平成22年4月17日 校正すみ
第72期艦爆隊戦記
艦爆有志
押本 直正 |
その1
第1章 プロローグ
1 空と海へ. 昭和18年9月15日。
初秋の小雨が時おり歩道を濡らす広島の街に、新しい抱き茗荷(みょうが)の軍帽を真深に、月の眉(まゆ)をかくした気鋭の少尉候補生が三々五々、散策する姿が見られた。彼等の中には、初めて着る引回しの雨具を、これみよがしに肩から羽織っている者もいたが、大部分は酷暑訓練に日焼けした顔を、純白のジャケットの中からのぞかせていた。
彼等は、今から3時間程前に、螢の光に送られて、江田島の海軍兵学校を巣立ったばかりの新少尉候補生の集団であった。その数約3百名。平時であったら、こんな時にこんな風景が、広島の街頭で見られることは、まずなかったであろう。
もし、それが数年前のしかも平時であったら、江田島の表桟橋を、在校下級生の「橈(かい)立て」の礼で送られた彼等には、練習艦隊の八雲、磐手の、その特異な愛敬のあるラムステムが……そして遠洋航海の太平洋の浪枕が……彼等の門出を祝福していたはずであった。
しかし、今は戦時である。
彼等が第2学年生徒に進んだ直後、昭和16年12月8日、西南太平洋にたたかいの幕が切って落された。それから2年、彼等は、真珠湾の、マレー沖の、印度洋の輝かしい先輩達の戦果を聞いた。そして、また、ミッドウェーの、アッヅ、キスカの、ガダルカナルの、山本長官戦死の悲報も知った.
それらは、彼等の最も近い将来に遭遇するはずの出来事で、あったにもかかわらず、水清澄の江田湾は、霊鷹峯に棲みしちょう古鷹山は恰も他人事かのように彼等の成長を静かに見守っていた。そしてまた彼等も、それに応ずるかのように、規則正しい日々の生徒館の生活を続けた。 しかし、戦局の推移と戦術の変換は、彼等から遠洋航海の夢を奪った。のみならず、生徒から飛行学生へ、江田島から霞ケ浦航空隊へ直行とここに艦隊勤務を知らない少尉候補生を誕生せしめた。すなわち、彼等のクラス.72期は、空と海とに、兵学校卒業と同時に2分されたのである。
彼等が、広島の街を闊歩している頃、彼等と3年間起居を共にし、「同じデッキに血を流さん」と誓った半数のクラスメイトたちは伊勢、山城、八雲、龍田の4艦に分乗し、練習実務航海の途についていたのである。
履歴書副本より
15、12、1 海軍兵学校生徒ヲ命ス。(兵学校)
18、9、15 海軍兵学校教程卒業ヲ証ス。(兵学校)
海軍少尉候補生ヲ命ス。海軍練習航空隊飛行学生ヲ命ス。(海軍省)
2 霞ケ浦海軍航空隊
同日、午後9時、広島駅を出発した軍用臨時列車は、瀬戸内海の潮の香りと、若い少尉候補生の熱気をのせて一路東へ、憧れの霞空へ。
霞ケ浦海軍航空隊。大正11年11月1日 わが海軍航空の先覚者達はここに陸上80万坪、水上290万坪の本格的な飛行場を開設した。そして、それまで横須賀航空隊で行なわれていた士官学生の教育をこの地に移した。
兵学校45.6期8名よりなる第7期飛行学生(当時航空術学生と称した)からである。それは丁度、この新少尉候補生達の生れた年にほぼ当っていた。
爾来20数年、日支事変、大東亜戦争と輝かしい空の戦果を生んだ海軍航空の先輩たちは、いずれもこの阿見ケ原の一角から巣立っていたのである。「古き革袋に新しき酒を」。今や新しい酒はもられた。わが72期を主体とする第41期飛行学生の入隊である。
司令少将三木森彦(40期)(通称三木老人)は生徒気分の抜けきらないこれらの学生に訓示した。
「諸官は士官学生である。もう生徒ではない。士官が何をすべきか、何をすべきでないかは、諸君の判断に任せよう。明後19日の日曜日の上陸は自由である。」
指導官付中尉八木 勇(68期)は、お達示した。
「飛行場は飛行機乗りの道場である。飛行場で飛行機乗りらしからぬ振舞いをする奴は容謝しない。学生舎はガンルームである。学生舎で許された時間に羽目を外すことは一向差し支えない。酒を呑んでもよろしい。煙草を吸ってもよろしい。女の話をしてもよろしい。要するに「やる時」と「やらぬ時」のけじめをつけろ。」
純真無垢な学生たちは、早速これを実行した。海軍のきまりとして候補生は外泊を許されないため、日曜日は午前4時頃から起き出して、1番列車で荒川沖や土浦駅から2等車の客となった。初めて吸う煙草に目を回す男もいたし、呑めない酒を喰って小間物店を開く奴もいた。後日譚(たん)によればエスプレイをした、ませた奴もいたとのことである。
10月1日。飛行作業開始。訓練項目は慣熟飛行同乗。筑波山が迫る。霞ケ浦の湖上を飛ぶ。初秋の関東平野の彼方に富士を望む。東方遥かにに太平洋の白波。
狂乱怒涛に鍛えたる 鉄腕今叉翼得ぬ.
