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大津島回想

平成14年 8月27日

小灘 利春

1 本部宿舎

全く急造の板張りバラックであった。昭和十九年九月一日の開隊の日、搭乗員で 最初こ到着した水雷学校出身の兵科三期予備士官たちは鉋屑や木片を手で払いのけながら入居したという。

倉橋島大浦崎のP基地を改組して、第一特別基地隊が七月一〇日に設置されたあと、回天の訓練、戦力化を担当する板倉光馬少佐が伊号第四一潜水艦から同基地隊に着任されたのは八月十五日である。

少佐は国事の訓練場所の選定にあたって、山口県徳山市沖合の大津島にある九三式酸素魚雷の試射場に着目した。同地の施設を管理する呉海軍工廠魚雷実験部と交渉し、主任検査官篠原 弘大佐ほかの猛反対を受けながらも、ようやく使用の承認を得たという経韓がある。従って決定から開隊まで全く僅かな日数しかなく、事実突貫工事で居住施設がやっと間に合ったという感じであった。外壁は機械鋸で切っただけのような、粗い表面の板が打ちつけてある。鉋をかける暇もなかったのか、塗装も勿論ない。製材所が着けた墨の目印がまだ残っていたような気がする。後になって渋柿のような塗装がされたと思うが、海風でくすんだだけかも知れない。

現在、回天記念館が建っている広場の一段下にある休憩所「養浩館」の海側の雑草が茂る小さな空地が当時本部のあった場所である。

 

2 士官室

本部宿舎一階の東の端、海に近い広い一室が「士官室」であり、会議室などを兼ねた多用途の部屋であった。軍艦では普通「ガンルーム」と呼ばれる若い士官専用の「士官次室」があるが、大津島では始めから区別がない。

一番南寄り、東西方向の長いテーブルが幹部士官用の食卓であった。その南側、窓を背にした列の中央が指揮官板倉光馬少佐の席である。少佐の左の隣が特務士官で九三式酸素魚雷の超ベテラン、整備長の浜口米市大尉、のちに後任の高島靖太郎少佐の席になった。右には搭乗員の上別府大尉から仁科、帖佐、加賀谷各中尉と、並んでいた。のちに先任将校として、溝口智司大尉(のち少佐)が海軍兵学校教官から着任されると指揮官のすぐ右隣の席に就かれた。士官室のあとの空間は、長い食卓が南北方向に数列並んでおり、その両側に士官搭乗員の上位のほうが東、あと順次西にかけて着席する。一番入り口に近い食卓には兵科四期の予備士官たちが並んでいた。その席では、慶応大学で水球のゴールキーパーをつとめた塚本太郎さんが、大柄で色も白いために、いつも目立って見えた。

私は板倉指揮官に近いところ、浜口整備長と向かい合って食事する時期が長かった。士官室内の、最も海に近い東の端に、ソファというより長椅子が置かれていた。寛ぐ場所になっていて、徳山市内の有志が寄贈されたというバイオリンやマンドリンなどの各種の楽器がおいてあった。

私がいた中学校は音楽教育が盛んで、生徒だけのブラスバンドを編成していた。戦前の当時、日本にまだ何台もないという大型の金属管楽器「スーザフォン」まで揃えていて、体格のよい生徒が肩に担いで吹き鳴らし重低音を響かせていた。それで大小の管楽器、弦楽器を大抵は知っていたが、当時は軟派の感じがするマンドリンはウクレレ、バンジョーなどと同様、中学校の教室に置くものではなかったので私には珍しく、手にとってしげしげと観察した。バイオリンを演奏する搭乗員は何人かいたようである。

 

3 研究会

土曜、日曜がない「訓練・訓練」の大津島であるから毎日、研究会が夕食後に開かれる。その日の搭乗訓練の全部について、搭乗者本人から経過報告、追従艇指揮官の補足と批評、先任搭乗員の意見、続いて質疑応答がある。

訓練事項以外でも兵器と操作の改善などについての意見交換がある。大津島では大勢が集まることができる広間は士官室しかないので、研究会もここで開かれる。演壇と黒板が士官室の東側中央、または北東の隅におかれ、これに向かって適宜着席するのであるが、自然と食事のときと同じような座りかたになる。

出席者は士官搭乗員は全員、予科練出身の下士官搭乗員は希望者、それに回天整備担当の掌整備長たちも極力参加するので、部屋が一杯になった。

 

