伊58潜(金剛隊)回天の戦闘
小灘 利春
平成16年 6月30日
回天の第二次作戦、金剛隊で伊号第五八潜水艦は回天四基を搭載して昭和十九年十二月三十日午前十時、大津島基地を出撃した。
攻撃目標はグアム島西岸のアプラ港に碇泊中の米軍艦船であった。
艦長は橋本以行少佐。
回天搭乗員は
石川誠三中尉 (兵学校 七二期)
工藤義彦中尉 (兵科三期予備士官)
森稔二等飛行兵曹(甲飛十三期下士官)
三枝 直二等飛行兵曹(同 )
であった。
下士官の二人は予科練出身初の回天出撃者である。
アプラ港はグアム島の西岸中央にあり、海へ高く突き出たオロテ角と、低く長く延びた珊瑚礁に囲まれた奥行き八キロ、南北の幅三キロの天然の良港である。湾口は幅一キロで水深三十米。しかし、広くはない港内に浅瀬や珊瑚礁があり、沈船も大小数隻あって収容能力は限られる。米軍は潜水艦部隊の根拠地にしたほか、艦船の寄港地、補給の中継基地、応急修理基地として活用していた。従って敵の有力艦隊が在泊しているとは期待できない。
ー月九日に偵察した彩雲機の「特空母一隻ほか」の目視報告に基づいて、第六艦隊司令部は「浮ドック四基、大小輸送船六十隻が在泊中」の旨を伊五八潜へ攻撃前日の十一日に通報した。
あと偵察写真を判読して
「特空母一、輪送船大型十四、小型四、浮船渠一、駆逐艦一、潜水艦一、戦車掲揚陸艦三」と、司令部は回天が発進した後の十四日になって「特設空母一隻」を追加した在泊状況を修正通知した。
伊五八潜は北緯十一度の線まで南下したのち一月九日、北北東に針路を変え、グアム島を目指した。アプラ港の位置は北緯十三度二六分、東経一四四度四十分である。
十一日1110グアム島オロテ角を距離二六浬から潜望鏡で確認、距離を西へ四二浬まで離したのち2142浮上、半速七ノットで充電航走を兼ねて発進地点に向け接近を始めたが、浮上後十三分で早くも「怪しい艦船を発見」のグアム局警報を傍受した。
艦長は所在を探知されたと判断して、予定より早いが2204森、三枝の両兵曹を乗艇させた。二人は艦橋に上がってきたが、夜空を眺めていた三枝兵曹は、艦長に「南十字星はどれですか」と訊ねた。探したが見つからないので航海長に聞くと、まだ出ていないということなので「もう少ししたら南東の空に美しく出るよ」と艦長は答えた。
「乗艇します」と決然と挙手の礼をして立ち去ろうとする二人に、艦長は「成功を祈ります」とー人ずつ手を握って見送った。
艦長は、湾口の正面に当たるオロテ角の280度二浬の地点を港内進入の基点とし、基点の230度十三浬の地点から回天を発進させる計画を立てていた。回天は湾口までの航走距離が十五浬になる。
伊五八潜は十一ノットに増速して洋上を接近中、十二日に入り強いレーダー電波を探知した。自艦の対水上電探は、輻射した電波を敵に捉えられるのを警戒して普段は使わないが、この際は僅か三秒間ながら電波を発射して0013陸岸との距離を測定すると、推測どおりの三二キロであった。直ちに潜航、水中速力二ノットで発進点へ向かった。
石川中尉、工藤中尉が0204交通筒を伝って乗艇、発進準備を整え、0310発進地点に到着し、直ちに一号艇(石川中尉)が発進した。その推測位置は基点の230度十二浬であった。続いて0316森艇、0324工藤艇が発進。それと同時に三枝艇の電話が通じなくなった。
暫くして後甲板上で爆発音が聞こえたので、母潜が浮上してみると三枝艇は架台の上に乗ったままでプロペラが回転していた。熱走状態であったので直ちに潜航、固縛バンドを解放して回天は0327発進、聴音で順調に航走してゆくのを確認した。
三枝艇は電話不通で連絡がとれないため耳を澄ませて待機しているうち、たまたま聞こえた音でバンドが解放されたと判断し、機械を発動したものと思われる。