男の中の男ぞと 見下す眼下靡(なび)く
筑波山頭朝風に 爆音高く飛立てば
小波騒ぐ太平洋 俺の舞台にゃまだ狭い
ウラル、アルタイ手ばさんで
コンロン、ヒマラヤ下駄にはき
北シベリヤを過ぎゆげは
モスコーにゃ既に数時間
今朝ベルリンの郊外で
ミュンヘンビールに酔い伏すも
1度ハンドル 把(と)り持たば
夕べにゃすでに阿見ケ原
明日は襲わん ワシントン
大洋一気にのり越えて
ロッキー山を蹴とはして
ヤンキーの度胆打ちぬかん
俺も行くから 君も来い
狭い下界にゃ住み飽きた
やがては訪わん マース星
そこにゃナイスや シャンがすむ
93式陸上中間練習機いわゆる赤トンボの単調なエンジンの響きの中から、覚えたばかりの飛行学生の唄が、聞こえてくる思い。
僅かに20分の飛行で、すっかり飛行機乗りになったような気持。中央格納庫から学生舎まで、往復はバスで送り迎え。学生舎に帰ると従兵が、部屋の掃除から身の回りの世話までやいてくれる。学生食堂は士官室なみのご馳走。こりゃ全くこたえられんわいと思ったが・・・
10月4日(月)離着陸同乗訓練。
「安藤候補生離着陸同乗、出発します」
地上指揮官分隊長遠藤徹夫大尉(67期)は、デッキチェアから立上って答礼。
わが愛機 力―565号は、すでに整備員の手で暖機運転完了。列線にいる。
「安藤候補生同乗しました。聞えますか」
先ず伝声管で後席の教官と連絡。後席の岡崎予備少尉、けだるそうに「聞こえる」。
「エナーシャー回せ」ヒューン、ヒューンとうなり出す。やがてその音がキーンという連続金属音となる。頃を見はからって「前離れ」「コンタクト」。ブルンブルンとプロペラが回り始める。操縦桿(ステイック)と足跨棒(フットバー)を交互に動かす。
「操縦装置よろしい。試運転します」
左手のスロットルレバーを静かに入れる。エンジンの回転が速まる。回転計の針が、1200R/Hを示す。スイッチ左右切換。油圧計と燃圧計の指針を読み取る。
「試運転終りました。燃料前缶180立、後缶50立。油圧5、燃圧0.28。出発準備よろしい。見張りよろしい。出発します。」
静かに列線を出る。離陸地点で一たん停止。前後左右上下に障害物なし。
「見張りよろしい。目標よろしい。離陸します」スロットルレバーを入れる。スティックをわずかに前に倒す。飛行機が静かに走り出す。
フットバーを左右に踏んで、飛行機を離陸目標に向ける。直進。スピードが増す。
速度計の針が40節をこす。スティックをちょっと引く。フワリと機体が浮く。上昇・・・
「見張りよろしい。第1旋回」高度計はピタリ250米。気速75節。
「見張りよろしい。第2旋回」 機は、90度正確に回って、離陸コースと正反対の方向を走る。左手に中央格納庫。指揮所の吹き流しから判断して風速は5〜6米。風向きはT型板と一致。筑波山頂が右舷を後ろに走る。
「飛行場よろしい。第3旋回。降下。第4旋回。昇降装置よろしい。着陸します。7米」
車輪のきしむ音がして、見事、3点着陸。・・・てな具合には絶対いかない。
まず、わが愛機93中練はエンジンがなかなかかからないのである。
「エナーシャー回せ」の号令までは大体前述のとおり。「コンタクト」ブルン、ブルンとプロペラが2、3度回る。コトンと音がして止る。「エナーシャー回せ」。やり直しである。ヒューン、ヒューン。ウーン。「コンタクト」ブルン、ブルン。コトン。3度目駄目。4度目。エナーシャーのハンドルを握った岩村、塚田候補生のうらめしそうな汗だらけの顔。遂に人力をもってしては如何ともし難くなると消防車の上に、長い鉄棒をのせたような恰好の自動車が走ってくる。こいつにかかるとさすが駄々ッ子の天風11型3百馬力のエンジンもいやいやながら回らざるを得ない。やっとご始動を遊ばされるという次第になる。試運転結果報告も前述のようにすらすらとは口から出ない。トギレトギレ最後は口の中でモグモグ。
