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伊53潜(多聞隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年 9月15日

(第一部:アンダーヒル撃沈)

伊号第五三潜水艦はさきに「多々艮隊」作戦に出撃するため昭和二十年三月三十日に光基地へ回航中、基地手前の周防灘で米軍のB29爆撃機が秘かに敷設した磁気機雷に触れて大損傷を被った。修理に長い期間を要したが、その間に前甲板の十四糎砲を撤去して回天二基分の搭載設備を増設、また回天計六基全部に交通筒を整備した。

さらに「シュノーケル」装置を新設したので、潜没したままディーゼル主機を運転して航行し、充電も出来るようになった。

ようやく工事を終え、諸訓練を充分に重ねた上で、七月十三日大津島基地に回航した。翌十四日朝、爆装した回天六基を搭載し、同日午後「回天特別攻撃隊・多聞隊」の回天搭載潜水艦六隻の先頭を切って出撃していった。作戦水域は沖縄とフィリッピンの中間海面であった。

艦長は大場佐一少佐。

回天搭乗員は大津島で訓練した次の六名で編成された。( )内は戦後の姓名〉

中尉 勝山 淳     海軍兵学校七三期、     水戸中学、   茨城県

少尉 開 豊興  兵科一期予備生徒、航海学校、    明治学院大学 秋田県

一飛曹 荒川正弘 第一三期甲種飛行予科練習生出身、法大工校     山形県

  〃  川尻 勉         〃         北見中学、   北海道

  〃  坂本雅刀(雅俊)     〃         上野中学、   三重県

  〃  高橋(竹林)博       〃        昌平中学、   北海道

伊五三着は十四日の夜、敵潜水艦が待ち伏せしている豊後水道を「シュノーケル」を使って潜航突破、二〇日頃パシー海峡東方海域に到着して哨戒配備に就いた。

同艦は以前触雷した際、艦体外面に取り付けた水中聴音器の集音盤が損傷を受け、聴音感度は大幅に低下していた。そのことが戦場に到着したのちになって判明したので、やむなく普段は深度三〇〜四〇米で潜航していて、三〇分毎に十八米まで深さを浅くし、潜望鏡を揚げては観測する手段を優先して索敵、警戒した。そのような状態で七月二四日一四〇〇すぎに潜望鏡を揚げたとき、敵の輸送船団を発見した。

伊五三潜の近くを通りすぎていったらしく、既に遠ざかりつつあった。直ちに総員配置に就き「魚雷戦用意、回天戦用意」の号令が下って、搭乗員全員が回天に乗艇した。しかし戦闘準備が終わった頃、方位角が一二〇度と大きく後落しており、魚雷で攻撃するには無理な態勢であった。回天にとってもやはり不利である。

大場艦長は魚雷発射、回天発進ともに諦めようとした。そのとき回天搭乗員たちが発進を強く希望したので、艦長は先ず勝山中尉の発進を決定した。相手がどんどん離れてゆくので、艦長は急いで「艦は今、敵船舶の後方、東側にいる。攻撃目標は輸送船」と命令、進出針路、航走時間など簡単に指示した。一四二五頃、勝山中尉の一号艇は伊五三潜を離れ、敵船団へ突進して行った。

後続の発進は、艦長がこの態勢では成功の見込みが薄いと判断して取り止めた。約四〇分後、目標の方向で重厚な爆発音を聴取して、艦長は一五一五頃潜望鏡を揚げ、敵艦が燃えているのを確認した。同じく司令塔にいて補佐する航海長も潜望鏡を見せてもらったが、視野一杯に黒煙が立ちのぼっていた。その黒煙が大量であったことから、回天が命中した相手は油送船であろうと推定された。艦長は現場を離脱したのち「大型輸送船一隻轟沈」と第六艦隊に打電報告した。このとき伊五三潜が遭遇した輸送船団は戦車揚陸艦LST七隻と冷蔵輸送艦「アドリア」満載排水量六二四〇トンであって、これらを排水量一六七三トンの護衛駆逐艦「アンダーヒル」のほか、四五〇トンの大型駆潜艇PC−803、PC−804、PC−892、PC−1251、一三〇トンの小型駆潜艇SC−1306、SC−1309、 SC−1315、六四〇トンの護衛駆潜艇PCE−872の、合わせて九隻もの護衛がついていた。

