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平成22年4月16日 校正すみ


比島洋上決戦にわが金剛主砲の雄叫びよ、ひびけ


長山 兼敏

戦艦金剛 長山兼敏

(編集部 前書き)

この記事は、亡くなった長山兼敏君が雑誌「丸」に寄稿し、197712月号に掲載されたものである。長山君は艦長付兼甲板士官として「金剛」の最後に立ち会った。

輝かしい伝統と栄誉ある戦歴に彩られ,不沈を呼号した高速戦艦の旗手「金剛」。だが2発の魚雷の前にあえなく暗黒の海中に没し去った。「金剛」から奇蹟の生還を遂げた甲板士官が今は亡き精鋭艦と多数の将兵たちにおくる鎮魂歌!

目にみえぬ敵に屈した重巡陣

ハワイ真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争は、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死を境に、いよいよ熾烈(しれつ)の度を加え、主戦場はフィリッピンへと移りつつあった。

 昭和1910月、米軍の比島攻勢に対し「捷一号作戦」が発動された。即ち、レイテ島に集結しつつある米軍の艦艇及び輸送船団に対し、わが連合艦隊の総力を結集し、北方、西方および南方の三方面より攻撃する最大にして最後の作戦である。

 金剛はこの作戦に参加し、その後、内地に帰投中、台湾近海で米潜水艦(戦後シーライオンと判明)の雷撃を受けて沈んだ。

 金剛は、大正の初期に英国ビッカース社で建造され、昭和に入り数次にわたる改装を加えられ、基準排水量31,720トン、最大戦速30ノット、全長222メートル、幅29メートル、主砲36センチ2連装4基8門、副砲15センチ14門、12.7センチ2連装高角砲6基12門、3連装および単装25ミリ高角機銃94門、水上偵察機2機搭載という戦力を持っており、高速戦艦と呼ばれて、その姿はスマートで、近代的である事は艦隊随一であった。

 しかも乗員は艦長以下、日本海軍選り抜きばかりであった。即ち艦長である島崎利雄少将は、海軍兵学校44期の水雷戦隊上がりで、小柄ながら猛将で、副長兼航海長の吉松}大佐は同51期で、英国紳士然として、操艦は実に見事であった。 

 また、艦隊実弾射撃競技においても、相撲、柔道およびカッター橈漕(とうそう)競技においても全て優勝するという、極めて優秀な兵員を揃えていた。私はこの金剛に乗り組み、共に生き、共に戦った事を誇りに思っている。

 さて、いよいよ昭和191022日正午、栗田艦隊は25日未明を期してレイテ湾に突入する為、愛宕を旗艦とし、大和、武蔵を中心とする第1部隊と、金剛、榛名を中心とする第2部隊とに別れ、約10,000メートルの距離を保ちながらボルネオ島の西岸にあるブルネー湾基地を出撃した。

レイテ島にいたる途中の海面は、既に米潜水艦により厳重な警戒網が敷かれていることは十分承知していたが、レイテに行くには作戦上、どうしても危険なパラワン水道を選ばなければならなかった。(注 1)

だが、23日の早朝、対潜警戒を厳にしながらパラワン水道を通過している時、突然前方の部隊で火柱が立った。愛宕と高雄が雷撃を受け、愛宕は沈没し、高雄は大破した。そしてそれから暫くして摩耶も雷撃をうけて轟沈した。

 水中聴音機そのほかの対潜兵器の立ち遅れであったといってしまえば、それまでだが、決戦場はまだはるか彼方である。しかも一発の艦砲射撃、一発の魚雷攻撃も加えないうちに目に見えぬ連合軍の攻撃をうけ、あっという間に何千の将兵と重巡3隻を失うという事を目のあたりに見て、誠に残念に思うと共に今次作戦の厳しさと戦争の無惨さを身にひしひしと感じた。

空母撃沈の喜びのカゲに

 24日早朝、ルソン島南方のシブヤン海を東航している時に敵の触接機1機を発見し警戒していたところ、間もなくF6F戦闘機、SB2C雷撃機など約100機が、太陽に翼をギラギラ光らせながら近付いてきた。

