野」と順次大きくなる1組は、農夫が大きな荷馬車をひいた馬の鼻面をひいている図さながらであった。
午後2時20分ごろ、ようやくサンタクルーズ湾に入港、後部から中錨を投入した。約28マイルを曳(えい)航されたのである。人見艦長から道了丸の船長にあてて丁重な感謝の信号が送られ、糧食や酒保物品が内火艇で届けられた。
道了丸は海防艦26号とともに翌日午前7時出港、マタ31船団の後を追った。こうして内地回航の出鼻をくじかれた「熊野」は、ここサンタクルーズにおいて、掃海艇21号(8日午前、海防艦18号と交代)ただ1隻を警戒艇として、前途多難を予想される停泊状態に入ったのである。
入港して2日後の11月9日、猛烈な台風がルソン島の南から北へ弧を描いて吹き抜け。その中心はサンタクルーズ付近を通過した。
この日の午後から強まった風雨は、夜に入ってますます激しさを増した。何時ごろであったか、ガンルームと通路を隔てた向こう側にある兵科事務室で、高橋庶務主任や後任航海士の藤島芳雄少尉たちと談笑していた私は、妙な衝撃を感じた。
「走錨らしいぞ!」
と言って立ち上がった時、配置につけのラッパが鳴り響いた。艦橋に駆け上がると、外はスミを流したような真っ暗やみである。
艦橋前面上部の壁で青白く光る風速計の針は30メートル付近でふるえ、時として40メートルに跳ね上がる。5トン半ある艦首の主錨を入れている時でさえ、風速20メートルとなれば錨鎖を伸ばし、さらに1方の錨を振れ止め錨として入れるなどして、走錨を防ぐのである。
このとき、「熊野」はマニラ港務部から受領した1トン半の中錨と同地で切り取った錨孔を錨の代わりに投入し、掃海艇21号に曳索をとらせていたが、この台風では走錨もむしろ当然であった。今や、中錨や錨孔を海底に引きずりながら押し流されていることはたしかだが、どこをどう動いているやらさっぱり分からない。
烈風は轟々と鳴り、豪雨は艦橋の窓を、私たちの雨着を、激しく打つ。
前方の陸上に時々かすかな探照灯の光芒が見える。このまま流されていけば座礁だ。平らに座ればよし、悪ければ横倒しになる。相手は敵機でも敵潜でもない自然の力であるが、緊張感は戦闘中のそれと変わらず、むしろ、より不気味であった。
間もなく、艦橋のふるえが止まった。幸い、錨か錨孔が海底に食い込んだらしい。探照灯の光源の方位が変わらなくなった。危機は去った。時間の経過とともに風は次第に弱まってきた。朝になって、艦位を出してみると、南東に1200メートルほど流されている。さしたる被害はなかった。
とにかく、「熊野」を動けるようにしなければならない。12日の朝、慶州丸がマニラから井原技術少尉以下、工作部の工員を乗せて入港、直ちに機械室の排水作業が始められ、14日には後部右舷及び左舷機械室の排水が終わった。そして7、8缶室と後部左舷機械室の整備を進めることになった。1つの機械は1本の推進軸を回す。艦が通常の状態ならば、1機1軸で12ノット出るのである。慶州丸は15日午後出航してマニラに向かった。
人見艦長は某日、総員を艦橋下の甲板に集合させ、今日までの乗員の労を多とし、たおれた戦友に哀悼の意を表した後、現在我々に課せられた任務は、なんとしても、「熊野」を内地に回航して修復し、もって帝国海軍の戦闘力に加えることにあると強調、定められた目標の達成に一段の努力を傾けるよう要望した。
問題は水であった。真水は機械の運転に欠くべからざるものであり、排水を終えた機械の塩分を除くにも、乗員の食事や飲料にも必要である。造水装置は完全に破壊されている。約千トンの水を陸上に求めなければならない。桟橋まできている送水パイプは破壊されているらしい。
調査の結果、さして遠からぬところに川があることが判明し、運搬の手段が講じられた。作業員が川から桟橋まで運び、そこから「熊野」までは12名の屈強な艇員が、厚いキャンバスに水を張ったカッターを漕ぐのである。カッターは2隻あって1回の運搬量は2トン程度であった。
機関科員は機関の修理に、甲板員は対空警戒と水運びに1日1日が暮れ、そして明けていった。
レイテの戦闘は続き、我が軍は増援の陸兵を投入する努力を重ねていた。11月11日、オルモック沖で船団が壊滅し、私はその電報を淋(さび)しく読んだ。輸送船4隻と早川2水戦司令官座乗の「島風」以下、駆逐艦5隻と掃海艇1隻が揚搭寸前に米艦上機数百機の猛攻を受け、「朝霜」を除くすべての艦船が沈没したのである。
私は「島風」に乗っていた兄の戦死は確実と考え、コロン湾やマニラで信号を交わしたこと、前月の中旬に、シンガポールで親子3人が会し、7年ぶりだと父が喜んだことなどを思い浮かべた。
あとで分かったが、兄は主砲指揮所で機銃弾を浴びて戦死した。7年ぶりで3人が顔を揃えた日は、決別の日となったのだった。
13日と14日の両日、米艦上機はルソン各地を攻撃、その一部は「熊野」から遠望されたが、飛来はしなかった。
ある日の正午前、北西からまっすぐ向ってくる編隊を発見した。この日、米機の来襲についての警報は出ていなかった。ルソンに来襲する場合は、ラモン湾のポリロ角見張所から警報が出るのが常であった。午前8時ぐらいまでに出なければ、その日はまず大丈夫ということになっていたのである。
「航海士、どうか」
人見艦長に言われた私は、なんとか識別しようと努めた。その間にも目標は近づき、「熊野」は対空射撃の準備を整えた。単葉、中低翼、空冷エンジンの約330機だ。敵ではない。といって味方でもない。艦爆の彗星に似ているが、エンジンが空冷だ。ついに主砲、高角砲が発砲した。敵なら攻撃隊形をとるところだが、編隊のまま直上にさしかかる。光線の具合でマークは見えない。高度は4千メートルぐらいか。射撃中止。編隊は重々しい爆音を残して飛び去った。
後に分かったが、エンジンを空冷のものに換装した彗星であった。サンタクルーズの警備隊分遣隊は「F6F30機 サンタクルーズ上空 熊野 コレト交戦中」の電報を発し、マニラの南西方面艦隊司令部は驚いて、「熊野」に照会してきた。
人見艦長は苦笑して、敵味方不明のまま発砲したが、味方機だったらしい、味方識別をやるよう航空部隊に連絡されたい、という趣旨の返事を命じた。かくてこの騒ぎも落着した。
{アメリカ側の記録}
メイ(4隻目の潜水艦で魚雷2本を「熊野」に命中させた)が1時間後に浮上して見ると、艦首を吹き飛ばされた「熊野」はまだ停止しており、タンカーが曳航しようと近づいていた。1時間45分ほどの間に、単一の目標に対して、実に23本の魚雷が消費されたのである。レイはこの不滅の軍艦を葬り去ることに決めたが、近接中に座礁してしまった。漏水もあったので、苦労して修理を終え、攻撃を再開しようとしたが、「熊野」はなんとねばり強いことよ、ルソンの陸岸に曳航されていたのである。
6 その前夜
艦橋勤務、見張り、対空射撃員である乗員は毎日午前中、配置についた。
「ポリロ角見張所より・・・」
通信指揮室から伝声管を通じて艦橋に報告が上がったら、さあ今日も来るぞ、と全艦が緊張する。
「0715、100度、250キロに大編隊を探知」
「0745、敵味方不明機の爆音が聞こえる」
