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平成22年4月23日 校正すみ

平成5年9月寄稿

軍艦鬼怒追悼の辞

水野行夫

水野 行夫 巡洋艦 鬼怒

謹んで軍艦鬼怒戦没者の御霊に申し上げます。

本日ここに軍艦鬼怒戦没者50回忌(平成5年)及び慰霊碑建立13周年法要に際し追悼の辞を述べる機会を得ました事は、鬼怒沈没時乗組員の一人であった私にとりまして感無量、且つ、この上ない名誉の事と感激いたしておる次第でございます。

 

思い起こせば今を去る48年前、昭和1910月中旬優勢なる米軍は比島レイテ島東岸に上陸を開始し、わが連合艦隊は捷一号作戦を発動したのであります。

スマトラ島東岸のリンガ泊地を基地として日夜訓練に従事していたのでありますが、捷一号作戦の発動により1020日ボルネオ北部のブルネイに進出、同日第16戦隊は陸兵のレイテ輸送に任ずることになりました。翌1021日午後5時ブルネイを出港、23日午前4時青葉は被雷し、鬼怒はこれを曳航し、午前8時45分第16戦隊の旗艦となりました。鬼慾は僚艦浦波とともに第1輸送隊を編成し、翌1024日午前7時マニラを出撃、午前7時30分マニラ湾内において敵戦闘機30機と交戦、次いで湾の内外において敵艦上爆撃機13機と交戦、翌1025日には午前8時25分からミンダナオ海西口付近において、敵大型爆撃機約50機と交戦の後、午後3時45分ミンダナオ島カガヤンに入港、陸兵347名と物件を搭載したのであります。午後5時30分カガヤンを出撃、翌1026日午前3時45分レイテ島西岸オルモックに入港し、揚塔陸開始し、午前5時無事揚陸を終えて浦波と共に第1輸送隊任務完了、出港しコロン湾に向かったのでありますが、午前1020分から敵の戦闘機、爆撃機、雷撃機約50機と交戦、1120分に直撃及び至近弾3発を受け、後部機械室浸水、舵取機使用不能、左に5度傾斜、1135分人力操舵に切り換えたものの12時には前部機械室にも浸水し、1230分敵の艦上爆撃機2機と交戦、これを撃退しましたが、発電機室に火災発生、艦長以下乗員必死の応急作業により火災は鎮火したものの浸水は大となり漸次後部が沈下、午後5時には前部機械室の排水も不能になり、左に傾斜増大、5時15分軍艦旗を降下し総員退去のやむなきに至りました。そして5時20分遂に鬼窓は比島の海にその勇姿を没したのであります。

マニラ湾出撃から沈没に至る間敵機延150機と交戦、その10機を撃墜する戦巣を挙げたのでありますが、実に83名が壮烈な戦死を遂げられました。痛恨の極みであります。負傷者も51名を数えました。

 

鬼慾は僚艦浦波及び後続の輸送艦3隻と共にレイテ第一次輸送として陸軍部隊2千数百名と物件の揚陸に見事成功しましたことは後世に残る偉勲でありました。

私は当時、艦長付・航海士として戦闘配置たる艦橋にあり第16戦隊司令官以下司令部職員ならびに鬼怒艦長以下一兵に至るまで全艦火の玉となってこの最後の戦いを戦い抜いたわけであります。

 

当時を偲びつつ特に脳裏に焼きついた事柄を申しあげます。

第一はレイテ島オルモック揚陸時、我等が通信長山根孝雄大尉は左近允司令官の命により、陸軍部隊の要請による通信連絡将校として離艦されたことであります。記録によりますと上陸された山根大尉は昭和20年5月20日レイテ島で戦死されております。

第2は沈没当日の午後艦が航行不能になってから総員防禦部署に就いて懸命に防火、防水に努め、数時間に亘って艦を救う一念で全員奔命(ほんめい)に身を粉にして活動したことであります。

が、この努力も実らず5時15分総員退去の令により右舷から海中に入り洋上で鬼慾の沈没の瞬間を見たことは生涯忘れられないことであります。洋上から湧き起こった鬼怒万歳の叫び声とともに。

第3は、第1分隊長遠藤常右衛門大尉に率いられて陸戦隊として「コレヒドール」に上陸された多くの戦友のことが忘れられません。鬼怒の乗員として連日の激しい戦闘を闘い抜いて困難にも克ち抜いた若い下士官、兵の皆さんがコレヒドール島の激戦に従事されたことに思いを致す時、万感胸に迫るものがあります。

運命のなせる業、私共は幸いに命を永らえましたが、祖国の為尊い命を落とされた100余名の方々の胸中を思います時誠に断腸の思いであります。

今は亡き戦友が身を捨てて国を護り平和国家建設の礎を築かれたからこそ今日の平和と経済的繁栄があるものと信じます。

ここに軍艦鬼怒戦没者の偉大なる功績を称え、その御冥福をお祈りして追悼の辞と致します。

(なにわ会ニュース69号22頁 平成5年9月掲載)

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