司会進行には先任搭乗員が当たるが、訓練計画の立案と実施を担当された七一期の帖佐 裕中尉(のち大尉)が勤められる時期が長かった。

二十年五月に帖佐大尉が南九州の基地回天隊へ進出された後は、甲標的から移ってこられた湯浅明夫大尉(七一期、戦後大河原姓)が引き継がれたようであるが、私も同じ頃に八丈島へ出撃したので、以後の模様は知らない。

当日、回天を操縦した搭乗員は全員が順番に、訓練の状況を皆の前で報告し、それぞれの追躡艇の指揮官が批評、所見を述べる。

全く新しい兵器であるからいろいろと失敗も故障もあり、操縦方法、処置、兵器装備についての改良意見が次々と出る。かなり厳しく、真剣な雰囲気のうちに進む。

訓練の経過が順調であれば穏やかに終わるが、何か事故や異常、失敗があったら大変である。研究会の席では階級の上下がない。遠慮会釈のない質問が各方向から飛んできて、まともに説明できなければ壇の上で立ち往生である。

 

4 搭乗員事務室

階段を二階に上がってすぐ前の部屋が我々の事務所であった。兵学校七二期とコレスの機関学校五三期が大津島の士官搭乗鼻のなかでは大勢力であるから、搭乗員の事務室というか集会所のような形で、一室を与えられた。海に向かった東側と南側が全面ガラス窓なので明るい。兵学校の自習室と同じように、天板を挙げて中に物を納める様式の学習机が十個ほど、二列に並んでいた。人数には足りないので共用であるが、そこで研究・整理など色々な書き物をした。

橋口 寛中尉が自分の小指を傷つけて絞り出した鮮血で、出撃を嘆願する血書を書いていたのもこの机である。

私はそれを横目で見ながら、「俺のほうが早く着任しているのだから、痛い思いをしなくても、彼より先に出撃できるのだ」と、今考えれば奇妙な安心感に浸っていた。

搭乗員たちは出撃が近くなると、その机の前に座って何通もの遺書を書いた。

特に出撃前夜は夜更けまでかかっていた。

「もう遅いから明日にしてはどうだ」とは言えないのである。

机の上のペン皿に川崎順二中尉がドイツのシュテットラー社製の色鉛筆を一本置いていた。どういう経緯で手に入れたのか知らないが、薄紫色の上品な色なので私もときどき使った。その鉛筆を川崎は訓練の都合で光基地に移動するときは残していったのに、二月に硫黄島へ出撃したときは潜水艦に持ちこんだ。猛烈男と一部には言われた彼であるが、その美しい色合いに愛着を抱く繊細な面があったようである。 

 

5 士官搭乗員居室

本部二階には部屋が多数並んでおり、士官搭乗員たちが居住していた。各室の片側に一段か二段の木製寝台がおかれ、2人から4人ぐらいづつ入っていた。部屋割りは、指揮官ほか上位の士官が海寄りで、順次西へ割当てられ、最も西寄りは大部屋である。

各部屋が畳敷きなのは有り難かった。足指の水虫が湿気の多い艦内生活にはつきものであるが、畳のお蔭ですっかり消えた。縁のない粗末な畳であった。

本部の内部一階、二階の配列などは記録がないようなので、最近になって見取図を私の記憶をもとに書いた。当時の搭乗員たちに確認を求めたが、覚えている人はもう少数であった。

別棟の士官宿舎が後に出来て、若い士官たちが入っていたようであるが、私が出撃したあとのことなのか、記憶はない。

 

6 「予科練」宿舎

第十三期甲種飛行予科練習生出身の下士官搭乗員たちが居住する宿舎が、本部より一段上に造成された平地の西側にあった。山を背にして、陸軍の演習地にある兵舎のような木造の大きな建物であり、多いときで一五〇人ほどが入っていた。内部に南北方向と東西方向の通路があって中央で交差しており、それぞれの出入口がある。仕切りはなく、広い空間になっているので、寝泊りする人数が多くても一目で見渡せた。前面は広場になっていて練兵場と呼び、種々の運動、競技をここで行った。出撃壮行式の折は、その東南寄りに臨時に設けられる神式の祭壇の前で、基地の総員が整列するなか、潜水艦で出撃するときは第六艦隊司令長官から訓示のあと「護國」と連合艦隊司令長官が揮毫された短刀と、湊川神社の「七生報国」の鉢巻きを出撃する搭乗員たちに授与された。

