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平成22年4月18日 校正すみ

回天特攻作戦と伊36潜

杉田 政一



 当稿は平成1512月8日 兵76期愛知県分会総会において兵72期杉田政一が行なった講演の要旨である。 

杉田 政一 回天で戦死した都所 静世

  只今ご紹介戴きました海軍兵学校第72期の杉田政一でございます。

 本日は表記のタイトルでお話致します。

 72期の三号生徒は74期で、その三号生徒は76期でありまして、皆さんは所謂孫三号生徒になろうかと思います。

 62年前の昭和1612月8日は太平洋戦争勃発の日で月曜日でありました。

 総員千代田艦橋前に集合、軍艦旗掲揚。監事長より「本8日未明帝国は米英と戦争状態 に入った」旨話され、我々も遂に来るべきものが来たと武者振いを覚えたものであります。

 当日は素晴らしい晴天で、古鷹山の頂上にポッカリと白雲が掛かっておりました。 後で聞くところによれば、真珠湾の上空は雲が切れていて、淵田中佐率いる攻撃隊が 突撃したと云うことで、その後に山火事で燃えたことと合わせて、因縁めいたことと思います。

 さて伊36潜は、昭和1512月横須賀海軍工廠において起工され、約2年後の昭和1712月竣工、第6艦隊(潜水部隊)15潜水隊に配属され、戦列に参加したのでありますが、当時、前線は苦戦の状態で、最初の任務が、ガ島の輸送でありました。戦闘用に作られた艦が輸送任務とは、まるでレーシングカーが宅配をやらされるようなもので、初代艦長の稲葉中佐(のち大佐)は乗員の士気を鼓舞する為に「南無八幡大菩薩」という吹流しの旗、(昔倭寇の時代に使った旗)を作り、出港に際して掲げ、無事帰港すれば、この旗のお陰で武運が目出度かったと、一種の心理作戦に利用されたのであります。然し司令部の頭の固い幕僚には気に入られず、ある時トラック出港の際旗艦から信号で「出入港に際し海軍旗章令にあらざる旗を掲げることを禁ず」とあり、命令に 背く訳にも行かず一旦降ろして、南水道を通過すると、もう出港したのであるからと 再び掲げたのであります。そして伊36潜は困難な輸送作戦に5回も成功したのであります。 

 その後回天作戦が始まると各艦はこれに倣って競って吹流しの旗旒を掲げ、中には鯉のぼりを掲げた艦もあり、伊36潜は「七生報国」でありました。

 

金剛隊作戦

全回天作戦を通じ 最も雄渾な作戦であつた。

36潜の「回天塔乗員」 

加賀谷 武大尉

71期で私と潜水学校で同期であった。春風駘蕩、常に微笑をたたえた穏やかな人物。悠然自若とした態度は、特攻という非情の世界にあって、周囲に救いを感じさせるものがあった。  

 

都所 静世中尉

53期でコレス。潜校も一緒、長身偉丈夫、烈々たる闘志を秘めた熱血漢。幼くして母を亡くし、兄嫁を姉のように慕い、遺書に偲ばれる。

 

本井 文哉少尉

54期 若さに溢れた青年士官。少尉の縁続きの本居大佐(神戸監督官)の留守宅に下宿させて戴いた縁もあり、最後に回天に塔乗する際、艦橋で固く握った手の温もりが今も忘れられない。

 

福本 百合満上曹

予科練出身でなくて、老練な水雷科の下士官で、魚雷の神様のような人。控えめのうちに不屈の闘志を秘めて回天の整備に当る姿は頭の下がる思いであった。

 

36潜は191230日大津島基地出撃、20年1月1日潜航の儘皇居を遥拝して祝杯を挙げる。一路南下、次第に暑さが加わってくる。1110230水上進撃中、逆探感あり潜航、哨戒艇により、爆雷投下を受けるも被害なし。0300 西進、0800北方に変針。