沖縄戦線では六月二三日頃に組織的な戦闘は途絶えており、これらのLSTは休養のため引き揚げる米陸軍歩兵師団の兵士を乗せてレイテ湾に戻るところであった。

船団の隊形は、護衛を受ける八隻が二隻ずつ四列の編隊を組み、その中央の前方三千米に指揮艦「アンダーヒル」が位置して先導し、ほかの駆潜艇が舶団の周囲を警戒しながら針路一八三度、速力九〜十ノットで航行していた。

船団は〇九〇七から約三〇分間、国籍不明機の触接を受けていたこともあり、同艦の艦長ロバートM.ニューカム少佐は日本の航空機と潜水艦の攻撃を警戒して神経質になり、護衛艦艇の配備位置をしばしば変更し、自艦が定位置を集れるときは代理の先導艦を指名した。

船団の使用時刻は日本時間と同じである。天候は晴、視界は良好で微風があり、南からのうねりがあるが、海上は平穏であった。

先導中の「アンダーヒル」は一四一五、前方に触角のついた浮流機雷を発見した。ニューカム艦長は船団を指揮して左四五度の緊急一斉回頭を二回続けて行い、遠ざかった上で、同艦は離れて機雷に接近し、一四四〇、二〇粍機銃で射撃を開始した。しかし弾丸が命中しているのに機雷は一向に沈まなかった。その間の一四二〇、「アンダーヒル」は潜水艦の反応をつかんだので、PC−804を隊内電話で呼び出して調査するよう指示し、そのあとも前面近距離に反応が出ていると重ねて通知し、誘導した。PC−804は一四四二、左舷後方、至近距離に潜望鏡を発見した。潜望鏡は海面下に引き込まれ、間もなく同艇の艦底を潜水艦が潜り抜けて行った。

続いて反対側の右前方一〇〇ヤードに潜望鏡が上がり、その下に潜水艦の艦体らしいものが海面近くに見えた。同艇は直ちに四〇粍機銃と二〇粍機統で射撃を開始し、速力を一杯に上げたが、その物体は水中を高速で突進してきて艦尾のすぐ近くを通過した。

爆雷を浅深度に設定して用意していたが、投下する暇もなかった。同艦は直ちに「潜水艦が艦底の下を通過した!」と船団指揮艦「アンダーヒル」に報告した。

彼らは潜望鏡を見たので「潜水艦」と判断したが、これこそまさしく「回天」である。勝山中尉が操縦する回天は最初にこの駆潜艇を攻撃し、その艦底の直下を通り抜けたのち、折り返して再度突入したのである。

船団は右九〇度の一斉回頭をして、元の針路に復帰した。「アンダーヒル」は潜水艦を探知し、一四五三、浅深度に調定した爆雷十三発を投下した。

爆雷が海中で爆発して、奔騰する水柱が落下した跡に出来る、波が消えた丸い水面を見て、ニューカム艦長は

「潜水艦の油が浮いてきた」と思い込んだのであろう。

「敵潜水艦一隻撃沈!」と隊内電話で各艦へ放送した。

破片のようなものは浮かんでいなかった。

その直後、PC−804がまたもや潜望鏡を近距離に発見、「アンダーヒル」はこれに急行した。

潜望鏡はすぐに見えなくなった。ニューカム少佐は「一人乗りの潜航艇が速力十五ノットほどで走り廻っている。

 こいつを追いかける」と各艦に流した。激しい操艦を続ける同艦で乗員は、海面上に「いるか」のように断続的に姿を現す潜航艇をいろいろな方向に見た。一五〇五、「アンダーヒル」の艦長は隊内無線電話で「衝撃用意!海の中にいる異様な者どもを追っ払ってやる!」と放送した。

