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平成22年4月20日 校正すみ

硫黄島

山下 茂幸

はじめに

平成7年5月11日、研修会参加者と基地派遣隊員との第1次懇談会に続く、第2次懇親会が終了し、会場から出ると、何気なく空を見上げた。

雲の隙間から、かすかに漏れる月の光に誘われ、消灯前に眺望の効く所まで歩いてみようと、独り、宿舎を通りすぎて進むと、雲は次第に切れはじめ、月齢12日の月に照らされる、摺鉢山のシルエットと太平洋のさざ波は、変貌した島の景観とは異なり、50年前と全く変わらず、

「国破山河在城春草木深」という()()の春望が思い浮んだ。

目を閉じると、散華された市丸司令官を始め先輩・戦友・部下の姿が眼前に彷彿し、感無量、暫し、一人静かにご冥福をお祈りした。

日本旅行作家協会・

海軍文人の会・硫黄島研修会

 

作家の先生方とは全くご縁のない私が、このような研修会に潜り込むことが出来たのは、クラスの新宿江田島会席上で、たまたま硫黄島が話題となった時、近くに席を占めていた左近允君が「硫黄島へ行ってみたいと思わぬか」と私に声を掛けてくれたのが発端である。

誘いを受けて、すぐ思い浮かべたのは昨年秋、初めて森 篤実大尉(予13期・広島師範)の墓参に訪れた時に、妹さんが「遺族会を介して墓参団への参加を長いこと希望しているが、今だに実現出来ず残念です」と言っておられたのを聞き、「機会があれば連絡します」、と約束を交わしてきた事であった。

そこで、「少々厚かましいが、彼女の墓参が実現していなければ、特例として参加させて頂くわけにはゆかないか」と申し出た。森大尉は私が負傷し、治療のために本土送還と決まった時、派遣隊指揮官を引き継ぎ、敵上陸前後は連日に亘り、触接の為に飛行し、最後には地上戦闘に参加し戦死された方である。

検討の結果、特別参加を認めると左近允から電話があったので、早速森さんに問い合わせたところ、「4月の墓参団に参加出来る事となった」という回答を得て安心し、代わりに余席待ちの条件で私の参加を改めて申し出た。

左近允君の調整の妙のお陰で「私の参加も承認」の電話があり、引き続いて「日本旅行作家協会・硫黄島戦史・史跡研修行動計画」と「参加者名簿」が送られてきた。思いもかけず50年振りに硫黄島で一泊出来るという機会を得た次第である。名簿によると、団長の斉藤茂太先生や、かずかずの著書で知られる松永市郎先輩(海兵68期)を始め、TVやマスコミで名の知られた先生方に混じって、72期の押本直正・眞鍋正人・山田良彦の3名も名を連ねていた。

5月11日午前9時、入間基地・稲荷山ゲートに集合し、バスで搭乗待合室に移動すると、各自の名札と認識票を受領した。

斉藤団長や松永先輩などにご挨拶する暇もなく、肝入りの應蘭芳先生(空幕関係担当)・左近允元海将(総括・海幕関係担当)両氏からは挨拶を兼ね研修会参加に当っての注意事項と、空幕・海幕関係者の紹介が行われた。

海幕・空幕の担当者からは、搭乗前のブリーフィングと簡単な硫黄島紹介があり、「機長は松谷三佐、搭乗機はC131で予定飛行時間2時間15分、飛行高度2万2千フィート、雲中飛行となるのでシートベルトを締めること。到着予定時の天候は雨、気温28度と予報されている。」などの注意があった。

1002離陸、巡行高度に達し、気流が落ち着くと、コックピット訪問が交代で許された。

丁度私が訪問した1045頃には八丈島が右正横に眺められた。航法装備としてはオメガと慣性航法装置がそれぞれ単装備されていたが、近く、新型に取り替えられる予定ということであった。

1257小雨煙る硫黄島に到着した。降雨の為か気温も23度で東京と大差なくほっとした。ブリーフィング・ルームで「硫黄島の歴史と現況」についての説明が終了すると、用意されたバス2台に分乗し戦史研究・史跡研修に移った。

日本戦没将兵慰霊碑(天山慰霊碑)、硫黄ケ丘、米軍上陸記念壁画、海軍医務科壕跡、ロラン・ステイション跡、摺鉢山頂の硫黄島戦没者顕彰碑・第1及び第2御楯特攻隊記念碑・米軍戦勝記念碑、鎮魂の丘、資料館などである。