それらの状況は全部の出撃についての写真が現存する。広場の北寄りに今、回天記念館が建っている。この場所の北端は当時、山を切り取った崖になっていて、種々の記念撮影をするとき背景に活用された。陸上基地回天隊の第一回天隊と私どもの第二回天隊が出撃するときは、第二特攻戦隊本部のある光基地で司令官の長井司令官から「護國」の短刀を棲与された。しかし、陸上基地へ少人数づつ頻繁に進出する頃になると、壮行式も短刀授与も省略されたと聞く。

 

7 機密保持

大津島の桟橋を上がった直ぐ右側に赤く縁取りをした高札が立てられ「海軍大臣の許可なき者、立ち入りを禁ず」と書いてあった。「回天が秘密兵器だから出入禁止になる」と、誰も一応は納得するが、よく見るとこの高札は少々古い。ペンキも色褪せていた。

それもその筈、この大津島は昭和十二年に九三式魚雷の試験発射場が設けられ、この魚雷が最高度の秘密である。「軍機兵器」であったから、以来立ち入り禁止になっていたものである。九三式酸素魚雷はその高速、大遠距離、大火薬量という、類を見ない高性能とともに、その使用方法を極度に秘匿しなければならなかった。太平洋上でいよいよ艦隊決戦を迎えたとき、双方の戦艦部隊が砲戦を開始する前に、我が方は二〇〇本以上のこの魚雷を一斉に発射し、海面下を縦横に走る目に見えない大型魚雷の網で敵艦隊を包み込んで、一挙に撃滅する、いわゆる「公算射法」が最高の機密であったためである。

これで日本海海戦の大勝利を再現する可能性があったのである。

同様に回天も、敵が実態を知って予め対策を講じてしまっては、捨身の奇襲をしても効果を挙げることは難しい。従ってすべてが高度の秘密であり、隊員の上陸も昭和十九年の間は許可されなかった。徳山湾外で回天が航走するコースが、民間の小型船の通常航路と交差しているので、衝突する事故が時々あった。殉職者が出たほどであるが、追躡艇は水上航走中の回天と通航船舶との間に割って入って事故を防止するように、また回天を民間人の日から極力遮るように行動した。

 

8 追躡艇

回天が訓練に出るときは、操縦状況の観察と危険防止、それに事故があった場合の救難のため、いつも追躡艇が後ろについて同行していた。可能なときは飛行機も空からも監視した。追躡艇の指揮官は、回天が航法を誤り岩や陸岸に向かって水中を突進するなど、操縦に危験を感じたときは「発音弾」を海に投下する。小型であるが、少し沈下してから爆発すると、その昔が潜航している回天によく聞こえる。操縦者は直ちに速力を落として浮上し、危険を回避するのである。追躡艇には各種の短艇が使用された。

最初から使われたのは大型の「高速内火艇」や小型の「内火艇」、速力が出る「艦載水雷艇」である。これらは本来は戦艦、巡洋艦、航空母艦など大型艦船に搭載される短艇である。あと「魚雷艇」や、同じような大きさで銅製の、二五粍単装機銃を三挺装備した「隼艇」も使用された。

「〇四」と呼ばれた水上特攻艇「震洋」も、基地によっては追躡艇として使われた。

殆どは一型であるが、航洋型で二人乗りの「震洋五型」も一時は投入された。

いずれも小型で軽快ではあるが、回天が沖合で停止したとき曳航が出来ず、救難用としての能力は不足であった。

「魚雷追跡艇」が或る時期、呉工廠から派遣されていた。魚雷を試験発射するとき、海中を走る魚雷と一緒に水面上を驀進しながら観察、計測しようとする高速艇であるから、最高速力は40ノットであったか、かなりのものであった。競走用の「パワーボート」のようなスタイルで、ニスで塗装され、木目が美しく透けて見える。その薄い板で出来た艇体内部の、左右一杯に大型の水冷エンジンが2基、据わっていた。世界的に有名な高速艇メーカーであった英国の「ソ一二クロフト杜」製で、エンジンカバーには大きな英文字で「パッカード」と、浮き彫りされていた。戦前、パッカードは高級車やスポーツカーを生産する米国の自動車会社であったから、米英一流メ一カーの合作による最高級のポートかなと思った。しかし、やはり艇体各部は華著で強度が十分でなく、荒天の際こは回天に横付けしたり曳航するのには無理があった。

 