あと艦長は乗員に「衝撃用意!」を重ねて号令した。

一五〇七、「アンダーヒル」の前方、艦首に近いところに潜航艇が浮上するのをPC−804が目撃、「アンダーヒル」は右に急旋回した。

「魚雷が突っ込んで来る!」と誰かが叫ぶ声が電話で聞こえ、その直後アンダーヒルの艦橋の右舷で物凄い大爆発が起こった。煙と炎が一〇〇〇フィートの高さに奔騰し、煙はあと高さ二浬にまで立ち昇ったという。「アンダーヒル」はマストのところで真っ二つになり、艦橋は消し飛んだ。

交戦地点は北緯十九度二四分、東経一二六度四三分であった。比島の北東端「エンガノ岬」から略東北東二七〇浬に当たる。

一五一二、PC−804がソナーで物体を探知、各駆潜艇は浮かんでいる「アンダーヒル」の後部の艦体の周囲を旋回し、針路をジグザグに絶えず変えながら潜水艦探索を続けた。

PC−804は短艇を下ろして海面を泳ぐ生存乗員一七名を拾い上げたが、潜望鏡を発見してエンジンを掛けた。あと「アンダーヒル」の後部こ横付けして乗員を収容したが、その最中にソナーで探知し、潜望鏡を発見したので急遽中断して離れた。そんな状況がもう一度あって、一七二六に他艇の援護、周囲警戒のもとに横付けをやり直し、生存乗員の収容を終えた。 

PC−803はLST−647に乗っている軍医と看護兵を自艇に移乗させ、PC−804に送ろうとしたところ、水中を高速で動く目標を探知して追跡し、襲撃してくる敵を全速、舵一杯で回避した。一六五六にも潜航艇を発見、三吋砲で射撃したが命中弾はなく、そのうち潜望鏡をまたもや近距離に発見した。司令塔がついた、違った型の人間魚雷であったと報告している。

同駆潜艇は一七四九、探知した海中の物体に「ヘッジホッグ」を発射、続いて爆雷を投射した。しかしこれらは、すべて幻との戦闘に過ぎない。

「アンダーヒル」の煙突から後方の艦体は曳航可能と判定されたが、なお多数の敵が周囲に潜んでいると思われるので、急ぎ砲撃して撃沈処分することに決定し、駆潜艇群が一列に並んで三吋主砲と四〇粍、二〇粍機銃の全砲火を一斉に集中した。先ず艦の前部を一八二八に沈め、そのあと後部に取りかかったが、ようやく沈め終わったのは一九一八であった。

そのあとも各駆潜艇が「潜水艦探知」と通報し、各艇は全速で舵一杯の変針をして周囲を旋回しながら探索を行った。

敵の攻撃は受けなかったが、見えない敵に脅威を感じて現場を退去することに決め、全速で船団へ合流をはかった。

翌二五日の〇一四〇、各駆潜艇は船団に到着し、護衛任務に復帰した。護衛部隊は、味方識別信号に答えないで触接していた飛行機は船団を偵察して情報を母潜水艦に送っていたものと推定した。だが当時の日本の潜水艦隊はそのような横の連携をする作戦は考えなかった。また弾丸が命中しても沈まない、爆発もしない浮遊機雷は、敵潜水艦が船団を撹乱するために前路に放出した模擬機雷であろうと判断した。だがそのような巧妙な戦術を採る発想や余裕は、日本側には全くなかった。米国側の買い被りである。

「アンダーヒル」の生き残った乗員は何人もが、いろいろな方向に何度も潜望鏡を見たと証言した。

艦の左右に同時に潜望鏡を見たという者もおり、周囲にいた駆潜艇もまた、複数の潜航艇を同時に見たと報告している。駆逐艦も駆潜艇もぐるぐる走り廻っていたから、潜望鏡あるいは浮上した潜航艇があちこちに続けざまに見えたということ自体は間違いとは言えない。