伊五八潜は直ちに急速浮上、速力十五ノットで沖へ水上航走で離脱しながら、戦果の確認を期した。しかし0434小型機を近距離に発見して潜航し、聴音に努めたが爆発音は感知できなかった。日出は0547であり、明るくなるのを待って0530艦長は潜望鏡を上げて観測した。
グアム島方面一帯は黒雲が低く垂れていて視認がきかず、僅かにアプラ港と思われる方向に黒煙が二条、天に冲するのを望見したが、回天の大爆発後と思われるものの、戦果は確認できなかった。伊五八潜は針路西へと、2300まで潜航したまま避退を続けた。伊五八潜は戦闘概報を一月十六日発信、一月二二日呉に帰着した。
金剛隊作戦研究会が二月七日に開催され、その席で各艦の経過と戦果を発表の上、第六艦隊司令部は戦闘詳報に
「伊五八潜は水上避退中、敵飛行機を認め深々度に潜航したため命中音を聴取できなかったが、0530アプラ港より黒煙二条が天に冲しているのを視認した。
十二日及び十三日、マリアナ及びウルシー方面に於いて港湾関係電話で在泊艦船の被害ならびに救助関係電話を頻繁に交話していた等の状況に鑑み、全基攻撃に成功し、九日の飛行偵察により在停泊を確認している特空母(カサブランカ型)一隻、大型輸送船三隻を轟沈したものと認める」
と記載した。
アプラ港に配置された「浮船渠ABSD−6号」は排水量がドック本体だけでも30,800トンある最大級のもので、戦艦、空母も載せて浮揚できる。
後の話になるが、沖縄で日本の航空魚雷が後部に命中して大破した戦艦「ペンシルバニア」は、大量に浸水して艦尾が沈下し、曳航されて二ノットの速力でグアムまで辿り着いた。同艦は浮きドックに載せられて応急修理をした上、米本国に自力回航した。
先任搭乗員の石川誠三中尉は、機動部隊がいないのであればこの際、輸送船を狙うよりも、敵軍の基地機能に打撃を与えるために浮きドックを破壊したほうが効果があると、艦内で語っていた。
石川中尉が残した小さな赤い手帳には、
「写真偵察のもっと詳しい状況が知りたかった。大体、敵の防御状況、港湾の状況をちっとも教えることなく出撃させるとは、いささか無責任ではないだろうか。
出せば必ず戦果が挙がるんだというふうに簡単に信じて貰いたくない。人力の尽くせるところまで尽くしてこそ、戦果も挙がるのである」と不満の一端が記されていた。
天真爛漫。率直で、権威に対しても遠慮しない彼なればこそ、上層部に対する批判とも取れる内容を、秘かながら書き記したのである。
回天が泊地を攻撃する場合、最大の関門が水道の発見と通航である。回天の攻撃が成果を挙げるためには、防潜網が湾口の何処に、どの様に展張されているか、防材を浮かべていないか、等の湾口の防備、警戒状況を観察することが、飛行偵察に当たって、在泊艦船の隻数を艦種別に細かく数えるよりも遥に価値がある。
防材は大きな角材または丸太を鎖で連結して、港湾の入口の海面に浮かべるものであって、回天にとっては最も警戒を要する障害物である。
水雷艇が華やかな存在であった日清、日露戦争の時代以降、水雷艇や高速艇の港湾侵入を防ぐために防材が主用された。
太平洋戦域ではあまり例を聞かないが、港によっては使用されている。アドミラルティ諸島の攻撃に向かった伊五六潜の艦内では、一月十二日の突入を前に十日、ラバウルから偵察に飛んだ零戦の報告が入った。
先任搭乗員の柿崎実中尉はセーアドラー港の入口に防材が浮かべられていると聞いて「自分が真先に防材を爆破するから、それを見届けてから残りの回天三基を発進させてほしい」と主張したという。
回天が湾口を通航するときは、普通われわれは潜航して突破した。出撃直前の訓練で三枝兵曹が徳山湾の入り口、洲島と岩島の間の幅一・二キロの水道の真ん中を深度五米で、遠くから見事に走り抜けていった光景を私は忘れられない。