早速後席から、伝声管も破れんばかりのご叱声がくる。離陸操作。これがまた難物である。エンジンを入れる。機首が左に回る。あわてて右足を踏む。左にまがる。蛇行とはこのことである。お尻を左右にふりながら何とか離陸する。後席から「球がとんでる。右に滑ってるぞ。機首が上った。失速するぞ。前の掩体壕にぶつかるぞ。それ右から飛行機が来るぞ」と間断なく叱声がとぶ。あげくの果、「危ないから学生は手を離せ。」全く頭がボーッとして何をしているのか、何をすればよいのか、わからなくなる。・・・、とにもかくにも「初日の飛行訓練は終った。といっても空中僅かに30分間。5回の離着陸を後席の教官がやってくれただけである。ところがその後がいけない。フラフラになって指揮所前に整列すると、隊長柳沢八郎大尉(通称ハチ公、64期)の大雷。
「貴様達の今日の飛行作業、ありや一体全体何んじゃ。空中6分頭といって、飛行乗りは空中では、地上の6割しか頭が働かんことになっている。しかるに、貴様等の頭は3分にも及ばん。この半月間、地上教育で何を勉強した。学生に自由な時間を与えているのは、自分で勉強するためだ。百斤バラストを背負って船体格納庫を1回りして来い」
船体格納庫はかって昭和初年、かのツェッペリン飛行船を繋留格納した、とてつもなく大きい鉄骨の格納庫である。それが中央指揮所から約2千米の飛行場の北西隅に鎮座まします。百斤バラストとは、単独飛行初期に後席教官のかわりに積む砂袋のおもりである。百斤バラストを背負わなくても、ドタ靴と飛行服で4千米の駈足をすれば相当こたえる。
フーフー言いながら指揮所に帰って来ると、69期の重田文雄中尉、70期の武部毅犖、梅田章、脇延清各中尉、兵学校の中央階段に仁王立ちしでいた週番生徒の態よろしくずらりと並んで待ち構えている。
「貴様等の一号として見るに見かねた。間隔を開け、股を開け。歯をくいしばれ。」後は鉄拳の雨あられ。
疲れ切って学生舎に帰る途中、71期で編成している40期の飛行学生。
「候補生は、歩調をあわせて歩け。」
″下士官兵、牛馬、候補生″という諺(ことわざ)が、遠洋練習艦隊の候補生の実態だそうだが、正しくそのとおり。 兵学校の四号時代の再現である。
11月11日 待望の単独飛行。
後席につんだ百斤バラストは教官のように文句は言わぬ。尾翼につけた小さな吹き流しは、処女単独飛行を標示する危険信号。飛行作業を始めて4日目、その間の飛行時間、特殊飛行をふくめて正味、14時間30分。
11月30日.夜間定着開始。
オルジスがぴかっぴかっと夜空にきらめく。「イワテ、降着よろしきゃ」 「イワテ降着」 「ニッシン、出発よろしきゃ」 「ニッシン出発」。独特の節回しの号令が、指揮所の静寂を破る。第4旋回を回り、グライドしながらパスに入る。着陸誘導の青灯と赤灯がぴたりと1線になる。艦尾を示すカンテラが、すっと脚の下を走る。「7米」。
排気筒から赤い火がばっと出る。
「ローザン降着しました」「ローザン列線に入れ」。舷側を示す、カンテラがつぎつぎに消されて、飛行場は暗黒の中に、夜露に濡れている。学生舎に帰って一風呂浴び、食べる夜食の味も格別。
(航空記録より)
(開始月日、 項目 開始時の累計飛行時数)
10月 4日 離着陸同乗 0-30
10月26日 特殊飛行同乗、8-0
11月11日 離着陸同乗 14-30
11月25日 特殊飛行単独 20-25
11月26日 編隊飛行同乗 20-50
11月30日 定着単独 24-35
11月30日 夜間定着同乗 24-55
12月 9日 定着互乗 30-15
12月20日 計器飛行同乗 39-0
12月23日 編隊互乗 42-25
12月29日 薄暮定着互乗 51-45
12月30日 編隊単独 52-05
1月10日 航法同乗 54-30
1月11日 計器飛行互乗 56-05
1月17日 航法通信互乗 60-46
1月27日 複編隊互乗 73-25
2月9日 夜間定着互乗 84-15
2月17日 生地離着陸(霞ケ浦小泉往復)互乗 89-20
霞空練習機教程における総飛行時間