「0755、上空敵小型機、針路230度」
こうした情報が入ってからしばらくすると、ルソン各地は敵機来襲の電文を発し、その1部は「熊野」の視界に入って来る。逆用されることを恐れて、「熊野」の対空電探は使用を中止されていた。
航海科の准士官以上は、交代で天蓋にあって見張りの指揮に任じた。味方機の移動も頻繁で、陸軍の97重爆をよく視認した。早朝台湾に避退し、夕方ルソンに帰ってくるように思えた。そうであったとすれば、実際の機数は案外少なかったかもしれない。
天蓋ではよく高射長(第2分隊長)平山茂男大尉の話を聞いた。私は春まで砲術士だったが、そのころ平山大尉は発令所長(第3分隊長)で、私の直接の上司であった。敵機から投下された爆弾が当たるか、どれくらいそれるか分かるようになり、煙突に直撃した爆弾が落ちてきた時には、これはいかんと思ったそうである。部下である対空射撃関係員の死傷は5割にも達していた。
「まるで真綿で首を絞められるようなものだな。まあ桜の咲くころ内地へ帰るくらいの気持ちで落着いてやろうや」
平山高射長はこういって磊落(らいらく)に笑った。私も戦闘の思い出話をした。いつも快活な先輩と話をするのは楽しかった。
見張りを別にすれば、私の大きな仕事は戦闘詳報の作成であった。計画、経過、戦果及び被害、参考(戦訓)の各項目があり、10月23日から11月6日までの戦闘を報告にまとめるのは、なかなかの仕事である。記事だけでなく、図面も書かなくてはならない。
対空戦闘の状況については、平山高射長や三宅見張士、各機銃群指揮官などから何度も話を聞いて食い違いは正し、被害についても各部の士官に尋ねて回る。航跡自画器という艦の運動を自動的に記録する機器があったが、戦闘の初期に壊れてしまったので、やむなく航跡図は見当で書いた。電探、通信機器などとともに、こうした精密機器は至近弾程度で故障したり壊れたりしがちである。報告書の起案が終わったら、航海長、副長、艦長に目を通してもらう。
私が直接保管に当たっていた機密書類の焼却も、ひと仕事だった。昼間、ドラム缶に投げ込んでどんどん燃やしたが、軍機海図の焼却だけで数日を要した。
機関の整備は続けられていた。17日には第21長運丸が警戒艇として到着し、掃海艇21号と交代したが、同船がカッターに代わり、桟橋と「熊野」の間を往復するようになって、真水の補給は格段と円滑になった。もちろん顔を洗ったり風呂を浴びたりする余裕はなく、食事の時は湯のみ1杯の茶が飲めるだけであったが、それにも慣れてきた。
夜は一部の見張員は警戒を続けたが、まずは休息の時間だった。釣りがはやり、士官も兵も舷側から糸をたれて見慣れぬ獲物を釣り上げては喜んだ。
私は、当直でない夜は、兵科事務室で飲んだ。高橋庶務主任や藤島航海士たちが一緒だった。今日も命があった・・・口には出さないが、これが正直な感慨であり、互いに上げるビールの杯にも、今日の健在を祝い明日の健闘を祈るという意義があった。肴はイワシや貝やごぼうの缶詰でパッとしなかったが、話だけは尽きなかった。
11月19日、おなじみのポリロ見張所から、午前7時30分ごろ警報が出たあと、各地から交戦中の電報が入り、やがて「熊野」でも東方、あるいは南方に敵艦上機を遠望するようになった。警戒を続けるうちに午後になる。
午後1時30分ごろ、突然、上甲板のあたりが騒がしくなった、見上げると直上に2機、高度も低い。
「艦長!F4F2機、上空」
と私は報告した。
間もなく2機は右前方から突っ込んできた。1機目が機銃掃射、続いて2機目。敵機と「熊野」の機銃弾が激しく交差する。
2機はもう1度銃撃を加えてきた後、東方に去ったが、このとき北東約3万メートルを北進中の14機編隊があった。そのまま行ってしまうのか、来るのか。
どうやら向きを変えた。まっすぐにやって来る。先の対空射撃で気づいたらしい。全部F4Fだ。F6Eに似ているが、ずんぐりして中翼に近い。
「熊野」の周囲を半周ほど旋回した編隊は1列縦隊を作り、やがて翼を一振りした先頭機が右45度方向で急降下に移った。対空機銃が火をふき、敵も連続して襲いかかる。爆弾を落とす機は少なく、ほとんど銃撃だけだ。その音がいやにはっきりと聞こえる。機銃弾がバラバラと船体にくい込み、あるいは海面でつぎつぎに飛沫を上げる。それが数秒おきに繰り返される。
ようやく14機の攻撃が終わった。
「弾を運べ」
敵編隊はなお上空を旋回し、「熊野」の熱くなった砲銃がこれを照準し続ける。再び機銃掃射が始まった。「熊野」の頭上を飛び去ったあと、ついでに第21長運丸を銃撃して行くやつがいる。同船はわずか2門の機銃で応戦している。長く感じた対空戦闘が終わり、14機の編隊は北西に飛び去った。1機だけ遅れてついていく。
船体は多数の機銃弾をくらった。艦橋右舷で片ひざをついていた私の頭から30センチくらい、窓枠(窓は下ろしてあった)の下部に1発、8分がたささっている。丈夫な枠のところだったから助かった。1、2センチ上ならそのまま真っすぐ、下なら薄い鉄板を貫き、確実にやられたであろう。
右手の下の甲板にも1発ささっているほか、あちこちに弾痕をとどめている。甲板に転がっている機銃弾を拾うと、まだ熱い。天蓋に上ってみると、さっそく平山高射長に声をかけられた。
「やあ、航海士、今日の機銃掃射は満喫したろう」
まったく、満喫とか堪能とかいう言葉がピッタリの気分だった、この日は16機、延べ32機と交戦したことになるが、投下された爆弾は数発程度で、いずれも離れて着弾したので被害はなかった。
しかし、銃撃によって、対空射撃関係員の死傷者は増し、ガンルームも坂上俊明少尉を失った。同少尉は前月にブルネイで、「扶桑」から着任したばかりであったが、中部飛行甲板の機銃群を指揮して戦闘中、頭部に1弾を受けて戦死した。その晩、私たちはガンルームに集まった。顔ぶれは随分寂しくなっている。亡き友や戦闘の思い出話が交わされた。それでもみんな元気一杯だった。次はオレの番かなと一瞬考えることはあったが、それで感傷的になることはなかった。
機関長付の井ノ山威太郎中尉に尋ねると、1両日中には試運転の段取りになっているということだった。ガンルーム士官だけではなく、これだけ苦しい戦いが続いても、「熊野」乗員の士気は衰えなかった。敬愛する人見艦長の下で一丸となって戦い、そして働いた。
21日、私たちは艦橋でかすかな振動 を身に感じながら、艦尾の方に期待の目を向けていた。
「試運転を始める」
機関科指揮所から電話で報告が来た。艦尾に白い波が立ち始めた・・・成功だ。推進器が回っている。4本ある推進軸のうち1本だけではあるが、これまでの乗員の労苦は並大抵のものではなかった。ようやく自力で走れるめどがついたのである。しかし、蒸気の漏れが大きいため、なお整備を続けることになった。
その夜、マニラから朗報が入った。25日に真水と弾薬、そして工作部員が着くという。機関は直せても、艦首、いや艦首はないから前部というべきだが、これをなんとかしなければ航海は無理である。25日が待たれた。
19日の分も追加して戦闘詳報を書き上げた私は、高橋庶務主任に謄写を依頼した。
