回天搭乗訓練開始
小灘 利春
平成15年10月 1日
関隊後間もなく回天の搭乗訓練が始まったが、その頃使用できる兵器は三基だけ、それも全て試作艇という貧弱さであった。これでやり繰りして、何とか訓練を進めるほかない。しかし、兵器の本体である九三式の酸素魚雷は極めて危険な代物であって、純粋酸素の通り道に油分など異物が少しでも残っていると爆発する。一回訓繰に使用すると分解手入れして再び組立てるが、三基では一日二基の訓練が最大限度である。そのためには普通1週間はかかる整備作業を一日半で済ませる無理をしなければならない。基地の整備責任者として選ばれた超ベテランの整備長、浜口米市大尉はどの工程も手抜きせず、どこを省くか、大変な技術的判断と遮二無二の努力を迫られた。熟練した水雷科の特務士官と下士官兵が各地から選ばれて赴任してきたが、この基地ほど緊張感を強いられ、且つ労動時間が長く、苦しい勤務は余所の艦艇ではなかったであろう。病人も多数出たと聞く。
回天隊では階級の上の者から、大津島着任が早かった者から搭乗訓繰に入った。先ず訓繰指導者を急いで育成する、差し迫った必要があった為であるが、出撃もまた搭乗員の上級者、古参者からであった。最先任の兵学校七〇期以下、大体先任順どおりに先任搭乗員になって潜水艦ごとのチームを組み、還らぬ壮途に就いていった。
訓練に使える回天の基数と整備に制約があるから、一部搭乗員を出撃可能な技量にまで集中訓繰で仕上げ、そのまま出撃させるほかないという切羽詰まった事情もあったが、根本的には「指揮官先頭」の日本海軍の伝統に従ったからである。最先任搭乗員の故・上別府宜紀中佐は至極当り前のように、また故・黒木少佐とともに回天を実現させた故・仁科関夫少佐も真先に出る優先権があるかのような顔で、初陣の菊水隊で出撃して行かれた。上の者から特攻に出てゆくことは、回天隊に限ったことではない。今の世、「海軍は兵学校出を温存して、予備士官と予科繰ばかりを殺した」と言う知識人?が何人もいるが、戦後の軽薄な世相に乗った根拠のない勘繰りであろう。各部隊とも出身別の在籍者と特攻戦死者の比率から見れば判ることである。
大津島ではごく初期から七一期の帖佐裕中尉が訓練の運営、指導を担当された。翌日の搭乗者を指名し、訓練艇の番号、使用海域、発進時刻、追縦艇指操官の割り振りなど、それに同乗者を決めて、毎日発表がある。初めての搭乗員が操縦者の操縦する艇に同乗して見学することが多い。潜望鏡の前の空間に座るが、そこは下部ハッチの上であり、膝を抱えてやっと座れるほどに狭い。逆に熟練者や出撃隊の隊長が同乗席に座って観察、指導する場合もある。
私の初搭乗は、九月半ばに帖佐中尉から「君、明日乗ってくれ」と告げられ、当時 「練習的」と称した試作艇の単独操縦から始まった。従って、私は狭苦しい同乗席に座ったことが一度もなくて済んだ。あとは専ら初心者たちを同乗席に乗せた。
印象に残るのは先任将校の溝口智司大尉(のち少佐、副長)である。我々の兵学校当時の教官であって、成績優秀、頭脳明晰であるとともに、誠実温厚な人格者であった。九月末頃に大津島へ着任、私が操縦する艇に体験同乗された。回天が発進してすぐ、同乗席で俯きになり、ぐっすり寝込んでしまわれ、訓練が終りハッチを関けるまでそのままであった。操縦者が一手でも間違えれば共に殉職であるから大抵の人は緊張するのに、である。外が見えないから退屈なのは当然としても、よほど暢気な御方かと思ったが、信用して頂いていることが私には嬉しかった。
訓練海面
大津島周辺で操縦訓練に使用する海面は別表のように訓練の内容、難易によって区分された。各自最初の操縦訓練は波が静かな徳山湾内で一回だけ実施した。ここを第T訓練水域と言った。
訓練開始二日目に試作艇第一号の海底突入事故が発生したのはこのコースである。魚雷調整場のガントリークレーンで水面に下ろされ、横抱き艇で防波堤の外に出てから回天の機械を発動する。湾の奥にある蛇島(サジマ)に向かって片道五千米の直進航路を、潜航と浮上航走を繰り返しながらの往復であるが、ある時期、浮上航走のみの片道3千米に押さえられ、速力も7ノットに制限された。