94時間 0分。
うち同乗82回 40時間 5分、
単独20回 7時間 30分。
互乗56回 46時間 25分。
飛行回数 178回。 かくて霞空の全教程を終了。
3月26日終了式。5ヵ月半の間に、水陸分離でで水上機に21名。操偵分離で偵察員に105名。戦闘磯に150名。艦上攻撃機に13名。中攻隊に10名。残り35名(うち機関科コレス3名)が第72期艦隊の鋭鋒として、霞ケ浦の東北、約20粁、草深き百里航空隊に集結したわけである。
(履歴書副本より)
18、12、18 拝謁被仰付(霞空)賢所参拝被仰付(同)
振天府拝観被差許(同)
19、2、26 練習機教程修業に付、百里原海軍航空隊ニ入隊ヲ命ズ(11聯空)
その2
3 百里原航空隊
昭和19年2月26日、霞ケ浦空の練習機教程を終了、3日間の休暇を、ある者は家郷に、家郷遠き者は旅行にとそれぞれ有効に過して、百里原に36名(兵科32、機関科3、軍医大尉1)の艦爆隊が集合したのは2月29日であった。
飛行学生の教程は、練習機と実用機教程に2分され、霞ケ浦ではもっぱら練習機を、実用機教程は九州の各航空隊(戦闘機は大分、艦攻艦爆偵察は宇佐空、水上機は博多空)で訓練するのが、それまで数年のならわしであったが、71期を主体とする40期飛行学生が、すでに九州各地の練習航空隊で訓練中であったため、72期の戦闘機隊は神池、艦攻艦爆偵察隊は百里原、水上機隊は鹿島、中攻隊は宮崎とそれぞれ入隊したわけである。
ついでながらこの際、海軍航空機の機種について若干の説明を加えておこう。
そもそも海軍航空隊の発祥は、水上機にあったようである。すなわちフロートをもった 下駄ばき と称するもので、水上もしくはカタパルトから発進し、偵察、索敵、艦船の弾着観測などの任務を終ると着水し、起重機で母艦に収容される単発の飛行機がそれである。
明治45年に追浜の水上航空隊が開設され、大正3年9月には水上機母艦若宮搭載のフランス製モーリス・ファルマン式複葉双浮(フ)舟機(ロウト)4が青島戦に活躍した記事がのこっている。大正11年、日本においては勿論、世界海軍にさきがけて、航空母艦鳳翔(9,200トン・24機搭載、速力25ノット)が就役した。
その後海軍航空の主体は航空母艦搭載.いわゆる艦上機に移った。一方、昭和10年、96式陸上攻撃機の採用により陸上機が出現した。
このようにその発着する場所により、大きく水上機、艦上機(陸上からも発着可能)、陸上機に3分される。 またその用途により、偵察機、戦闘機、攻撃機(水平爆撃、雷撃)、爆撃機(急降下爆撃)に大別され、さらに搭乗員の数により、単座機、複座機、三座機、多座機と分けられ、その他発動機の数により、単発、双発、四発機などと呼ばれる。
したがって、この分類にしたがえば、百里空に集結した36名の選んだ教程は航空母艦又は陸上から発着し、その主要任務は急降下爆撃、複座(後席に偵察員を同乗させる)、単発の飛行機の操縦員になるということであり、正式には「艦上爆撃機操縦専攻飛行学生」、当時の海軍では簡単に「爆操」といわれるものであった。
急降下爆撃! 文字通り、急角度で降下して、低高度から爆撃することである。水平爆撃とは、高々度、水平、等速、直線飛行を行ないながら爆撃することである。爆弾をおとして目標を撃破することは同じであるが、その方法は極めて対照的である。水平爆撃が静的なものであるにくらべ、急降下爆撃(降爆)は動的である。降爆の戦法はアメリカが元祖らしい。いわゆるヘルダイブと呼ばれ、映画にもなったくらいである。日本海軍におけるそれは、はじめ戦闘機隊(52期源田実氏は昭和9年単座急降下爆撃教育訓練方法考案の功績により、恩賜研学資金を受賞している)によって提案実験され、51期和田鉄二郎氏(霞空時代飛行長、通称和田の鉄チャン)は、ドイツハインケル社製を改造した94式艦爆(当初特爆と呼ばれた)をかつて、母艦龍驤において、昭和10〜11年頃、実用の域に達している。
