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平成22年4月20日 校正すみ

海龍の思い出

小田 博之

クラスから唯一人の海龍の艇長となった者として、海龍の事について些か書き残しておく必要もあると思われるので、乏しい記憶を辿りながら記述することにした。

1 油壷へ

昭和20年1月、第1特攻戦隊司令部付を命ぜられた。いよいよ来るべきものが来たと身の引き締まる思いがした事を、昨日の事のように今でも鮮やかに覚えている。そもそも私は水上艦艇組であったが、戦局の推移から特潜乗組を熱望していた。

その当時、私は2万トン空母「笠置」の艤装員で、長崎丸山の巷で夜な夜な遊び呆けていた。先任分隊長が(機)50期の故木原通信大尉で、その辺の情況は、(兵)75期志岐叡彦著「ちゃわん屋奮戦記」に詳細に記述されているので一読をお勧めする。

然しながら第1特攻戦隊とはどういう部隊か、又何処にあるのか皆目見当がつかなかった。横須賀鎮守府へ行けば分るというので、横鎮へ出頭した処、三崎の油壷にある東大の海浜実験所跡で、海龍という2人乗り特殊潜航艇の実験をしているという事が判った。

一日に付き、一回きりの横鎮からの定期便で何とかして着任した。驚いたことに、近くには民家とてなく、風光明婚な松林の中に、実験所の建物が一軒だけボツーンと建っていた。全く絶海の孤島のような処で、ああこれで娑婆ともお別れで、清く死ぬのだなとつくづく思ったものである。夕方暗くなるにつれ丸山の赤い灯が無性に恋しくなったのを覚えている。

同隊にはコレスの小松崎、中井、小沢等の諸兄が頑張っていた。海龍は、全く始めて見る代物で、兎に角「乗れ」という事であったが、潜水艦には生徒時代の乗艦実習以外に乗った事はなく、さてどうしたらよいものかと路頭に迷ったものだ。水上艦艇組の感覚から行けば、とても人間の乗るようなものではなく、些かがっくりしたことを覚えている。

ここで海龍の概要について説明しておこう。なお現物は、現在でも江田島参考館の北側に展示してある筈である。直径約1m、長さ約12m、円筒型の鋼板製で、前後部は円錐型となっている。中央部に直径60p×高さ1m位の司令塔がついており、乗り降りは、司令塔のハッチからだけである。

艇内は、前部から炸薬ーバッテリー室ー操縦室−タンク類(水、油)ー機械室ーMG室の順となっている。勿論艇内は、腹這いになって動けるスペースしかない。外部には2本の魚雷発射管用レールと、スクリュー、潜舵、縦舵と、中央部に鱶(ふか)のひれのような小さな横舵を持っているのが特徴的であった。

兵装は魚雷2本と、体当り用に頭部に800sの炸薬を装備していた。その他ジャイロコンパス、短波用無線、航法盤(航空機用)等を装備していた。予備浮力が非常に少なく、水上状態で+300s、航走状態では+20s位しかなかった。従って主タンクに注水すると、人間一人が乗っても沈んでしまうような状態であった。

水上航走(ディーゼル)時には、主タンクに注水し、潜舵アップ一杯で、前頭部を水面すれすれに出し、司令塔だけを水面上に出して航走したので、当時は米国のレーダーにも捕捉されないと言われていた。乗員2名が乗るとハッチを締め、後は潜望鏡一本で航走する。

なにしろ片目で走るので遠近感が中々つかめず、特に出入港時が大変で、繋留用ダイハツ艇に衝突したり、又艇の下に潜り込んでしまったり、操縦は容易ではなかった。

  しかし海龍は航続距離が長く、波浪階級3程度迄水上航走が可能であり、又深度80m位までは潜航可能であった。加うるに敵のレーダーにも捕捉されず、兵装も魚雷2本と、頭部炸薬800sと大きく、敵の対揚陸作戦には、相当の効果が期待出来るものと思われた。

この海龍の1〜3号艇は、横浜高工の佐藤教授の指導で、久里浜の海軍工作学校で試作されたものと聞いている。後は横須賀の海軍工廠で建造されたが、工作学校で建造された1〜2号艇の方が、乗っていて安心感があった事を覚えている。やはり当時の工作学校の技術力は相当のものであったのが伺える。

着隊後約2ケ月、色々な事もあったが、日夜の必死の訓練と、諸先輩の指導宜しきを得て、何とか乗れるようになり、一人前の艇長に育って行った。

 

2 横須賀嵐部隊

海龍は、建造が比較的容易で、マスプロも可能であり、油壷における諸実験の結果から、「海龍は使いものになる」との判断が下されたと思われる。昭和20年4月横須賀嵐部隊が新設され、一気に拡大増強された。航海学枚と旧工機学校を占領し、部隊が新編された。私も横嵐の教官兼分隊長に転任を命ぜられた。幸か不幸か、油壷を離れ久方振りに赤い灯の点る横須賀に戻ることが出来た。

当時、横須賀海軍工廠では、地下工場に海龍の2本の建造ラインが設けられ、5月頃から毎日各ラインから1隻(1日計2隻)ずつが竣工し進水する迄に整備された。進水後は、整備員の手でバラスト、ツリム調整、燃料搭載、係留運転、充電等が行なわれた。

当時の私の任務は、毎日竣工してくる2隻の新造艇のトライヤル、引渡しであった。高等商船出の若い士官と2人で毎日2隻の海龍の航走、潜航試験の連続であった。試験結果が良好であればそのまま部隊に引渡し、結果が悪ければ工廠に戻り、修理調整が行なわれ、再度試験、検査を行なった上、部隊に引き渡した。