大和、武蔵が誇る世界最大の主砲46センチ砲から撃ち出された対空三式弾が敵機群の中で炸裂(さくれつ)し、煤(ばい)煙は傘のように敵機に覆いかぶさって、あおりを喰らってぐらぐら揺れるものあり、煙をはいて落ちてゆくものもあった。これから夕刻までの10数時間は、数次にわたる延べ数百機の波状攻撃を受けることになった。

 戦闘半ばより敵機はすべて武蔵に集中攻撃をかけてきた。そのため武蔵は数十発の魚雷爆弾をうけて満身創痍(そうい)となり、上甲板を水中に没しながらも奮戦を続けたが、夕方、遂に沈没した。我々は武蔵の勇戦奮闘に救われ、この戦闘の直後、艦隊は西に反転して欺瞞(ぎまん)行動をとり、夜に入るや、直ちに再反転して東に向かった。(注 2)

 こうして25日未明、サンベルナルジノ海峡を通過し(注 3)、東方が幽かに白んできた時、スルアン島灯台の北方95キロの地点で、金剛の見張員が東の水平線上に「敵マストらしきもの数本、距離36,000」と敵発見を報告した。このため直ちに全艦隊にこれを通報した。(注 4)

艦長は、敵は空母数隻を含む機動部隊であり、然も数グループが近くに必ずいると判断した。この時旗艦であった大和より、「天佑(ゆう)を確信し、全軍突撃せよ」と、突撃命令をうけ、これを全艦内に伝達されたが、これを聞いていよいよ最後の時が近づいたなと身の引き締まる思いがした。(注 5)

 この時はまだ、敵はわが方に気づいていない模様であった。(注 6)優秀なレーダーをもっているのに、我々が島影をパックに出てきたから発見出来なかったのか、それとも昨夜の欺瞞(ぎまん)行動が功を奏したものなのか、いずれにしても幸運というより他はなかった。

 その時、大和より「距離30,000、われ砲撃を開始する」との連絡が入り、続いて「初弾命中、軽巡らしきもの1隻轟沈」の報告が入った。これを聞いて全艦の士気は大いに挙がった。こうして金剛も距離24,000から主砲の射撃を開始し、間もなく駆逐艦1隻を撃沈した。(注 7)

 このため敵は強力な日本艦隊の出現に驚き、慌てふためいて東方に、或いは東南方に散り、スコールを利用したり、駆逐艦に煙幕を張らせ、又は魚雷を発射しながら逃げ廻った。

そこで金剛は直進してくる雷跡を右や左と巧みに交わしたが、雷跡が舷側すれすれに後方に走り去っていくのを艦橋から見て、ヒヤッとすることが度々であった。こうして30ノットの高速で約2時間追跡して、遂に空母1隻(戦後ガンビアベイと判明)を捕捉し、これに集中砲火を浴びせた。だが、主砲の徹甲弾は舷側を打ち破り、艦内を貫通して反対舷に突き抜けた。

 これでは何時まで経っても沈むわけがないと判断した艦長は、野口砲術長に水線を狙って撃つように指示すると同時に高畑副砲長に対して、「副砲左砲戦対空弾使用」を命じた。この対空弾は、時限信管だから舷側を打ち破って艦内で爆発し、水線攻撃とあいまって功を奏しはじめ、次第に空母は傾斜し始めた。

この時彼我の距離は僅かに2000メートルであったため、空母の乗員が舷側に鈴なりになって海面に滑り落ちていく姿が双眼鏡にはっきり見えだしたので、「射ち方止め」の号令が発せられた。しかし敵は傾斜し沈みつりある空母から最後まで射撃を続けていた砲があったのは敵ながら天晴れであった。

艦長は、沈みいく空母からいちはやく飛び立った飛行機は恐らくレイテ島のタクロバン飛行場に着陸し、爆弾を積んで我々を攻撃するため再び引き返してくるであろうと判断した。この時の艦隊の位置は、追撃につぐ追撃で、レイテ島の2、3時間の距離まで来ているらしかった。

降りそそぐ弾雨をぬう名人芸.