史跡研修が終わり、休憩後、硫黄島在勤の海幕、空幕の隊員と研修会参加者との懇談会に引き続き、懇親会が行われた。懇親会場で、隊員諸兄が、サトーサンベイ先生に背を向けて、シャツに一筆をお願いしているのを見ると、持ち前の野次馬根性を発揮し、「今日は疲れたから、もうお断りだ」とおっしゃる先生に、厚かましくも再三お願いし、書いて頂いたのが、右頁の写真である。(写真略) 隊員諸兄とは全く違うデザインであり、わが家の家宝として末永く保存したい。

宿舎は、訓練休止で空室となっていた米軍NLP参加パイロット・オフィサー用の部屋が、特別に提供され、快適な夜が過ごせた。

12日は、旧海軍関係者だけのためにバス1台が用意され、海幕硫黄島通信隊の、大沢 勉通信長が案内の役を引き受けて下さった。

お陰で、海軍ゆかりの地を飛行機出発前の短時間に要領よく訪れることが出来た。

27航戦司令部跡、警備隊本部跡・南方諸島空本部跡、海軍医務科寮内、摺鉢山砲台(陸揚げされた15センチ艦砲)、現在使用されている揚塔作業場、陸攻の胴体を利用した防空壕跡、戦前の住民居住地区、西大佐戦死の碑等である。

 

しかし50年前に、寺岡謹平第3航空艦隊司令長官や市丸利之助第27航空戦隊司令官がサイパン出撃前の搭乗員に対して訓示を行い、帰還後は戦果報告を受けられた幕舎の跡地や、防空壕跡を、特定するだけの時間的な余裕がなかったのは心残りであった。

 

12日は1115に離陸し、1346には入間に着陸、参加総員が無事帰還した。機中では研修会参加者の体験の為、緊急時保存食(缶飯入り〈カンメシ〉と言われている由)の赤飯と鯖味噌煮の缶詰が空幕のご好意で昼食として供された。

 

入間基地では、司令官と斉藤団長からご挨拶があり、団長が「左近允さんは、晴れの叙勲・参内の日であったが、研修会参加を優先してお世話下さった。ご披露を兼ねてお祝いとお礼を申し上げる」と付け加えられた。

 

お世話になった海上・航空両自衛隊の方々と、應蘭芳・左近允尚敏幹事にお礼を述べて、隊門までバスで送られ、感激の2日が終わった。

 

史跡研修の合間に、「イオウトウ」 か「イオウジマ」「ユオウトウ」かという質問が、兼高かおる先生からあったので、戦争中は「イオウトウ」と称していたと答えたのだが、帰宅後、市立図書館の地名辞典を調べたところ、「イオウジマ」が採用されていた。

また、「南海の爽やかな温泉の湧き出る島を、リゾートとして開発できないものか」との提案もあったが、水の確保と往復の交通機関の確保が解決しなければ不可能であろう。

 

硫黄島の回想・赴 任

兵学校卒業後、昭和10年代初期の頃までの士官搭乗員の殆どが、航空機搭乗員になる前に、練習艦隊、術科講習員教程、軍艦や駆逐艦などで、海軍将校に必要な一応の教育を受け、実地の経験をしていたのとは異なり、我々は艦隊勤務も体験せず、江田島から霞ケ浦へ陸路直行し、その後百里原へ移って約10ケ月、第41期飛行学生(偵察専修)教程の終了が近づいた昭和19年7月、配置先・赴任地の内示が発表された。私は攻撃第256飛行隊附(館山)とあり、ナンバー飛行隊への発令を、お世話になった教員にも「良い赴任先だな」と羨まれた。

 

飛行学生の卒業式が済むと、操縦 林宏一、偵察小林優と私の同期生3名は揃って赴任した。館山基地の本部で飛行隊への案内を乞うと、空地分離によって、飛行隊の出入りが頻繁なためか即答は得られず「電話による照会の末に、「飛行場の列線でエンジンを始動し始めている艦攻が確かK256だ」と言われ用意された車で直行した。天山艦攻隊は正にチョークを外す寸前であった。「隊長機はどれか」と整備員に尋ね、機側まで駆付け「隊附を命ぜられ着任しました」と隊長鈴木武雄大尉(兵67期)に申告すると、「飛行隊は、訓練のため大分基地に向け出発し、訓練終了次第香取基地に帰投する予定。本日午後、移動予定の整備員と同行し、香取基地で待機せよ」とだけ言い残され、飛行隊は逐次離陸していった。

