思い出
飯盛 秀雄
小学校、中学校を通して、福岡ー博多湾の白砂青松をみつめながら過した。当時は、家から歩いて10分足らずの海岸に行き、よく海水浴をしたものだ。中学に入校してからは、1〜2年生の時、陸上競技部にひやかし程度に入部させられた程度で、身体を鍛えるには至らなかった。それで海機の身体検査にやっと合格した程度であろう。
そこで入校後のきびしい訓練は、柳か脅威で期友に引っ張られてやっとついて行ったものであり、今から思えば、若い青春時代には良いことであり、精神的肉体的にも、人格形成にも、大いに役立ったものであろう。
海機の替え歌に 春はいやだよ 四号泣かせの駈足練習 学校帰りの女学生 ちょっと見惚れて つまずいて こらと一号にどやされた 夏はいやだよ 蛇島通いの短艇橈漕 オールつき出せ 櫂かえせ これをあの子に見せたなら ちょいと涙が先に出る |
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飯盛 秀雄 | 海機の替え歌 |
駆け足では、十哩駈足競走も運動靴ではなく、ゲートル編上靴をはいての競走には (メダルを貰ったような気がするが) さすがにへばってつらかった思いがする。
それでも一番強烈な印象として残っている思い出は、遠泳である。記憶では朝から夕方近くまで、最初のうちは一応平泳らしき泳法で、そのうちだんだん足が下って来て、また手も無意識に頭が水につからないようにかいている程度、太陽に照らされて頭に水泳帽をかぶっていても、頭がガンガンして意識がモウロウとした気がする。山国に育って水泳とは余り縁がなかった期友達の苦労は並大抵ではなかっただろうと……入校した頃プールで金づちに近かった連中がクラスの半数近く占めて居たと思うがよくも頑張って遠泳を泳ぎ通したものだと感心している次第です。
冬はいやだよ、朝は、はようから道場がよい、お面お小手に背負い投げ、ちょっとずべれば風邪をひく。
武道訓練では、剣道の続平教官のきびしいぶつかりゲイコ、ふらふらと倒れるまで、倒れてもさらに起き上ってぶつかって行った。それは剣道ではなく、まさに猪突猛進術であった。ところで、九州では縁が遠い冬のスキー訓練は、自由訓練であったのでホッとしたものである。舞鶴の気候が夏はむし暑く冬は寒くて雪が降るとは、つゆ知らず九州からはるばるまぎれ込んこんだ小生にとって、雪景色珍しく、雪中行軍や冬の凍結した短艇橈漕は別として、スキー訓練は、初めての経験で楽しい思い出の一つです。機関学校の裏山の急斜面を今思い出すとパラレルクリスチャニア」 で、じぐざぐとスイスイと滑降していた野崎や阿部達の姿に見とれて、北海道産の連中は垢ぬけして素晴らしい滑りをしているなと見とれたものだ。小生も何とかして、「ボーゲン」程度は滑れるよう随分苦労して精進したものである。
機校のときのスキーが刺激となって復員後、椎野を誘って博多からはるばる遠く鳥取県大山スキー場まで数日間スキーに行ったものである。
さらに神戸銀行に入行後、大阪支店勤務時代は、北は蔵王、信州野沢、志賀高原、発哺、熊ノ湯、赤倉、八方スキー場等と、大阪の某「スキークラグ」に所属して土、日を利用してスキーに精進した。昭和三十年頃、菅平スキー場行のとき根子岳登頂後、帰途「ガス」がかかって下りの「ルート」を間違って谷に迷い込んで遭難しかかって宿の主人に迷惑をかけたことも思い出の一つです。その後三十年振りに野崎に連れられて菅平スキー場に行った時の根子岳登頂は、晴天に恵まれ見晴らしは素晴らしかったけれども、靴とスキー板が固定されたもので、上りは死ぬ思いで苦しかった。それに反して野崎はスイスイと楽々上っていた。上りも下りもやはり北海道産は我々九州産とは格段の違いの腕前だなあと感心したものだ。
久し振りに今年は、体力を鍛えるため、老化を防ぐため年齢を省みず、正月は上越みつまた、かぐらスキー場 (中級以上のスキー場) 2月は万座スキー場に出かけて何とか30年前のスキーを思い出そうと頑張ったものだが、足腰の衰えはどうにもならないものと諦め、急斜面をさけて緩斜面を「ウェーデルン」の真似事をしてのどかんに滑って楽しんでいる。
野崎指導員に話したら年齢相応に、余り無理するなと忠告きれた。
(機関記念誌221頁)