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伊44潜(多々良隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年 1月20日

昭和二十年三月、米機動部隊は日本本土を空襲した後、沖縄諸島に集結、空襲に併せて戦艦ほかにより艦砲射撃を続けた。日本の連合艦隊司令部は二六日「天一号作戦」を発動、米海兵師団と陸軍師団十八万は四月一日、沖縄本島西岸の嘉手納付近に上陸を開始した。地上戦闘の戦火が遂に日本の国土に及んだのである。

第六艦隊は三月二七日、伊四四潜、伊四七潜、伊五六潜、伊五八潜の四隻を以て「回天特別攻撃隊多々良隊」を編成し、沖縄周辺の敵攻略部隊に対し搭載回天による攻撃を命じた。各艦は準備出来次第、二八日より次々とに出撃していった。

伊五三潜も当初、これに編入されていたが三月三十日、光基地に回航する途中に周防灘で触雷して主機、蓄電池ほかに損傷を受けた。補助発電機で推進器一軸のみを運転して、後進航行で辛うじて呉に帰り着いた状態であり、参加不能となった。米軍の戦略爆撃機B29が秘かに投下した磁気機雷による日本海軍最初の損害という。 

伊号第四四潜水艦は回天四基を搭載して四月三日、大津島基地を出撃して沖縄海域を目指した。

艦長には前回の硫黄島作戦千早隊に参加した川口源兵衛大尉に代わって増沢清司少佐が着任、

搭乗員は前回と同じ

土井秀夫中尉(海軍兵学校七二期、大阪府)、

亥角春彦少尉(海軍兵科四期予備士官、京都府)、

館脇幸治少尉(同、    中央大学、福島県)、

菅原彦五・二等飛行兵曹(第十三期予科練、宮城県)であった。

交通筒はまだ、土井艇と亥角艇の二基にしか装備されていなかった。多々良隊各艦の攻撃目標を泊地周辺で碇泊、漂泊中の艦船とするか、洋上を航行中の艦船とするか、出撃前に激しい論争が軍令部、第六艦隊司令部の段階で行われたという。航行艦に対する襲撃法は既に同年一月初頭から回天搭乗員たちは実地訓練に入っていたのであるが、波涛のなかでの航行艦襲撃には訓練がなお不十分との見解が上層部には根強く、硫黄島作戦に引き続いて沖縄周辺での泊地襲撃策が採られた。 

伊四四潜は四月三日に出撃してのち連絡がなかった。

第六艦隊は四月十四日になって、沖縄水域を離れて同島とマリアナ諸島を結ぶ線上に進出し、洋上を航行している敵艦船を攻撃するよう命じた。

のち二一日、内地帰投命令を出したが、伊四四潜は帰還しなかった。沖縄戦に出撃した回天搭載潜水艦四隻のうち、伊四四着と伊五六潜の二隻が未帰還となった。

通常型潜水艦では七隻が出撃し、うち伊八潜、呂四一潜、呂四六潜、呂四九潜、呂五六潜、呂一〇九潜の六隻が帰らず、合計十一隻の潜水艦が沖縄に向かって、八隻を喪失するという高い損害率となった。

爆雷攻撃で損傷を受け、浮上砲戦を行って沈没し、乗員一名が収容された伊八潜の場合は状況がはっきりしているが、それ以外の戦没潜水艦については、戦闘の日時、場所に対応する艦名を立証できる根拠が乏しいため、戦記によって様々に食い違っている。

戦後米国側が作成した資料は大部分が四月二九日の空母「ツラギ」搭載機との交戦により沈没した潜水艦を伊四四潜としており、日本側の一部戦記もこれを採っている。しかし日本側の公式見解では、これは呂号第四六潜水艦である。防衛庁戦史室および「日本海軍潜水艦史」が日米双方の各種資料を調査分析した上、採った結論は四月十八日に沖縄東方洋上で駆逐艦群と長時間の交戦ののち沈没した潜水艦を伊四四潜であるとしている。

 

四月十七日の夜二三二〇、第五八機動部隊所属の駆逐艦「ヒーアマン」はレ一ダ一で浮上潜水艦を捕捉し、他の数隻も捕捉した。「ヒーアマン」が接近するとレーダーの映像が消えたがソナーで探知、航跡を分析して二三三五、爆雷を投下した。司令駆逐艦「マッコード」も直接、攻撃に加わって四月十八日〇一三〇から〇七四三までの間、「マッコード」と「ヒーアマン」が交代しながら連続爆雷攻撃を加えた。しかし、遂に効果が現れず、そのうち両艦とも手持ちの爆雷を使い果たしてしまった。

やむなく駆逐隊司令は別の二隻の駆逐艦に来援、交代を命令し、両艦は見張りを続けた。駆逐艦「コレット」(アレン・サムナー型、排水量二二〇〇トン)は第五八・三任務群と第五八・五任務群との中間で連絡任務に就いていたが、駆逐隊司令より十八日〇七三五、救援の命令を受けて駆逐艦「メルツ」とともに現場の北緯二六度四二分、東経一三〇度三八分の地点に急行した。

