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伊56潜(多々良隊)回天の戦闘

小灘 利春
平成16年12月31日

昭和二十年三月十八日、米海軍第五八機動部隊は土佐沖に接近して数百機の艦載機を発進させ、南九州、四国の飛行場および呉軍港を空襲して大損害を与えたのち二三日、沖縄周辺に侵攻部隊とともに集結した。先ず沖縄本島南部と西側の慶良間諸島に連日の艦砲射撃を加え、二六日慶良間海峡に上陸して泊地を確保した上、四月一日を期して米海兵師団と歩兵師団が沖縄本島中部の西岸に、米第五艦隊の猛烈な艦砲射撃と航空機の援護のもとに上陸を開始した。

日本の第六艦隊は急遽、伊四四潜、伊四八潜、伊五六潜、伊五八潜の四隻を以て三月二七日、回天特別攻撃隊多々良隊を編成し、各艦に準備出来次第沖縄水域へ向け出撃するよう命じた。

伊号第五六潜水艦は回天二基を前甲板に増加搭載し、計六基として三月三一日、大津島基地を出発した。

伊五六潜の艦長は正田啓二少佐、

回天搭乗員は

福島誠二中尉(海軍兵学校七二期、 和歌山県)、

八木 寛少尉(海軍兵科四期予備士官、関西大学、山口県)、

川浪由勝・二等飛行兵曹(第十三期甲種飛行予科練習生出身下士官、北海道)、

石直新五郎・二等飛行兵曹(同、岩手県)、

宮崎和夫・二等飛行兵曹(同、北海道)、

矢代 清・二等飛行兵曹(同、東京都)

の六名であった。

同潜水艦は昭和十九年六月竣工、十月比島東方海面へ艦長森永正彦少佐の指揮のもとに出撃し、輸送船三隻を撃沈、また空母部隊を雷撃し、全魚雷を撃ち尽くして十一月呉に帰還した。さらに十二月下旬、回天特攻金剛隊作戦に出撃してニューギニア・アドミラルティ諸島に向かったが、敵の厳重な警戒のため遂に回天の発進地点まで進入することができず、二月帰着していた。その伊五六潜は多々良隊の一艦として沖縄の上陸地点周辺に集結している敵機動部隊、上陸部隊の艦船への回天攻撃を企図したのであるが、三月三一日の出撃以後、そのまま消息を絶った。

米国駆逐艦「ハドソン」(フレッチャー型、二〇五〇トン)は米軍が沖縄本島に上陸した四月一日以来、西方の久米島周辺でレーダー警戒網の一艦として哨戒任務に就いていた。

五日の〇一四五、北北東に十二浬離れて対潜警戒中の上陸支援艇「LCS−115」(三八三トン)から対水上レーダーの反応があると通報を受けた。あと同艇は目標に接近して、大型潜水艦を視認したが、相手は直ぐに潜没した。「ハドソン」は現場に急行し、〇三四五、対水上レーダーで目標を距離一〇キロで捕捉した。天候は雨で全天曇。風力は六であり波が高く、視界は三〜五浬であった。対潜哨戒飛行隊も通報を受け、〇四〇六「マーチン・マリナー」双発飛行艇が到着して吊光弾を投下した。

レーダー面の目標は直ちに消えた。「ハドソン」は最後の接触地点に向かって急行し、速力を十五ノットに落として聴音機で捜索を開始、二分後に距離一四六〇米で反応を掴み、接近行動を開始した。〇四二八、最初の爆雷攻撃に入り、中深度に爆発深度を設定して十二発を投射した。しかし効果はなかった。以後同駆逐艦は十六回もの接近行動をとり、そのうち六回、深度七五米の中深度または一二〇米の深々度で、計五三発の爆雷攻撃を行った。この間の四時間以上にわたって殆ど常時、探知が保たれた。潜水艦は、駆逐艦の攻撃行動中は四ノットの高い水中速力で動いたが、攻撃の中間では僅か一ノットほどに落とし、微音潜航をした。攻撃中また攻撃終了直後は時々、潜水艦は急激な変針を行っていた。〇五三三の第三回目の爆雷攻撃の少しあとの〇五三八から、潜水艦が損傷を受けたと思われる兆候が現れた。海中で直進を続け、ソナーの目標検知状態が一段と明瞭になった。駆逐艦はこの爆雷攻撃の直後、微かな爆発音を海中に感知、続いて潜水艦の方向で空気が噴出する音が聞こえた。

「ハドソン」はこれを、潜水艦が同艦を狙って魚雷を発射した射出音と判断した。しかし魚雷らしい音響は二〇秒間で途切れ、推進器音も明らかではなかった。このとき潜水艦の深度は七五米と測定された。爆雷の起爆深度もちょうど七五米に調定してあったので、至近で爆発したと思われる。直後に激しい爆発が起こった。