然し、中々順調に行かず、工廠に新造艇がたまることが多かった。その頃クラスの村上と蕪木が着任していた。

 

3 蕪木の事故

蕪木 正信

以上のような状況下で、どうしても搭乗員が足りなかった。昭和20年5月30日、蕪木は、整備長から新造艇を工廠から部隊 (航海学校)へ回航するように命ぜられた。2〜3浬の至近距離であったが、蕪木は航法どおり出航直後電池航走から、ディーゼル航走に移ったものと思われる。

ディーゼル航走に移る場合は、まず吸排気弁を開かなくてはならない。しかし蕪木は吸排気弁を開放せずにディーゼルのクラッチを入れたものと思われる。MGとディーゼルは、クラッチを介し直結しているので、電池航走中にクラッチを入れるとディーゼルは直ちに起動する。一方吸排気弁は、一本のハンドルで上下動し、双方の弁蓋は外部から弁座に押しつけられて締まる構造になっていた。

従って吸排気弁を締めたままディーゼルを起動すれば、排気はある程度外部に押し出されるが、吸気弁は益々密着して外気は入らず、艇内の空気を吸うことになる。従って、艇内は真空状態になり、窒息したものと思われる。艇は弧を画きながら自然に停止したようである。

直ちに乗員2人を救助、病室に収容し、相当時間交代で人工呼吸を行ったが駄目であった。後で医官の話では、真空による窒息の場合は、人工呼吸は効果がないという話であった。死者に鞭打つようなことを書いたが、敢えて事実を明らかにしておく必要もあると思われるので記述することにした。

蕪木の殉職死については、私自身にも責任の一端があるように思われ、整備長と喧嘩はするし、暫くは大分荒れたことを記憶している。

加うるに、我々クラスは6月1日付大尉に昇任した。蕪木の死は5月30日で、殉職で一階級昇任しても大尉であった。

部隊葬の時は我々クラスも皆大尉で、御遺族に対し、全く申し訳がなかった。蕪木の死は現在でも鮮明に私の脳裡に残っていて離れない。唯御冥福を祈るのみである。

 

4  

(1) 隊員の心理状態

その頃は敵の空爆で飛行機の生産もままならぬ情勢下で、海龍の艇長、艇付予定者として、予備学生、予科練出身者がわんさと部隊に来た。彼等を見ていて気が付いたのは、一つはやけくそ、がむしゃらになって自己を忘れようとする者、もう一方は明日の生命も判らないからか、いやに沈み込んでしまう者の二種類に大別されていた。私なんかも修養が足りないものだから、恐らく前者に属していたものと思われる。体力には相当自信もあったが、毎日くたくたになる迄仕事に追はれ、物事をゆっくり考えるような余裕はなかったように覚えている。

私の艇付も15期予科練出身のとても可愛い奴であった。艇頭部の800s炸薬は建造中に積み込まれていた。艇が進水してから艇長席に座ると、約5m前方に朱色に塗った炸薬の半円型が目前に迫っていた。勿論信管は抜いてあるが、最後の時はあれがバーン″と破裂するのだと思うと余りいい気分ではなかった。可愛いい艇付が突撃前に泣き出すのではないかと心配になったものだ。

 

(2) 芋堀名人達

戦局が我に非になるにつれ、我等の心も相当に荒んだものになりつつあった事は否めない。よくパイン等で酒を飲んだが、皆忙しいものだから、訓練が終ると隊からパイン迄、中には作業服のまま、走って行く者もいた。然も髪も髭もぼうぼうである。そんな我々がもてる筈もなく、S(芸者)達は皆「嵐が来た」と逃げ出す始末。そこで芋堀りが始まった。お膳をひっくりかえす位は朝飯前、掛軸は破るは、大花瓶は引っくり返すは、全く手の施しようもなく、いよいよもってS達に嫌われてしまい、安浦方面へ唯穴を求めて突進したものである。

 

(3) 工廠以外での海龍の建造

その頃海龍は、横須賀工廠以外に、三菱横浜ドック、及び浦賀造船所で建造を始めていた。各1号艇は共に私が引渡しを受け横須賀に回航した。両造船所では同時に建造を開始したが、1号艇の竣工はやはり横浜の方が一ケ月位早かったようである。2号艇以降は、引渡しを受けることなく、戦後各造船所で解体処分されたものと思われる。

特に思い出に残るのは、浦賀造船所で建造された1号艇の回航である。

8月15日終戦となり、それ以後一時、急に世の中が静かになった事を大方の諸兄が記憶されていることと思う。私はこの静かになった東京湾を、8月17日浦賀造船所を出航し、横須賀まで1号艇を回航した。気味の悪いような静かな東京湾であったことを記憶している。

昭和20年6月頃から海龍は、全国太平洋沿岸に展開を始めて行った。敵揚陸部隊の来襲に備え、日夜魚雷発射、体当りの猛訓練に励んだが、遂に終戦となり、実戦に使用されることはなかった。

戦後、嵐部隊は直ちに解散を命ぜられ、8月24日までに横須賀を離れるように申し渡された。身回りの物少量を詰めこんだトランク一つを持ち、東海道線の無蓋貨車に何とか乗り込み、生まれ故郷の佐賀へと向った。それから長い、長い第二の人生が始まったのである。

(機関記念誌141頁)

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