ウルシー環礁より5浬離して約2ノットの速力で北進せるも、艦位の誤差のため、1300ウルシー環礁の南西部にあるヤウ島に潜航の儘衝突、座礁。私は非番にて士官室で仮眠していたが、ショックで飛び起きた。咄嗟の事とて何も分からず、とにかく異常事態なので私の配置である司令塔に急行。垂直のタラップが傾斜しているので這うようにして司令塔に上がって見れば、スピードメーター零、深度16米、アップ13度 従って艦首は海面から10数メートルであると推測される。艦位は明確な事は分からないが、敵の眼前であることに間違いはなく、しかも真っ昼間であるので、とにかくこの儘で夜の更けるのを待つことになった。

 総員配置から第3配備になり、当直員を残して後は、電灯、通風装置も止め、音を立てないように、空気も汚さないように仮眠することになった。私は哨戒長を引き継いで当直に立ったが、水上航海中ならば、見張り、之字運動、会敵時の処置等で瞬時の油断も許されないが、艦が停止しているのではやることが無い、艦内は寝静まり静寂と気だるさに満ちている。閑になると色々な妄想が起こるのは凡人の常。 

聴音室からは逐一報告が来る。ポチャンポチャン、コトコト、ザッザッ、ゴロゴロ、

全周から継続的に感2、感3で入ってくる。環礁内には工作艦や浮ドックもあり、その雑音が聴取されるのである。

 南の海は澄んでいるので、この程度の深さでは上から見えると思われる。発見されて爆薬でも仕掛けられているのではないだろうか、いや、クレーン船で引き揚げにかかっているのであろうか。珊瑚礁の岩石が甲板上を転がるのが人の歩くように聞こえる。哨戒長としての責任上、暗号長を督励して機密書類を袋に詰め、魚雷の頭部を外して自爆準備に掛かる。 前日の2時30分に潜航してから既に20時間以上経過し、温度は40度以上になり気圧も上昇、極限状態に近い。上衣も脱ぎ、汗に濡れ、思考力が減退し神経が苛立ってくる。数歩歩くにも口をあけ肩で息をする。発令所の1人がフラフラツと立ち上がり倒れ、把手に眼をぶつけて負傷した。

 12日午前2時 月の落ちるのを待って離礁作業に掛る。重量物を前部に移動、中央の補助タンク排水、傾斜計の気泡の動くのを見て「後進微速」「排水ヤメ」「注水」手空き総員前部に移動。艦はようやくリーフを離れたがドンドン浅くなってゆく。

 『両舷機停止」「ネガティブ注水」水面に浮上するのを避ける為のあらゆる処置をとったが遂に及ばず海面に浮上してしまつた。

 かくなる上は止むを得ない。頼みの14糎砲は回天搭載のため撤去してあるので、「機銃戦用意」「見張員上がれ」 ハッチを開けるのももどかしく艦橋に上がって見ると、驚いたことに目の前に椰子の木が夜目にも黒々と見えるではないか。前方には2〜3千米彼方に敵艦隊がずらりと停泊し、停泊灯、信号灯、スパークの火花が見える。将に虎の尾を踏む思いである。

 ようやくリーフから遠ざかっているとガサッ、ガリガリと来た。また座礁したのである。然し潜水艦はその点有難い。予め注水して吃水を深くしているので難なく離礁。この間敵に発見されなかったのは幸運という外ない。

  浮上した機会に、交通筒の無い本井少尉、福本上曹は艦橋を経由して回天に乗艇。

 艦はしばらく水上航走して発進点のロワリュー水道入口の6.5浬西方に向う。到着して潜航。「回天戦用意」交通筒のある加賀谷大尉、都所中尉乗艇。一号艇より順次発進。

「御成功を祈ります」「お世話になりました。後を頼みます」司令塔内では命令、報告が交錯し、粛然と発進作業が進められて行く。発進準備中、4号艇福本上曹より「酸素が漏れて苦しい」の報告あり。艦長「発進取止めるか」福本上曹「苦しいがいきます」 本艦の右前方200mに敵機より爆弾投下もあり、一刻の猶予も許されない。4号艇は決然としていった。

 本艦の真上には敵機が居るので直ちに深々度潜航。ジツと身を潜めて様子をうかがっているとスクリュー音聴取され爆雷投下、露頂して回天の戦果を確認したいのは、 山々であるが、敵艦が近くに居ては如何ともなし難い。一同祈るような気持ちで待つうち、発進後約1時間から15分間に亘って環礁の彼方より、回天による爆発音が相次いで聴取され、一同粛然として黙祷を捧げる。

