平成22年4月19日 校正すみ
在米回天探査の旅
海軍大尉 小灘利春
平成13年 9月 15日
補正 10月15日
大戦の終期、日本海軍は人間魚雷の採用に踏み切り、別表のとおり各種の型式の「回天」を相次いで開発し、製作を進めた。
戦い終わって、米軍は実戦に使用された回天一型ばかりでなく全回天の厳重な処分命令を出し、米国に運んだもの以外すべてが爆破または海中投棄されて、日本の地上から姿を消した。
最近になって米国に現存する回天の実物が三種類、三基あることが判明した。
われわれ搭乗員としては戦後五十六年を経た今、かって生命を託した兵器に再び手を触れたいとの思いはひとしおである。
さらに在米回天の一部には型式に疑間があり、その解明はわれわれに課せられた責務であった。
その旅がこのほどようやく実現した。はじめは元搭乗員が二十人近く参加を希望していたが、健康上の障害や日程の都合から結局七名のチームを組んで訪米した。平成十三年八月二十日の夕刻、成田を出発、ニューヨークに向かった。飛行時間が十二時間三十分、時差は夏期時間なので十三時間。日付変更線を越えて同じ日付のほぼ同じ時刻にケネディ空港に降り立った。
(1)ハッケンサックの海軍博物館
第一の調査目標はニュージャージー海軍博物館所蔵の「回天二型」である。ニューヨーク市の西の境界であるハドソン河を越えて、少し入ったハッケンサックの町にある。 回天二型は44年8月、回天一型の兵器採用と同時に本格的な人間魚雷として開発が決定した。
ロケット戦闘機「秋水」と同じ過酸化水素、水化ヒドラジン、それに石油を燃料にして水中速力四十ノットを出す。しかし四十五年三月製作中止となってそのあと呉工廠で再開し、六月に二基完成、試運転に成功した。終戦後米軍が二基とも持ち去っており、その回天二型の一基がロンドン郊外の英国王室潜水艦博物館に前半分だけ現存する。
ハッケンサックにある回天は以前ワシントンDCの米国海軍工廠の広場に長いあいだ屋外展示されていたもので、のち海軍歴史センターの倉庫に移された。最初からこの回天は二型とされ、種々の刊行物こも回天二型と明記されている。
しかし、写真でみると胴体を構成する部分の数が一つ多い。接合部が余計あるので外見上は四型である。
しかしこ型が完成した時期の事情から、或いは呉工廠が大量生産した四型の胴体を使ってこ型を組み立てた可能性も考えられるので、中に入って内部設備を調べないかぎりは型式の判定ができないのである。それでハッチを開けてほしいと九十年以降文書照会を重ねていたが一向にラチがあかない。元搭乗員の井本武之助氏(兵七十四期)、ついで全国回天会事務局長の河崎春美氏(甲十三期)が現地に行き調査したが、艇の内部こ入ることは叶わず、判断できなかった。そのうち九十九年五月、この回天はドイツの潜航艇「ゼーフント」とともにバッケンサックに移された。そして一年前「ハッチを開けた」と連絡があったので訪米調査旅行を計画し、参加希望者を募った次第である。
さてニューヨークで出迎えてくれた旅行社のアシスタントは「念のため調べたら月火は休館日でした。月曜の昨日、博物館に電話したが誰も出ない」とのこと。そんなことは初耳なので、館長の自宅に電話してもらったが不在。あらかじめ館長には手紙と、同文のメールを出してあったのに、これにも反応がない。
行っても休館中では入れないであろう。日程を繰り下げれば、以後の航空券とホテルの予約を七人分切り換えなければならないが、それが果してできるものか。「訪米第一歩にして頓挫か」と皆がっくりしたが、そこで考えて「船を持つ施設が無人になることは多分あるまい。ともかく予定通り現地に行ってみよう。駄目ならそのときに考えればよい。当たって砕けろ」と決断し、ハイヤーを契約した。
翌八月二十一日の朝、ニューヨーク四十五番街の古めかしいルーズベルト・ホテルを出てラッシュのなかをハドソン河を渡り、四十分で博物館に到着した。回天は入り口に近い、線の芝生のなかにいた。事務所は案の定、閉鎖されていて扉をこじあけて怒鳴ったが誰もいない。しかし、川岸に浮かぶ潜水艦でペンキ塗りをしている人影が見えたので、訪問の趣旨を述べると、喜んで即座に回天に登れるよう脚立を用意し、館長を電話で呼んでくれた。休日なので館長はかなり離れた自宅におり「皆で自分の家に来てほしい」としきりに勧めてくれた。気持ちは有り難いが、時間の余裕がないので断った。