昭和12年以降の支那事変においては、96艦爆の独特な降下音(急降下および引起し時に翼の張線とエンジンの発する、えもいわれぬ交響楽)を聞いただけで、戦意を喪失する敵があったそうで、その頃にはすでにいわゆる「艦爆乗り」が、「真白きマフラーをなびかせて、ニッコリ笑ってヘルダイブ」していたわけである。余談が長くなったのでここらで本論に戻ろう。
3月2日(木)。
慣熟飛行同乗により飛行作業開始。愛機は99艦爆。彗星艦爆の出現によってやや旧式となったとはいいながらいぜんとして当時の実用機である。低翼単葉。脚が引込まないのがちょっと気にくわぬが、主翼下面には空気抵抗鈑(エアブレーキ)をつけ、胴体には25番(250キロ爆弾)をだいて、240ノットで急降下する。緒戦ハワイをはじめ印度洋、南太平洋と艦爆の先輩たちの赫々たる戦果はこの99艦爆によってあげられたものであった。
(残念ながら、この頃では1式ライター、棺桶(かんおけ)と悪口はいわれていたが)もっとも実用機とはいいながら、練習機にはちがいないので、後席には教官の同乗席があり、ステック.フットバー スロットルレバーは後席と連動するしかけで、伝声管を通じて後席教官の叱声がとぶことは、93中練と大差はない。教官の話が出たので、ここに当時の百里艦爆隊の「教うる人」を列記しよう。
隊 長 阿部善次(64期) 3月中旬より薬師寺一男(66期)。
分隊長 平野 晃(69期)森 国雄(69期)
指導官附 村岡英治(70期)
分隊土 星島埜生男、青野豊(70期)、福山久光(69期)
本田実、荒瀬清(71期)7月より、美田雄次郎(71期)
桑原知(71期)、横山忠重(機52期)。
1人の教官に学生4〜5人。今にして思えば、随分とぜいたくな教育方法である。
3月15日
少尉任官。少尉になろうが候補生だろうが別に変わったことはない。大体午前が飛行作業で、午後は整備実習、座学、通信などの教科、夜は夜間飛行または自由時間というのが、その頃の日課の大要で、順番に副直将校勤務がある。
その頃の日記の1節。
3月21日。火曜、晴、風強シ。
春季皇霊祭。0745 軍艦旗揚ゲ方。0805。遥拝式。午前整備教務(恒速ベラニッイテ)。少尉ノ飛行服デ写真ヲトル。
午後新任隊長薬師寺大尉ノ最近ノ戦訓講話アリ。「ソロモン」「トラック」悲観スルニ足ラズ。然レドモ楽観スベカラズ。皇国ノ興廃正シク吾人ノ双肩ニ在り。別科軍歌。夜映画(韋駄天街道他)見学。明日ヨリノ副直勤務ニソナへ、中途ヨリ帰リ、副官部ニテ諸例則巻1借用一読。満天ノ星、宝石ヲチリバメタル如シ。2230就寝。
3月22日。水曜、晴。2200ヨリ約30分降雨
午前飛行作業。星島中尉ノ前席ニ同乗。「スタント」(注、特殊飛行)高度2500米ニテ、速度計、高度計故障ノタメ中止。午後、隊長ノ事故教訓教務。夜、本日ヨリ整備ノ勉強ヲ始メル。
3月23日。
午前スタント。失速反転ハ思ッタヨリ難シ。午後自習。1700ヨリ村岡指導官附ヨリ一号艦爆ノ操縦法座学。少尉トシテノ最初ノ俸給ヲ戴ク。
3月24日。金。
午前飛行作業。スタント終了後、高度250、第1旋回ヲナサントスル時、体前方ニノメル感アリ。直チニ「レバー」ヲ入レ「ブースト」+100ミリトスレバ加速ニヨリ体逆ニ後方ニオツシケラルル気味トナル。変ダナト感ジツツモ旋回ヲ終り、第3コースニ入ル頃、後席星島中尉ヨリ「小サク回レ」ト注意アリ。其ノ後伝声外レ、後席トノ連絡完全ナラズ、SE(注、南東)ノ嵐ナルモW(注、西風)ニケ不時着。燃圧〇。 ポンプヲツクモ駄目、着陸直後エンスト。(注、エンジンストップ)グライド(注、滑空速度)80ノット。地上ニテ隊長ヨリ「バタコック」(エンジンが「バタッ」と止まったら、直ちに燃料コックを翼槽タンクから胴体タンクに切換えるという搭乗員の常識)ノ注意ヲ受ケ始メテ気ガツキ、危ウグ御六字(注、南無阿弥陀仏、仏様になること)ヲマヌカル。「ウオタードリンキングファーマー」(注、水呑百姓、搭乗員らしくスマートでない意味)ノ最タルモノトシカラレル。