22日、マニラから機帆船が到着し、機銃弾4500発、応急資材、糧食、軽油を受領した。24日になった。「戦闘詳報の原紙を切り終わりました。明日は刷りますよ」と高橋庶務主任が知らせてくれた。午後遅く、大型海防艦「八十島」とSB艇3隻が入港した。SB艇は大発を大きくしたような形をした戦車運搬艦で、海岸に乗り上げて艦首の扉を倒し、戦車を揚陸させるようにできている。
「八十島」とSB艇の1隻には、最近まで「熊野」にいた士官が1人ずつ乗っていたが、図らずもここで変わり果てた「熊野」の姿を見て驚いたらしい。
話を聞くと、彼らは明日早朝マニラに向かい、1週間もしたら待ち焦がれているレイテの陸軍に戦車を揚げてやるのだと、乗員は張り切っているという。
「熊野」は19日の戦闘で重傷を負った乗員を「八十島」に依頼して、マニラの病院に送ってもらうことにした。10余名の重傷者が内火艇に移された。送る者、送られる者、それぞれに感慨がある。舷側を離れた内火艇は夕闇迫る海上を「八十島」に向かった。
夜になった。私は例によって兵科事務室で同僚たちと雑談を始め、しばらくしてから、高橋庶務主任と将棋をさした。いつも私から挑戦して3、4番立て続けに負け、尻尾を巻いてやめるのである。彼は10度に1度くらいは負けたが、どうやら負けてくれるらしかった。2人が将棋をやめると、藤島航海士が赤玉ポートワインの栓を抜いた。通信士渡辺敏明少尉を交えて4人で飲んだ。私も1本持っていたので、翌晩抜くことに決まった。しかし、私のぶどう酒は誰の口にも入らなかった。翌25日、待望の弾薬、真水などの到着も待たずに、「熊野」は沈没した。渡辺通信士も艦とともにサンタクルーズの海底に沈んだのである。
11月25日早朝、「八十島」船団はマニラに向けてサンタクルーズを出港した。午前7時、対空関係員はすでに配置についている。7時30分に情報がポリロ見張所から入り、見張員は東方ないし南東方を重点に警戒した。
敵機発見。グラマンF6F 11機だ。編隊は一気にサンタクルーズの上空に達し、「熊野」を中心に大きく旋回を始めた。「熊野」は発砲しない。主砲の対空射撃は効果が小さいし、射撃によって遠くの敵機まで吸引しかねないからだ。さらに14機がやってきた。これもF6Fだ。旋回する11機に加わって計25機、爆音だけが不気味に響く。10分、15分経過するが来襲しない。やがて14機の編隊は去り、残った11機は何か獲物を見つけたような運動を始めた。第21長運丸だ。
19日に敵艦上機が「熊野」を攻撃した際、その余波を受けて機銃弾を打ち込まれた長運丸は、いつの間にか島から切り取ったらしい椰子の葉や、潅(かん)木で偽装していた。すっぽりと緑一色に包まれて小さな島の南端に停泊している。「熊野」からの距離は約8000メートル。見事な偽装で朝がた感心したばかりであったが、発見されたらしい。
目の前で1番機が急降下に入った。2番機、3番機、4番機と続く。長運丸は偽装をかなぐり捨てて機銃で応戦を始めた。両翼から数本の赤い火箭(ひせん)が吐き出されて、長運丸を包む。水しぶきが上がる。銃撃、また銃撃で、ついに長運丸の機銃が沈黙した。射手がやられたか銃がやられたか・・・。敵機の降下角度は浅くなり、ほとんど水平で突っ込んでいく。
すると、長運丸のブリッジと後甲板のあたりから黒煙が噴出した。小さな炎が見え、それが次第に大きくなっていく。すでに無抵抗の長運丸に、なお、機銃弾が容赦なく撃ち込まれる。乗員は海に飛び込んで島に向って泳ぎ始めた。それでも銃撃は続く。
1機が何度攻撃したであろうか。午前9時過ぎ、ようやく攻撃が終わって敵機が去ったころには、長運丸は半ば炎に包まれ、黒煙が沖天高く舞い上がっていた。「熊野」は終始1発も放たなかった。
「小型機約40機! 左70度 300 方位角右10度」
と、見張員が大声で報告した。長運丸の悲壮な光景に向けられていた目が、1斉に東方に転じた。
「まだいるぞ、上にもう1群」と、三宅見張士、なるほど、いるわ、いるわ。蜂のようにゴチャゴチャになった2つの群れがみるみるうちに近づいて来る。
「ざっと数えて88機」
見張員の報告に私も数え始めたが、途中で分からなくなって止めてしまった。射撃用意が下令された。全艦鳴りをひそめ、ただ左舷の高角砲と前部の主砲が静かに砲口をもたげていく。嵐の前の静けさ・・・。
敵編隊の針路はやや右にそれている。88機が動けない「熊野」にかかれば、間違いなく沈没だ。
よく見るとF6Fだけではなく、SB2CとTBFがいる。雷撃機の目標は艦船以外にない。今や、敵編隊は艦首方向4、5千メートルにさしかかった。爆音は轟々(ごうごう)とサンタクルーズの大気をふるわす。今来るか・・・今、分散するか・・・・。
しかし、変針はしなかった。真南を向いている「熊野」の艦首方向をそのまま通過して、西の海上に出たのである。
やがて目標が分かった。早朝出港した「八十島」船団だった。数分後に敵編隊は、南西の水平線のかなたにある目標に殺到し始めた。弾幕が上がった。乱舞する百機に近い艦上機の下には4隻がおり、その中の「八十島」の艦内には、昨日移送した「熊野」の重傷者が横たわっている・・・。
攻撃を終わって、再び編隊を組んだ敵艦上機群はその威容を誇示するかのように、またしても「熊野」の前方を通過して東方に飛び去った。時刻は午前10時ごろであった。後に判明したところによれば、「八十島」とSB艇3隻は全部沈没し、生存者はごく少数であった。もとより「熊野」の重傷者たちも「八十島」と運命をともにしたのである。
島に上がっていた長運丸の乗員から手旗信号で軍医派遣の依頼が来た。軍医長付西大条博大尉が看護兵を伴い、内火艇で島に向った。空はうす曇りで東方の山々には、やや濃い雲がかかっている。
7 「熊野」の最期
午後も2時を過ぎたが、敵機は姿を見せない。朝、配置について以来の緊張が少し解け始めた。午前中、100機以上も来ながら、午後は1機も来ないのはなぜだろう。「熊野」はもはや攻撃の価値なしと認めたのだろうか。大破した重巡よりも「八十島」船団の方が攻撃目標として優先度が高いことは分かるが・・・。
午後2時30分ごろ、私は艦橋後部で三宅見張士と話をしていた。私は聞き役で、見張士はいままでの勤務のこと、呉の人事部でのことなどを話していた。どうやら、今日はおしまいらしいぞ、と乗員は考え始め、口にも出し始めていた。
「SB2C 22機、左60度!」
天蓋見張員からの報告は、緩みかかった私たちの気分をピーンと引き締めた。
「対空戦闘!」
続いてラッパが鳴り響く。私は半袖、半ズボンの防暑服の上に紺の雨着を引っかけ、鉄かぶとと防弾チョッキをつけてから、双眼鏡を首にかけた。
F4F3機を先頭に、22機のSB2Cがやってくる。太い尾部がぐっともち上がり、胴も翼も丸みをおびたこの急降下爆撃機は、最もいやな相手だ。
「全部、爆弾を持っています、」
と、見張員が報告した。編隊は艦首方向約1万メートルを右に旋回、1列にならびだした。今度こそ間違いなく来る。
弱った船体にかなりのショックを与えて、主砲、高角砲が射撃を開始した。敵の先頭機が急降下に移った。敵機の攻撃が始まると、見張員も目を眼鏡から離して低い姿勢になる。