 本艦の上で対潜攻撃を行っていた敵機、敵艦は礁内で起こった大爆発に驚いて礁内に引き返し攻撃は止み、伊36潜は帰途についた。甲板上は主なき架台のみが4基悄然と残った。出撃より10数日起居を共にした塔乗員は、神となって去った。

我々の胸中には、任務を果たした安堵感とともにやり切れない空しさが残された。

 

「神武隊」

 回天作戦の基地攻撃は、敵の警戒が厳重となり、労多くして功少なくなったので、 洋上攻撃に転換せざるを得なくなり、最初の「神武隊」が編成され、伊36潜は3月1日硫黄島に向け出撃したが、以前に出撃した潜水艦が何れも消息不明。伊44潜  川口艦長が、同島周辺の敵の警戒厳重のため泊地侵入は困難とみられ帰投。司令部もようやく事態を了解して中止することとなり、3月10日呉に帰投、本格的に洋上攻撃に取り組むこととなった。また従来4基であった回天を2基増設して6基とし、全部交通筒を付けて潜航中も乗艇できるように改良された。

「天武隊」が編成され、伊36潜はサイパンと沖縄を結ぶ洋上に待敵することとなり、4月22日出発、26日到着。翌27日、4列縦隊約30隻の大輸送船団を発見、4基に発進を命じた。(2基故障) 敵護衛艦が近づくのを認め、深さ40米に潜入、最初の爆発音、続いて3発の爆発音が艦体に響くほどの振動で伝わり、4基命中が確認された。

 続いて「轟隊」が編成され6月4日大津島出撃。ハワイとサイパンを結ぶ線上、ブラウン島北方海域を目指すこととなった。豊後水道出撃後、昼間潜航、夜間充電のため浮上。6月10日夕刻浮上、第1戦速之字運動、私は哨戒長を引継いで当直に立った。ようやく星のキラメキが増してきたが、西の水平線の辺りには未だほのかな残照があった。この海域には夜光虫が多い。変針するたびに夜光虫が光る。少年の頃、金波銀波の波を押し分けて進む王子さまが乗った船の漫画のスクリーンをフッと一瞬思い浮かべた。然しそのうたかたの感傷は、この苛烈な戦場で許されるはずも無かった。

 突如「雷跡!右120度 500」 右後方見張りの甲高い叫びに振り返る余裕もあらばこそ、私は咄嗟に「取り舵一杯」と下令した。艦首はシブキをあげて回頭するが動きがもどかしい。「戻せ 120度 宣候」雷跡と平行に艦を持っていってほっと一息ついた。魚雷は本艦の急変針による後方側面に拡がった艦尾波のうちに消えていった。

恐らく右側面近くをかわして行ったと思われる。将に一瞬の出来事で、冷や汗がジットリと膚に感じられた。

 617日 配備地点到着。20日夕刻、浮上直後大型輸送船隻発見。急速潜航、遠距離で襲撃できないので1時間後に浮上して後尾につけ、進路、速力を判定。針路90度 速力12節くらい。然も敵は電探の電波を常時発信しているので、相当距離をとつても逆探で敵の方向は分かると判断。1万米以上等距離運動で、明朝、日の出頃 敵の前程で潜航待機することとし、速力20節でこれを追跡、予定通り敵の前方に進出して潜航待機していると、別方向から音源。露頂観測すると大型タンカー、「回天戦用意」、回天故障。魚雷戦に切り替え1500米で魚雷6本発射。船首と船尾に各1本宛命中。僅かに傾いたが油が水に替わっただけで徐々に動き出し遠ざかって行った。

 回天が全基故障しているので、23日から哨区を離れ回天修理。25日3基使用可能となる。27日哨区に復帰、28日大型輸送船約1万トンを発見。方位角90度、距離6500米(魚雷は2000米以内でないと当らない)で池淵中尉発進。敵船は機銃大砲を撃ちながら回避運動。艦長は今か今かと潜望鏡を上げっぱなしで約1時間命中を待った。この間、艦尾方向に音源があると聴音から報告があったが何も見えなかった。艦尾には自艦の推進器があるので、自艦のものだろうと問題にしなかつた。