離着陸互乗.(学生同志が搭乗することで、事実上の単独飛行である)開始。宮地少尉卜互乗。飛行時間スタント30分。互乗30分。午後、整備長中村少佐ノ燃費(注、燃料消費量検査法)及びエンジン点検実習。予備学生100数10名入隊シ来ル。兵学校3号ヲ見ルガ如シ。2130就寝。
3月25日。土曜。
午前飛行作業。離着陸.互乗。スタント同乗。飛行時間55分。午後通信座学。7字(注、1分間の速度)受信査定、満点ノ自信アリ。1640隊発外出、石岡駅発上京。従兄宅泊、
3月26日。日曜。
森田屋軍装店ニテ軍服採寸。水交社ヲ1寸ノゾキテ新橋第1ホテル(注、当時飛行学生ノクラブトシテ使用シテイタ)ニテ昼食。銀座金城カメラ店ニテフイルムアルバム購入。2200ヨリ関根少尉ノ慰霊祭(注、関根利彦19、1、4戦死)ノタメ中野鷺宮ノ御宅ヲ訪問。途中関根ノ保証人タリシ水路部山川大佐卜同行。1900上野駅発帰隊。
3月28日 火曜 雨。
不連続線本邦横断。天気図当番ニテ昨夜ノ就寝2400ナリシモ、雨ニテ飛行作業なく0730起床。0800ヨリ石井整備分隊士ノ機体エンジン点検整備法(1100迄)。午後ハ午前ノ続キ。終日雨降ル。天気図当番ノ高崎孝一ト小生ヲ除キ、同室者(注、高橋義郎、宮地栄一、前橋誠一の5名1室にあり)総員6時半頃ヨリ寝テシマウ。
3月30日。木曜。晴。
午前6時起床 飛行機出シ方。飛行作業ハスタント、離着陸互乗。森下、伊佐機 鉾田本隊間ノ雑木林ニ不時着。機体大破セルモ両名無事。ケロリトシテイル。飛行機ハヨクコワスガ中々人間ハコワレヌ。午後自習、別科野球。夜間、映画見物、米国製ノ天然色映画ヲ見テ日本ノ其ノ方面ニ於ケル進歩ヲ切望ス。凡ソ現代科学ノ進歩如何ガ近代戦ノ勝敗ヲ決ストイヒテ過言ナラズ。然ルニ吾人日常使用セル物品殆ンド、コレ、毛唐ノ舶来カ模倣ナリ。甚ダ残念ナルモ致シ方ナシ。紅毛ノ模倣シ得ザルハ精神的方面ノ力ノミヲ以テコソ戦争ノ勝敗ヲ決シ得ルヤ? 甚ダ疑問ナリ。
航空朝日ヲ読ム。曰く。英航空雑誌「フライト」2月10日号は、デイリーテレグラフ紙記者の報道を基礎としてイタリヤ戦線に出現した独逸のロケット機を紹介、全長9フィート、翼幅十フィート、胴体部分が爆弾、親飛行機の無線操縦により無人ロケット推進、時速3百乃至4百マイル。米英側では戦闘機、高角砲によるこのロケット機の阻止は極めて困難なることを体験し異常な恐怖に陥っているが、その基地飛行場の爆撃に全力を挙げている。また、曰く。ソ聯双発急降下爆撃機PE12
推定性能。全長12.66米、幅員17.26米。最高時速540粁、巡航428粁、上昇限度9000米、馬力1,100。急降下角度50〜70度。航続時間2.5〜3時間、飛翔半径1,000〜1,500粁。天気図ヲ書キ終リ2350就寝。
要するにこの頃の生活は正しく晴飛雨休。天気がよければ飛行作業、雨が降れば座学かゴロ寝。といっても朝は6時に起きて、飛行機を列線にならべ、前述のように祭日(21日)も休まず、土曜日(25日)の午後といえども勉強し、研究を怠らず、試験があれば徹夜もし、ただ日曜だけは大いに浩然の気を養っていたようである。今でも常磐線を旅行すると当時を思い出してなつかしいが、日曜日上野7時発の下り2等車(現在の1等車にあたる)の座席は百里飛行学生(偵・艦攻学生を含む)によって占められ、「学生車」と呼ばれていたほどであった。
5月1日(月)。
いよいよ待望の降爆訓練開始。2カ月間にわたる、離着陸、特殊飛行、計器飛行、夜間定着飛行の訓練で約35時間のなじみをもった99艦爆は、大体我々の手足のように思い通り動かすことができ始めた。「降爆」艦爆降りの本職である。
そして、また何といひびきをもった言葉であろうか。3機編隊で離陸する。高度3千ないし4千。接敵運動開始。1番機がかすかにバンク(翼を左右に振ること)する。「爆撃」針路に入る。「爆撃隊形作れ」の合図である。1番機を先頭に単縦陣、機間隔2百米に占位。目標の十字的がエンジンカバーの右側に沿って翼下に移動しようとする刹那、右30度変針。エンジンを絞りながら、エアブレーキを出す。的は再び機首に移る。