回天二型は胴の直径が一・三五米と高くて中に足場がない。先頭の私は七十八歳の文字通りの「老骨」で脚に自信はないが、狭いハッチに手を掛けて飛び下りた。内部の機器は大体揃っており、状態は良好である。真鍮の部品は昔のままに光って変化を感じない。鉄部は一面に赤錆びてはいるが表面にとどまった銹で、膨らんではいない。私は白い衣服のまま、汚れるのを覚悟して艇内に入ったのであるが、錆や油が全くつかなかった。問題は操縦席の前後である。前方には空気気蓄器が四本、直立して並んでいた。これはハワイのものと全く同じ四型の構造であって、二型ならば過酸化水素のタンクがある筈である。操縦席後方はかなりの長さにわたって空洞であった。ここは二型ならば水化ヒドラジンのタンクと蓄電池があり、四型であれば酸素気蓄器が三本横たわっている筈であるが共に存在しない。
しかし、奥に見えたのは、斜めに八の字の形に配置された二本の補助清水タンクである。この様式は四型のものであって二型とは異なる。なお、頭部こは回天四型との刻印があったが、これは付替えのできる駆水頭部(訓練用)なので、決定的要素ではない。二型と四型では直径は同一、全長もほとんど変わらない。このように、二型としての特徴は何ら見受けられず、逆に四型の構造が外見、内部設備とも存在することから、この「回天二型」は事実は四型と思われる。戦時中二型、四型の製作を担当された技術士官がたに確認をお願いした上、結論を公表したい。ただ、円型としても酸素気蓄器が全くないことに疑問が残るが、これを取り付けない状態で引渡したのか、または何らかの理由で艇を分解して抜き出したものであろう。
潜望鏡(特眼鏡)は高く上げた状態で固定されている。塗装は全体が草色になっていた。「本物は艶消しの黒だ」と言ったら「回天は緑色だ、と誰かが言ったからこの色に塗ったばかりだが、早速塗り直す」と答えてくれた。回天と並べて置いてある「ゼーフント」はドイツの、左右に魚雷を抱く「海龍」に似た構造の二人乗り潜航艇で、腐食がかなり進行している。意外にも外部の一部に木材を使っているが、そこも腐朽して割れており、惨めな感じである。ここの回天も屋外の雨ざらしでは、いずれ同じ運命であろう。
現在は地上にじかに置いた状態であるが、屋内に入れるのでなければせめて土台を五十センチほどに高くして、土の湿気から離す必要があると考える。
事務所の中で思いがけない物の発見があった。館員は「何だか分からない代物」と言ったが、紛れもない回天一型の潜望鏡(特眼鏡)である。字も目盛りも綺麗で当時の新品であろう。われわれにはなんとしてでも、貰い受けたい貴重品である。この博物館は新設から日が浅く、規模も小さいが、川岸に係留した米国潜水艦「リング」S−297は活動状態のまま保存されており迫力がある。司令塔は立ち入り禁止、無線室には各種の通信機器がぎっしり詰まっていてレーダー、ソナーもそのなかにあるとのこと。急速潜航のベルを鳴らして艦長号令を実演してくれた。柵の外に青年が寄ってきて「日本から来たのか」と聞くので「昨日ニューヨークに着いたばかり。この回天を調べに来た元搭乗員たちである」と言ったら、彼は新聞記者で、直ぐに携帯電話で主筆とカメラマンを呼んだ。一人一人をつかまえて興奮気味にインタビューをとり、写真を撮っていた。社長も後からやって来た。翌日の州の新聞に記事が掲載される一方、ホームページで全米に流れたようである。
終わってニューヨクの街に戻ってから、夏時間で日が長いので国際貿易センタービルを訪れた。壮麗な巨大建造物の展望台に登って、眼下に広がる市街の風光を楽しんだが、僅か三週間あとにテロリストによる
旅客機の突入事件が発生した。特攻に似て全く異なる悪質なテロ行為であり、一段と怒りを覚える。
回天元搭乗員の来館を伝える現地新聞
回天の内部
回天一型 特眼鏡
(2) キーボード海軍潜水艦博物館
米本土北西端のワシントン州の州都シアトル市と湾を隔てて向き合った半島に米海軍墓地のひとつ、プレマートンがあり、その北側の小さな町、キーボートに海軍が運営する潜水艦博物館がある。近くには戦略原子力潜水艦部隊の・母港もある。キーボートに回天が存在することは、潜水艦研究家として、また親日家として知られる副館長のウイリアム・ガルバー二氏から九九年、私の許に一遍の手紙が舞い込んできたことから判明した。
まさかと思ったが、回天の各型の見取図を送付して照会したところ、数葉のカラー写真が送られてきて、駆水頭部付きの回天一型改であることが確認できた。胴体右側の上半分の外板が切り取られて、内部構造が写真でもよく分かる。部品も充分揃っているようで、保存状態はかなり良好と見受けられた。そもそも国天一型は約四二〇基が生産されて次々と実戦に投入されており、終戦となって残っていた回天を米軍は徹底的に処分した。
回天一型は大津島から駆水頭部付きの訓練用を四基、本国に持ち帰ったと同基地指揮官の板倉光馬少佐は語っておられる。
八月二四日朝、シアトルから高速船でプレマートンに渡り、この地方に二台しかないタクシーの一台に全員が乗り込んで博物館に到着、開館前であったが招じ入れられて一同はガルパー二氏と歓談した。