改めて整備分隊士に挨拶すると、「鉄道利用で移動するので、同行して下さい」と言われ、館山から再び列車に乗り、総武線の干潟駅で下車、香取基地の宿舎に辿り着いたのは、夏の日もとっぷり暮れ、長い着任の1日は終わった。翌朝、貸与された第三種軍装へ第二種軍装から着替え、以後戦争終結まで第一・第二種のいずれにも袖を通す機会はなかった。

着任後灰聞した事や、戦後に発刊された本などを読み、勝手に私なりの推測をしてみると、「ア」号作戦の際に硫黄島へ進出し、敵機動部隊を迎え撃ち、本土に引き上げた横須賀航空隊の艦攻隊を根幹に、館山を基地とする752空攻撃256飛行隊(K256)として編成されたらしく、練成訓練が軌道に乗り始めた時期であったようである。

256からは、硫黄島へ搭乗員6組と天山艦攻3〜4機が、哨戒・索敵を主任務に、1カ月交代を原則として派遣されていた。昭和19年9月には、分隊長相馬攻大尉(海兵69期)が派遣隊指揮官として赴かれた。

 

香取を基地として練成訓練は順調に進み、総仕上げとして大分基地を利用し、瀬戸内海西部で行動中の空母瑞鶴(?)を目標艦として編隊雷撃擬襲訓練が行われた。香取に帰投すると間もなく、隊長から南方展開の為に第1次編成表が発表され、展開の発令があり次第、香取基地を出発することとなった。

 

機種移行のために操縦慣熟に時間が必要な林と、航法図盤整理がラフであった私は第2次編成組で、小林だけが第1次編成表に登録されていた。選に入った小林を羨み、林と私2人で送別クラス会の準備を始めると、今度は私に「相馬分隊長の交代として硫黄島へ派遣する。機材に余裕がないので、木更津から第752空の陸攻に便乗して赴任せよ」と申し渡された。小林の送別クラス会は私の送別会に変更されることになった。ところが、3航艦司令部からの九州・沖縄への展開発令が早まり、我々はクラス会も開けず、林と私は、勇躍出発する小林を見送ることとなった。

九州・沖縄と展開して、鈴木隊長を指揮官とした攻撃256飛行隊は、1016日の台湾沖航空戦に参加した。残念ながら、天山を使用する昼間の編隊雷撃は最早不可能であるという戦訓を残し、殆ど全員が台湾南方洋上に散華されたことを伝え聞いたのは、11月となってからであった。

同時に香取から南方へ飛び立って、比島沖海面で散華された、攻撃第5飛行隊に属する同期の西岡 弘・市川 繁の両兄も見送った。

 

752空飛行長から電話があり、昭和191020日一式陸攻に便乗し、交代要員人8名と共に赴任した。初めて機上から眺めた硫黄島の第一印象は、爆撃跡の直径10米前後のクレーターが、島全体所構わずに散在している様は、科学誌に掲載された月面写真そっくりに見えた。千鳥飛行場の南東隅に設置されていた、天幕張りの艦攻隊の指揮所に赴き、相馬分隊長や、派遣隊指揮官を引き継がれた分隊士・三重堀文吉中尉(海兵71期)を始め在島者に挨拶を済ませた。

20日、分隊長以下の香取帰還組は一式陸攻に便乗し、木更津に向かった。香取帰還後は機材の調達と、乗員の急速練成を行い、相馬大尉を隊長に、攻撃252飛行隊が編成され、12月にフィリピン方面へ展開した。

 

11月1日には予告なしで、森篤実中尉(予13期)外8名が香取から進出し、交替に三重堀中尉外8名が2日には帰還された。香取に帰還して、相馬隊長や林と共に12月に比島方面に進出し、天山単機による夜間雷撃を行い、殆ど全員が散華された。硫黄島での見送りが、永別となろうとは神ならぬ身の知る由もなかった。そこで、派遣隊指揮官は自動的に、私が継承することとなった。

 

硫黄島の勤務

初級士官勤務要領も行儀作法も、習得する余裕もなく、着任後僅か10日余りで派遣隊指揮官として放り出され、少々困惑した。

11月前半の日常は、夜間空襲の回数も少なく、黎明索敵から帰投すると、我々がサイパン定期と呼んでいたB-24が上空に飛来し、稀に島へ落ちる事があっても、大半は周辺海上に申し訳程度に、爆弾をばらまいて帰った。