「熊野」は止まったままだから、こうなると航海士の私にも仕事がなく、ただじっと耐えるしかない。私は艦橋左舷の拡声器があるくぼみに半身を入れて片ひざをついた。
すさまじい音響が連続して耳(じ)朶(だ)を打ち、目の前の海面に水柱が上がった。その向こうにもう1本・・・。ガーン、ガーンという大きな衝撃は至近弾か、それともどこかに命中したのか。
一瞬、目の前が黄色く光って真っ暗になった。熱風が全身を吹きまくった。一瞬、死・・・という考えが脳裏をかすめる。2度3度、おそろしく熱くて硝煙くさい風を吸い込み咳こんだ。
と、目の前が明るくなった。煙が薄れ呼吸も楽になった。思わず顔をひとなですると、手のひらにべっとりと血がついた。どこをやられたのか分からない。
雨着は袖口からひじまで裂けている。ひりひりするので見ると、右足首の少し上がただれている。おまけに両足とも膝から足首まで、すね毛がきれいになくなっている。暑いのと、たび重なる戦闘に面倒がって、半ズボン、素足に靴といういでたちをしていた報いだ。
煙は消えた。目の前には幾人か信号員が重なって打ち伏している。血は見えぬ。気絶か・・・。爆撃はちょっとと絶えている。対空砲火の音もまばらだ。
「天皇陛下万歳!」
前に出ようとした私は、聞きなれた田島文造兵曹の声にはっとした。やられているのか・・・。
「おい、しっかりしろ、これからだぞ。」
私はそういって倒れている信号員の間に足を入れ、1またぎ2またぎして、左2番大型眼鏡の腰掛にしがみついた。
「痛い・・・・」
誰かに触れたらしく、うめき声がする。
「すまん。すまん」
と、謝りながら、ようやく艦橋最前部に立った。人見艦長以下、このあたり乗員は健在だ。後方に目をやって状況が分かった。1、2発が艦橋の後部を直撃したのだ。両舷とも哨信儀があった付近の甲板はぶち切れている。主として信号員たちがいたが即死。その爆風が艦橋を吹き抜けたのである。私のとなりにいた信号員長石見正夫兵曹長は、しばらく気を失ったという。
これも後で分かったが、爆風と火災は天蓋後面もひとなめして多くの見張員を倒し、あるいはひどい火傷を負わせた。
艦橋後方はさらに惨状がはなはだしい。一面の血潮の中に遺体が重なり合っている。
爆撃が再開された。右に左に水柱が上がり、艦橋はそのたびにビリビリと震える。いまや船体もガタガタになった感じだ。
「弾火薬庫、注水!」
人見艦長は厳然と下令した。私は伝声管に口をよせた。だめだ・・・・、通じない。直撃弾で電話も伝声管もブザーも壊れてしまったらしい。艦の中枢たる艦橋と各部を結ぶ機能は失われた。若い測的伝令が目が見えないと口走っている。
「貴様、目はあいているじゃないか。大丈夫だ。しっかりしろ!」
と、熊川測的士が励ました。
「雷撃機! 左130度」
いつ忍び寄ったのか、10数機のTBFが左斜め後方から低空で迫りつつある。そして、つぎつぎと魚雷を投下した。
「雷跡! 雷跡!」
と、誰かが叫んだが、動けない「熊野」になすすべはない。落下した時に「熊野」に向いている魚雷はすべて当たるのだ。左舷中部の機銃が雷跡の先端をねらって射撃を始めた。
ついに最初の1本が命中した。ズシーン
と腹にこたえる。続いてズシーン・・・、またズシーン。「熊野」はぐっと左に傾いた。そのまま傾斜は大きくなっていく。立ってはいられない。対空射撃の音が消えるように細くなり・・・完全に沈黙した。「熊野」の最期が近い。爆弾の水柱がなお眼前に上がる。爆風で雨着の両ポケットと眼鏡を飛ばされた高橋庶務主任が、窓枠につかまり目をしばたきながら鳥越主計長に言う。
「総員名簿が出せませんが」
「仕方ない」と主計長。
「艦長、総員退去を令されては」
と、河辺水雷長が進言した。傾斜は増す。左手に海面がせり上がってくる。間もなく沈む・・・。総員退去が令された。艦橋にいた者はつぎつぎに右の側壁によじ登った。重傷者を助ける余裕はない。
私は艦橋右下の側壁に立った。本来は水面に垂直な所なのだが・・・。
左に艦が倒れる場合は、右舷から逃れる方が安全である。しかし、すでに垂直に近い上甲板を這い上がって右舷の船腹に出るような時間はない。何の煙か薄い煙を通して、上甲板から船腹に這い上がろうとしている数十人の姿がぼんやりと見えた。
私は今の所から水に入ることに決め、まず鉄かぶとを捨てた。続いて双眼鏡、防弾チョッキ、雨着を脱ぎ捨てた。雨着が藤島航海士からの借り物だったことをふっと思い出した。
高さ16、7メートルあった艦橋の左も、すでに水につかろうとしている。下には重油に覆われた海が待っている。今度は腕時計がないのに気がついた。爆風でバンドが切れたか。下に人がいないのを確かめ、足から飛び込んだ。水に入ったからには、早く艦から離れなければならない。沈没後の渦や爆発が危ない。敵機の攻撃はいつかやんでいた。
私は海図を思い浮かべてから、南方の陸岸に向って泳ぎ始めた。艦橋から近く見えていた陸岸が、こうして水面から首だけ出してみると、どこも随分遠く見える。泳ぎにくいので靴も脱ぎ捨てた。1番砲塔の横を過ぎるころ。第1分隊長の小林好恵大尉と加茂川広行水雷士の真っ黒な顔に出会って声を交わす。しばらくしてから振り返ると、「熊野」は艦尾近くの船底だけを見せ、推進器の付近にいくつかの人影がうごめいていた。海上には乗員の頭が点々と浮かんでいる。
タタタタ・・・と低い銃声が聞こえてきた。
見上げると3機・・・まだいたのだ。F6F1機とTBF2機。無抵抗で海に浮かぶ「熊野」の乗員に、超低速で機銃を撃ちまくる。爆音と銃撃音が不気味に響き、曳痕弾が水しぶきをあげる。眼前をTBFが通過した。半身を乗り出して旋回機銃を振り回している。頭上を赤い線が飛んでいった。間もなく3機は去ったが、振り返ると「熊野」の姿はなかった(午後3時15分全没)。真水搭載のために陸岸に係留してあった内火艇とランチが救助作業を始めている。私と同じ方向に泳いでいる者は4、5人だけだ。水はすっかりきれいになって顔をつけると手足の動きがよく見えた。水温は内地の夏の海と変わらず、肌に心地よい。元気のいい乗員が「航海士、大丈夫ですか」と声をかけながら追い越して行く。私はゆっくり泳いだ。海岸の緑の樹々は確実に近づきつつある。耳栓をしていたことを思い出したので、立ち泳ぎをして綿を取り出し捨てた。と、轟々と編隊の爆音が聞こえてきた。見上げると、3,40機、南西方向の上空にあって東進している。銃撃だけでも、やられたらことだぞ。私はまた平泳ぎを始めながら、じっとその針路を注視した。編隊は直進して東の山かげに入った。この日の最後の緊張であった。あとはフカだけだが、どうやら雷爆撃で逃げてしまったらしい。
ときおり、美しいいろどりの魚が浮いているのに出くわす。大きいのを1匹つかんでみると、力なく動く。こいつも今日の戦闘の犠牲者かと思うと、なんとなく親しみと哀れみを感じて放してやった。
足首がひりひりする。そうだ、爆風でやけどしたのだった。海底が見えてきた。深い海の底が見えると薄気味悪く感ずるものだが、さすがにこの時は嬉しかった。海底が次第にせり上がってくる。もうよかろうと立ってみると腰までの深さだった。足を切らないように注意しながら、リーフを歩いて水から上がった(泳いだ距離は2600メートルほど)。