飛行機は、潜水艦搭載用で低翼単葉の「零式小型水上偵察機」が大津島に一、二機いて、特に行方不明になった回天を捜索するのに効果があった。この小型水偵は 呉の第六艦隊や鎮守府、工廠との緊急連絡にも時折り使用され、呉市の東、広地区にある水上機の基地に着水した。その「呉航空隊」には、一代前の複葉機「九六式小型水上偵察機」通称「九六潜偵」もいた模様であるが、訓練基地には配属されていなかった。

 

9 食事

海軍の生活では、食事は定刻にきちんと出るが、メニューは押しつけである。好き嫌いが言えないから、味がどうこうなどは長い間考えもしなかった。しかし、回天隊に入ってからはすべてのものが新鮮に見え、何事にも好奇心が高まってきた。食事も改めて見つめたい気分になって、味を意識しながら食べた。ひとつひとつの風味がよく分かり

「飯とはこんなに旨いものだったのか」と、初めて食に感動を覚えた。

「板倉指揮官の総員突撃宣言を聞いてからは、飯が喉を通らなくなった」と、当時を追想する予備士官がいるが、私には「食」への開眼になった。

 

大津島に主計科士官が最初に着任したのは昭和二十年に入ってからである。都市から離れた侘しい島に新設された基地であるから、その着任までは衣食住の生活面では行き届かず、人手もなく、万事不便があった。理髪道具なども当分のあいだ備えてなかった。

しかし、朝昼夜の食事は始めから味がよかった。このときの食事ほどの美味には、物が溢れる昨今でもお目にかかることがないように思う。大浦崎にある一特基の主計長が心配りされたと思うが、物資欠乏の折でもあり食材自体には贅沢な或いは珍しいものなどある筈はない。毎度の食事の材料を搭乗員たちのために調達し、調理する主計科の下士官兵の献身的な努力と、それに本職以上とも思える料理の腕前のお蔭と、今でも感謝の念が湧く。 

 

10 上陸、休養、レクリエーション

日本海軍は戦前、原則的に「月々火水本金々」であるから日曜も祝祭日もない。回天隊では昭和十九年の間は休みなしで上陸もなかったが、二十年に入ってから訓練要員以外は日曜に外出上陸ができるようになった。

徳山市内の山手にあった毛利家の邸宅が提供されて「初桜荘」という休憩所になった。隊員たちは上陸した折、立ち寄っていたというが、私は分隊長の役目柄、先立って検分のため一度訪問したことがある。

庭木が美しい、上品な作りの御屋敷との印象であったが、その後訪れたことはない。

私自身には休日が全然なかった。本来は見知らぬ街、殊に人通りの少ない裏道の散歩に興味があったが、戦時中は遂に一度も徳山の市中を見ることがなく、壮行会の場所「松政」旅館と桟橋の間の往復だけで終わった。

徳山湾の北側に並ぶ黒髪島と仙島の間は小さな砂浜で繋がっている。ある日、土浦空出身の下士官搭乗員たちと一緒に、基地に来ていた大型発動船に乗ってこの砂浜へ遊びに行った。海に跳び込んだ一同がワッと集まってきて私を担ぎ上げ、海水に濡れずに上陸させてくれた。天気もよく、皆が褌ひとつの裸で自由に走り回り、半日を楽しんだ。

全員で砂を掘って貝を採ったが、要塞地帯で長い間立ち入り禁止になっていたためであろうか、無尽蔵と言っていいほど蛤や浅蜊がいる。忽ち大乗艇の甲板に山盛りになり、基地に帰って調理場の大きな水槽に入れたら一杯になった。当分のあいだ食事の度に貝の料理が出た。全員で防府市へ行軍したこともある。短艇で徳山湾の北岸に渡って隊伍を組んで歩き、防府市街に入った。有名な天満宮に参詣したのち、自由に散歩した。集合地点は三田尻の港で、そこまで大発艇に迎えにきてもらい帰島した。

 

昭和二十年に入って、大津島の搭乗員が半数ずつ別府に行ったことがある。七一期の斉藤高房大尉の引率で別府に入港し、一泊。翌朝は豊肥線の列車で豊後竹田に赴き軍神広瀬武夫中佐を祀る広瀬神社に参拝し、岡城址を見物した。

 

大分の大友氏の居城であったが弱冠十八歳の城主が島津氏の三万七千の大軍を退けている。それほどに峻険な山の上に築かれた、眺めのよい城であった。この町に一時住んだことのある滝廉太郎がこの城のイメージを基に「荒城の月」を作曲したことを思い浮かべ、一同でこの歌を合唱した。

(小灘利春HPより)

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