この間は空中退避し、空襲警報解除を待って着陸した。

 

戦前は真水の供給を、父島からの水船に頼っていたと聞いたが、島には真水が全く湧き出ず、炊事用にも天水と温泉の蒸留水が使用されていた。米軍機が去ると、指揮所近くにあった井戸から汲み上げた温泉をドラム缶に満たし、すっぽり肩まで漬かれば、目の前には広々とした太平洋が広がり、浩然の気が養え、唯一の憩いの一時でもあった。入浴を交代で済ませれば、午前の日課は終了した。

2時頃になると、午後のサイパン定期が来襲し、空中退避非番の者と整備員は、若し、時間的な余裕があれば、徒歩で摺鉢山の麓まで退避し、弾着観測を行ったり写真を撮ったりする余裕もあった。

補給の為に、輸送艦が来島する前日には位置通報があり、予定会合地点上空まで飛行し、識別のバンクをふると、安心するのかそれまでの之字運動は即刻取り止めて、島に向け直進を開始するのが通例であった。こちらは敵潜水艦に雷撃されては恥と、機上でヒヤヒヤしながら、目を皿のようにして上空哨戒を続け、接岸を確認するとホッとした。本土に向かう時には定められた地点まで送り、帰路の無事を祈りながらバンクをして別れた。

27航戦や陸軍の参謀が要務のため父島に赴かれる場合には、天山の最後部座席に電信員と同席して頂き飛行した。二見湾の狭い海岸を埋め立てて急造された飛行場では、風向・風速により、山側からの着陸の場合には、木を舐めるような飛行経路となり、山側へ向かって離陸する時には、島肌を舐めるように旋回飛行を行い、低空で二見湾上を通過してから、上昇飛行に移る必要があった。海側から着陸する時は、問題点は少なかったが、海側へ離陸する時には、離陸直後に車輪収納が終わっても、十分加速されたことを確認しなければ、上昇飛行には移れなかった。

 

父島航空隊では、遠山司三郎中尉(兵71期)にお世話になった。昭和19年末頃までは、硫黄島のように、頻繁に空襲警報が発せられることも稀で、父島では、落ち着いて洞窟内に特設された涼しい寝台の上で睡眠もとれた。戦前は東京へ送り、生計の一助としていたという、早出しの胡瓜やトマトなどは年末頃が盛りで、夕食と朝食には盛り沢山な新鮮野菜をご馳走になることが出来た。翌朝は、軍司令官閣下宛や航空戦隊司令官宛の野菜を託送された。運搬料としてか、我々にもおこぼれを頂戴して帰途についた。

帰島するや託送品を届け、零戦隊や月光隊へのお裾分けが済めば、誠に申し訳ない事ではあったが、配食の乾燥野菜は掬い出して、到着したばかりの野菜を代わりに入れ、ビタミンCを補給させて頂いた。

派遣予定の1カ月は瞬く間に過ぎたが、親元が次々に南方へ進出してしまったので、交替は現れず、給料も届かなくなった。クレイムを付けたところ、131空附へ転属の発令があり、給料は届いたのだが、交替要員派遣に就いては梨の(つぶて)で、総員諦めの心境になっていた。

 

島で勤務を共にした期友

コレスで合志秀夫(機53期・整備)は南方諸島空附として私の赴任前から勤務していた筈だが、業務上で接触する機会が少なかったせいか、顔を合わせたのは1度か2度で、ゆっくり話し合った記憶が、申し訳ないが余りない。彼は、敵の上陸するまで勤務し、奮戦・苦戦の末に、井上左馬二司令(兵44期、前百里原航空隊司令)と共に20年3月に戦死された。

 

11月前半には、27航戦隷下の戦闘308(零戦3〜4)、戦闘857(月光2〜3)、攻撃256(天山3〜4)の派遣隊指揮官が全部72期という時期があった。戦闘機は、森 茂久(現姓・島田)月光は、酒井 洋であった。稀に忙中閑ありという夜には、三人で語り合ったこともあった。

森は10月に着任しており、来襲したP-38と空戦を行い、被弾を受け落下傘降下を行ったが、接地に際して、前方転回を行い素早く索を外したので、軽傷ですんだという体験談を話してくれたのも、三者会談の席上で語り合った時であったと思う。

