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平成22年4月21日 校正すみ

海軍機関学校53期の一人として

飯田 武二

○ 名前

大正12年生まれの私には上に3人の兄姉がいた。明治45年生まれの兄を頭に1年おきに2人姉が生れ、その後、子がなく、もう終りと思っていた頃、9月の大地震とともに生れたのが男の子で、7年もなかった子宝に恵まれたわけであり、祖父母を始め皆喜んだ。もうないと思っていた男の子が生れたので一人位は軍人にしてお国に御奉公させたいと、本人の考えに関係なく集議一決し「武二」と命名された。これは昭和52年晩秋に廊下で陽に当り乍ら、海上自衛隊を退職し、川崎重工の会社勤めに入ることなど母に語っていた時「そうかい、軍人も終りか」と言い乍ら話してくれたことである.。.母は長生きで今年は満99才になるので4月には白寿の祝をすべく記念品を準備していたところ、これを待たずに2月4日永眠した。

○ 母

小学生の高学年になると進路を決める必要があり、兄は湘南が良いといっていたので、本人もそのつもりになり、中学は相当時間をかけて藤沢まで通った。逗子は海軍の軍港、鎮守府、工廠、空技厳、航空隊などある横須賀の隣で海軍に関係する人が多く、小学校に通う途中海軍士官が、美しく若い奥さんや女中さんに送られ、マントをひるがえして出勤する姿はうらやましく、あこがれていた。

中学の頃「英雄待望論」「大陸雄飛」などの本を読み、それではと満洲国の士官学校に応募合格し、母に語ったところ、こっぴどく叱られ断念したことがある。人生過ぎて見なければわからないが母の眼力か。もともと父は言葉の少ない方だったので知らない所で談合し、母が云う役割を果たしたのかも知れない。

その後も大切な時に、びっしりと云われたことが何回かあった。

 

○ 恋人・妻・子・書芸

戦後国鉄に居たが組合活動が気に染まず、やめて会社に勤めている時,妻とめぐり逢い結婚した。間もなく友人の技術士官らと会社経営に乗り出したが、すぐ金につまった。妻は質屋に通い飢えをしのいだり、階段の昇り降りに家屋が動く二階に間借りしたり苦労をかけたが若さの故か、時代の故かお互い不平も言わず頑張った。

海上自衛隊に入り、単身赴任先での浮いた話も信頼をもって聞き流した風をしてくれたし、逗子に居を得てからは明治生れの両親を見てもらったことは、特に中年過ぎて個人の考えも定まってからのことであり、大変なことであった。

大分前から書道に励み、最近では日展など全国レベルにも顔を出すようになり、金もかかるが、張りがあって明るい。友が良い賞をもらうとその功績第1は本人、第2はつれあい、第3が先生方であると励ましている。

 

○ 生徒長

海軍機関学校合格通知が来た時は家族総員大変な喜びであった。兄が付き添って舞鶴まで行くことになり、すでに妻子のあった兄は久し振りの旅なので京都で丸2日みっちり見学し、舞鶴に到着した時は2人ともへトへトであった。案の定身体検査でひっかかり、教員の世話で他の者より遅れてやっと合格した。取り残された制服を着て1人で12分隊にいくと四号の先任ですぐ仕事が待っていた。杉町生徒長はやさしく迎え入れ、その後続く他の一号のしっかりした指導にもやや距離をおき包むように育てていただいたように思う。

葉山に住まわれ、逗葉海友会の会合で先輩方を前に私が会長挨拶をするとあとで好評をいただき、往時の御指導を想起した。

この体験は9分隊生徒長になって新三号生徒に接するに役立った。特に1部長の藤井生徒が先任で来たので結構気もつかった。

 

 ○ 分隊監事

一号の50期が卒業し見送りを終るやいなや、新三号道場に集れがかかり、涙をふくひまもなく、新一号就任の弁と総員による総員に対する挨拶があった。二番煎じの最下級生を持たれた51期には申訳なく思うし、2代にわたって最下級生として御指導いただき大きく成長したことと思う。巡検後生徒館屋上で黒木生徒のお話を小1時間聞いても覚悟が出来ていたし、反論もなく終った。川崎重工業葛ホ務の折、岐阜に近い下呂に赴き墓参し、冥福を祈った。

こんなことで四号、三号時代は分隊監事よりむしろ一号からの御指導が強く印象に残る。上級生になるに従い分隊監事のウエイトが大きくなった。四号の時は上利機関大尉で、次いで福島少佐、一号のときはアゴの篠田大尉と、何れも兵学校出で相当影響を受けたものと思う。戦後アゴさんとは会食もしたし、金枝さんと未亡人を訪れもした。

 

〇 酒

馬術訓練は楽しかった。京都に宿泊し麦島生徒と町に出て、そっとビールを飲んだ。翌日馬に見つかり、足を踏んで離さず足指の皮をむいてしまった。

 

卒業して伊勢乗組の折、罐の先生に呼ばれ底の甲板の酒盛りに加わった。飲みっぷりが良いとおだてられ調子に乗って一升ぴんの底より大きい当時の湯呑みに何杯飲んだか、翌朝目が覚めると裸でハンモックにしばられていた。山下候補生に厄介をかけ、年経てからもよく語ってくれた。