妙な色になった防暑服から水がしたたり落ちる。そこから7,8百メートルの距離にある桟橋では、内火艇とランチが乗員を揚げ、それからまた救助に向っている。歩いて桟橋までくると、乗員がむらがっていた。誰の服もひどく汚れている。
数日前に陸揚げしてあったビスケットと冷たい水が出してあり、若い比島人の男がサービスしている。私も水を飲みビスケットを食べた。うまかった。
乗員たちは上官や同僚や部下の顔を見つけては、嬉しそうに挨拶を交わしている。ともに戦い、ともに艦を失い、ともに生き残った者の間にはなんとも言えない深い親近感があった。砲術士青柳修少尉が桟橋を歩いてやってきた。だいぶ参った顔をしている。聞けば、後部主砲指揮所から飛び込んだが、間もなく渦に引き込まれたうえ、幾人かにしがみつかれて、ようやく浮き上がったもののかなり重油を飲んだという。
「俺の顔の色は・・・・」と尋ねると、
「1番白いですよ」と言ってくれた。
どうやら泳いでいる間に油がすっかりとれたらしい。爆風を受けた時、手に触れた血も誰かのものだったらしく、これも洗われていた。ほとんどの者が内火艇とランチに拾われており、岸まで泳いだのは私たち数人だったようである。
最後のランチが桟橋に着いた。
「航海士、艦長の消息を聞いてみてくれ」
平山高射長に言われた私は、皆に尋ねてみた。1人手を上げたが艦長ではなく、機関長のことだった。人見艦長は沈没の直前まで元気で「熊野」を指揮していた。自ら艦と運命をともにされたのか。全乗員の尊敬の的であった人見艦長に対する哀悼と惜別の念が私たちの胸にわき上がってきた。
直ちに人員調査が行われた。重傷者は近くの建物に収容されたので、ここに並んでいるのは元気な者ばかりである。分隊ごとに整列したので、その被害の程度がはっきり分かる。
1番ひどくやられたのは通信科だった。昨日までの累次の戦闘を通じて戦死者なし、負傷者1名という珍しく運のいい分隊だったが、今はわずかに7、8名が淋(さび)しそうな顔をして並んでいる。9割が戦死したのだ。
私の分隊である航海科分隊も若干の重傷者は出したものの戦死は1名もなく、喜んでいたところ、いっぺんに激減(61名のうち33名戦死、8名重傷)してしまった。あの1発にやられたのだ。
生存者は重傷者を含めて約600名で、半数強である。
敵機来襲時の注意事項が指示されたあと、1応解散になった。次第に准士官以上の消息もはっきりしてきた。
人見艦長、副長真田雄二大佐、ともに戦死。
士官室は鳥越主計長と電機分隊長村松昭男中尉が戦死。機関長稲田領中佐は重傷、山県航海長は爆風で胸を痛めて苦しそうである。
若い中、少尉のガンルームは、小沢甲板士官(応急班指揮官)井ノ山機関長付、渡辺通信士、機銃群指揮官岡野一郎少尉、電機部付中村治哉少尉、飛行部付平井有幸少尉の6名が戦死した。ブルネイ出撃時の20名が10名戦死、3名重傷、残るは7名。私の火傷まで軽傷に入れれば、6名が軽傷で、無傷は藤島航海士だけだった。
藤島少尉は艦橋で爆風の被害からまぬがれた数名の1人で、2ヵ月ほど前にシンガポールで乗艦したが、内地からの途次、乗船が潜水艦に雷撃されて東支那海で20時間も泳ぎ、そのため服装が恥ずかしくて夜中に「熊野」に着任した経歴の持ち主である。
「あの時に比べれば楽でした。」
と笑いながら言ったが、そうであろう。今度は1時間とは泳がなかったのだから。
第2士官次室と准士官室の戦死者は、電信長福田実、掌内務長江本光国、缶長奥野亀蔵の各中尉、機銃群指揮官小松昌幸、同 友淵勇、補機長野稲清槌、操舵長東本義誉、電測士小西栄の各少尉、機械長木村政男、電機長東間一夫、暗号部付塩田元政、缶長藤島靖、主砲砲員長野口仁志、主砲幹部付山口国男、電機部分掌指揮官大橋勝昭、軍医長付中岡信夫の各兵曹長であり、計16名を数えた。
乗員1134名のうち、10月24日から沈没時までの戦死者は495名であった。
8 地獄からの生還
あたりを歩く。乗員たちは斜面や建物のへりに腰を下ろして語り合ったり、濡れた衣類を乾かしたりしている。家族の写真や紙幣をたんねんに並べて乾かしている者もいる。私の顔を見ると健在を喜んでくれ、私も乗員たちの健在を祝した。
爆音が聞こえてきた。B24 1機が頭上を飛び去っていった。陸に上がったら敵機に対する気持ちがすっかり楽になったように感ずる。どうやら乗員は空襲になっても、すばやくは避退しそうにない。
日没が近づいてきた。下士官兵と士官の1部は近くの小学校に、ほかの士官はすぐそばにある古河鉱山の社員宿舎に泊めてもらうことになった。重傷を負っている東見張長に肩を貸して負傷者収容所に行く。
公会堂か集会所らしく、このあたりでは立派な建物だが、中はガランとしており、床に敷いた茣蓙(ござ)の上に30数名の重傷者が、海から上がったままの服装で横たわっていた。軍医長水野種一少佐と柔和な顔つきの50過ぎに見える比島人の医師が、大わらわで手当てをしている。糧食とともに医療品も若干陸揚げしてあったので助かるという話だった。
10日前の16日にサンタクルーズで着任したばかりの稲田機関長は、右大腿部を機銃弾で砕かれ、いずれ切断しなければならないと聞いた。泳いでいる間に浴びせられた機銃掃射でも、かなりの乗員がやられたらしい。
東見張長は足と顔に火傷を負っており、目は見えないがすこぶる元気である。天蓋の後方で炎を浴びたのだった。三宅見張士は爆風でひどく胸を痛めている。艦橋の信号員、見張員で同じように胸痛に苦しんでいるものが多い。だれもが歯を食いしばって、そっと息をしている。絶対安静のほかに手はないという。その1人、見張員の林知頼兵曹が私を認めて、「航海士に踏まれたお陰で助かりました」
と、苦しい中に微笑を浮かべて言う。気絶から我にかえったらしい。私はなんとも返事のしようがなく、ただ、微笑を返した。顔に火傷をした者も多い。目と口の部分を除いて包帯を巻いている。私は誰からか土地の煙草を1本もらって火をつけ口にした。
悲惨なのは、電探伝令の某上水であった。左下腹部から薄桃色に光る腸の一部が露出しており、分隊士の熊川中尉と3、4人の同僚が肩や足を押さえているが、もだえ、そしてうめき続けている。重傷者の数は比較的少ない。ともかく海に飛び込んだ乗員である。その後で負傷した者もいるが。
沈没が早かったので、負傷し、あるいは艦内の下部にいて脱出できなかった乗員が多数いる。しかし、機関科員の多くは配置がなく、随意の場所にいたから生き残った者も多い。航行中の戦闘で機械室や缶室の配置についていたならば、戦死者の数は激増したであろう。
外に出ると先刻ボートで収容された航海幹部付原田信明兵曹の遺体が安置されていた。黙礼してから熊川中尉と一緒に夕闇迫る丘を上がって宿舎に向かった。2人の念頭には小沢中尉のことがあった。3人はともに兵学校を卒業し、ちょうど1年前にともに「熊野」の乗組になったのだった。横浜のお寺の息子でいい男だった。つい数日前、兵科事務室にいた私のところにやってきて、
