TOPへ    戦記目次へ 

回天隊光基地 

小灘 利春

平成16年 9月20日

光海軍工廠は山口県の光井、島田地区に呉工廠級の規模を目指して建設を計画され、昭和十五年十月開設、昭和二十年初には従業員三万人、学徒動員六千五百人の規模となった。

回天の訓練施設として最初の基地は、山口県徳山市沖合の大津島にあった九三式魚雷試射のための発射場と魚雷調整工場を活用して、第一特別基地隊大津島分遣隊が十九年九月一日に誕生した。しかし、何分にも土地が狭く、人員の収容能力が小さいので、回天作戦の規模を拡大するためには訓練基地を追加建設する必要があった。 

先ず、大津島に近く、敷地が広大で余裕がある光工廠が充てられた。東南の一角に新設されたばかりの充実した魚雷整備工場と、附属の工員養成所の宿舎の全部を活用することが決まり、建設委員に大津島の先任将校近江(山地)誠大尉および回天の整備担当士官、整備員たちから選ばれた要員が光に移り、急ぎ回天整備態勢を進めて十一月二五日開隊、十二月一日から搭乗訓練を開始した。

あと平生基地が昭和二十年三月一日開隊、四月一七日訓練開始した。大神基地は四月二五日開隊、訓練開始が五月二三日であった。回天の訓練基地は合わせて四箇所になった。

大津島に着任していた士官搭乗員の一部と、回天隊に着任しながら大津島に入れず倉橋島大迫のQ基地で待機を続けていた各期の士官搭乗員が光に移動した。また第十三期甲種飛行予科練習生出身で三重航空隊奈良分遣隊から着任して、呉潜水艦基地隊、あと倉橋島Q基地で待機していた搭乗員二五〇名が十一月十二日、光へ到着した。その奈良出身の一〇〇名が大津島に移り、代わって十九年九月二一日以来大津島にいた甲飛十三期で土浦航空隊から来ていた搭乗員一〇〇名の内、四八名が十二月一日、光に転隊した。あと甲飛十三期六〇〇名が回天搭乗員となり、多くは光基地を経由して各基地に配属された。彼らはいずれも十一月一日、海軍二等飛行兵曹を命ぜられ、下士官になっている。

そのほか、大津島で出撃訓練中であった、後の千早隊の一部や、第一回天隊のチ−ムが本拠地を光に移し、一方、十一月中にも次々と搭乗員の新規発令が続き、人数はどんどん増えていった。人員の基地間の移動も、出撃訓練の進行状況とか、いろいろな都合で相互に頻繁に行われた。 

水雷学校出身の予備士官については、兵科三期の人々は全員が当初から大津島へ着任し、兵科四期の五〇名は、十五名がQ基地から大津島へ先行し、残りの三五名は十一月十二日、光基地に入った。航海学校出身の三期予備士官二〇名は九月二五日、回天搭乗員を発令されてQ基地に入り、十一月に光へ移動した。四期予備士官はほかに、航海学校四〇名と対潜学校四〇名の計八〇名が十月二十日に選抜を受け、長崎県川棚での待機期間を経て十一月二五日と十二月二五日、先発、後発の二回に分かれてそれぞれ光基地に着任している。さらに四期予備士官の第三陣として、水雷学校から四〇名、航海学校と対潜学校から二十名ずつの計八〇名が十二月二五に選抜され、同様川棚での待機を経て光基地、或いはQ基地へ着任した。光基地は大所帯になった。

開隊当時は司令が不在で、大きな陣容の部隊を纏めていたのは先任将校の宮田敬助大尉であった。回天の搭乗員は兵学校七十期以下であるから、兵学校六九期の宮田大尉は基地要員であって回天搭乗員にはなれず、あと新設の大神基地へ先任将校として移られた。光基地の先任搭乗員として、後に駆逐艦桐の水雷長、三谷与司夫大尉が着任された。三谷大尉は比島沖海戦のあと人間魚雷の採用を血書請願し、それにより十二月一日付けで一特基へ転任の辞令が出た。大津島に着任されたのが同月四日であり、光基地に移られたのはその暫く後のことである。隊員たちの訓練の運営、指導に当たられたが、背が高く、陽に黒く焼けた顔と、左右に伸びた見事な髭で貫祿があった。公平で合理的な指導を進めて人望があり、戦中戦後とも評価が高いお方であるが、兵学校は七一期、年齢二一歳であった。

兵学校七二期とコレスの機関学校五三期出身の搭乗員は出撃が早かったので、大津島でも光でも、数が一遍に減っていた。昭和二〇年初頭現在、光では各一名であった。

その頃、兵学校七三期は光基地に五名、コレスの機関学校五四期は四名いて内一人は一月中旬、大津島で殉職した。二十年五月以降になって七三期三名が光に着任した。

七四期が回天隊に参加したのは三月末である。予備士官の数は上記のように光では大人数であった。

回天隊で「兵学校出が予備士官を殴った」と、戦後喧伝された。光基地にいた四期予備士官の某氏は「何千発と、数えきれないほど殴られた」と著書に記述している。しかし,同氏もあと「兵学校出は殴っていません。殴ったのは機関学校出です」と、事実を語っている。それにしても、殴ったという機関学校五四期は人数が知れている。相対的に遙かに数が多い予備士官と予科練出身の下士官搭乗員たちを、短期間に一人当たり何千発も殴ったとすれば、到底人間業ではない。「ゼロが三つ余計」と言われる所以である。

当初、光基地は「第一特別基地隊第四部隊」と称したが、二十年三月一日の機構改革により拡大改編されて「第二特攻戦隊光突撃隊」となり、本部が倉橋島の大浦崎から光に移転した。一特基第二部隊と言った大津島分遣隊は「光突撃隊大津島分遣隊」となった。

光工廠は回天一型の生産、整備に直接は関与しなかったが、昭和十九年十一月、光工廠のなかに「回天工作隊」が結成され、大型回天の四型の生産を開始した。二十年三月に耐圧試験設備が整備された際、三基の四型がテストに合格、完成した。ほかに五基の組み立てを終えたというが、生産中止となり、工作隊は解散した。回天四型はあと、戦局の窮迫により呉と横須賀の工廠で生産を再開したが、完成したものは数基という。

光工廠は終戦の前日、八月十四日に米軍B二九爆撃機一五七機の大編隊による猛烈な爆撃を受けた。投下した爆弾は八八五トンに達し、光工廠は事実上壊滅した。爆撃による戦没者は七三八人という。 

(小灘利春HPより)
TOPへ    戦記目次へ