一〇三〇到着、探知状況の詳細なデータの伝達を受けて交代し、両艦は捜索を開始した。潜水艦は北東へ潜航移動しており、概位は北緯二六度四九・五度、東経一三〇度四四分であった。海上は静穏、視界良好であり、風は南東、風速四米であった。一〇四〇「メルツ」は探知した潜水艦へ突進したが、爆雷投下はできかった。潜水艦は攻撃中、急激な回避運動を練り返し、深度を二五〇フィートから四五〇フィートの間で変換していた。

一一〇三「コレット」は爆雷七個を投射し、続いて「メルツ」が一一三七に十一発を投射した。「コレット」第二回の投射は一二〇五、第三回を一二二六に投射したがいづれも効果がなかった。両艦はデータを照合し、潜水艦がかなり深く潜航していると判定した。第四回目の攻撃では一二五三、潜水艦は向きを変えつつあったがその先を見越して、深度を四五〇フィートに設定して爆雷を投射した。「コレット」は爆雷を常に七発づつ投射した。

 

七回の爆発音のあと、八つ目の爆発の轟音が数十秒後に聞こえた。潜水艦が遂に損傷を受けたのである。

一三一二、このとき潜水艦は既に動いておらず、「コレット」は正確に潜水艦の真上を航走しながら第五回目の爆雷攻撃を行った。ソナーは潜水艦の深度を二四〇フィートと表示しており、爆雷に設定した爆発深度は二五〇フィートであった。潜水艦撃沈はソナーの反応から確実と判断された。この地点は北緯二六度四七・五分、東経一三〇度四四分。沖縄本島北端の東方約一二五浬。使用爆雷は合計三五発であった。午後になって「コレット」が攻撃した跡の海面に重油が浮かんできた。「メルツ」が浮遊物多数を海面で拾った。

公的な資料は沈没地点を北緯二六度四二分、東経一三〇度三八分としているが、これは同駆逐艦が急行を指示された目標地点を誤って採ったものであろう。

この交戦は四月十七日二三三五の最初の爆雷投下に始まり、第五八機動部隊の艦隊型駆逐艦計四隻が交代投下して、十八日一三一三の最終爆雷投下まで続いた。実に十三時間三八分にも及ぶ長時間の戦闘であった。この間、針路と深度、速力を急激に変えて回避を続ける潜水艦は限度を越える放電量となったことであろう。潜水艦乗員にとってはこの上なく苦しく、長い奮闘であったと推察される。

昭和十七年十月の南太平洋海戦で日本艦隊は空母「翔鶴」「瑞鶴」ほかによる航空攻撃で、米空母「ホーネット」を撃沈し「エンタープライズ」に損傷を与えた。

駆逐艦「コレット」の艦名はこの海戦で米雷撃機隊を指揮して戦闘中に戦死したジョンA.コレット少佐の名前を採ったものであるが、本交戦の際、駆逐艦「コレット」の艦長は同少佐の実弟、ジェームスD.コレット中佐であった。

「コレット」は潜水艦が回避運動中、しばしば深度四五〇フィート、すなわち一三七米と測定している。仮にこの潜水艦がまだ回天を搭載したままであったとすると、回天の耐圧深度とされる八〇米を大きく超えていたことになる。ソナーの測定値に異常があったかも知れないが、もとより「八〇米」は安全潜航深度であって許容範囲があり、超えて潜ればたちまち回天の胴体とか魚雷部分が圧壊、損傷するものではない。或る潜水艦が爆雷攻撃を受けて浸水し、回天を搭載したまま艦体が傾斜、沈下を続け、遂に深度計の針が一〇五米を示したが、回天自体は浸水、圧壊することなく帰還したという話がある。

多々良隊の伊五八潜も駆逐艦に遭遇して、一挙に九〇米までも深く潜航して避けた。しかし、若しも回天に大量浸水すれば潜水艦がツリムを失い、危険な事態となるのは明らかであり、搭載している潜水艦の艦長がこのような危険な深度にまで、意図して潜入することはないであろう。

伊四四着の回天が発進していないとすれば、四月十八日の戦闘は同艦ではなかった可能性が考えられる。

米側が伊四四潜との交戦と記録している四月二九日の対潜水艦攻撃は、護衛空母「ツラギ」から発艦した「グラマン・アヴェンジャー」雷撃機によるものである。

哨戒飛行中に浮上潜水艦を探知した雷撃桟は急接近して航空爆雷を投下し、潜没しつつある潜水艦に命中した。

雷撃機は続けて聴音追尾魚雷を投下し、命中爆発する音響を聞いた。

地点は北緯二四度一五分、東経一三一度一六分。沖ノ大東島周辺の南東に当たり沖縄本島の南東二二〇浬、沖縄とグアムを結ぶ線上にある。

日本側戦史では呂四六潜が沈没したとする交戦である。

惨憺たる結果に終わった沖縄戦から帰還できた潜水艦は、回天搭載艦の多々良隊では出撃の三日後早々に駆潜艇の爆雷攻撃で損傷を受け引き返した伊四七潜と、警戒厳重のため泊地進入は困難と報告、中止命令を受けた伊五八潜の計二隻、非搭載艦では、離れて哨戒任務に就いていた呂五〇潜ただ一隻だけであった。 

第六艦隊に米軍の徹底した対潜水艦兵器と戦術への認識がなく、在来の装備の潜水艦を以て敵侵攻部隊を直接攻撃する局地戦にこだわったためと言えるであろう。

(小灘利春HPより)

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