ステックを前に押す。機首がグッと下がる。速度計の針が動き始める。150・・・190ノット・・・。右手のステックをさらに倒す。左手は爆弾の投下索をまさぐる。ステックを握る右手と、フットバーを踏む両脚は、照準器をのぞく目と連動して絶えず横位の修正を行なう。飛行機を傾けたりすべらしたりすると弾着がとぶからである。
降下角度50度、尻が座席から浮き上るような感じ。
後席からは伝声管を通じて、高度が知らされてくる。「2500、2000、速度計の針は200ノットを越す。照準満星、機はピクリとセット。後席から「1000メトトル、700、用意、500 てい」左手の投下索をぐいと引っ張る。
1粁の演習爆弾が翼を離れる。エンジンを入れると同時に.ステックをぐいと引く。一瞬貧血を起し目の前がくらくなり、頻の肉が下がるのが感ぜられ、体は機体にいやというほど押しつけられる。
急降下から急上昇へ。5百米から一挙に3千米。ちらりと下を見やる。演爆は目標に直撃。白煙が上るのがかすかに見える。歌の文句ではないがニッコリ笑って、ダイブに入る。友の艦爆勇ましや、上る黒煙消えさるなかに、見たぞ、轟沈、天晴れな! てな具合にはなかなかまいらぬ。
先ず降下角度の判定である。降下健爆の標準角度は50度であるが、その判定が最初は極めて難しいのである。ウソと思うなら、諸君、高き山に登って実測を試み給え。諸君が50度と思う角度はおそらく20度に過ぎないであろう。人間の感覚などというものは、極めてあいまいなもので、殆んど垂直(90度)と思った角度が、実は50度位なのである。
艦爆乗りといえども人の子である。人の子であるかちには、最初はこの儲覚におちいる。ここぞと思って降下姿勢に入ると後席の教官から「潜撃をやっているのではない。(注・潜水艦爆撃は20度の緩降下で行なう。)」と、とたんに怒鳴られる。まだよ、まだよとたしなめられて、目標上空を通過したのではないかと思う頃進入すれば、ちょうど50度になるのである。最初はその勘がなかなかつかめぬ。進入時点からこの調子であるから、途中の修正などはなかなかどうして…
旋回計の玉が右や左にとんで飛行機はすべりにすべる。下から見ているとそれがよくわかる。指揮所に降りて黒板を見ると、その日の成績がつぎのような記号で書かれている。
32〜38(進入時の角度32度、引越時角度、38度)、
遠(投下時点が遼すぎる)、
浅(角度浅し)
方(方向不良)、
佐(左に傾き)
右(右に滑る)、
×(総合的に降爆煤の態をなさず)
△×4(ギザ4丁、注、ギザとは50銭銀貨、したがって、罰金2円也を納入して、指揮所のシロップ代に充当すべし。)
一旦2回降爆訓練をしてそのたびごとに2円ずつ罰金をとられていたのでは、中尉の安月給(航空加俸を加えて当時90円程度ではなかったろうか)では破産してしまう。
桜は散った。5月に入ってから、日曜日返上。連日の降爆訓練で練度は急激に上った。
6月10日。
敵機動部隊、マリアナに来襲。「あ」号作戦発動。数日前に行なった図上演習そのままの事態が発生した。
その3
「あ」号作戦(サイパン沖航空戦)の経緯は他の戦記に詳しいので省略しよう。要するにサイパン島占領を企図した米軍を、その西方マリアナ海域において捕捉殲滅しようとしたのがこの海戦である。
6月19、20日の戦闘で大鳳(72期指導官入佐俊家中佐飛行長として戦死)、翔鶴、飛鷹を失い、7月6日サイパン所在部隊は、玉砕の打電を最後に通信は杜絶した。
サイパンの玉砕は72期艦爆隊とは直接の関係はなかったが、間接的には大きな影響を与えた。というのは艦爆学生教程最後の仕上げともいうべき、標的艦摂津に対する動的爆撃訓練とその基地大分空への移動訓練の中止であった。サイパン沖の悲報はちょうど、われわれがその移動爆撃訓練の研究会の席上にもたらされたのである。