「おい、艦橋がやられないのは不思議だな。今度はやられるぞ。」
と、やさしい細い目をさらに細めていった。冗談と分かっていたが、縁起でもないことを言うなと思って、
「だいたい、やっこさんたちは艦橋をねらってくるんだが、ねらうところには当たらないものだ。だから艦橋には当たらんのさ。」
と、言い返したのだが、彼の言葉は的中し、そして自分は別の爆弾か魚雷で死んでしまったのである。
宿舎では10数人の社員が、20人ほどの士官のために、親身になって世話をやいてくれた。交代で小さな風呂に入り、油と塩水を流す。服は生乾きだったが、さっぱりとした気分になった。
従兵が支度してくれた食事を終え、北側の窓辺から外を眺めると、サンタクルーズの海は何事もなかったかのように静まりかえっていた。
寝る段になって部屋を探したが分からなくなり、廊下のすみで熊川中尉と2人で毛布をかぶって横になった。静かな涼しい夜であった。
翌26日の朝、食堂に山県航海長以下の士官が集まり、今後のことについて打ち合わせが行われた。いずれマニラに移ることになろうが、少なくとも数日は自給自足するほか、いろいろ仕事がある。重傷者の処置、遺体の収容、戦死者、生存者の名簿の作成、その他の作業の分担が決められた。
私の仕事は戦闘詳報の起案である。やっと書き上げて刷ろうという日に、何もかもフイになってしまった。1ヵ月前のことから思い出して書くほかない。さしあたり最後の戦闘をまとめることにして、各部の士官に聞いて回った。
来襲敵機40機、爆弾4発、魚雷5本をどこに受けて沈んだかは、昨夜、発電ずみである。魚雷はいずれも左舷で似たような間隔で当たっており、これが沈没につながった。片舷に5本も受けて沈まない艦は「大和」くらいしかないであろう。
通信科員の多くは兵科事務室と通信室にいたが、1人として助かっていない。水野軍医長など脱出した乗員の話によると、あい次ぐ爆弾の命中で艦内はたちまち暗黒と化し、乗員は傾斜が増して沈没間近と見るや、上甲板に出ようとしたが、戦闘中の各区画は厳重に閉鎖されているため、暗さもあって手間取った上に沈没が急だったことから、脱出できなかった者が少なくなかったらしい。真っ暗の中で手をつなぎあい、君が代を歌って覚悟を決めた乗員で、奇跡的に抜け出した者もいた。
最も驚かされたのは、工作分隊長、木原通信大尉の話であった。木原大尉は10名ほどの部下と、右舷の下の方の1室にいたが、艦はあっという間に沈んでしまった。「熊野」は左に140度か150度くらい回転して着底したらしい。水深26メートルだったから、水圧もその区画を押し潰すようなことはなかった。
空気の入った箱に入れられて沈められたわけで、丸い舷窓の厚いガラスからは海水の層を通った陽光がかすかに差し込んでいる。かの佐久間艇長を思わせる光景である。木原大尉はすっかり観念して座っていた。ところが部下の中に舷窓を開けよう、と言い出した者がいた。ガスのような妙な室内の空気にあてられ、ぼんやりしていた木原大尉も立ち上がり、みんなでやってみることになった。生きながら埋葬された者が墓石を持ち上げようとする図である。
固く締めてあった止め金を緩め、舷窓を開けた。ちょっと考えると海水が奔入しそうだが、そうではなく室内で圧縮された空気が逃げ場を得て海面に駆け上がり、乗員を押し出したのである。
木原大尉も夢中で海中をかき上がり、もう息が続かないというときに頭が水面に出たという。私たちを悩ました機銃掃射も終わったあとで、すぐボートに拾われて上陸したが、まさに地獄の3丁目から帰還したといってよさそうである。
笑えぬ話もあった。上甲板配置のある水兵は、泳ぎが全くできないところから、そっと友達の工作員に頼んで浮きを作ってもらい、それを自分の戦闘配置の横において、心おきなく任務を遂行していた。ところが最後の時が来て手に取ろうとしたが無い。誰かが失敬したのであろう。沈み行く船体の上で、彼はじたんだ踏んで悔しがっていたという。
たまたま上陸していた西大条軍医大尉に、島から見た「熊野」の最後の様子を聞くことができた。長運丸爆沈後、負傷者の手当てのため派遣されていたが、在艦していたら戦闘配置から見て到底助からなかったという。 「ものすごい光景だった。沈む時は声を上げて泣いたよ。全員死んだと思った。でも助かってよかった。本当によかった。」
と、西大条大尉は私に言った。
足と腹を負傷した岩崎水兵長と腸が出て苦しんでいた某上水は前夜のうちに死んだ。航海科員の手で岩崎水兵長と昨日遺体で収容された原田兵曹を埋葬することになった。2人の遺体は重傷者収容所のかたわらに安置されていた。私は掌航海長の青山総一中尉と一緒に警備隊に行って白木の墓標を2本作ってもらい、1本ずつ名前を書いた。
遺体の場所に戻り、数名の分隊員と何か遺族に送れるようなものを探した。2人とも最近散髪したと見え頭髪は短く、重油で多少固まって切りにくかったが少し切った。原田兵曹はお守り札があった。いい形見になろう。それから2人の配置、氏名、血液型を記入してある布切れを外した。固くなりかけている足を伸ばし、手を組ませた。
墓を掘りに行った分隊員から用意ができたと知らせてきたので、担架が上げられた。3、4百メートル先にある警備隊の前をもう少し進むと、芝生の美しい広々とした牧場が右手にあり、その1隅に並べて2つの墓が掘ってあった。岩崎水兵長の従兄の山下満男兵曹もきていた。
静かに遺体を入れて、芭蕉(ばしょう)の葉をのせ、かわるがわるシャベルで土をかける。盛り上がった土をきれいな形にしてから芝を置いた。墓標を立てビスケット、果物、椰子(やし)の実、それから水を入れた椰子の殻を供え、手を合わす。
「お前たちは幸せだったよ。こうして皆にこんな立派なお墓を立ててもらい、土に埋められたのだから・・・・」
と、見張員長の天野正雄兵曹がつぶやく。同感だった。我々もいつ死ぬことか。死んでも土に埋められる見込みはなさそうだ・・・。
この日、重傷者はイバの病院にトラックで送られた。山県航海長も送られたので、砲術長白石信秋中佐(航海長とともに11月1日に進級)が指揮をとることになった。
11月27、28日の両日もサンタクルーズで過ごした。時々遺体が海岸に漂着し、その都度戦友の手で葬られた。発令所長吉田邦雄中尉が収容班を指揮して、ボートで島の海岸の捜索に当たったが、藤島少尉も元気で参加していた。
私は乗員の多くが寝泊りしている小学校に行ってみた。元気でわらじを作ったり、椰子の実で食器を作ったりしている。1人が私にわらじを進呈してくれた。熱いやら、痛いやらで閉口していた折りだったから、とても嬉しかった。
戦死し、あるいは傷ついた乗員にはすまない話だが、時がたつにつれてなくなったものが惜しくなってくる。誰もがそうらしかった。私はストップウオッチがついたスイス製の時計と銀のシガレットケースが惜しかった。シガレットケースは、開戦のころにタイの駐在武官だった父がピブン首相から贈られ、それを私が貰ったものだった。象が刻んであった。あれは兵科事務室のカバンの中だった。泳いで上陸したころはもちろん命だけで満足していたのが、のどもと過ぎれば何とやらで、我ながら現金なものだと思う。
