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平成22年4月12日 校正すみ

戦時体験・渾作戦

百瀬  茂


 戦時体験の中、小生の初陣というか、米軍と直接戦闘した「渾作戦」について記述することにする。何分60年程も前のことなので、記憶が薄れているが、出来るだけ思い出して書いてみることにする。

 渾作戦というのは、ご存じのことと思うが、日本艦隊の決戦となったマリアナ沖海戦の前段階で、ニューギニア方面から進攻してきたマッカーサー元帥の先陣が、日本陸軍がビアク島に飛行場の建設を完了したところに上陸して戦闘中で、日本軍が頑張っていた。そこで大本営が立てた作戦が渾作戦であった。艦隊決戦を前にして、ビアク島の飛行場を占領されると、その影響は甚大であり、これを阻止すべく陸軍の精鋭部隊を駆逐艦で強行輸送し、ビアク島に逆上陸、米上陸部隊をビアク島守備隊と協力して殲滅しようとした。以下、渾作戦の概況について述べることにする。

 

 19年4月下旬、小生乗組みの白露と5月雨・藤波の3隻は、陸軍の輸送船団を中国の舟山列島から護衛して、マニラ経由ニューギニアの「マノクワリ」へ向い、途中「ハルマヘラ」へ変更したが、無事任務を完了して、艦隊基地「タウイタウイ」に入港した。 「タウイタウイ」はフィリッピン南部の諸島で、そこには日米初の艦隊決戦のため、第1機動部隊といっても実質は、帝国連合艦隊の主力部隊100隻に近い大艦隊が集結し日夜訓練に励んでいた。タウイタウイに入港した小生は、5月初旬2水戦27駆逐隊の司令駆逐艦「春雨」に着任した。

 5月中旬渾作戦が発動され、洋上決戦の(さきがけ)として、いわゆる決死隊として機動部隊各艦の登舷礼式に送られて、第27駆逐隊の春雨、白露、5月雨、時雨と第19駆逐隊の敷波、浦波の計6隻でビアク島に向け出撃した。途中ダバオに入港、ここで陸軍の精鋭部隊1000名を5隻の駆逐艦に200名ずつ乗艦させた。護衛部隊として、第5戦隊の妙高、羽黒と扶桑がタウイタウイから一緒であったが、ダバオでさらに16戦隊の青葉、鬼怒が合同し、護衛部隊は戦艦1、巡洋艦4となった。

5月下旬ダバオ出撃、霧中航行が続いた。途中5戦隊と扶桑がタウイタウイに帰り、強行輸送部隊は巡洋艦2隻と駆逐艦6隻となった。ワイゲオ島のソロンに向ったが、一両日霧中航行のため、正確な艦位が不明であった。たまたま、小生当直時の午前2時ごろ、天空の一角が数分ぐらい晴れたので、直ちに星測、艦位を出したところ、推定位置から34マイル離れていることが分かり、ワイゲオ島の東を回りソロンに行くべきところ、西側回りに変更し、予定より数時間早くソロンに入港して、司令から褒められた記憶がある。

敵情を考慮して、しばらくソロンに落ち着いていた。いよいよ、ビアク島強行輸送のため、アンボンに至り、燃料の補給を行い、途中敵機の空襲を受け、ソロンに進出、この時、すでに敵情我に不利、そのため、巡洋艦は後方基地に待機することになり、春雨は上陸用の舟艇を曳航、他の五隻が200名ずつの完全武装の陸軍を乗せ、計6隻の駆逐艦だけで強行輸送することになった。

