第1次出撃者の選抜
小灘 利春
平成 7年 9月
大津島で訓練が始まって間もなく、板倉指揮官から士官室に集まった搭乗員全員に「此処にいる者は総員、一ケ月後に敵艦隊めがけ突入する」と申し渡されてから我々はそのつもりになっていた。当然、十月初めには、その時の搭乗員の数にあたる四十本以上の回天が敵泊地に突入し、押しまくられた戦局を変えることになるとばかり信じていた。
最初は早い出撃の計画であった。しかし、回天の生産の遅れから実際にはずれ込んでいった。八月下旬特別基地隊司令官長井少将が軍令部に呼ばれ、回天の第一次攻撃について内示を受けておられるが、出撃の時期は十月末、遅くとも十一月初旬を目途とし、出撃基数は十二〜十六基となっていた。
他に、潜水艦六〜八隻を第一次に使用し、十月二十八〜十一月五日の間に攻撃する計画との記録もある。この場合の回天は二十四〜三十二基になる。
現実には潜水艦三隻、回天十二基と、まったく小さな規模で十一月上旬出撃することになった。九月末、或いは十月に入っていたか、出撃搭乗員の選抜が行われ、我々士官搭乗員が一人づつ士官室に呼ばれた。
指揮官板倉少佐がテーブルの中央に、左右に上別府大尉、仁科中尉が着席しておられた。帖佐中尉、加賀谷中尉の顔も見えたと記憶する。
私が椅子に座ると板倉少佐は、
「第一次攻撃隊で出撃する搭乗員の選抜をこれより行う。最初は南洋の泊地にいる敵艦隊に停泊艦攻撃をかける。第二次は洋上における航行艦攻撃である。君はどちらを希望するか」
と尋ねられた。私は即座に「最初の攻撃に是非とも参加をお願いいたします」と答えた。
すると、「真っ先に出たいと言うには、何か特別な理由があるのか」と、さらに聞かれた。「出るなら当然、真っ先に出撃したいと願うからです」と、力を込めて答えた。
「よし。判った」で問答は終わった。
仁科中尉が一人で選考したと、板倉少佐は戦後、著書に控えめに書いておられるが、実の所は御自身から私は試問を受けている。生涯の一大事であったから私には鮮明な記憶が今も残っている。
最初の組に入れて貰えるだろうと期待しながらも、あの言い方では私が選ばれる理由として成り立つかなと懸念もしていた。
結果が発表になると、我々の同期では吉本健太郎(兵72期)、それに村上克巳、福田 斉、豊住和寿(機53期)が先陣に選ばれていた。
吉本は冷静沈着、色浅黒くキリリと引き締まった好男子で、正に適任であった。第一次攻撃隊の隊員にはこの他、先任搭乗員の上別府宜紀大尉(兵70期)、回天創始者のひとり仁科中尉(兵7T期)、兵科3期予備士官の宇都宮秀一、渡辺幸三、近藤和彦、今西太一、佐藤 章、工藤義彦の各少尉、合わせて十二名が決定した。私は選抜に洩れた恥辱に打ちのめされた。
しかし、考えてみると、板倉指揮官は、第二次は航行艦襲撃であるといわれた。こちらの方が私の能力を生かす道ではあると思い、やっと気を取り直すここが出来た。
軍艦足柄での私の配置は「発令所長」であった。戦艦、巡洋艦の重要な戦闘力は主砲である。足柄は二連装砲塔五基、合わせて十門の20サンチ主砲を備えていた。そのコンピューターセンター、コントロールセンターが艦橋の貴下の艦底に近い密室、主砲発令所なのである。これを指揮する発令所長は主砲系統では砲術長に次ぐ要職であり、重巡では第三分隊長があたる。
戦闘中砲術長にもしものことがあれば発令所長が艦橋トップに駆け登り、砲戦を指揮するのである。私は前任の辰野吉久大尉 (兵69期)退艦のあと、足柄が内地に帰っていた時なのに士官不足のためか補充がなく、分隊士のチンピラ少尉、つまり私がこの配置についた。実弾射撃をやったこともあるが、本当のところ冷や汗ものであった。
戦艦。重巡の艦橋最上部には「方位盤」が据えてあり、ベテランの特務士官の少尉か兵曹長の射手が照準をつけ、引き金を引くと主砲一〇門の砲弾が一斉に発射される仕組みである。
その照準線に対して各主砲の砲身を、それぞれどれだけ上下左右にずらせて発射するか、「射撃盤」という大型の計算機を操作して、その修正量を算出するのがこの発令所である。計算機に入れるデータは数が多い。
こちら側のものは自艦の針路、速力、射撃経線、砲弾の種類、発射火薬量、各砲身の砲令、風向、風速、気温、水温、火薬温度など、果ては地球自転の影響まである。
相手側の物は方位角、速力、距離などであって、刻々数値が変化する。
距離は足柄の場合、基線六メートルの大型測距儀四基とレーダーで測定し、艦内部各部へ測定距離を発信する。
重要な射撃要素である敵艦の方位角と速力を測り、刻々発令所の射撃盤へ自動的にインプットしてゆくのが艦橋トップの方位盤の次段の甲板に据え付けられた「測的盤」である。
この測的盤を指揮して、敵艦の方位角一度単位、速力を一ノット単位で計測する配置が測的指揮官であって、私は足柄乗艦以後、発令所長を命ぜられるまで、これを勤めていた。
機械が方位角と速力を測定、算出してくれるのであるが、それらの数値が妥当であるがどうかをチェックし、修正するのは測的指揮官の技量である。
測的甲板の両側に備えられた自分専用の12センチ双眼望遠鏡を使って、自らの肉眼で判定した方位角、速力の数値を、視界不良の場合、或いは設定データが不確実なときは測的盤という機械の計測値よりも優先させねばならない。
その故に私は、自らの義務として大小各種の艦船の方位角、速力を判定する方法を研究し、練習を重ねた。
船の長さ、マスト間隔の数値と共に、これらに対する幅、艦橋、煙突の高さの関係を艦船の種類別に並べて、方位角による見え具合を計算、作図し、見取り図を書いた。肉眼のとき、速力は船の長さに対する艦首波と艦尾波の現れ方、またそれらが艦首、艦尾の高さに対してどれだけ盛り上がるかによって判定する。
従って、回天の航行艦襲撃で成果を大きく分けることになる方位角と速力の判定に関するかぎり誰にもひげをとらぬ自信がある。
回天出撃第二陣の航行艦攻撃のときこそ見事戦果を挙げて見せると心中深く期するところがあった。
クラスメートたちもそれぞれの勤務を通して得意技を身に付けているであろうが、私はそれが態勢観測である。
開隊後間もない頃の板倉少佐の回天襲撃法の講義の折り、泊地攻撃と並べて回天による洋上攻撃法について詳しく述べられている。
黒木少佐も既に、活躍の場を失いつつある潜水艦が回天を大遠距離魚雷として使用し、戦力を確保する方策を主張しておられたと言う。
「第一撃で碇泊艦攻撃、第二撃は航行艦襲撃」という方針がその頃どの程度に固まっていたものかはっきりしないが、板倉少佐はその様に明言されたのである。