それでも、身につけていたワニ皮のベルト、パイロットの万年筆、ナイフが残り、星子内務長に航海士は物持ちだねと言われてしまった。万年筆とナイフは随分と役立った。(これらのいわば記念の品も、翌20年7月に次の乗艦が沈んだ際にすべて失い、今はただ右足首の上にかすかな火傷の痕跡があるのみ)
28日にマニラから電報が来た。翌29日に掃海艇が迎えに来るという。なんだか物足りない。みんな久しぶりに陸上で生活したので、サンタクルーズの空気がすっかり気に入ってしまったのである。
午後、数人の士官、下士官と一緒に付近の民家を廻った。1つには流れついた機密書類を拾っていないか、2つには私たちの宿舎の古河鉱山の社員が送別会を開いてくれるというので、鶏でも手に入らないかと思ったからである。
取引用のビスケットと米を持ち、案内役兼通訳として陸軍の下士官に同行してもらった。海岸近くの林の中に、床の高い粗末な家が点々とある。何か拾っていたら出すように伝えてもらう。
このあたりはかなり親日的だということだった。どの家にも子供が多いのに驚く。ビスケットを少しずつわけてやった。鶏はなかなか手に入らない。大の日本びいきと聞く副村長を訪ねて話してみた。いわく、牛なら1頭やろう。ありがたい話だが料理する時間がない。空き家にやせた豚がつながれている。
「空襲が怖くて山に逃げ込んだ連中ですよ。これじゃ豚は餓死します」
陸軍の下士官はそう言って放してやった。夕方までに鶏を何羽か持ってきてやるという男がいた。
書類も少し出てきた。煙草の巻紙に使うつもりか、乾かしたり、しまったりしてある。主砲分隊員の略歴と考課表を入れた箱が見つかり、1分隊士である加茂川少尉は喜色満面、大いに羨ましがられた。これがないと分隊士は残務整理に苦労するのである。機密書類はその場でやいた。
草むらのなかの細い道を歩いて宿舎に帰ると、下の原っぱで豚を丸焼きにしていた。今夜のご馳走らしい。鶏を約束した男はどうだろうかと話していたら、ちゃんと下げてきて、1羽につき1個の割りでマッチをもらい、喜んで帰って行った。マッチは貴重品と見える。
送別の夕食会は社員代表の送別の辞に続いて白石砲術長が謝辞を述べ、終わって椰子酒の杯を上げた。わずか4日間の滞在であったけれども、惜別の情は深かった。
その夜、陸軍の部隊から使いの者が来た。付近にゲリラがいて、夜間に潜水艦と信号を交わしている疑いがある。今も沖の島に怪しい光を認めたので、少数の兵力で捜索したい、ついては輸送をお願いするとのことだった。そこで私と加茂川少尉が1隻ずつボートを指揮して出かけることになった。社員の1人がピストルと仕込み杖を貸してくれた。
桟橋で武装した兵隊を乗せたカッターを曳(えい)航して沖に出る。この下には人見艦長以下4百の乗員が眠っていると思うと、名状しがたい厳粛な気持ちになった。海は今夜も黒い鏡のように静まりかえっている。
上陸して捜索したが得るところなく、帰ってサンタクルーズ最後の寝についた。
9 マニラ
11月29日、マニラに向う日である。
正午過ぎに掃海艇が入港して桟橋に横付けした。真新しい緑色の作業服、白のズック靴、戦闘帽、それに石鹸とタオルが支給された。撤収といっても何ほどのこともない。ランチや内火艇は警備隊に移管され、遺体収容班はあと数日残ることになった。遺体はもう顔もすっかり変わって、名前の確認さえ困難だという。島の海岸に並べられた遺体のそばに大とかげがいた話や、海上で漂流していた遺体を上げようとしたら、フカに片足をもっていかれた話を藤島少尉がしてくれた。彼ともひとまず別れる。
日没直前、乗員は見違えるようにさっぱりしたいでたちで掃海艇に乗り込んだ。日が沈んで間もなく、「熊野」の乗員をぎっしり詰め込んだ掃海艇は横付けを離し、「熊野」の沈没地点を静かに1周した。一同で黙祷を捧げ、去りがたい気持ちで亡き戦友に別れを告げる。
湾外に出て針路を南に転じ、マニラに向かった。仕事のない単なる便乗者である上に、つい先日、潜水艦に幾度も攻撃されたので、どうもいい気分はしない。このころには駆逐艦や海防艦といった対潜攻撃を専門とする艦までがさかんに雷撃されているから、小さいといっても安心はできない。
この辺がよかろうと高橋少尉らと艦橋のすぐ下の機銃台に腰を下ろしたが、いささか涼しすぎた。おまけにうそかまことか知らないが、艦橋でやたらに潜水艦探知の報告をしているのが耳に入る。艇長は慣れているからか舵もとらない。幾度か水中探知機伝令の声に眠りを妨げられているうちに夜が明けた。水道を通過してマニラ湾に入り、今度は空襲を気にしている間に無事マニラ着、上陸した。さあ100機でも来いと言いたい気分である。
1月近く見ないうちに、沈没艦船が増えており、桟橋付近にはあちこちに弾痕が見える。海岸近くで「木曽」「沖波」「初春」などがマストや煙突を水面から出している。
桟橋からさして遠くないビルに入った。以前は根拠地隊司令部だったそうで、海に面している。2階と3階の空室に割り当てがなされ、士官たちもだだっ広いなんの家具調度品もない部屋を仮住居とした。白石砲術長は水交社に泊まり、南西方面艦隊司令部との連絡に当たることになった。
さて、これからどうなるのか。ここでは、沈没艦船の生存者は珍しくないし、米軍のルソン進攻も間近という緊迫した情勢下であるから手厚い待遇など望めぬことは分かっている。司令部の方針は、便がありしだい内地に帰す、必要な士官は席があれば航空機に乗せることになっていると聞いたが、実はマニラ市の防衛のため陸戦隊に取りたいハラがあるらしい。
下士官兵の中で無章は回されるという話がある。若い士官も陸戦隊の小隊長、中隊長にやられるかもしれないといううわさだった。カッパの竹やり部隊はごめんこうむりたいと思った。
私は報告の作成に必要なので、水交社裏の通信隊暗号室に通って電報に目を通し始めた。宿舎から徒歩で約十5分、海岸の椰子(やし)並木とラザールの銅像がある広場の前を通って行く。昼食と夕食は水交社でとった。マニラに着くまでは無一文だったが、食事代ぐらいはもらえた。
暗号室では「熊野」の発信、着信電報と関係電報を選び出すのであるが、調べる量は膨大なものだった。1日分だけでかなりの厚さがある。
お陰で、レイテの戦況も概略知ることができた。依然としてわが軍は押されており、補給はほとんど絶望的である。米軍はタクロバンだけでなくブラウエン、ドラグなどいくつかの飛行場を活動させている。
2日目にようやく40何日分の電報綴りから抜粋を終わった私は、午後連絡用の自動車で南西方面艦隊司令部に向かった。
市街を抜けてしばらく走る。車から降りて驚いた。サンタクルーズで見たような粗末な民家が2.30軒並んでいて、それが司令部だった。最近、街から移転したそうだが、これなら米機もねらいそうにない。私は通信参謀に話して、軍機親展電報を見せてもらった。
「熊野」乗員のマニラ着と同じ11月30日に空母「隼鷹」が入港した。陸兵と軍需品を下ろしてから内地に帰るので、白石砲術長は「熊野」乗員を便乗させてもらうよう司令部と交渉したが実現せず、同艦は、収容力はありながら翌12月1日に出港してしまった。