小生は初陣でもあり期するところがあって、第1種軍装を着用、その上に雨着を着て出撃することにした。直衛機6機がつくことになり、6月8日未明ソロンを出撃。途中無事通過してマノクワリ北方海面にさしかかった。零戦直衛機は次の直衛機(7機の予定)が交代にくると30分ダブルことになっていたのに、次の直衛機が到着する前に帰ってしまった。そこで直衛機がいない空白が生じた。時に1230頃であった。「敵大型機の大編隊、左150度。高角5度、300」見張員の発見報告とともに、「総員配置」につき、直ちに対空戦闘、士気高揚、見ればP-38、B-24、B-25 等数10機。 B-24、B-25はおよそ17-18機.一斉に対空射撃開始。爆撃機・雷撃機はすでに展開を完了して超低空で突っ込んでくる。小生は海図台内を整理して敵機の来襲する側に行き、水雷長とともに応急措置体制を整えながら双眼鏡で見つめる。各艦必死の応戦。春雨には雷撃機、爆撃機2機の組が2組、計4機が超低空で機銃掃射を行いながら突っ込んでくるのが見えた。刻々、敵機の状況を艦長に報告、艦長も必死に回避操艦。ところが無念にも主砲が故障。そのため、候補生の指揮する機銃群に頼るほかなく、懸命の回避により最初の2機の魚雷と爆弾をかわし、1機を撃墜した。そして、と見ると他の2機がすでに必中射点に魚雷投下。艦長に魚雷投下位置を報告する間もなく、後部機関室付近に魚雷命中、引き続き同所付近に爆弾命中、それに加えてわれわれの真上に機銃掃射、至近弾が艦橋の反対舷側に落ち、艦橋と旗甲板にいた軍医長、主計長のほか応急員、見張員全員戦死。水雷長と小生を残し、両側の見張員も即死。艦橋では、司令、艦長、航海長、1・2番見張員だけ残り、他は全員戦死するという一瞬の惨事であった。時に1242、マノクワリ北方100マイルの海上であった。水雷長は後部機関室に応急に飛び去り、小生は腰の手ぬぐいを引き裂き、傍らの負傷兵の応急止血を実施中、突然身体に振動を感ずるとともに船体が左舷に横倒しとなった。艦長の「総員退去」の命令のもと、かろうじて海中に入った。時に1245。艦を離れて泳いでいる乗員を集めていると、春雨はついに船体を棒立ちにして千尺の海底へ。幸い春雨が曳航していた上陸用舟艇の曳航索が切れて漂流しているのを発見、それに乗り込み、周囲を泳いでいた乗員を助け上げ、マノクワリ目指してと考えていたところ、白露が来て救助してくれた。この戦闘で敵機9機を撃墜したが、わが方は春雨沈没という結果となった。

 春雨は沈没したが、陸軍の乗った艦は5隻全部残ったので、強行輸送を続行することになった。小生は白露に救助され、艦橋にいたが特に職務はなく、観戦武官をきめこんだ。確か白露の艦長が指揮を執っていたと記憶している。ビアク島を目指して強行し、同島の手前10マイル、後30分もすれば目的の揚陸地点、この時、水平線上に敵戦艦を主力とする大艦隊を発見。時に2330ごろ。全部隊全滅を期して突撃すれば、敵に相当の損害をあたえられたが、陸軍部隊を殺すのは不利。また、後に控えた艦隊決戦に(かんが)みて後退を決意、涙を呑んだ。転舵して全艦魚雷発射、敵も我を発見。レーダー射撃で艦の周囲に水柱が林立。わが方は魚雷発射後、後方基地に避退する。敵の方に大爆発発認められたが戦果は確認するに至らず。全艦無事後方基地に避退した。白露はアンボンに入港した。

 この頃第1戦隊(大和・武蔵)を中心に大兵力の増強が計画されたが、実施に至らず。 敵機動部隊サイパン方面に来襲、艦隊決戦を行うべく、艦隊集結。あ号作戦となった。

 小生は艦長以下下士官兵と共にアンボンに残され、艦隊決戦参加が不可能となり、無念の極みであった。マリアナ決戦以降のことはご承知のとおりである。

(なにわ会ニュース8934頁 平成15年9月掲載)

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