次女の寛子様の「脳溢血で倒れてから、26年経ち、話す事もこのところ難しくなりましたが、父なりに頑張っています」というお便りを、なにわ会ニュース第27号で拝見し、昭和27年頃に彼が東京の私の勤務先まで訪ねてくれて以降、会う機会がなく、是非お見舞いに参上したいと願っている。

 

双胴型のP-38が、初めてその姿を見せたのは、11月後半であった。写真偵察が主任務であったのか、南海岸(敵上陸地点)を低空で航過するのを、全員で漠然と眺めていたが、若し、機銃掃射が行われていれば、総員戦死となるところであった。更に北上したP-38を、上空哨戒中の零戦が迎え撃ったが、森が被弾したのは、この時であったような気もする。

11月末になると、輸送艦の対潜哨戒を天山単独で行うには、敵戦闘機来襲時には、任務を全うする自信がなくなり、司令部の指示もあり、2回か3回であったか、零戦と天山が協同で輸送艦の哨戒を行った。巡航速度や旋回半径が異なる戦闘機が.哨戒を行う艦攻の上空で掩護するという形式を取ったのだが、双方ともにスピード調整に苦労した。森が本土へ移動したのは、12月初旬であったように思うが、正確な日時の記憶はない。

酒井 洋は、私よりも若干遅れて着任したが、程なくオーバーホールのために、月光を藤枝(?)基地へ空輸、整備完了後の1124日に、硫黄島へ向け飛び立ち、「我、硫黄島上空」と無線連絡があった。地上レーダーが機位を確認して、「機位と天候」を打電すると、「了解」の返信はあったのだが、なぜか雲を突っ切って降下を試みず、「我、父島へ向かう」という連絡を最後に、レーダーサイトから消えてしまった。予定時刻となっても父島から着報がなく、司令部から即刻捜索に赴くよう命ぜられ無事を祈りながら、低空で不時着機を求め、父島上空まで飛行したが、機影も浮流物らしいものも発見出来なかった。日没時刻も近づき視認も困難となり、捜索は断念して帰島した。

昭和21年頃に、福岡在住の父君を一度だけお訪ねし、経過をご報告申し上げ、お参りさせて頂いたが、「戦死の公報を、何度読み返しても、理解出来なかった疑問が解けた」 と仰言って下さった。

 

硫黄島を通過する時に巡り会った期友

11月も半ば頃になると、硫黄島を中継基地とする、グァム・サイパン方面に対する航空作戦の頻度が増加し始めた。作戦に対応し、日常業務以外に、地上支援業務の一部が艦攻隊員に課せられるようになってきた。

1119日には、高木清次郎T12隊長(兵64期)と平野 誠(72期)が彩雲2機によってサイパン・テニアン方面への強行写真偵察を実施した。隊長機は、電信員が高度飛行による酸素欠乏症にかかり、写真撮影を断念されたが、平野中尉機は見事に成功し、木更津帰還後には表彰状を授与されたと聞く。

平野中尉は再度グァムの写真偵察に赴き、帰途に硫黄島へ立ち寄った時に、「現像・焼き付けは、偵察隊はお手のものであるから、若し撮影済のフィルムがあるならば、もう一度位は来島すると思うので預かっていこう」と声を掛けてくれた。彼とは百里空で互乗訓練を行った仲であり、気安く好意に甘えたのだが、行動予定が変更になった模様で、彼の3回目の来訪はなく、後日、九州・台湾方面に進出し、20年1月14日に戦死されたと聞いた。

 

陸軍は第4独立飛行隊所属の百式司偵がサイパン・グァム方面の写真偵察に従事していたが、細部については承知していない。

 

1126日に「252空の大村謙次中尉指揮の零戦機が来島し、27日サイパン・アスリート飛行場の銃撃に特攻隊として出発する」と橋本敏男27航戦参謀(兵66期)から告げられた。「大村ならば同期で、しかも四号時代は隣の分隊でした」と話し、卒業後初めて会えるという喜びと、出撃を見送らなければならぬのだという複雑な心境であったことを思い出す。

 

零戦12機を率いて、予定通りに到着した大村中尉は、司令部との打合せなどで忙しかったので、出撃前に、ゆっくりと話は出来なかったが、森も交えて短時間ながら話をする機会があり、「明日は、敵さんが昼食休憩の頃合いを狙い、銃撃を行い、B‐29を焼き払って、戦果をあげ、肝を潰してやろうと計画している」と特別な気負いもなく、淡々とした口調で話をしていたのが、今でも眼前に彷彿とする。B-29 4機を破壊し6機を撃破したが、全機未帰還であった。出撃する前に「御楯特別攻撃隊」と命名されていた事を当時は知らなかった。

