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回天整備配置 

小灘 利春

平成 9年 7月

昭和二〇年三月のある日、大津島の士官室で指揮官板倉少佐から私に指示があった。

「回天を整備する人手が足りない。訓練回数が増えないから、搭乗する機会が廻ってこない搭乗員が沢山いる。この急場を凌ぐには、搭乗員に整備作業を手伝って貰うしかない。予科練出身の搭乗員のなかから、回天整備をやってくれる人員を急いで選抜してくれ」 

基地内の事情はその通りであった。甲飛出身搭乗員分隊の分隊長を担当していた私にも、合理的な事態改善策であることわれた。そこで、分隊の全員を兵舎に集め、当面の急務として整備の勤務に就く希望者を求めた。

第一特別基地隊の大津島分遣隊にいた甲飛出身の下士官搭乗員は一九年九月二一日土浦航空隊から最初に到着した一〇〇名の内、四八名が一二月一日、開隊したぽかりの光基地に移動、代りに奈良航空隊出身の一〇〇名が着任して合計一五二名。そこから金剛隊以降出撃者が出始めており、搭乗員分隊には出撃を前に練成訓練中の搭乗員を含めてそのころ一四七名程の二等飛行兵曹がいたが、その三分の一ほどに当面、整備配置に就いて貰わねばならない。 

皆を前に、私は長時間説明し、熟考を求めた上で、一同から希望者を募った。だが承諾の意思を表明した人員は必要数にほど遠かった。当然であろう。

大空を自在に飛翔するつもりで甲種飛行予科練習生を志願したのに、戦局悪化に応えて水中兵器の搭乗員に転換し、更に魚雷整備という一段と地道な仕事をやるというのでは、折角の夢からますます遠ざかるのであるから、自分から好んで選ぶ道ではない。しかし、同情ばかりでは済まないので、私は搭乗員を一人か二人づつ、片っ端から指名して自室とか士官室に呼び、回天作戦全体のために整備の人員が今、必要であるここを懇々と説明して、整備をやってほしいと説得に努めた。試験でもやって、線を引いてしまえば簡単である。軍隊なのだから命令一本でよいという考え方もあうう。

しかし、本人自身のプライドにかかわる重大事であるから、命令で一方的に押し付けてはならないと私は考え、根気良く話し合った。いくら言ってもうんと言わない意思強固な者が少なくなかった。そのうち、納得して私の要望に応じてくれる搭乗員が増えてきた。誰であったか、一生懸命私が話していて、ふと気が付くこ、相手の眼が真っ白になっていた。瞳が一杯吊り上がって、こちらを向いている眼が白目だけになっているのである。「白眼視」というのはこれか!驚きと同時に、相手の強烈な拒絶の思いがはっきりと掴め、感動すら覚えた。

これが限界だと感じたので、私は板倉指揮官に、「下士官搭乗員と話し合い、整備作業に就く四〇名の同意者を得ました。これ以上は困難と考えます」と報告した。指揮官は、「もう、それで宜しい」と答えられ、勤務変更の課題は打切りとなった。

光基地にいた甲十三期搭乗員、渡辺美光氏の話では、三月三一日に突然、一方的に指名されて、五一名が翌四月一日には大津島に移動し、整備員の分隊に入れられたとの事である。三月三一日は大津島で配置変更の辞令が出た日であった。大津島では板倉指揮官に待って頂いて充分な時間を掛けたが、基地によっては方針決定から実施まで、日数の余裕がなかったのではないかと推察される。

大津島の配置変更の発令は四七名であった。光から多数大津島の整備作業に移ったのは、第二特攻戦隊内部の人員バランスのためとか、人が入れ替れるほうが良いとかの都合があったのであろう。後で基地間の整備要員の移動が行われ、また整備配置へ追加編入や、搭乗配置への復帰があった。

渡辺氏の著書「青春の忘れざる日々」にも詳しく記されているように、搭乗員から突然、整備員分隊に入ったのでは、勤務内容も生活環境も全く違うがら、各自の精神的、肉体的な苦労は大変なものであろう。精密で危険な酸素魚雷を短時間に、しかも確実に整備する忙しさ、重圧感も、隊員なら充分に推察できる。御本人達には無念の思いが今も残っているのではないか、とさえ思われるのである。

搭乗配置にあって技量向上に精進し、回天の偉業の第一線に立とうとした人々は勿論立派であるが、整備配置に転換した搭乗員は、搭乗員としての適性が不足していたからではない。何等かの成績が左右したのでもない。基地全体の、その場の窮状を打開するために犠牲的精神をもって辛く地味な勤務に就いた人々なのである。少なくとも大津島では、私の要請に応えてくれた善意の分隊員であった。流石選ばれて来ただけあって立派な精神の人々であったと、私は今も尊敬し、感謝しているのである。

「整備配置に就くことは搭乗員でなくなること」とは、私は考えていなかった。整備の実技に接して、回天の機構に精通することは搭乗員としてプラスになる要素であり、「あとで搭乗員配置に戻す」との約束はしなかったものの、「当面の応急措置なのだから、整備員不足がいずれ解消されて、自然の形で搭乗員に戻るはず」と漠然と思っていた。

回天隊の開隊当時に大津島に着任した兵学校七二期と機関学校コレスの五三期が合わせて一四名いたが、既に私以外の全員が出撃してしまったか、出撃直前であった。

「上の者から、古い者から出撃する」という不文律が、回天隊には初めからあった。だが、「分隊長をやっていたら、ひよっとすると順番から外されて、俺は出られないのではないか」と、そればかり気になっていた。

その頃八丈島への出撃が突然に決まって大安心するのであるが、それまでは私自身、一日も早く出撃したい焦りばかりが念頭を占め「分隊員の世話は早く誰かに引き継がなければ」と上の空になっていた。整備配置に回る人々の後々の世話を人任せにしてしまったことは反省している。

七二期で後から来た三人は、夫々『一特基附』の発令こそ早かったものの、大津島着任が少し遅くなったばかりに、橋口 寛は血書して早期出撃を度々嘆願していたのに、ついに出撃が終戦までに間に合わず、自決の道を選んだ。

中島健太郎は痛恨の殉職を遂げた。

渡辺収一(旧姓三宅)は呉工廠にいて回天の領収発射などを担当し、あと回天四型の開発に関与したりで一型の搭乗配置に正式に就くのが若干遅れ、終戦まで光基地に残る次第になったようである。

終戦直前に大津島に着任した足立喜次、上野三郎は展開準備中の回天十型の要員であった。

(小灘利春HPより)
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