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平成22年4月18日 校正すみ


伊号第三六六潜水艦戦記
―その初陣から終局までー
(第三次作戦・・回天特別攻撃隊多聞隊)

角田慶輝

 

行動概要

19,12,3〜1228     パガン島輸送作戦

20,,30〜3,3     トラック島、メレヨン島輸送作戦

,13〜4,19     回天搭載装置新設

,19〜4,29     光沖にて回天攻撃訓練、訓練終了後呉回航、呉にて出撃準備

5,4〜5,6     光回航、光にて出撃準備

光沖にて訓練中触雷、

出撃中止呉回航、呉にて応急修理

6,22         米軍機の呉空襲(通常弾)

7,2         米軍機の呉空襲(焼夷弾)

7、11〜 7、26    光回航、光沖にて回天攻撃訓練、

その後          呉回航、出撃準備

(燃料・魚雷・弾薬及び食糧搭載)

7,30〜8,18     沖縄戦参加(回天特別攻撃隊多聞隊)

(8, 2)       輸送船団発見、回天3基発進、攻撃

(8,15 夕刻)     新聞電報にて勅語を知る

(8,15 夜)      呉に帰投命令を受信

(8,18)       呉入港、その後3日間、艦長・先任将校会議

8,20〜8,30     軍艦旗、艦内神社焼却 

3回にわけ乗組員を復員させる

9,7         帰 郷

21,4,1        米軍の手により五島沖にて撃沈

 

トラック島・メレヨン島輸送作戦

パガン島輸送作戦の任務を昭和191228日、無事成功裡に終了し、艦は次の作戦にむけ諸準備にかかった。暑い南国から帰ってきたので、日本の冬の空は寒く、身体の調整に意を用いた。

約1ヶ月間風呂に入っていないので(行動中2回だけ、オスタップに水を入れ行水した)、風呂屋に行き、入念に石けんをつけて洗っても完全にとりきれない。一とおり洗ったのち、指で身体をこすってみると、消しゴムで字を消す時と同じで、無色の垢がぼろぼろと落ちる。とても1回の入浴ではとりきれなかった。また波にもまれて帰ったためか、風呂の行き帰りは、まるで大地が揺れていうように錯覚した。自分がふらふらと歩いていたのだろう。

乗員には半舷ずつ約1週間の休暇が与えられ、休養と父母へのそれとない別れの挨拶をしてくるよう指示した。

艦長の正田少佐が伊56潜の艦長へ栄転退艦され、時岡大尉が新艦長として着任された。また、水雷長山本中尉が病気のため退艦入院され、新水雷長佐藤中尉が着任された。主要幹部の交替があったので、次の作戦は充分注意せねばならない。他艦の例で、相当な戦果をあげた優秀艦でも、幹部の半分近く交替した艦は次の作戦で帰ってこないことが多いということを聞いたことがある。

艦は修理計画をたて、工廠と打合せを行い、次の作戦に備えて多忙な日々を送った。工具さんは徹夜の連続で修理に当り、出撃予定日までに完全に復旧してぐれたのはありがたかった。戦地で戦う者も、内地で修理に当ってくれる人も、国を思う心は皆同じだ。この心の通う祖国愛によってこそ、戦地に向うわれわれ軍人は、「期待にそうよう頑張るぞ!」という気特になるものだ。

7潜戦司令部での作戦会議も終り、輸送用の米・治療品・弾薬などを搭載し、燃料及び貯糧品を満載して、横須賀を出撃したのは、昭和20年1月30日であった。

今回の作戦においてとくに心を配ったのは、バカン島輸送作戦の戦訓を生かし、艦内の温度上昇をおさえるため、電球を全部蛍光灯に変えてしまったこと、及びゴザを全乗員に配布し、少しでも寝心地をよくしたこと、ならびに、早目に酸素放出がなされ、空気の清浄化に努められたことだ。

前回のパガン輸送作戦は、自分にとり初陣であり、出撃時何となく武者ぶるいを感じ、房総半島の東端を通過するときは、「無事目的を達して、再び日本の山川を見ることができるであろうか」と、一瞬の不安感が頭をかすめたことを思いだす。

非常に苦しい作戦ながら、艦長はじめ全乗員の努力が実をむすび、無事目的を達して帰還することができたことは、次の作戦への一種の自信となり、「今回も必ず目的を達し帰還するぞ!」という気持になり得た。人間的にも成長したのだろうか。