 突如 聴音室から「右145度 ヂーゼル音近い」との報告。艦長が潜望鏡を回してみると、敵駆逐艦が潜望鏡一杯に見え、艦長らしい男がこちらを指差しているのが見えた。「潜望鏡下ろせ、深さ40、両舷強速」40米に潜らないうちに、敵は肉耳に響く「ザッザッザッ」と推進器音を立てながら真上を通過。「ダダン、グワン、グワン」と百雷一時に落ちるかと思われる爆発音。電灯は消え、天井の塗料が落ち、一瞬何も見えなくなった。この時ばかりはみんながもう駄目かと観念した。

 敵は反転して2回目、3回目と1回10発位の爆雷投下、司令塔内でもシューと水の入る音がしてしばらくして止まった。後で調べたら、昼間潜望鏡の対物鏡が破れて水が入り、筒に満水して接眼鏡で止まっていた。艦内は味噌も糞も一緒という状況、4回目の真上通過から敵は2隻となり協同攻撃を開始。その時久家少尉が2度目の回天発進を進言してきた。1回目は最初の爆雷攻撃の直後で、何とか脱出するからと拒否、2回目の時は、万一艦と運命を共にする事になれば今までの基地での訓練も無駄になると思い、久家少尉、柳谷兵曹に「発進用意」を命じた。 ところが二人が乗艇してみると電話機故障、電動縦舵機も故障で、そんな不完全な状態で発進を命ずる事は出来ないと退艇させた。前部に電池室があるので、爆雷をなるべく後部で爆発させる よう艦を持っていったため、後部の浸水がひどく仰角15度で深度も50米から60米と次第に沈下していった。深度を保持するため、敵前ではやってはならないとされている「チョイブロー」まで実施せざるを得ない状況にたち至った。

 この時又々、久家少尉が発進を進言してきた。未だ日没まで4時間以上、敵から離脱の公算は殆どなくなり、艦と運命を共にするより回天塔乗員により良き死に場所を与えることになろうと考え、艦長は最後の決断を下した。その時艦は深さ70米、仰角15度の上甲板から、久家少尉は前方から、柳谷艇は後部甲板から阿修羅の如く突進して行った。

 艦内では必死の応急作業が続けられていたが、発進10数分後大爆発音が轟き、駆逐艦の音源は消えていった。死闘5時間、乗組員は汗と油にまみれながら、神になった3柱の御霊に黙祷を捧げた。

 満身創痍、伊36潜は帰途についたが、油を引いていたため、哨戒機に追尾され、急速潜航の繰り返しで、安全潜航深度100米のところ150米まで落ちたこともあつた。夕方浮上した時の放電量120%、高圧空気の残はあと1回分だけというギリギリの状態であった。

豊後水道にようやく辿りついたところで、敵潜水艦に雷撃されたが、調定深度が深かったせいか、艦底をくぐり抜け沖の島に衝突爆発した。

 7月9日 光基地入港。午後呉軍港に帰港した。戦後入手した米側の記録によれば、米駆逐艦スプローストンは、南方12浬にいた1万トン輸送船アンタレスが小型潜水艇の攻撃を受けていると発光信号で通報してきた。本艦は可能な限りの速力でこれに向った。約5浬のところで、アンタレスが小型潜水艇を攻撃しているのが見えた。我々はその方向へ針路をかえた。その地点に到着左舷に横切りつつあった潜望鏡を発見した。乗り切ろうとしたが成功せず、潜水艦は本艦の旋回圏の内側に入ってきた。「衝撃用意」の号令が飛んだ。潜水艦ははっきり見えた。非常に近いのに本艦はそれに当たらなかった。それは明らかに大型潜水艦であった。あらゆる型式の爆雷を投下した。600ポンド爆雷26発、300ポンド爆雷29発、計55発 6回の攻撃を行った。広い海面に油面が見えた。そのとき魚雷の航跡が右舷艦首60度から接近するのが見えた。距離500ヤードで、5吋砲で砲撃を開始。一斉射撃の1つが命中して大爆発が起こり沈没した。