 

既に鬼籍に入られた四号同分隊の藤井伸之氏のお供をして、令兄の大村行雄様をお訪ねし、以上のようなお話しを申し上げて、ご冥福をお祈りした。

 

現在、標高169米の摺鉢山頂に、第1御楯特別攻撃隊・第2御楯特別攻撃隊の2つの慰霊碑が建てられている。

 

11月から12月になるとB-29による本土空襲が活発化した。サイパンへの復路、編隊灯を点灯したまま、機位確認のために、高高度で上空を通過してゆくB-29を切歯扼腕しながら見上げるだけであった。

これに対応する為に、海軍の一式陸攻・銀河と陸軍の飛龍(四式重)が夕方来島し、燃料満載の上、サイパン・テニアンへの夜間爆撃を行い、日出前に帰島・燃料補給終了次第本土に帰還するという、海・陸軍協同作戦が何回か行われた。攻撃が行われた翌日はB-29による本土空襲機数は、確かに減少したような記憶がある。我が方の硫黄島活用に気がつかぬ筈のない米軍は、従来の午前・午後のサイパン定期に加えて、日没後1時間位経つと単機進入し、パラパラと爆弾をばらまき、レーダーサイトから機影が消えるまもなく、次の一機がレーダーに現れるというTAIL&NOSE(テイル・アンド・ノーズ)方式で対抗作戦を開始した。一旦空襲警報が解除されても、すぐに次の警報が発令されるので、地熱のため蒸し風呂のような防空壕に、長時間閉じ込められた。

サイパン定期の間隙をぬって、海・陸軍の爆撃機の受入れと出発が行われた。着陸目標灯などの夜間照明用カンテラを、滑走路へ設置・撤去する作業の経験者が南方空には少なかったので、艦攻隊員が主としてこの作業を行った。

海に向かって平坦な摺鉢山方向へ離陸することが多かったが、未舗装滑走路からの離陸のため、少々追い風気味になると、全開のエンジンからの後流が吹き上げる砂塵が、機の前方に廻りこみ、操縦席の視界が妨げられて、方向維持が困難となり、離陸する前に誤って、低い土手を直撃し、チョロチョロと火災が発生し、燃料等に引火し始めると、「総員防空壕へ退避」が下令され、引き続き800kg(一トン?)爆弾が誘発し、機体は木っ端みじんに砕けた。現場に駆けつけた隊員が「遺体は白骨だけとなっています」という報告を聞き思わず合掌したことが何回かあった。

爆撃隊の通過時には、何人かの同期生と言葉を交わしたような気もするが、今思い出すことの出来るのは権代博美が出発前に、「今回は、新型の爆弾を携行したから、自信があるよ」と話し、帰島して、「大成功だった」とだけは聞いたが、弾頭には新しく開発されたセンサーが装着されていた模様だが、詳細は聞き漏らした。本土へ帰還後、彼も九州方面に転戦し、20年4月に戦死された。

しかし、この作戦も長続きはせず、12月中旬には中止された。

 

その他

ただ一度だけではあったが、11月某日の午後のこと、「沖縄と本島の中間付近海域を敵巡洋艦が北上中との情報がある、天山3機は西方への確認に即時出発せよ」という緊急発進命令を受け、270度を中心に3機が相次いで離陸した。私を中心に左右1機である。針路はほぼ真西であるから、編流測定用の爆撃照準器の対物レンズは尾部方向の東に向けて、測定を行った。索敵線上には敵影を見ず、側程を飛行し終わって反転した。

この時に、照準器の向きを変更しようと持ち上げると、何かのはずみで軸線を曲げてしまい、正確な編流が測定出来なくなってしまった。飛行学生時代に数回経験しただけである、尾部編流線を活用し、何とか航法を続けたが、東方に向け飛行を始めると太陽は釣瓶落としのように沈み、周辺の積雲の影は島影そっくりに見えだした。