夜が明けた〇六一四、さきの第三回目に攻撃した海面で油膜を発見した。続けて同艦はこの海面に第四回、第五回、第六回まで爆雷攻撃を行った。最終の六回目の攻撃をした時刻は〇八二六である。浮き上がる重油の量は爆雷が爆発するたびに増え、海流と波浪に乗って広がっていった。多数の破片が油の膜のあいだに目撃された。重油が海面に湧きつづけた地点は北緯二六度二二分、東経一二六度三〇分であり、沖縄本島西方久米島の西、約十二浬である。水深は同艦の測定で七七米であった。

艦隊型駆逐艦「ハドソン」の単独攻撃であり、潜水艦を初めて探知してから最終の攻撃まで四時間四十分が経っていた。そのあと三六時間、同艦は付近の海域に留まって潜水艦探索を続けた。

上陸支援艇「LCS−115」、護衛駆逐艦「ゲンドロウ」と「ボウワーズ」がこの捜索を支援した。

第六艦隊は回天搭載艦以外にも三月中旬、伊八潜、呂四一潜、呂四九潜、呂五六潜の四隻を敵機動部隊が飛行機を発進させた水域の九州南東海面に、次いで沖縄南東二百浬付近の水域へ敵機動部隊の攻撃に向かわせ、さらにそのあと、沖縄周辺にいる艦船への突入攻撃を命じた。しかし四隻とも、三月中に消息が途切れた。

第六艦隊はさらに呂四六潜、呂五〇潜、呂一〇九潜の三豊を出撃させ、沖縄から二百浬圏付近の敵艦舶攻撃に向かわせた。通常型潜水艦は合計八隻が沖縄戦に投入され、そのうち帰還したものは、沖縄から離れて哨戒任務に就いた呂五〇潜ただ一隻であった。

回天搭載潜水艦は四隻のうち二隻が帰らなかった。戻った一隻は出撃後三日目に爆雷攻撃で損傷し引き返した伊四七潜であり、あと一隻、伊五八潜も敵艦隊がいる水域まで接近できず、攻撃の機会が全くなかった。

結局、潜水艦十一隻が沖縄戦に参加し、八隻が未帰還、戻ってきたのは三隻であり、その内二隻が回天搭載艦であった。

第六艦隊は多々良隊に於いても千早隊と同じく、戦場の局地に回天搭載潜水艦を投入する戦法をとって、同じように大きな損失を被った。

第六艦隊は沖縄戦の、米海軍の充分な数の艦艇、航空機による徹底した対潜水艦捜索、攻撃の能力について認識した上で、通常型、回天搭載型とも潜水艦の運用を行ったのであろうか。

この四月五日、久米島西方における交戦で沈没した潜水艦を伊四四潜、或いは呂四一潜とする記録が多い。また呂四九潜とする戦記もある。

しかし伊四四潜は四月三日に大津島を出撃しているので、五日未明に沖縄本島西方の久米島の西までの約六一〇浬を、敵の厳重な対潜警戒下で潜航進出できたとは思えない。

敵艦隊が集結するこの水域に向かったのは三月三一日に出撃した伊五六潜と判断される。戦後、防衛庁戦史室もそのように結論づけている。

伊五六潜が搭載した六基の回天は発進した様子がない。この交戦地点では、敵艦隊が集結している上陸地点周辺にはまだ遠い。また、当時の回天戦の流儀では六基の逐次全基発進であるが、潜水艦内と行き来できる交通筒が付いていたのは六基のうちの二基だけであった。必要な改善がこのときなお、なされていなかった。発進の機会を掴むことは千早隊のときと同様に困難であり、また交戦の月日、時刻、場所、天候などの条件から見ても、発進の機会を得ていたとは思われない。まことに残念ながら、おそらく伊五六潜がようやく予定戦場に到着し、攻撃地点に接近をはかっていた段階での被発見、交戦ではなかったかと思われる。

翌日の四月六日、沖縄を神風特攻の嵐が襲った。同日、戦艦大和と第二水雷戦隊の旗艦軽巡矢矧と冬月、霞など駆逐艦八隻からなる水上特攻艦隊が回天基地大津島の西岸、三田尻沖を出撃して沖縄を目指したが、これに呼応して同日早朝から終日、陸海軍が航空総攻撃を行った。

九州、台湾の各基地から発進して突入した各種の特攻機が海軍一六一機(乗員二七九名)、陸軍六一機(六一名)に及んだ。その大群が沖縄周辺水域の米軍艦船に連続突撃して、侵攻部隊は少なからぬ損害を被った。撃沈、撃破のはか、戦艦ノース・カロライナなどが味方の砲撃で損傷を被った。

伊五六潜が、その翌六日まで待つことができたならば、混乱に乗じで回天攻撃の機会が生まれる可能性があったことであろう。

(小灘利春HPより)

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