 果たして予定時刻に電探が敵機影をとらえた。そして間もなく視界に入ってきた。数十機はいるだろう。(注 8)

と見るまに、三式弾の弾幕を潜り抜けて急降下爆撃を仕掛けてきた。

対空戦闘中は、艦長、航海長は戦艦の前橋楼のトップ(水面から約40メートルの高さで、8畳間位の広さしかないその中央に主砲指揮所、10メートル測距儀、電探などがある)の防空指揮所で指揮、操艦をする。だが、ここはなんの遮蔽(しゃへい)もない所なので、全員鉄兜(かぶと)と防弾チョッキを着けている。

 爆弾を回避するため航海長は、敵機の方位、高度、距離、進入角度を測り、独特のカンを持ってタイミングよく、「面舵一杯急げ!  速力前進一杯!」と号令をかけると、31,700トンの巨体はグイグイ振動しながら急速に右に傾き、次に左へ傾き始める。「戻せ、取舵一杯急げ!」と矢継ぎ早に発せられる号令で艦は再び右に傾き、左に急旋回する。まっ白な大きく長い航跡を画きながら回り続ける。舵は取りっぱなしである。

敵機が反転上昇する。その瞬間、ドドンドーンと物凄い振動が体を揺すった。途端に水柱が指揮所まであがり、ドス黒い海水がふりかかった。だが、こうして至近弾数発を危うく回避した。実にうまい操艦である。こういう航海長の操艦なら安心して戦える、と思った。

 この至近弾のため右舷バルジの一部を破損した。また、上甲板の舷側にいた単装機銃員であった相撲部の下士官1名は粉々に打ち砕かれ、艦橋の側面にある機関室の通風孔の金網に叩きつけられて壮烈な戦死をとげた。

 「間上から敵機が突っ込んでくる」と、突然見張員が叫ぶ大声に驚いて上をみた。すると回避運動で艦がクルクル廻っているその回転に合わせて、廻り込み乍ら背面飛行の格好になって突っ込んでくる。その時搭乗員が見えた。その敵機は、クモの巣のような機銃弾の放射線を画きながら迫ってきた。と同時に狭い指揮所の周りの見張員が数名倒れた。我々は中心に寄っていたので、危うく難を逃れた。これを見て、アメリカさんも中々勇敢なヤツがいるな、と思った。

 対空戦闘の合間、配置に就いたまま食べる戦闘配食の握り飯は実にうまかった。そして恩賜のタバコを胸一杯に味わいながら、次の攻撃を待った。だが、この間すでに大和との距離は相当開いていた。

やがて大和より、「集結せよ、隊形を整えて進路を北にとれ」との信号があった。艦長は、飛行機の援護なしの戦闘は覚悟の上とはいいながら、タクロバン飛行場からの敵機の来襲は勿論、レイテに南方より突っ込んだ西村、志摩艦隊や、北方より南下する陽動作戦部隊の小沢機動艦隊の様子も分からない上に、当艦隊も相当の深手を負っているし、本土決戦に備えて艦隊勢力の温存を図ろうと決意して、無念の反転をした。(注 9)

 そしてブルネー湾に帰着した後、直ちに戦死者の火葬を海辺のヤシ林の中で行なった。その途中、B-24 10数機の編隊による空襲にあって、危うく海岸に置き去りにされそうになった。だが、三式弾の斉射で、一度に半数以上を失った敵は驚いて遁(とん)走した。

機関室に命中した一発の魚雷

 1116日、ブルネーを出発して修理と補給のため内地に向かった。矢矧を先頭に右直衛に浦風、浜風を、左に雪風、磯風を配し、中央に金剛、大和、長門の順で隊形を整え、荒天の東シナ海を北上しつつあった。

 対潜警戒のため、第一戦速の18ノットで之字運動を行なっていたが、物凄い荒波と風雨で視界も悪く、直衛の駆逐艦が危険でとても付いて来られない為、速力を落としたその直後である。

即ち21日午前3時1分、基隆北方50カイリの地点で、突然ドカンドカンと二度にわたる鈍い音と、艦体の振動に叩き起こされた。これによって航海艦橋後部にある海図室で仮眠していた私は、すぐ飛んで行って艦長の傍に立った。

 そして「敵潜魚雷2発左舷に命中、場所は錨鎖庫および中部機関室、応急班急げ!」を号令した。この時金剛を外れた1発の魚雷は、直衛の浦風に命中し、これを轟沈させた。その跡には火柱だけを残しただけで、1名の生存者もなかった。艦隊の速力は再び18ノットに戻された。夜間戦闘であるが、戦闘指揮に便利がよいので戦闘艦橋は使わずに航海艦橋をそのまま使うことにした。