追浜の整備学生の頃は時に酒の配給があり持ち帰ると喜ばれた。友人の鈴木さん宅で飲んでいると隣の夫人が来て子達が素晴しい海軍さんにあこがれているので寄って下さいとのこと、何回か参上して幼い子等と遊んだ。若夫人はうっとりと見とれていたが、また、母にビシリと言われて止めることとなった。和服姿の美しい夫人であった。

 

○ 戦死

一号の時の9分隊での戦死は勝賀野生徒ただ一人であった。何か話して居ると、「何だ 何だ」と寄って来て何でも一緒になってやった。仲間意識の強い人で威張った容姿に暖かいぬくもみを感じる人間味のある人柄であった。昭和天皇崩御の年のなにわ会幹事として参拝クラス会の会食時の幹事挨拶をすることとなり、彼のことを思い出し、「さきの大戦でお国のために逝ったクラスの英霊は、この度崩御された昭和天皇と咫尺(しせき)の間で語り合って居られるのではなかろうか」 と申し述べた。

兄も昭和20年4月1日台湾海峡で戦死して居り、戦後知らせを受けた父が一見平然と振るまっていたけれども一人になると腸が押し出されるような静かな慟哭(どうこく)をかい間見たことが何回かあり忘れられない。御遺族に接するむずかしさを私なりに今でも持ち続けている。

 

○ 三良坂

吉岡生徒とは何だかウマが合った。彼は生徒になってからどんどん成長し、広島の山育ちというのに水泳が極めて上達し、海岸育ちのわが遊泳は及びもつかなかった。

戦後参拝クラス会で母上(志げさん)とお会いし、しばしば面倒をみさせていただき、一度は墓参をと思っていた。

自衛隊に居た頃、岩国出張を利用してたずねると部屋中に昔の制服や帽子をかけ、出てくるものは彼のものばかりで、じっとこらえて会話するのがやっとであった。水泳の話をすると生徒で休暇に帰った折、近所の子等を集めてこの川岸からザンブと飛び込んで見せ、母として鼻高々であった由、孝行息子と感じ入った。

「ヨツちゃん」と一緒に入るのだと立派な墓にお参りもした。退官後も何回か時間を作って訪れ、短い時間であったが、帰りに小さいわが子に下さるように小遣いをいただいた。54期の中川さんがよく面倒を見て下さる。

 

○ エンジニア

海上自衛隊に入って間もない昭和34年から2年間防衛大学の助教授をした。私は海軍機関学校出身ということで自信をもって学生に接することが出来た。教務の内容ではない。防大には理工学6専攻があり、学生は何れかが必須であった。特に航空工学の先生方とは親交を得られた。米海軍のスプルアンス大将が艦船技術の電気課長経歴の持主であったことはうなずけるし、新しい自衛隊幹部は立派に育つものと考えていた。

一号は9分隊生徒長からはじまり、立派な分隊の生徒にめぐまれ楽しいものであった。戦争もたけなわであり、覚悟を持って入校して来た三号生徒にはどちらかと言えばよく勉強してもらいたかった。どんどん期間は短縮するし、割愛もあったようであり、お役に立つ人の養成には大切と思ったからであったように思う。

 

〇 3人の澄子さん

逗子駅前の島田医院の院長澄子さんには子等をはじめ長く厄介になっている。還暦記念に献体しょうと思い彼女に相談し、共に実行することになり、本当の医をなさり、尊敬している澄子先生である。

三浦一族の子孫で郷土史研究に励んで居られる三浦澄子さんは故郷の記録「柏原」を手掛けた折も精力的に御協力いただいた。おかげで尼僧、小野妙恭さんにもめぐり会えた。

戦後何回か訪れた沖縄には、謝(しゃ)(はな)澄子さん(松尾消防通り)が居る。沖縄に行くと半日位の時間をもらって海軍壕、ひめゆりの塔、守礼の門と彼女の店を訪れる。大田中将の沖縄県民かく戦えりの電報は有名であるが、文中の陸軍の司令部も県庁も通信手段をなくしたと思うので打電する旨の配慮は舞鶴育ちのものとして共感を覚えるものである。この澄子さんはひめゆり達の友であり、琉球王朝から伝わる銘菓桔餅の唯一人の伝承者である。

 

○ 舞鶴の評価

海軍機関学校第53期の評価は何れ、どこかでなされると思うが、その一人として全体を押しはかる足しにもと、ささやかではあるが2、3の事項をあげておきたい。

海上自衛隊に入って米海軍に留学した時、森山さんや金原さんが先行のフロリダ州のジャクソンビルでの教程も終り昭和31年春撮った写眞が、土地の新聞に出たと中原さんが送ってくれたので切り抜きをのせる。

自衛隊には個人に賞詞、団体に賞状がある。鹿屋航空工作所から転出したあとで賞状が出た。余程気に入られたのであろう前所長の名が入った珍しいものであった。

自衛隊を退官して逗子の住人となってしばらくしたらオバタリアンの強い町となった。生れ育った柏原村の記録を作ったり、菓子を考案したりしていたら感謝状をもらったり、新聞にも出た。これらすべて舞鶴時代に培われた心がけが源となっているので敢えてのせた。

(機関記念誌305頁)

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