「アンダーヒル」が爆発した後にも、駆潜艇がソナーでたびたび「潜水艦を探知した」のは、高速で走り回る自分たちが起こす波浪に反応した偽探知であった。

「潜望鏡発見」「潜航艇視認」は恐怖心が生んだ幻影であろう。「アンダーヒル」で爆発が二回、続けざまに発生した、と主張する生存者がいる。「一隻の潜航艇が囮となって駆逐艦を誘い、それを衝撃しようとして突進する駆逐艦の横腹をもう一隻の潜航艇が衝いた。

それで二つの爆発が略同時に起こった」と解釈するが、二回目の爆発があったとすれば艦橋の付近にある弾薬庫の誘爆と思われる。

実際は、回天は潜水艦を離れたら通信手段は一切ない。

何基いても協同攻撃など、残念ながら出来はしない。

一四二〇に潜水艦の反応を探知して始まった対潜水艦戦闘は遂に二〇〇〇頃までも同じ水面で絶え間なく続いた。

護衛艦艇群は何度となく潜望鏡を発見し、またソナーで探知しては懸命に戦闘した。しかし大部分は姿が見えない敵に全艦艇が振り回されたのであり、特に一五〇七の「アンダーヒル」爆発のあと、爆雷投射までした長い戦闘は実在しない敵との奮闘だったのである。母艦の伊五三潜も交戦が始まる前から後方遠くにいて、手出しができなかった。本当の敵は勝山中尉の回天ただ一基だったのである。

勝山中尉は卓抜した技量を発揮し、負けじ魂で獅子奮迅の大奮闘を続けて、遂に敵駆逐艦を仕留めた。

誰が挙げた戦果であるかを確定できる、回天では唯一の戦闘となった。最初のPC−804への攻撃は、同艇の喫水三米を深めに判定したための艦底通過であろう。

結果的にこれが、より大きな効果に結びついたと言える。

「アンダーヒル」の乗員は二三八名、うち約半数の一二五名が負傷者を含めて生き残り、一一三名が戦死した。

士官は一四名のうち一〇名が戦死した。

PC−803とPC−804はそれぞれ詳細な戦闘詳報を提出したが、沈没した「アンダーヒル」は艦橋にいた乗員が艦長を含め全員戦死したため、回天との交戦状況を確実に記録できる者がいなかった。生き残った士官の先任者は後部甲板にいた機銃群指揮官の中尉であり、両駆潜艇の資料を合わせ、更に生存者の多数の証言を収めて戦闘詳報を作成した。

その報告書は「母潜水艦に積載された小型潜航艇または人間魚雷の協同攻撃を受けて沈没。同様な潜水艦がほかに二隻以上、この攻撃に参加した可能性がある」と記載した。

PC−803も戦闘詳報で「敵部隊は母潜水艦一隻、人間魚雷約八隻、さらにおそらく小型潜航艇一〜二隻で構成されていたと信ずる」と報告している。 

これまで同艦戦友会から再三の照会があって、全国回天会としては「勝山艇一基だけの攻撃」と答えるほかなかったのであるが、この戦闘を体験した生存者たちは「相手はたった一人!」には今なお納得しかねる模様である。

この戦闘の状況は米海軍全体に伝えられ「海中の見えない脅威・回天」を畏怖する心理がたちまち広がったようである。

神風特攻機は突入してくる姿が見えるので対空射撃を集中して戦い、何とか防ぐ方法があるが、海中の見えない回天はいつ攻撃してくるか分からない。いるのかいないのか、それさえ分からない。自分が乗る艦がいつ爆発するかも知れないのである。

どんな艦でも、多数の回天に取り囲まれて協同攻撃を受けたらお手上げである。このような海中の姿なき敵に、神経が参ったのであろう。

終戦後、米海軍の士官が私に「日本軍で怖いのは回天だけであった」と語った。米側が実態以上に誤認した面はあるが、戦場の心理ではそれも無理はない。

「アンダーヒル」が撃沈された状況を伝え聞いて、米軍が改めて「回天」なるものを認識し、恐るべき敵として評価したことは確かであろう。

 