横須賀出港後約2週間して、予定どおりトラック島に入港した。航海長小平大尉の天測の正確さと、艦長補佐のみごとさに感じ入った。

トラック入港後、艦長は司令部に挨拶に行かれた。小生は「海兵72期のクラス会を行う」の信号をうけ、許可を得て陸上に向った。松元金一中尉ほか3名のクラスメイトが集っていて、お互いの健康を祝った。それぞれ少ない物資を無理して集め、バナナやパパイヤが机の上に置かれていた。小生は持参の煙草をさじだしたが、皆大変喜んでくれて、バラの煙草をていねいに数えながら等分に配分していたのは、とくに印象に残った。おそらく陸上では、煙草が相当不足していたのであろう。−

艦長が帰艦されたのち、現地参謀が乗艦され、本艦の労をねぎらったあと、「先月入港した伊371潜は乗員がかなり疲労していたので、当地で2〜3日休養をとり、元気をとり戻して出港した。貴艦も2〜3日休養をとり出港したらどうか」、また「当地には漁船があるが、燃料がなくて舟が出せない」とのことであった。

これを小生は傍で聞いていて、「2〜3日休養させたら、乗員も喜ぶだろうなあ」と思ったが.艦長は 「ここでの任務を終了したら、明早朝に、出港します」ときっぱり返事され、また「艦の燃料を作戦行動にさしつかえない範囲で分けてあげましょう」と付言された。

トラック島での任務を終り、ほっとした夕刻になって、参謀が(かます)3杯程の新鮮な魚を潜水艦に運びこませた。「先程燃料を分けてもらったので、早速漁船を出したところ、かなりの戦果があったのでお裾分けする。皆で食べてほしい」とのことであった。思わぬ生糧品に大喜びし、調理室(烹炊所)に運びこませた。

当時はすでに生糧品は食べつくし、野菜から魚肉にいたるまで、すべで缶詰であり、(にお)いをかいだだけで食欲が減退するという状態であったので、予期せぬ活魚の刺身は実においしかった。その後煮つけ、味噌づけ等つぎつぎに烹炊員工夫の副食物がだされ、3日間ぐらいは缶詰でない魚をいただいて元気づいた。

トラック出港後約3日して、メレヨン島らしきものに近づいた。島影が少しつつ大きくなる。全くの平坦な島だ。しばらくすると大発らしい舟艇が多数白波をたててこちらに向ってくる。守備隊からすれば待ちに待った潜水艦の到来だろう、その期待ぶりが想像できる。しかし太陽は未だ高く、もし揚搭作業中敵機にでも発見され、攻撃をうけることにでもなれば、作戦目的は達せられなくなり、今までの労苦は水泡に帰することになる。艦長は「日没後この附近で揚搭する」の信号を出され、ただちに潜航して陸上から遠ざかった。

 

日没後うす暗くなるころをみはからって、艦は浮上し島に近づいた。待ちかまえていた大発が数隻、白波をたてて近づき接舷した。ただちに揚搭(輸送物晶を艦から上甲板に揚げ、それを大発等の小舟艇に搭載すること)が開始された。

パガン島輸送作戦時の経験にかんがみ、上甲板に揚げた物品を小舟艇に移載する場合、本来は陸上守備隊員の仕事であるが、守備隊員は体力不足のため、作業が進まず時間がかかり、危険性も大きくなるので、全部潜水艦乗員でやることに変更実施された。乗員は長途の航海で相当疲れていたが、皆不満な顔もせず、チキパキと従事した。

連絡将校として、田中歳春中尉(72期)が乗艦した。実情を開くと、守備の任務もなかなかたいへんらしい。内地から野菜の種子が届いたが、これを蒔いても芽は出るが、大きくならない由である。「伊366潜の到来を、首を長くして待っていた」、「甘いものが殆んどない」、「下士官兵の進級通知がこないので、進級させてない」、「内地の写真を見たい」等々である。

小生が持っていた酒保の羊かんや菓子頬は殆んど分けてやり、手持ちはなくなったが、大変喜んでくれた。煙草は必要数だけ残してやってしまった。「進級通知が来ないなら、資格のある者は全部進級させたらどうだ」とも言ってやった。このとき艦長が士官室に来られ、「連絡将校は何しとるのか!‥」と叱られる場面もあった。

 