宮地少尉が「坂は照る照る 鈴鹿は曇る」と唄の文句を交えた名調子で鈴鹿峠越えのコースを説明していた途中であった。
もともと摂津の動的爆撃訓練は、艦隊(空母部隊)と飛行学生の共同訓練として計画されていたが、片方の艦隊がその乗員と機材の大部分をサイパン沖において失ってしまった以上、そしてまた戦局が日に日に非になった現在、学生だけのために摂津を動かしてくれるだけの余裕はもはや帝国海軍にはなかったわけである。
動爆訓練の中止は当然、大分空への移動訓練の中止ともなった。艦爆学生の中には、非常に心得のよろしい者(注)がいたが、その連中は、大分における約10日間の訓練中、別府プレイにおける行楽を楽しみにしていた。当時の別府は艦隊休養のメッカであり、天然の温泉は勿論、そのための設備や人が完備していた。
(注、先日の爆会において別府における訓練〃と口をすべらした奴がいる。心得のよろしい者の一例である。)
何はともあれ、戦局はわれわれの訓練をも犠牲にした。別府訓練の代りに首里鈴鹿の短距離移動訓練が7月中旬2回に分けて実施された。当時の日誌につぎのような名歌?が誌されている。お粗末ながら。
1 昭和19の7月の 頃も半ばの12日
勇み勇みてわれら飛ぶ 首里鈴鹿の初飛行
0730 1番機 中隊長は地をけりぬ
2 指揮所上空通過して、高度6百集合し
9機編隊堂々と コース210と5度
霞浦を一飛びに 利根川越えて海見えぬ
3 東京湾は地図のごと 吾等が翼に掩われぬ
木更津すぎて 横須賀の軍港眼下千米
浦賀剣崎瞬く間 針路260度
4 行く手如何と眺むれば 航空の険峻伊豆箱根
快晴の富士右に見て 背丈を較ぶ達磨山
越ゆれば既に駿河湾 清水、静岡焼津町
5 島田金谷の宿々や 昔の難儀偲びつつ
大井一飛び天竜の 河幅広し浜松市
漸く腹も空き初めし 変針280度
6 浜名豊橋渥美湾 瀬戸内海のそれに似て
みどり島山点々と 三河知多湾伊良湖岬
名古屋は右手遥かにて 伊勢海湾に霧深し
7 四日市市の大煙突、ミストの中に吃立す
白子の浜の波分けて 一きわ白し滑走路
0932全機無事 鈴鹿の土をふみにけり
8 ああ余等こゝに選ばれて 艦爆隊の鋭鋒や
空征く屍雲染めて 決戦の空わが物と
敵蹴ちらさん時ぞ今 富士の高根よご覧あれ
4 決戦の大空へ
昭和19年7月29日。5ケ月半の霞ケ浦における練習機教程。さらに5ケ月の百里艦爆教程。併せて1年にみたない、そして200時間程度の飛行時間ではあったが36名の72期艦爆隊は1名もかけることなく無事卒業の時を迎えた。まだ、尻に卵のかけらをつけたくちばしの黄ばんだ雛鳥ではあったが、帝国海軍艦爆隊の正統をうけつぐ自負心と責任感は、内に臓(ぞう)する攻撃精神と共に、はちきれんばかりの若さをみなぎらせていた。
・妖雲低く乱れ飛び 狂風諷々吹き荒ぶ
嵐の空に雄々しくも 降魔の翼はばたける ああ武き艦爆隊
・熱風氷雨の荒れ狂う 7つの海に敵を見は
たぎる血潮は火とぞ燃え 今ぞ翳(かげ)さん破邪の剣 爆音轟々発艦す
・突撃せよの命令に 我身は仮令燃ゆるとも
腹に抱けるこの1弾. あてずば何ぞ斃るべき
(69期伊藤敬四郎氏作詞、同 矢板康二氏作曲、艦爆隊の歌より)
卒業に当って薬師寺隊長は
「短期間の訓練によって、かくも練度の上ったクラスはけだし稀有である。自信と勇気をもって実戦部隊に参加せよ。」と訣別の辞を述べられた。
そして同日付をもって次のように発令、海軍公報に掲載された。(以下広報略)
今日は手を取り語れども 明日は雲居のよその空
8重の潮路も安らけく 重き務を尽せかし
新鋭の到着を待つ実施部隊の展開基地へ、
北海道へ、台湾へ、はたまた比島へ・・・
内地航空隊の教官配置に残された者たちの悲嘆をよそに・・・慌しく飛び立ったまま帰らなかった若鳥達よ。今何処。
義に殉じ、国に殉ぜし若者と 語らいし頃の 暖かき日よ
(なにわ会ニュース6〜9号 昭和40年3月から掲載)