護衛駆逐艦「アンダーヒル」は、

「人間魚雷の群と戦い、自らは斃れながらも船団を一隻も傷つけることなく守り抜いた英雄」となった。

ニューカム艦長は勇戦敢闘を讃える栄誉ある銀星勲章(シルバー・スター)を授けられ、戦没、戦傷乗員および生存者の一部に「パープルハート勲章」ほかの勲章が授与された。

メリーランド州の「アナポリス」にある米国海軍兵学校の教会で、戦友会が慰霊祭執行を許されている米国海軍の艦船は唯ひとつ、第二次世界大戦で一番あとに沈んだ小さな護衛駆逐艦に過ぎない「アンダーヒル」だけなのである。

慰霊祭は毎年、同艦が沈んだ七月二四日に同艦の戦没者の遺族と生存者、それらの家族によって厳粛に営まれている。

 

第二部:アールV.ジョンソンとの交戦)

平成17年11月20日

七月二四日、最初の回天発進で護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈したあと、伊五三潜は引き続いてパシー海峡東方海域で索敵した。

二七日は不調の九三式水中聴音機を主体に、深度三〇〜四〇米で潜航哨戒していたが、一三〇〇頃に聴音機員から「どうも周りが異常にザワザワしている」と報告があった。艦長が慎重に潜望鏡を揚げてみたところ、何と数十隻もの南下中の大輸送船団のど真ん中にいた。直ちに伊五三潜は静粛に、急ぎ総員配置に就いた。艦長は咄嗟のことであり、またあまりにも至近距離であるために魚雷も回天も使えず、一旦列外に出てから攻撃しようと判断して操艦した。

敵船団の側も潜望鏡を発見し、兵員が砲を操作する姿まで見えたが、密集した船団であるから砲撃すれば味方を傷つける。爆雷攻撃もできない。回避しようとして隊列を乱せば相互に衝突する危険があるので、自縄自縛の状況と見られた。

こうして敵からの攻撃を受けることなく、舶団の後方に離脱したが、伊五三潜の態勢が整ったときは後方遠くに離れ、魚雷攻撃は到底できなくなっていた。

一方、回天は搭乗員が強く要請したので、艦長は川尻 勉一飛曹の二号艇だけの発進を決めた。

後甲板から発進。約一時間ほど後に大音響が聞こえ、艦長は潜望鏡で目標の方向に黒煙を望見し「艦種不詳一隻撃沈」と第六艦隊に報告した。

この日、この水域で回天が攻撃した船団名は目下のところ不明であり、損害を受けた艦船の記録も判明しないが、密集した大船団ということから、他の多くの例と同様、戦車揚陸艦LSTで構成されていたものと思われる。

攻撃後、敵艦艇の捜索は受けなかったが、いずれ海空からの厳重な探索は必至なので哨戒位置を移動し、二、三日してから会敵の機会が多いと思われる元の配備水域に戻った。八月三日は日没後に浮上充電したのち二三〇〇頃から潜航哨戒に移った。当日の天候は晴で、雲が少し浮かんでいた。波浪階級三。月齢は半月を過ぎた二五.二であり、月出は〇二一五であった。月明を利用できるのは〇三〇〇頃以降になる。

〇〇三〇頃、いきなり伊五三潜の頭上を駆逐艦が通過した。薄気味悪いシャッ、シャッという推進器音が轟いたと思った次の瞬間、多数の爆雷が海面に落下する音が聞こえ至近距離で爆発した。

同艦は在来の「九三式聴音機」に加えて新式の「三式探信儀」を今回装備していたが、潜水艦にとって貴重な電力を大量に消費する上、強力な超音波を発射するので敵に探知されやすく、平素は使わなかった。しかし既に敵に発見されており、切羽詰まっているため使用して敵情を採ると、対潜艦艇五隻が半径一粁で包囲し、交互に伊五三潜に接近して爆雷攻撃をしてくることが分かった。