約3時間で揚搭作業は完了し、内地送還者を収容したのち、小舟艇は舷側から離された。暗夜の中で「頑張れよ!‥」と大声で激励し、 本艦もその海面から遠ざかった。

今回も帰りに内地に送還の軍属が乗艦した が、パガン作戦時の戦訓が生かされ、壮健な人から選ばれたので、1人の死亡者もなく、無事内地に送り届けることができた。(パガン島作戦時は、身体の衰弱した者から内地送還者が選ばれたのか、本当にひどい人達ばかりで、帰途約10日間の航海中、6名の犠牲者をだし、毛布及び軍艦旗を巻いて後甲板から水葬した)。

 

前回のパガン作戦にくらべ、目的地が敵から遠かったこともあり、前述したように戦訓を生かし、

@ 艦内温度上昇を押えるため、電球を全部蛍光灯に変えた。

A 高温の艦内で毛布の上にシートでは、汗でベトベトし寝苦しかったので、全乗員ゴザを配布し、幾分でも寝心地をよくした。(小生にとっては、大変寝心地が良くなったと感じた。)

B 酸素放出を早めにやり、空気の清浄化に心掛けた。(バガン作戦では、潜航時間が長かったこともあり、呼吸するさえ苦しかった。2時間の水上航走のため、浮上した直後は、空気が本当においしいと感じ、深呼吸したことを思いだす)

C 帰りの便乗者に1名の犠牲者も出さずにすんだ等により、疲労度は大分減少したように感じた。

横須賀に帰投したのは、昭和20年3月3日であった。わが艦の入港2週間前には、当然横須賀に入港して、われわれを迎えてくれるものと信じていた伊371潜は、未だ帰投してないとのことである。トラックで2〜3日休養をとり、元気で出港したと聞いた先輩艦が、どうしたことであろう。

同艦の清村中尉(72期)と積る苦労談を語りながら、一杯やろうと楽しみにしていたのに。おそらく帰途、敵機か敵艦に遭遇してやられたのか、または乗組員の何らかのミスで沈んだのかは知るべくもない。乗組農のたった一人の手違いや操作ミスでも、潜水艦というものは命とりになりかねないのだ。

われわれが作戦目的を無事達成し、再び日本の山川を見ることが出来たのは天佑神助もあっただろうし、艦長以下全乗員が、それぞれ自分の任務に全力をつくして果し得た賜物であると信じ、双方に感謝した。

 

呉回航・・・初の冒険・・・鳴門の渦潮

横須賀に帰投後、艦の修理と整備、及び乗組員の休養にあたり、次期作戦にそなえた。内地もそろそろ敵機の空襲をうけるようになり、慌ただしくなってきた。上陸して久しぶりに飲んで体調回復をはかろうとしていても、空襲警報のサイレンが鳴ると、大急ぎで帰艦し待機した。おちおち飲んでもいられない。

そのころ潜水艦乗員に対し、国から無料サービスの提供があった。たしか2泊3日のサービスで、熱海温泉旅館で休養をとれるのである。乗組員を3直に分け、指揮官がついて行った。飲み代以外は宿泊料も食費も無料である。                ・

夜8時になると、先任伍長の案内で宿泊旅館を巡検してまわった。一巡して旅館をでるとき、先任伍長が「巡検終り」を告げると、今まで布団に寝ていた一同が一斉に起きあがり、飲めや唱えの大賑いであった。この国家的サービスは、潜水艦乗組員がいかに苦労しているかが判ってもらえたのだという一種の誇りと自信を得たような感じがし、たいへんありがたく、かつ、有効で、一同かなりの疲労がとり除かれ、元気を回復したように思われた。

次の作戦は輸送任務を解かれて、潜水艦本来の姿である攻撃艦となった。先般のトラック島行動中、敵艦を発見し、「これが輸送任務を終っての帰路で魚雷があったなら、攻撃ができるのだがなあ・・・・」と、艦長が言われて潜航退避した残念さが思いだされる。隠密行動で輸送中、敵艦を攻撃して、こちらの作戦意図を見破られることを恐れたからだ。攻撃が任務となれば、このような無念さを抑えることなく、敵艦とみれば遠慮なく攻撃できる。軍人として死に場所を得たような誇らしい感じがした。輸送型から攻撃型へ改装工事のため、呉港に回航することになった。