陸戦隊に残すハラだったのか、もっと防備のための作業に使いたかったのか分からない。明日はどこに100名、どこそこに200名と作業員を割り当ててくるのだった。
水交社でクラスメイトの土井輝章中尉に会った。軽巡「木曽」に乗り込んでいる。11月13日の空襲で沈座したが、大部分の機銃は水面上に出ているので、毎日交代で出かけて対空警戒に当たり、米機が来襲したら射撃しなければならないという。沈むことはないのだから、これでは機銃か乗員が直撃されない限り戦闘を続けることになる。
街には緊張した空気が漂っていた。海岸通りの並木の下には各種の兵器、軍需品が偽装して置かれている。マニラの夕焼けは世界一と言われるだけあって、さすがに美しく、眺めているとしばし戦争を忘れた。
1度だけガンルーム士官3人で街を歩き、メトロポリタン劇場で古いロッパ(古川緑波)の映画を見たりした。物価は驚くほど高く、靴1足が1000円すると聞いた。シンガポールも高いと思ったが、それどころではない。アイスクリームの屋台をひく少年に尋ねると1杯5円である。「熊野」の酒保では、ビールがキリンでもサクラでも30何銭、煙草が光、桜といったところで10銭か10何銭だったのだから、呆れてしまった。
主計科の士官が奔走してくれたお陰で、靴や靴下、煙草などが渡されたが、これらも値段は高く、前渡しの賞与から支払うといくらも残らなかった。サンタクルーズから遺体収容班がトラックで引き上げてきた。この道路も時々ゲリラ
が出没するという。
入れ替わりに「地獄の3丁目」から生還した木原大尉が加茂川少尉、数名の作業員、そしてマニラから派遣された潜水夫を連れてサンタクルーズに向かった。先に述べたように「熊野」の沈没地点の水深は26メートルと比較的に浅いので、暗号書その他機密書類を引き上げるためである。
10 帰国
12月2日の夜、明早朝発の航空便があるから、士官約十名は準備するよう突然知らせが来た。私はすぐ水交社に赴いた。
玄関に近い1室で20歳ぐらいの女性が、航空便を担当する参謀の出先機関のような形で仕事をしている。大柄な美人でなかなか威張っていた。航空機は大日本航空のDC-3だという。話しているうちに電話が入り、これまた急に臨時便が出ることになった、ガラ空きの1式陸攻らしい。「あーあ、誰か内地に帰る人、いないかしら」
と、その女性が言う。どうやら近頃にないもったいない話らしい。
便はあったとしても、若干の士官は下士官兵とともに残らなければならない。2階に宿泊中の白石砲術長は先任将校として、帰国組と残留組を決めた。私は帰国組だった。
3日未明起床、残留する士官に後事を託し、全員の速やかな帰国を祈りながら宿舎を出た。外はまだ暗い。水交社から自動車でニコルスフィールドに向う途中で、空が白みかけてきた。11月25日から1週間が経過している。その前の空襲は13、14の両日と19日であった。今日あたりやってくる公算が大きい。ルソン上空で米機に発見されたらどうなるか。なんの武器も持たない旅客機である。海面すれすれを這って逃れようとするだろうが、まず間違いなく撃墜されそうである。最近、「武蔵」の士官たちを乗せたダグラス機が落とされたといううわさを耳にした。
機内に入る。星子内務長、水野軍医長、河辺水雷長、平山高射長、機械分隊長福田正男少佐、小林主砲分隊長、西大条軍医大尉、以上が士官室士官、第2士官次室士官数名とガンルームから私、それからよその士官が2、3名。ガンルームの私以外の帰国者は、1式陸攻に乗ることになっている。よその士官の1人は「初春」で泳いだクラスメイトの新井田康平中尉だった。
2基のエンジンが回転を始め、やがて機は暁の空に舞い上がった。ルソン西岸の上空、高度約4千メートルを北上する。右下にサンタクルーズ、次いでリンガエン湾が見える。ときどき、東ないし南東の方角が気になって目を向ける。あの積乱雲の中からグラマンの編隊が出て来るのではないか。
弁当が配られた。すこぶるうまかった。風は入ってこないがうすら寒い。間もなくルソンの北岸は後になり台湾が見えてきた。高雄上空で1度旋回してから着陸した。マニラから2時間半くらいであったろうか。
「熊野」はこれだけの距離を1週間かけて航海する予定で、「青葉」や「マタ31船団」とともにマニラを出港したのだった。あれからほぼ1月がたつ。
機外はすこし寒い。30分後に離陸。台湾山脈の上空は気流が悪く、さんざん振り回された。新竹で士官1人を下ろし、すぐ離陸して間もなく台北に到着、ここで1泊する。降りてみて寒さにふるえ上がってしまった。街の人は誰もが冬着なのに、私たちは薄いシャツに緑の略装だった。
士官室士官は湘南閣、士官次室士官は海軍クラブと、別れて宿泊することになった。私は新井田中尉と海軍クラブの8畳の間をもらい、寒いので早速寝床にもぐりこむ。昼食、夕食ともなかなかのご馳走であった。なにしろマニラの食事は悪かったからか・・・。久しぶりに畳の上で床の間の花を眺めたりドテラを着たりして故郷の情緒を楽しんだ。夕食後、羊羹(かん)やバナナを詰め込んで動けなくなっていると、青山中尉がメリヤスのシャツを持ってきてくれた。赤い顔をしている。
「おや、随分いい色をしていますね。」というと、にこにこしながら、
「航海士たちの分までありがたく頂戴しましたよ」
「へえ、あったのですか。それは残念」
「ええと、このシャツは18円65銭です。それから砂糖を土産に買うでしょう。10斤ばかりね。1斤が37銭だそうです。」
翌朝、メリヤスのシャツを着込み、弁当を風呂敷包みに入れ、10斤の砂糖をぶら下げて飛行場に行く。話を聞くと私たち海軍クラブの方が、湘南閣よりも待遇がよかったらしい。
やがてDC-3は晴れ上がった空に向かって台北をあとにし、快適な飛行を続けた。空間の1点で静止しているかのようである。
正午、沖縄本島の小禄飛行場に着いた。昼食をとって休息中に、内地から比島に向う途中の零戦が20機ばかり着陸したが、2機が目の前で脚を折り翼端を接地してしまった。これでは前線基地に着くまでに、半数あるいはそれ以下になってしまうのも道理だと思った。
小禄発、福岡に向かう。眼下の沖縄列島はパノラマのように美しい。九州にさしかかると次第に天候が悪化し、時おり雲に入って窓の外は白1色になる。動揺も激しい。雲間から出ると阿蘇だ天草だとにぎやかになる。
ほどなく雁ノ巣飛行場着。5ヵ月ぶりに内地の土を踏んだ。12月4日の午後4時ごろであったろうか。
簡単な通関手続きを終えてから自動車で街に出た。星子内務長と平山高射長は明朝、空路東京に向かう。ご真影を海軍省に納めるためである。
呉に行くあとの士官は夕食後、博多駅から上り列車に乗った。
12月というのに夏服の私たちは乗客の視線を浴びている。列車は一路
、東へと走り続けた。
沈没時の生存者は639名であったが、その大部分は陸戦隊として残され、494名が比島の山野で散華した。戦死者の累計は989名、乗員の9割に達した。
光人社刊『巡洋艦戦記・生命ある限りを国に捧げて』
を1部訂正して転載(編集部)
(なにわ会ニュース90号21頁 平成16年3月掲載)