湾内の水深が浅いためもあるが、第一回の搭乗では各種装置の正確な操作、潜望鏡観測法、それに航走感覚の会得には適度と見られたのであろう。
二回目の操縦訓練からは湾外の周防難に面した魚雷発射場から発進する。魚雷調整場で整備を終えた回天をトロッコに載せ、整備員たちが押してトンネルの中を通り過ぎ、発射場に出る。ここで搭乗員が乗り込み、電動縦舵機の示度をレールの真方位の162度に合わせて発動し、ハッチを閉めて、デリックで吊り上げる。このときは整備員たちが回天の前後部にロープをとり、岸壁と並行に保ちながら海面に下ろす。横抱き艇に曳航されて発射場場まで進出し、電動縦舵機の針路を252度に設定する。横抱き艇の上に立つ掌整備長がハンマーで艇を叩いて合図すると、搭乗員は操縦席で後ろを向き、発動桿を力一杯押して機械を発動、発進する。その際の設定は、当初訓練の度に皆で色々と条件を変えて実験した結果、速力は確実に熱走する20ノット、深度は5米、予備浮力は10
0 Kgに決められた。
第U訓練水域は馬島と洲島を左に見て廻り、徳山湾入口の灯台を設置した岩塊である岩島との間の水道を通り抜けて湾内に入り、調整場の前面水域に帰る。どの海域の訓練も帰る先は此の徳山湾に面した魚雷調整場の前になる。
第V訓練水域は発射場の正面沖合に並ぶ野島諸島の一周である。発射場本来の目的であった九三式酸素魚雷の試験発射の際に速力計測に使う三角形の二重立標(見通し標識、トランシット)が島の西側山麓の二、三箇所に立っていた。回天の速力や旋回圈などの性能試験も普通この海域で実施した。
(回天を扱った図書に、この第V訓練水域が欠落しているものが多い)
第IV訓練水域が大津島の北端を廻って帰る長いコースである。狭い所がいくつかある上に、小さい島や低い岬、水面下に隠れた岩などの障害物が多く、頻繁に浮上、潜入を繰り返して進路を変えながら航走しなけれぱなない。狭水道通航の訓練をするには絶好の場であった。搭乗員は狭水道通過訓練に出る前に、自身の考えで最適の進路を選んで、海図上に予定航路を記入する。速力は普通、水中経済速力である12ノットを使った。何分何秒間潜航して浮上、どの目標を真方位で何度方向に見て変針するか、水中障害物を避けるためにはどの物標を何度以下に見ないように操縦するか〈避険線〉、などなど細心の航海計画を立てておく。
航走するにつれて酸素を消費し、浮力が大きくなって潜り難くなるので、潜航中に時々海水パルプを開けて釣合タンクに入れ、浮力を調整しなければならない。深度5米で何秒間注水するか、予め計算して海図に書き込んでおくと便利であった。
第V訓練水域は徳山湾外である。周防難の北部に当たる広い海面で、潜水艦からの発進と航行艦襲撃訓練に使用した。
泊地襲撃訓練
環礁などの泊地に碇泊している敵艦を攻撃する場合、回天にとっての最大の難関は入口の狭水道の通航である。実戦ならば「無事に通り抜けさえすればこちらのもの、あとは好きな目標を選んで正横に占位し、全速で突撃すればよい」のであるが、この通峡が大問題なのである。狭水道通航は所謂地文(チモン)航法で、山や海岸、岩礁を識別し、その方位、距離を測定して自艇の位置を確認しながら、予定航路を正確に辿らねばならない。観測が必要な場所、時期以外は潜航するよう要求された。浮上航走する時間を極力短縮し、しかも隠密裡に露頂、潜入を続け、発見されないように進むのが基本である。初心者はどうしても水上航走が長くなるが、航法に自信がなければ、安全のためには止むを得ない。
通常泊地攻撃は黎明時、或いは明るければ夜間が有利なので、夜間訓練は必須であった。それに適した時刻に訓練を開始して暗い視界のなかを走り、停泊艦を目標にして突入する訓練を一人何回か繰り返した。適当な目標艦がいないときは、突入の段階は省略する。月があればそれだけ視界に明るさがあり、島の山影はよく見える。星空でも多少は判る。しかし晴天ならまだしも、夜は雲が多いほど暗く、当然見えにくい。夜の雨は視界が一層悪く、訓練が出来ないが、航走中に雨が降りだして難渋した例があった。地形はシルエットがはっきりする場所ならよいが、平たく特徴のない海岸では自艇の位置を測定、確認し、狭水道を発見するのが難しいであろう。月もない暗闇では、波の中を走りながら観測する回天にとっては無理である。目標艦は湾内の静かな海面に浮かんでいるものは比較的よく判別できた。