航海長の小平大尉が潜水学校の高等科学生として転出され、砲術長の小生が航海長を命ぜられた。砲術長として73期の橋本中尉が着任した。

横須賀を出港して南下し、紀伊水道を通過中、艦長が突然「鳴門海峡を通る」と指示された。鳴門海峡を通れば神戸沖の明石海峡を通るよりも、航路的に相当短縮でき、呉入港も早くなる。しかし名にしおう狭い海峡で、        

しかも潮の流れが早いことで有名である。この海峡を通ることになった。潮の流れからみれば、順流の末期が最適である。

速力を調節しながらこの時機に合わせるように進んだが、少し早目に海峡入口に達した。海峡をみると浅瀬及び岸は真っ白に泡だっている。中央附近は渦を巻いている。新米航海長としては冷や汗ものだ。「海峡を通る、航海保安配置につけ!」を下命し、「上甲板員突っ張り棒用意」を命じた。

艦が舵をとられ左右にゆれる。操舵員は必死で舵輪をまわして保針に当っている。艦首方向は渦を巻いているし、左右方向は波が岩をかんでいる。時間にすれば通峡そのものは短かったが、無事通峡し終ったときはほっと胸をなでおろした。

後日談になるが、戦後海上自衛隊に奉職し、昭和37年護衛艦「かや」艦長になった。ちょうど単艦行動のチャンスがあり、横須賀から呉に航海した。すでに護衛艦「あさひ」艦長への栄転が発令されており、「かや」艦長としては最後の航海であった。紀伊水道航海中、鳴門の潮を調べたらちょうどよさそうである。戦時の経験を生かし、鳴門海峡を通ることを決心した。副長が「ご栄転が決っているのに、今になって冒険されない方がよいと思います」と進言してくれたが、「いざという時は、通峡の必要があるかも知れない。艦長として一度経験しておきたい、心配するな」と言い聞かせて、艦首を鳴門海峡に向けた。

内心ひやひやしながら通峡したが、戦時中の経験がかなりの自信につながり、後日第1練習隊司令のとき、「あさひ」・「はつひ」の2艦をひきいて再度通映し、航路及び燃料の経済に貢献することができた。

かくして4月12日夕刻、無事呉港に入港することができた。

 

改装工事(回天搭載艦に)

呉軍港において伊366潜は、輸送型から攻撃型に改装することになった。輸送に関連する倉庫、揚荷装置及び上甲板の14糎砲をとり除き、回天5基を搭載できる架台及び交通筒と、回天を固縛または解除する装置の新設が主な工事である。横須賀出港前工事関係の打合せは工廠側と済んでおり、呉入港後ただちに着工された。工期は約1週間の突貫作業である。工員さんは殆ど徹夜で頑張っていた。

工期中に艦長のお伴をして先輩艦を訪れ、回天攻撃法の勉強をした。艦長は艦長としての任務を、航海長は航海長としての任務分担を学び、号令等もそのまま用いることにした。攻撃に必要な基礎資料も、そのまま適用させてもらうことにして写しとった。海軍工廠の血のでるような努力で予定どおり完工した。

 

決死の回天攻撃訓練

改装工事終了後、ただちに光基地において回天攻撃訓練を実施することになり、4月19日朝呉港を出港し光に向った。途中試験潜航が実施され、艦長が「潜航用意! キングストン弁開け!」を下命されるや艦は左にぐっと傾いた。久しぶりの潜航であり、乗組員の潮気がぬけ、弁開閉の誤操作をやったのではないかと一瞬ひやりとした。

艦長は落ち着いたもので、艦の傾斜をものともせず、傾斜の状態で「ベント開け!」を下令された。艦は傾いたまま、沈んでゆく。しばらく沈むとゆっくりと傾きはなおり、正常な姿勢となった。

「浮上用意」、「ベント閉め」、「メインタンクブロー!」がつぎつぎと下令され、艦は再び浮上した。掌水雷長がただちに上甲枚に上り、各部を点検してまわり、「どこも異状ありません。ただし艦尾方向航跡の中に、15糎立方ぐらいの木片が浮いでおりました」と報告した。

おそらく工事に使用した木材の切れ端がベント弁にひっかかり、とれていなかったため、キングストン弁を開いた際、本来完全に閉鎖されていなければならないベント弁の一部から空気がもれ、そのタンクの水が浸入してきて艦が傾斜したのだろう。その後ベント弁を全部開いたので、他のタンクにも水が入って潜航とともに水が平均化し、艦が水平になったと思われる。