到着予定時刻を30分位過ぎても硫黄島は視認出来なかった。夜間飛行からは暫く遠ざかっていたことも重なり、自分の機位について少々自信を失いかけはじめた。

先ず、残存燃料は十分なことを確認し、「機位に確信をもてなくなった時は、右や左に変針をせず、直進すること」という戦訓を思い出し、じっと我慢して直進飛行を続けることとした。操縦員の水口上飛曹に「図盤整理のため航法目標弾を落とし、その場旋回をしたい」.と伝え、電信員の坂田上飛曹には、電波封鎖違反を承知の上で、「方向探知用の電波発射依頼」の発信を命じた。「航法目標弾を投下する」と伝声管で伝え、投下した航法目標弾が海面に落ちるのを追尾していると、海面に到達寸前に、電信員から「我、探照灯を点ず、を受信」と伝えられ、「正面に探照灯が見えます」という操縦員の声がほとんど同時に聞こえた。

 

旋回飛行は即刻取り止め、「探照灯宜候(よーそろ)」で直進し、予定より約1時間以上も飛行し、何とか帰り着いた。翌朝は関係各方面にお詫びに廻り、お小言を頂戴した。予報に比べ風速は強かったが、風向はあまり変わらなかったのが、不幸中の幸いであった。

 

艦砲射撃は爆撃より長時間に渡って続くので閉口した。射撃は通常、島の東北端から始まり南を廻り、北西端で反転して南下し、南端で終了するパターンが多かった。約2時間位は防空壕内で、弾着観測を聞いているわけだが、弾着は段々と近づき、直撃を受けると遠ざかっていった。射撃が終了し、壕を飛び出し飛行場に出て、愛機の被害の有無を点検していると、周辺には不発弾がゴロゴロしていた。

 

1944年クリスマスに艦砲射撃を受けた時は、帰り際に平文で 「メリー・クリスマス」と捨て台詞を残していったとか?

 

その頃には、P-38の飛来が頻繁となり、油断でき無くなったので、防空壕からの距離を勘案して、指揮所の千鳥から元山飛行場への移動を進言し、承認された。

某日、昼間の索敵に出ようとして、元山飛行場の誘導路まで進み、微風であったから、どちらの滑走路を使用するか操縦員と協議しながら、ふと前方を見ると、P-38が向かって来るのを発見、即刻エンジンを停止し、飛行機から飛び下り、掩たい壕の陰に飛び込んで機銃掃射から免れた事もあった。

昭和20年1月5日早朝、父島から「敵巡洋艦の艦砲射撃を受け、射撃終了後、艦隊は南下中」との打電があり、索敵命令を受け出発した。空母は不在と睨み、艦形判別には都合良い2000米で飛行したが、運よく一時間足らずのうちに、右前方に之字運動もせずに航行する、随伴駆逐艦を従える巡洋艦隊を発見できた。

取り敢えず「敵艦隊発見、巡洋艦3・駆逐艦6、硫黄島に向かう」と打電した。空母が存在していない事も再確認した上で、艦型と隻数をもう一度確かめようと、少々無謀とは思ったが、艦隊の針路に直角に後方の直上航過を試みようと飛行を続行すると、最後部の駆逐艦が転舵したかのように見えたので、さては気付かれたかと、「反転、突っ込め」と変針、降下を開始するや否や、我が機の真後ろ、航跡を追うように弾幕の黒雲が追ってきた。急ぎ逃げ込んだ雲の中から出て艦隊を探すと、再発見した敵の針路は、正に硫黄島に向かっていた。「硫黄島に向かう」と針路・速度と共に報告し触接を続行した。例の通り、島の北東端から砲撃を開始する態勢となった事を打電した。砲撃の終了までは、硫黄島への着陸は不可能になったと判断し、許可を得て父島へ向かった。敵艦隊は、夕暮れ近くまで射撃を実施して南に去った。

 

20年1月16日は、日没後1時間以上経っても、空襲警報は発令されなかった。「地上で寝よという神様の思し召しか」と勝手に考えて、地上宿舎(旧気象台官舎)で仮眠に入った。警報が発令されたのは、寝入りばならしく、誰一人発令に気付かず、上空に近づく爆音で総員が一斉に飛び起きたが、「毛布をかぶって伏せろ」と怒鳴るまもなく、滅多に島には落ちたことが無い爆弾が、宿舎付近に落下した。

「怪我した者はいないか」と尋ねると、自動車の運転手1名が怪我をしているのが分かった。幸いに電話は通じたので、医務室に「負傷者1名、迎えの車を頼む」と申し出ると、「車に乗せ、連れてきて下さい」と言われたが「運転手が負傷したので、不可能です」と答えて配車手配を終了し、ホッとした。