艦長は右に左に急旋回したり、深度を三〇から最大一〇〇米まで浅く深く急激に変えては回避を続けた。爆雷が至近で爆発するたびに艦体は激しく震動し、艦内の器具は散乱して惨憺たる有り様となった。

搭乗員関 豊興少尉が司令塔に上がってきて「回天を出して下さい。相手が駆逐艦でも不足はありません」と発進を催促したが、艦長は「暗夜の回天攻撃は無理」として斥けた。

歴戦の乗組員もこれほど猛烈な爆雷攻撃を受けた経験はなかったという。

そのうち爆雷が艦底の近くで爆発し、主蓄電池が破損した。一切の動力が停止して、舵も機械も動かず、艦内の電灯は消えた。万策尽きたと思われたが、全員必至の努力で故障を復旧し、何とか動力を回復できた。その間に関少尉が再び来て「私たちは回天で突入することを本望としております。このままでは死にきれません。夜間でも粘り強く食い下がって、必ず成功します。回天の搭乗員が大勢、出撃の順番を待っております。伊五三潜は何としてでも生き残って、回天作戦を繰り返してください」と艦長に詰め寄った。

爆雷攻撃は激しさを増しており、艦長も母潜がいつまで頑張れるか疑問と考え、まだ海上は暗黒であるが早めに、全艇の「回天戦用意」を命令した。

残る四基の搭乗員は暗い艦内を懐中電灯のほのかな明かりを頼りに、交通筒を通ってそれぞれの回天に乗艇した。乗員たちは拝むように見送った。訓練にはなかった深度四十米からの回天発進である。〇二三〇頃、まだ月明かりを利用できる時刻ではないが、関 豊興少尉の五号艇が発進した。執拗に繰り返された敵の爆雷攻撃のため、伊五三潜は既に相当の被害を被っていたが、直撃は受けていかった。

二〇分ほど経った〇二五〇頃、回天爆発の大音響が轟いた。探知したところ、周囲の対潜艦艇は一隻減り、損傷艦救助のためか敵は三箇所になった。

大場艦長は回天の使用方法について、逐次連続発進ではなく、経過を観察しながら機をみて次の回天を発進させてゆく方針であったと思われる。このときは特に視界の条件が悪く、その必要を意識されたのであろう。

艦長は大爆発音を聞いたのち三号艇の荒川正弘一飛曹に発進を命じ、〇三〇〇頃回天は艦を離れていった。〇三三二頃大爆発音が轟き、敵の推進機音は二隻に減少、やがて一カ所になり、暫くして推進機音はすべて消滅した。

四号艇の高橋(竹林)博一飛曹は、関少尉が発進したのち自分の発進を待つ間も爆雷攻撃が続き、その衝撃で「四塩化炭素」の容器が破損してガスが艇内に漏れ出したため、中毒して意識不明となった。

回天の機関を発動する際、純粋酸素が燃焼室内でいきなり燃料の灯油と接触すると爆発するため、最初は不燃性の四塩化炭素を酸素に混入して純度を下げ、安全に燃焼が始まるようにしていた。この薬品は液体で毒性があり、金属と反応するためガラスの瓶に入っている。

六号艇の坂本雅俊一飛曹は、荒川一飛曹の回天が発進していったあと爆雷の至近爆発のために酸素パイプに亀裂が入ったらしく、高圧酸素が漏洩し圧力計が下降しはじめた。艇内の気圧が上昇して苦しく、彼は「一刻も早く出して下さい」と電話で叫んだ。

「六号艇発進!」の号令とともに発動桿を力一杯押したが機械冷走、酸素の圧力計が急速に下がり始めた。

「冷走!」と報告し、命により機械を停止したが、艇内の気圧がさらに高まり、そのまま人事不省に陥った。

二人とも艦内に収容されて手当てを受けたのち、意識を回復したが、高橋一飛曹は内地に帰着次第入院し、治療に長い期間かかかった。

この夜、伊五三潜が遭遇した敵船団は沖蝿より「レイテ湾」に向かう「OKl第九輸送船団」であった。

同船団は五縦列の戦車揚陸艦LST、計二五隻で構成されていた。護衛駆逐艦「アールV.ジョンソン」は僚艦「ノックス」、「メイジャー」および護衛駆潜艇PCE−849とともに護衛任務に就いた。