終戦を直前にしてお互いに相手をヤッツケタと思って帰投し、伊36100名、 米駆逐艦スプローストン250名は、無駄に命を捨てなくて済んだことになった。

 私個人ではもう一度危機があつた。628日の戦闘で、各部損傷が甚大であったので、ドックに入って修理することになった。当時レーダーの電波を吸収する塗料が広島工専(現広島大)で研究製造されており、私は早急に本艦に付けてくれるように交渉していたのだが、中々付けてくれず、業をにやし兵員数名を連れて広島工専まで行き、持ってくることにしていた。7日にはドックを出る予定だったので、6日早朝から広島に出かける予定だった。ところが工廠から、6日早朝ドックを出て欲しいと云う連絡があり、6日早朝ドックを出て、沖のブイに向って微速で航行しているとき広島に原爆が炸裂したのでした。あの赤味を帯びたキノコ雲がムクムクと上がってゆく様子を不気味な思いで眺めたのを今でも鮮明に思い出されます。

 予定の変更が無かったら、私は運命の8時15分に広島に居たことになっていたのでした。

「おわりに」

  祖国の危急に臨んで、愛する祖国、親兄弟、そして幼な児たちを護るべく、身をもって国難に殉じた回天の若人の至高至純の精神は、日本民族の前途を照らす(かがり)()として燃え続けるであろう。そしてその偉業は民族の誇りとして、永久に顕彰されるべきであると思う。

追記

 

ラッキーサブマリン伊36潜水艦

36潜は一等潜水艦乙型として、訪独潜水艦を含む同型艦20隻建造されたが、終戦時に残ったのは伊36潜只1隻のみであって、米国戦史には幸運艦(ラッキーサブマリン)と云われている。

これは 

() 開戦前の昭和1512月8日に起工され、資材も充分整っていた時期であり、艦体が強靭で、度々の爆雷攻撃に耐えられたこと。 

() 実際に兵器を操作する下士官・兵が艤装以来乗艦しているベテランが半数近く居たこと。

() 3代に亘った艦長がそれぞれの特色を生かして優れた指揮をとったこと。

() 目に見えない運がついていたこと。初代稲葉艦長が伊勢神宮において艦内神社を受けられた時、驟雨がサッと横切って行った。神官が「この艦は運が良いですよ」と言ったという。

 これは戦後2回行ったウルシー環礁慰霊の旅においても、数々の幸運に恵まれた。

3代の潜水艦長

 稲葉 通宗(51) 

郷土の英傑に見立てれば信長(敵の意表をつく、反骨精神)。

17・1・12日 伊6潜艦長としてジョンストン島北方において米空母サラトガを雷撃 魚雷二本命中。天聴に達す。  

 潜水学校教官時代 三ナ訓  抜かるナ。慌てるナ。愚図つくナ。

 著書 「進路東へ」「海底11万浬」

 昭和6111・3日 逝去。

 

寺本 巌(兵60期相当) 

見立て家康(沈着・慎重・豪胆 )  昭8 神戸高等商船学校卒業

 昭9       海軍入隊

 昭9〜15    砲艦、駆逐艦乗組み  支那事変の功により功5級金鵄勲章授与

 1520 潜水艦勤務(75、呂59、伊156、伊36)

 19・4・16  空母撃破  潜水艦武功章(轟沈マーク )授与。

 昭20・7 潜水学校教官として訓練出動中敵機の攻撃を受け 戦死。 

 

菅昌 徹昭(65)

見立て秀吉(頭脳明晰、決断力、強運)

 昭1612・8   伊22潜航海長として同期の岩佐中佐を送る。

 昭1620    潜水艦勤務(22、伊33、伊、伊、呂109、呂49)  

    これら潜水艦は退艦後全部沈没。
20・1・12   比島西方海面において機動部隊(戦艦4、空母4)襲撃

 戦艦に命中 潜水艦武功章授与。

昭20・4     沖縄東方海域において航行艦を攻撃成功により潜水艦武功章授与。

 2749     陸上自衛隊(陸将補)・

 61・3・299     逝去

(なにわ会ニュース93号 平成17年9月掲載)

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