 このため鈴木義尾中将以下3戦隊司令部も艦橋にいた。そこで艦長は、司令部に状況を報告した。

今いる所は連合軍の潜水艦が目を光らせている海面であるから、出来るだけ早く脱出して基隆に入港し、応急修理をしたい。しかし、速力をあげれば水圧がかかり、破口が益々大きくなるため、結局、速力を再び12ノットに落とした。

 そして艦長は内務長を艦橋に呼び、状況報告をさせた後、応急作業の進捗を激励したが、何分金剛は老旧艦のため鋼鈑(こうはん)接合部のヒビ割れが次第に大きくなって行き、注水復原やその他のあらゆる工作作業を必死に続けたが、浸水区画は次々と増えて艦の傾斜度は増していった。

傾斜計が12度で止まった頃、このまま傾斜が止まれば上手くゆくかもしれない。だが、尚も傾き続けるようであれば極めて危険な状態になる。

 そのため艦橋は次第に重苦しい空気に包まれてきた。「このまま傾斜が止まって欲しい」と念じたのは私一人だけではなかっただろう。

 やがて艦長は左舷副砲指揮官兼衛兵副司令であるクラスの佐藤達中尉を呼び、艦長公室に安置してあるご真影を艦橋に移すよう命じた。このご真影は万一に備えて、彼が背負って運ぶことが出来るようにジュラルミンで外箱を作らせてあった。

死を決意した艦長をあとに残して

 傾斜計が18度を過ぎた頃、今まで艦橋の前面ガラス窓に接して取り付けてある小さな回転椅子に腰かけ、瞑(めい)目していた艦長は、静かに立ち上がった。

そして司令官の方に向き、直立不動の姿勢で、「司令官」と声をかけた。続いて敬礼、会釈をして静かに「お願いします」と一言言った艦長の目には、涙が一杯溜まり、懸命に歯を食いしばっていた。ここに艦長は、司令官に艦を放棄することの承諾を得たのであった。

 「総員退去、総員あがれ」と、戦闘配置の放棄と救助作業を命じた。艦は最早救えない。しかし、乗員は1名でも多く救助されなければならない。このためには一刻でも早く艦全体に伝えなければならない。そこで伝声管、電話、拡声器、ブザーなどあらゆる方法で伝えられた。

とその時、応急指揮所より、「内務長戦死」の報が入ったが、伝声管から伝わってくる声は声にならなかった。「なに! もう一度言ってみろ」と怒鳴ると、「内務長戦死、指揮所にて割腹戦死」と声が返ってきた。あの優しい丸い顔の内務長は、応急指揮の責任をとって自刃したのだ。悲壮なることこの上もなかった。続いて機関長戦死との報も伝わってきた。

 この時の艦長の胸中はいかばかりか、計り知ることは出来なかった。乗員と共に長い間戦い続け、多大の戦果を挙げて来た金剛を助けようと、最後まで全員が必死の努力を続けた。だがその甲斐もなく、今正に沈めなければならない艦長の心中は、察するに余りあり、誠に無念である。

 「艦長付、下に行って見てこい」との艦長の命令で、私は直ちに艦橋を駆け降りて上甲板に達した。するとハッチを閉めたまま、小さなマンホールから乗員が必死の形相で、先を争って一人ずつ出てきている。そこで私はハッチを開けてやった。すると下につかえていた連中が一度にどっと押し揚がってきた。そのため下に降りようとした私の身体が、どんどん押しあがってくる乗員に押し戻されてしまって、下に行く事はとても不可能であった。そして機関室は殆んど浸水していて、とても無理だと判断し、再び艦橋に戻った。

既に司令官、先任参謀、通信参謀、航海長の順に艦長と最後の別れの敬礼を交わしながら、艦橋前面の窓から一人ずつ体を捩じるようにして艦の外に出つつあった。外はまっ暗で何も見えない。<BR>