先任艦は「ジョンソン」であり、隊列の真前に位置して先導、哨戒した。

四日〇〇二三、「ジョンソン」は潜水艦をソナーで前方の真方位一九〇度、距離八〇〇ヤードに探知した。

左四五度緊急一斉回頭を無線電話で命令し、船団は直ちに変針した。

北韓二〇度一七分、東経一二八度一〇分の地点であった。使用時刻は日本時間と同一である。

「ジ、ヨンソン」艦長J.J.ジョーディ少佐は「緊急爆雷攻撃」を号令し、速力を一八ノットに増達して〇〇二六、浅深度爆雷一四発を投下した。成果不明のため再探知操作に入り、距離一三〇〇ヤードに再び良好な感度を錮んだ。〇〇五五、爆雷九個を中深度で投射、やはり効果が現れず、航跡波の影響が過大であると判断して精密索敵法による探知作業を開始した。

西方向の捜索を終了したが、この方向は最初に反応があったところなので再度実施を決定した。〇一四〇、作業を終了したがやはり分からず、PCE−849を呼んで支援させた。ソナーで良好な接触を掴んだので、攻撃の急速接近行動をとり、〇二一二、中深度に設定した爆雷九個を投下した。今度も損害を与えた確証がなく、再探知操作に入った。PCEが〇二三三、自艇が探知した目標をヘッジホッグで攻撃した。その直後の〇二三五、魚雷の航跡が「ジョンソン」の艦首の左三〇度から艦首前方一〇ヤードを通過した。艦長は無線電話で通話中であったため雷跡を視認していなかったが「魚雷が右舷から来て後方に通過していった」と最初に聞いて、雷跡を辿って発射した潜水艦を捕捉しようとして面舵一杯を令した。そのあと「実際は、魚雷は左前方から来た」と聞き、舵を取り直して示された航跡を辿った。ソナーの反応と聴音の報告が数回あった。しかしPCEがその方向にいて、それを探知したものであった。

〇二四五、二本の魚雷が「ジョンソン」の左舷正横に突進してきた。

航跡の角度は舷側に対して垂直であった。

最初の魚雷は艦首の前方一〇ヤード以内を通過。二本目の魚雷は同艦の艦艇中央の直下を通過した。

これは散開角をつけた魚雷攻撃であると「ジョンソン」艦長は判断した。

魚雷が艦首を通過して何秒かのち、爆発が起こった。

距離約一〇〇〇ヤードで雷跡が消え、その場所で大きな真っ黒い煙が海面から立ち昇った。

「ジョンソン」は左に一杯転舵して雷跡の方向を逆に辿り、この魚雷を発射した潜水艦を発見次第衝撃して沈めようとした。しかし成功しなかった。

あと付近海域に航跡が入り乱れ、捜索のあいだソナーの反応が連続する成り行きとなった。音響機器の具合も悪く、危険な状況であるため、艦長は一時的に現場を離脱し、海水が安定するのを待つことに決めて南下したが、

PCE−849が良好な反応を掴んで〇二五六、二回目のヘッジホッグ発射を行った。これを支援するため針路を反転、水中聴音に反響が入ったのでその方向に進んだ。

これも不明であり、あと度々の反応に都度行動したが成果がなかった。

〇三三〇、「ジョンソン」がソナーの良好な反応を掴んで爆雷一四個を投射した。爆発が終わったあとに、水中で起こった大爆発音が聞こえた。

暗いなかに白い煙の大きな柱が見えた。爆発はあまりにも激しく、「ジョンソン」の一号主機械が勤かなくなった。残る主機械一台だけで前進するほかなく、操舵機も故障、後部の応急操舵装置に切り換えて、応急操舵によって現場を離れた。