その時になって、「先程大腿部がちりつとしたが」と独り言をいうと、それを聞きつけた部下が「大丈夫ですか、骨はやられていませんか」としつこく聞くので、「あれだけ駆け回ったのだから、骨がやられているわけはないだろう」と半信半疑でズボンを下げてみると、少々血が滲んでいた。

迎えの串が到着したので、同乗して医務部に向かった。誠に申し訳ないことであるが、当直軍医官の氏名がどうしても思い出せない。久米誠一軍医大尉か山本浩軍医少尉のいずれかではなかったかと思う。

軍医官は私に向かって「傷を見ましょう」と言われたので「私は後回しにして下さい」と申し出たのだが「彼の手術は時間が掛かるが、こちらは短時間で済むから」と再三申されるのでそれに従った。その通りで、爆弾の小破片が、左大腿外側から内側へ向け貫通し、丁度飛行服で止まっていた。そこで、消毒用の糸を通すだけで終了した。しかし、彼は腹部を直撃されていたので、手術中に逝去された。

翌日、司令部と南方空へ、お詫びに行くと「怪我人は、島にいても邪魔になるから、丁度明日、木更津行きの便があるから本隊で治療に専念せよ」と申し渡されてしまい、誠に不本意な移動命令を受けてしまった。

この時に着用していた飛行服は、鹿屋資料館へ、救命胴衣共々寄贈した。

木更津到着後、3航艦司令部に立ち寄り、経過報告とお詫びを申し上げると共に、「派遣隊搭乗員は、硫黄島勤務が当初予定の3倍近くとなり、体力を消耗し、衰弱している者が多くなっているので、交替派遣については、是非考慮をお願いしたい」と敵上陸が迫っているとは知らずに申し上げた。

 

香取基地では、131空の藤村 悟飛行長(57期)に硫黄島の近況報告に併せ、交替要員手配のお願いを済ませて、基地の病院へ入室した。

131空からは、早速、交代要員9名派遣の手続きが行われ、木更津から一式陸攻に便乗して硫黄島へ赴任した。折り返し、先着順と、体力消耗の甚だしい隊員9名が便乗し、離陸したのだが、北硫黄島上空付近で、敵戦闘機の攻撃を受け全員が戦死してしまい、私の努力が水泡に帰してしまった。私の操縦員水口兵曹、電信員坂田兵曹も行を共にし、香取で再会するという機会は永遠に閉ざされてしまった。ご遺族を訪問する機会がなく、申し訳なく思っている。

 

昭和30年代に、小笠原諸島の返還の直前であったか、直後早々であったか思い出せぬが、東京都がチャーターし、戦前に硫黄島に在住され、昭和19年に、強制的に引き上げられた方々の為に、日本航空の特別便に乗務してこの島を訪れたことがある。島は未だ米軍管理下にあったように思う。乗客が島内の巡回に出られている間に、滑走路周辺を覗いてみたが、隆起による断層の為に、道路はズタズタで、飛行場外へは足も踏み入れられなかった。

 

昭和42年5月19日に、ご遺族の墓参のためにチャーターされた日航特別便に乗務し、2度目の訪問をした時には、島の管理は、米軍から日本の海上自衛隊に移管されていた。道路の整備が少し進み、島の北部地区に建設された慰霊之碑は、少し乱立気味の様相も呈していた。ご遺族のお供をして、建設されたばかりの、木製の戦没将士慰霊之碑の前で行われた慰霊祭にも参列した。

僧侶の読経があって、出席者全員が焼香し、ご冥福をお祈りした。しかし、いずれの場合も日帰りの慌ただしい訪問であった。終わりに図らずもこの度は、50年の節目の年に「戦跡地行」を成し遂げた安堵感と同時に、研修会への参加を許されたお陰で、50年振りに一泊の硫黄島訪問の機会を私に与えて下さった関係各位に対しては重ねて感謝する次第である。

 

日記などの記録は一切書かなかった私に対し、自啓録や航行記録まで保存している押本君から、「硫黄島研修会と島で出会ったクラスメートの追憶を、なにわ会ニュースに寄稿せよ」と帰途の機内で命ぜられ、締切りまでは2ケ月近くあるなと、うっかり引き受けてしまった。

帰宅後、防衛研究所戦史部を訪ねたが、膨大な資料と格闘しても、短時間では目指す資料には中々巡り合えず、締切りは迫り、纏まり無く、不本意、不十分な記述となってしまったことをお断りして、お詫びする。

 

(なにわ会ニュース7317頁 平成7年9月掲載)

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