 時計は、すでに午前5時30分を指している。艦の傾斜はもう39度にも達しただろうか。今や艦橋には、艦長と私の二人だけになった。そこで私は、「艦長出て下さい。逃げて下さい。私も出ます」と、促したが、艦長はすでに艦と運命を共にする意を決しているようで、黙ったまま腰かけから動こうとはしなかった。

その内にも、艦橋は最早普通の姿勢では歩くことが出来なくなっていた。そのため仕方なく、私は一人で艦橋後部の旗甲板まで床を這()いながら脱出して、手すりに手をかけたが、その瞬間、真っ黒な怒涛(どとう)があらゆるものを呑み込む悪魔の舌のように、私の体に襲いかかった。

暗黒の海面にみた生き地獄

 それからどのくらい時間が経ったのか判らなかったが、気がつくと私の体は海中にあった。それも呼吸が出来ないばかりでなく、どちらが上やら下やら方向が全く分からない。意識を失ったまま水中深くぐるぐる廻されながら引き込まれたのだ。

 平衡感覚なしに下手に泳いで、海の底の方へ行っては大変だと思っていると.間もなく火の燃える明りが水中の一角に見えた。そこで、あちらが上だと直感して泳ぎだした。そしてようやく水面に浮かびあがった。

だが、そこは何と物凄い場面が展開されているではないか。搭載していた飛行機のガソリンが艦の爆発のため燃え揚がり、その明かりの中に映し出されたのは、ドス黒い重油を顔一面に塗りたくられ、誰とも見分けのつかない顔が何百と浮いていた。その顔の中から色々なざわめきが聞こえた。「元気を出せ」「爆発で右足をもがれている。もう駄目だ」などであったが、この他なんとも判らないうめき声を出している者もあった。まるでこの世の生き地獄だ。私は幸い格子型のグレーチングに手の先が触れたが、赤い血のついた肉片がユラユラとくっ付いているような気がして慌てて手を離した。

その時、「6分隊ここに集まれ」と、6分隊長の声も聞こえてきた。やがて一枚の柔道タタミに取り付くことが出来た。だが、それに体を乗せようとすると、タタミが沈むのでそれも出来ず、ただ手を添えているだけであった。その内、数人がタタミのまわりに昇ってきて掴まったために沈みはじめ、私はタタミから離れた。そして今度はドラム缶に掴まった。といっても缶の1センチくらいのふちを指先でおさえ、体の浮きをとっているだけだが、これも暫くすると指が疲れて支え切れなくなり、缶からも離れた。

 やがて火も消えて、皆も疲れたのか静かな真っ暗闇の海面に替わった。そのうち空が薄く白んできた。そこであたりを見回すと、周りに何百という顔があったのに、今では数える程しかいなくなっていた。皆な沈んでしまったのだろうか。とボンヤリと考えていた。

 この小さな割れた竹竿(ざお)1本をもって浮いている自分も、やがて沈んでいくのであろうかと、覚悟を決めた。すると故郷の父や母、そして自分の短い一生の事が走馬灯のように見えてきた。

 「駆逐艦だ」と、その時突然誰かが叫んだ声にハッと我に帰った。見るといくつか、向うの高いうねりの峰に、駆逐艦の姿が見えた。暫くすると波の谷間に隠れて見えなくなった。だが、みんな一斉に駆逐艦を目掛けて泳ぎだした。

 やがて艦は風上に停止して、風速何十メートルという風圧に押し流されて行く。その風下に入らないと舷側から垂れているロープやナワ梯子に取り付けない。私もやっと取り付いたと思うと、艦が斜めに滑って逃げてしまう。これを3度ほど試みたが、3度ともスリップして逃げられた。

この為、私は疲(つか)れたので諦めてしまった。もう泳ぎ出して何時間がたったのだろう、5、6時間は経っているような気がした。間もなく波もすこし収まってきたし、空もすっかり明るくなった。

だが、その時、足の指が痙攣(けいれん)してきた。私は慌てて顔を海水につけて、前かがみになって拇指(おやゆび)を捕まえ、足を屈伸させた。痙攣が足先から上にきたら危ないと聞いている。体力も温存しなければならない。しかし、幸いなことに、昨夜の夜食のお蔭か、それとも緊張のためか空腹は感じなかった。