艦長は戦場を離脱して船団に合流するのが最善の処置であると判断した。大船団の近くにいるのは護衛駆逐艦「ノックス」と「メイジャー」の僅か二隻だけであって、船団護衛の能力が足りない。また「ジョンソン」としても、現場に残っていても操舵能力が不充分であり、推進機関も一台なので、潜水艦を攻撃しようにも思い通りには動けず、逆に自身が潜水艦の餌食になる恐れが強かったからという。

攻める一方であった「ジョンソン」が、逃げる立場に逆転したのである。途中で応急修理を行った上、一〇〇〇頃船団に復帰した。

伊五三潜は関少尉と荒川兵曹の献身突撃によって、辛うじて危機を脱した。同艦は潜航を続けながら艦内の被害箇所の修復につとめ、四日夜になって浮上、爆雷による損害を調査したが、かなりの損傷であるものの作戦行動は可能と判断し、戦闘速報を打電して哨戒任務を続けた。

八月七日頃帰還命令を受信し、豊後水道を「シュノーケル」潜航で通過して十二日大津島に到着、残った二基の回天を陸に揚げ、搭乗員と整備員を上陸させて十三日発、同日呉に一ヵ月ぶりに帰還した。

そして翌々日、終戦の玉音放送を聴いた。

米側各艦の経過記録は書式に従って詳細な数値を列ねた明確な文書になっている一方、伊五三潜側の諸行動の時刻は多くの日本の潜水艦と同様、刻々と記録されたものではない。司令塔の内部が狭く、人数が限られるために、水上艦艇と違って記録担当者がいない。

緻密な性格の艦長は、潜航襲撃中は暇な信号員長などに特に指示して時刻のメモを取らせていたという。この戦闘についても戦後の乗員、搭乗員の記憶は一致せず、かなりの幅があるので、最も合理的と見られる水雷長大堀 正大尉の記憶に基づいて各種資料の多くが作成されている。この戦闘の経過で日米双方に共通し、従って一致する筈の時刻は「二回の回天の爆発」である。回天の第一回の爆発は伊五三潜が〇二二〇頃とするのに対し、米側は〇二四六頃、第二回は日本側〇二四〇頃に対して〇三三二であった。

これらから見ると伊五三潜側が記述する諸時刻は概ね三〇分ほど、乃至はそれ以上早いようである。また伊五三潜は当日の月齢二二〜三、月出時刻〇一〇〇頃として諸行動の時刻の基準にしているが、海上保安庁水路部の算出によれば「この地点の月出は〇二一五、月齢二五.二」である。これであれば伊五八潜艦長の同日頃の記述とも矛盾しないので、伊五三潜が記述する時刻ほかを修正した。

第一回の関少尉艇の攻撃は「ジョンソン」の艦首前方僅か一〇米を、〇二三五通過した。「二本の魚雷」は一本を誤認したものであろうが、艦の真下を通過してのち○二四六頃、敵艦に最も近い場所と判断して自ら電気信管のスイッチを押して自爆したものと推察される。

波浪があり、月明かりが殆どない暗夜の海上で敵影を捜し求めて遂に捉え、見事に敵艦の中央を衝いたが、設定深度が深かかったためであろうか、無念にも艦底通過に終わった。

二基目の荒川兵曹の攻撃は発進約三十分後に目標に迫り、爆雷の大量投射を浴びたので、敵艦が近くにいると判断して、〇三三二頃自爆したものと推察される。

これが「ジョンソン」に損傷を与え、敵の対潜艦艇を戦場から離脱させた。ともに悪条件に打ち勝って奮闘し、身を以て護衛駆逐艦を撃退し、母潜水艦を救ったのである。

(注)回天搭載位置(05917確認、補正)

勝山 淳中尉   一号艇  後甲板 中央 後部  724発進

川尻 勉一飛曹  二号艇     左舷     727発進

荒川正弘一飛曹  三号艇     右舷     84発進

高橋 博一飛曹  四号艇     中央 前部  

関 豊興少尉   五号艇  前甲板 右舷     84発進

坂本雅刀一飛曹  六号艇     左舷

(小灘利春HPより)

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