同館は各国の新旧各種の魚雷を集め、綺麗に手入れしてわかりやすく展示している。広大な整備工場のなかにも多数の魚雷を保管し調査、整備中である。そのほか古今の潜水艦から潜水服、機雷掃海具、深海調査船「トリエステ」ほか、水中で使用される各種の実物や資料が陳列されている。片田舎なのでこれまで訪ねた人は少ないと思われるが、特に魚雷に関しては世界随一の施設ではあるまいか。当地の回天一型改一は、真っ赤に塗装されているのは止むを得ないとして、各種機器が大体完備状態まで整備されており、潜望鏡はワイヤーが新品に交換され、上下、旋回まで滑らかに出来る。故郷に帰った気持ちと言うか、元搭乗員たちにとっては堪らないほどの喜びであった。
なお、この回天は国立スミソニアン航空宇宙博物館から借り受けているものという。米国海軍潜水艦の第一号「ホランド」S−1が就役したのは一九〇〇年であり米国の潜水艦関係書は着実な発展を重ねた百年の歴史に深い感慨をもっているようである。同日、米国最大の戦略原子力潜水艦「オハイオ」SSBN−726の艦長交代式がたまたま同博物館の大講堂で行われ、勧められて全員が式典に参列した。同艦乗員ほか家族、来賓多数が居並ぶなかで、サイドパイプの吹鳴に始まり新旧艦長ほかのスピーチが続いた。
実に荘厳な雰囲気である。元帝国海軍としても共感を覚える式典であり、思いがけぬ幸運であった。お国柄とはいえ、艦長夫人が一緒に壇上にあがるのはやはり意外の感がある。
回天一型改一
回天一型改一
回天一型改一
(3)ハワイ・ポーフィン潜水艦博物館
オアフ島パールハーバーのこの博物館で屋外展示されている回天は四型である。本格的人間魚雷として二型に次いで回天四型の開発が始まった。九三式魚雷と同様、純粋酸素で石油を燃焼させ発生ガスで往復動機関を駆動する方式であるが、四五年三月に製作中止となった。光海軍工廠でも「回天工作隊」を編成して四型の生産に取り組んでいたが、このときをもって打ち切られた。しかし、その後、本土防衛のため量産が再開され、終戦のときは横須賀工廠で三基完成・組み立て中が約一〇基、呉工廠でも三基が完成し、約一五基が組み立て中であったという。
米国人は来歴にはあまり関心がないようで、どの回天も経緯がはっきりしないが,当方で調べたところではこの回天はもともとメリーランド州インディアン・ヘッドにあり、米国東岸コネクティカット州ミスティックに移ってミスティック・シーポート博物館で屋外展示されていた。これがさらにハワイに移転したものである。
覗き窓から胴体の内部を観察できるので、操縦席の後に酸素気蓄器が存在し、その配列状況から四型であることは一目瞭然である。前方には直立する四本の気蓄器がならんでいる。駆水頭部の上には国天四型の雷道計器を収めた舞鶴工廠製作の頭部であることが漢字で刻印されている。前記の光工廠で回天の生産を担当された技術士官武者広吉氏も以前、ハワイを訪ねて四型と確認しておられる。横須賀工廠で製作したものと考えられるとのこと。内部は丁寧に銀色塗装されており、保存状態は良好、部品も概ね揃っている。海の近くであるが熱心な手入れを受けているので、長期保存の点には心配がないと思われる。元搭乗員と名乗ればハッチを開けて中に入れてくれる。潜望鏡がないのが残念であるが、これを加えれば「人間魚雷」の迫力が一段と強まるであろう。
日本語をよく話す館員との間で詳細な情報交換ができ、また行き届いた世話で、同博物館に係留してある潜水艦「ポーフィン」SS−287、また海中にある戦艦「アリゾナ」BB−39、その背後で威容を示す戦艦「ミズーリ」BB−63を効率よく見学することができた。
回天四型
回天四型
回天の内部
米国に残る三基の回天を訪ねる旅は各地で温かい歓迎を受けて予期以上の成果を得た。このことが回天の事実を集積、整理してゆく上でひとつの大きな前進になたったと感謝に堪えない。
在米国天が引き続き好意的な維持管理を受けて後世に永く姿をとどめることを願うものである。
回天を保有する各国博物館
○米国海軍潜水艦博物館(キーボート)
○米ニュージャージー海軍博物館 回天四(二?)型、回天一型特眼鏡、USS LING(SS−297)展示
○ハワイ潜水艦博物館(パールハーバー) 回天四型,USS BOWFIN(SS-287)展示
○英国王室潜水艦博物館(ポーツマス近郊) 回天二型(前半部のみ)保存
○湯豆腐・嵯峨野. 回天十型(試作基)展示
※現在は呉市海事歴史資料館(大和ミュージアム)に移管
○靖国神社 遊就館 . 回天一型改一展示
○徳山市教育委員会(回天記念館関係:生涯学習課文化係).
回天一型改−の実物大模型を下記の記念館に展示