最後の生存者のみが知る哀歓

 この頃になると、もう周りには誰一人いなくなっており、浮遊物も何ひとつなかった。重油の帯もいつしかなくなっていた。金剛が沈んだ場所から相当離れているらしい。

 昨夜、防暑服から冬軍装に着替え、その上、レインコートを着ていたのが、体の保温の為に幸いした。しかし、体は大丈夫だが、すこし眠くなった。だが、眠ったらお仕舞いだと自分に言い聞かせ、太腿を抓ったりして睡魔と戦った。と、その時突然目の前1,000メートル位のところに駆逐艦が見えた。それは次第に大きくなって、真っ直ぐ私の方に向かってやって来る。それを見た途端、もう大丈夫だ、今は私一人だから私を助けに来てくれたのに違いないと思った。

 間もなく艦は私の傍に近づいて停止した。そして数人がかりで助けあげて貰った。甲板に引き揚げられると急に力が抜けてしまった。しかし、途端に頬(ほお)をピッシャと叩かれ、医務室へ連れて行かれて注射を打たれた。

「おい長山、よかったなァ」、という声がしたので、驚いて声の方を見るとクラスの宮田実中尉だった。

 「艦は救助を打ち切って帰るところだった。ところが砲術長の三輪勇之進大尉が偶々12センチの双眼鏡を覗いていて

 『黒いものが浮いている。人らしいから行って見ろ』と云われて来たんだ。貴様が一番最後の救助者だ。まあ体の油を流して俺の服を着たら、俺のベッドでぐっすり寝ろ」と言ってくれた。

私はなんと運のいい男なんだろうと思った。三輪さんは、ついこの前まで金剛の測的長をされていた人だ。縁があったのだ、と感謝した。金剛の乗組員千数百名のうち、2隻の救助駆逐艦に救助されたのはわずか200余名と聞いた。

 宮田のベッドに横になったが、これまでの事を色々思い出していると、なかなか寝つかれなかった。若い甲板士官は、上陸が中々出来ないからといって、シンガポールの日本料亭に連れて行ってくれた3戦隊司令官も艦長も副長も今はいない。リンガ泊地で出撃前夜、湯飲み茶碗に氷をいれて一緒にビールを飲んだ乗員も、夜の巡検中、動作が鈍いと叱(しか)られて泣いていた第二国民兵の二等水兵の父親を、息子の一等水兵が慰めて二人で泣いていた親子ももういない。

 自分が生きているのは不思議なくらいだ。明後日は母港である佐世保に入港だ。生きて内地へ帰れる喜びはあったが、死んだ将兵には申訳なく、複雑な気持であった。<BR>

時々ドカーンと艦首にあたる波音を、雷撃を受けたかと驚かされながら、私は何時しか眠りについていた。

(編集部)

1025日の戦闘については、若干思い違いがあるようだが、そのまま掲載した。

参考のため史実を付記しておく。

注 1

 パラワン水道を通らずスル海に入りシブヤン海に向かう航路もあった。前者は潜水艦の危険、後者は空襲の危険があった。

注 2

 反転は1530、再反転は1714(まだ日没まで時間あり)、武蔵沈没は1935

注 3

サンベルナルジノ海峡通過は深夜。0030過ぎに通り終わった。

注 4

敵発見は東方がすっかり白んだころでなく、日出後であった。日出は0624、発見は0640

注 5

 「天佑を確信し・・・」は前日午後栗田艦隊の反転を聞いた連合艦隊司令長官が出した電報で栗田長官は出していない。

注 6

 「敵はわが方に気付いていない。」となっているが、0640熊野が2機を発見、艦隊はこれに発砲、米軍は対空砲の炸裂を認め、次いでレーダー探知。大和のマスト視認0645とほぼ同時期に米側も知った。

注 7

 金剛はまもなく駆逐艦1隻を撃沈したとあるが、撃沈していない。

注 8

「果たして予定時刻に電探が敵機影をとらえた。」と戦闘開始から2時間以上たってから飛行機がきたようになっているが、7時過ぎから来た。米側の記録によると0730までに6隻から95機が発進を終えていた。

注 9

 集結の令は0911で、1100にレイテに向かって進撃したが、1226に反転した

(なにわ会ニュース95号18頁 平成18年9月掲載)

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