航行艦襲撃訓練
この訓練には徳山湾外の野島東方水域を使用した。回天は沖合の潜水艦から発進、または魚雷発射場から出た後、遠くにいる目標艦に向かって接近し、襲撃する。初心者の場合、目標艦は速力8ノットで直進した。回天搭乗員は発見すると目標艦の速力と方位角、距離を潜望鏡で観測して判定し、突撃に有利な位置に就くよう針路を決めて潜航接近する。模範的には目標艦の五百米手前で再度浮上、目標方位と方位角、速力を確認して潜入、速力を最大の30ノットに上げて突入する。
目標の速力、方位角に応じた射角を算出して目標艦を望む方位に加減し、さらに変針に伴う旋回圈の修正量を、距離により算出して加えなければならない。目標を見た方位は観測した瞬間のものであって、刻々変わってゆくから、測定を終え次第、時を置かず速力を上げて潜入、突撃しなければならない。こう言った諸要素を正確且つ極力敏速に処理しなければ命中しないのである。搭乗員は乗艇訓練に備えて日常、これら作業を練習していた。この、旋回圈修正量を加味した射角を出すため、搭乗員は各自で方位角、距離、方位に応じた図表を目標の速力毎に作成しており、これを携行して訓練に臨んだ。
大津島の発射場の二階に板倉指揮官苦心の「簡易机上襲撃演習機」が置いてあり、操作する兵員が待機していた。特眼鏡と同じ視野の望遠鏡から覗くと、軍艦の模型が見える。その向きは操作する側で自由に設定でき、態勢が本物どおり変わってゆく。「浮上」の号令で眼鏡の蓋が開き、近づいてくる横型の敵艦を眼鏡で見ながら「突入針路何度」と通知して「潜入」と叫ぶと視野が閉じられる。あと「命中」或いは「何米後方通過」などと襲撃の成績が出てくる。搭乗員は何時でもそこに行き練習ができたので、私はひと頃は毎晩この演習機に通った。
昭和二十年の一月上旬には千早隊以降の出撃予定搭乗員たちが交代で広島県大竹にある海軍潜水学校へ出掛け、潜水艦長の襲撃演習に使う本物のシミレーション装置で航行艦襲撃の訓練をしていた。大津島基地の日誌に彼等の出張が記録されている。
潜航中の回天の深度とは、海面から胴体の底面までの深さである。従って艇の上面は1米浅い。それに余裕を見込まなけれぱならないから、目標艦の喫水に少なくとも2米を加えた深度を取って突入しなければ艦底に衝突する危険がある。私は常に「喫水プラス3米」にした。
研究会の席上、当日の訓練を済ませた或る士官搭乗員が経過を説明し「目標艦の喫水を3米と判定、深度を3米にとって全速突入しました」と、堂々と報告して一同を絶句させた。幸い外れたからよかったものの、若し命中していたら多分、殉職であった。この士官搭乗員は私の知らない人物で、その後も顔を見ていない。他の基地から一時的に訓練のため来ていたのか、或いは退隊したかも知れない。
「鹿を追う猟師、山を見ず」という言葉があるが、目標艦を追って襲撃を繰り返しているうち島や岩、航行中の機帆船などに衝突した事故が度々あった。訓練海面が狭い上に、瀬戸内海の小型船の航路筋なので一般の船が頻繁に通る。当然、目標ぱかりに気を取られることなく四周を警戒すべきではあるが、回天の場合実戦では普通その必要がないので、少なくとも初めのうちは研究会の席であまり厳しい警告はなかったように思う。
目標艦に接近しすぎて突入し、衝突した例もあった。回天の殉職者十五名のうち目標艦との衝突によるもの三名、航行中の船舶に衝突二名、島に衝突一名、計六名に及ぶ。ほかに衝突の負傷者は何人もいた。なお、米軍が投下した機雷による訓練中の戦死者三名がこの殉職者に含まれている。
航行艦襲撃の目標艦は初め頃は第一特別基地隊所属の小型貨客船「紀進丸」がつとめた。後に瀬戸内海で待機中の駆逐艦が交代で目標艦になった。狭水道通過の訓練は、回天が航行艦襲撃専門の時期に入ると省略されるようになった。しかし陸上の前進基地に配備される回天の場合、狭水道通過訓練の経験が或る程度は必要であったと思われる。