地形や水深、視界の明るさなどによっては勿論、水上航走のままで湾口を通航することもある。防潜網を海中に吊るす浮体の中間では上縁が海面から沈むので、防潜網があっても回天が水上航走でアップトリムに調整して頭部を上げ、その箇所を乗り越えることが出来る。
勿論、深度をゼロに設定すれば回天の横舵が揚げ舵一杯で固定するので、多少の仰角は自然にかかる。しかし防材であれば水上航走突破は出来ず、その下を潜航通過しなければならない。回天の攻撃海面に防材が存在するかどうか。若しも在ればその場所を予め知っていなければ、みすみす挫折して終わる危険がある。
アプラ港のような狭い湾口を防備する側にとっては、水上を進入する敵に対して防材が最も有効であるが、第六艦隊司令部は偵察部隊にそのようなポイントを事前に指示したであろうか。
或いは報告があった後にも照会、確認したであろうか。これらの基本的な要素への関心を欠くようであれば、石川中尉の不満のとおり「人事を尽くした」とは言えない。
石川中尉は、艦内で電話連絡に当たっている同期の砲術長田中宏謨中尉に「発進準備が万端整った」という連格があり、あと発進を待つあいだ、ひとり吹く口笛の音が聞こえてきた。
目んない千鳥の高島田 見えぬ鏡にいたわしや
曇る今宵の金屏風 誰のとがやら罪じゃやら
千々に乱れる思い出は すぎし月日の糸車
「薄暗い回天の座席のなかで、誰に聞かすでもない口笛の響きが電話機を通して受話器を持つ耳もとに伝わってきた。死に臨む石川中尉の泰然自若とした、虚心坦懐の姿がまぶたに浮かぶ」と砲術長は語っている。
伊五八潜の回天は0310より0327の間に全基発進した。それぞれ湾口正面のオロテ角280度二浬の基点を目指し、その手前で浮上して観測、入口を確認して湾内に入ってゆく段取りになる。
基点まで十二浬の距離を航走すると丁度一時間かかり0410−0430頃に到達するが、日出は0547なのでこの時刻はまだ暗い。その上、午前零時の天侯は半晴であったが、艦長が潜望鏡で0530に見たとおり、その頃の視界は悪くなっていた。
月出は0340月齢27.0であるが、アプラ港の背後は山塊が追っている。山稜は見えるようになっても、湾口は背景に隠れて見分けにくい状態である。
潜水艦は前夜、飛行場の白灯を遠距離から望見しているが、飛行場のどの場所にある灯火なのか。
また近寄れば他にも陸上の灯火が見えるので、航路の目標としては役立たない。当時、東の風で風速五米、波浪階級二。高潮の時刻は0640であり、丁度上げ潮である。
終戦直後「アプラ港で護衛空母が大爆発を起こし、乗員は殆ど助からなかった」という話を、複数の米国海軍士官から伊五八潜の乗員ほかが聞いている。
戦時中も、そのような外電が新聞記事に掲載された。
同地での回天の交戦について米側の発表がなく、記録もまだ発見されていない。しかし、戦闘詳報に記載されたような異常に頻繁な電話交信があり、黒煙が立ち昇っていたのであれば、何らかの異変があったと思われる。
現在、アプラ港内の海底に日、米、民間の沈没艦船、航空機などが多数あるなかに、回天の残骸が沈んでいないか調査を望んでいる。
伊五八潜の橋本以行艦長は同艦の戦闘詳報で
「回天の発進時刻と攻撃時刻は再検討が必要。より一層明るい時機を指定するよう」主張された。
「今作戦のような月齢及び月出時刻では潜水艦の艦位が確認できず、且つ回天が港口を通過するときの明るさが不十分である」と所見を述べておられる。
ともかく米軍は、回天金剛隊が攻撃したあと、排水量14.350トンの大型輸送艦「タスカナ」で大量の防雷網を搬入して、ウルシー泊地の大小の水路全部を防潜網から、魚雷を通さない網目の細かい防雷網に切り換えてしまった。
従って金剛隊のあとからでは、日本の潜水艦が魚雷を撃ち込んでも効き目がない態勢が整ったのである。
仮に回天が、そうなってからウルシー泊地を攻撃したとすれば、一層困難を伴ったことであろう。
(小灘利春HPより)