それにしても艦が傾斜しているのに、「ベント開け!」を下命することは自信がなければできないことであり、艦の構造が全部頭に入り、かつ経験がなければできない処置である。艦長の判断と適切な処置に対し敬服した。

光入港後訓練に対する打合せがあり、翌日から1週間にわたり回天攻撃訓練が行われた。訓練は直進中の駆逐艦に対し、潜航のまま回天を発進し、回天は指示方向及び時間だけ潜航のまま進み、一度潜望鏡で目標を確認して、駆逐艦の艦底を通過する。攻撃終了後は砂浜にのり上げて回収する。訓練終了後基地において研究会が行われ、命中かいなかの判定及び批評が行われた。

訓練も終りに近いある日、攻撃を終了し、回天5基が全部帰っているかを確かめたところ、4基しか帰っていないとの連絡があり、1基が何らかの故障で途中沈没したものと思われた。ただちに反転して回天発進地点に向う。見張員には「警戒を厳重にし、海面の色が変っていたら知らせよ」と下令、発進地点に徐行した。

海上は波静かであるが、さざ波がたち、海水の色の変化まではなかなか判りにくい。ちょうど回天を発進した海面に達するころ、「海面の色が変わっています」と大きな声で報告があり近づいた。その海面に到達して漂泊し確かめると、たしかに緑色がかっており、気泡らしいものがつぎつぎと浮き上っているようだ。この位置で沈んで気泡を出していることを確敢して、「潜水夫及びクレーン船の手配こう」と連絡依頼し、乗組員には回天搭乗員を安心させるため、潜水艦の舷側を竹竿でたたかせた。

当時光基地にはクレーン船がなかったので、呉に連絡したらしい。クレーン船の到着が待ち遠しいこと。約4時間後、クレーン船らしきものが見えたときは、本当に嬉しかった。

それにしても搭乗員はまだ生きているだろうか。やっとクレーン船が潜水艦に横づけにし、早速潜水夫が潜った。しばらくして浮上し、「回天はみつかった。頭部を海底につっこんでいるので、周囲の砂をかきわけ、ローブをくくりつけ、クレーンでひき上げた方がよいと思います」との報告があった。

その方針でやることを艦長が決定され、再度潜水夫は潜った。しばらくすると回天が頭部を上にむけ、ポカリと浮き上った。2、3回浮き沈みしたのち水平になり、約3分の1を海面からだし静止したので、ローブで回天の頭部及び推進器(プロペラ)附近を固縛してクレーンで吊り、ハッチを開けた。

もうとても生きてはいまいと観念していたところ、ハッチを開けると搭乗員が元気一杯で出てきた。まるでお伽話の桃太郎が桃を割られてとびだしてきたような状況だ。その人は隊長の加藤中尉(73期)であった。今でもその時の状況がくっきりと思いだされる。

 余談になるが、この人も戦後海上自衛隊に奉公し一緒に勤務したことがあり、当時の思い出話をしたことがある。よくぞ生きていてくれたと神に感謝した。

 後述するが、潜水艦は光沖で出撃直前触雷して、出撃が1ケ月後に延びたため、沖縄戦参加のときは、回天搭乗員が変わり、成瀬中尉(加藤中尉と同期)が隊長となった。

 

呉出撃、されど無念の触雷

光基地において約10日間の回天攻撃訓練終了後、呉に帰投し、燃料及び乗組員の食糧を満載、魚雷(予備魚雷も)を搭載して、休む間もなく出撃することになった。今回は前2回の輸送任務ではなく、攻撃艦である。乗員の士気も大変あがっていた。

20年5月4日0800呉出撃と決定した。呉の潜水艦桟橋に係留し、潜望鏡を上げて「非理法権天」の織を掲げ、艦橋横には特攻マークの菊水の幕を張った。乗組負は日の丸の鉢巻をして上甲板に整列し、「乾盃」の音頭で乾盃、工廠の工員さんや、女子艇身隊の日の丸の小旗で見送られて、「出港用意」のラッパにつぐ「もやいはなて!」の号令で勇ましく岸壁をはなれた。ここまでは立派であった。

ところが出港後30分ぐらいして、下の甲板が何となくやかましい。行ってみると烹炊室で員長と次席が、酔ったいきおいで何やらやり合っている。中に入って一喝した。

出港前艦長から「出撃前の乾盃ほとりやめる。他艦の出撃状況をみると、乾盃により態度が乱れ、どちらが見送られるのか判らぬ」と言われ、「1人1合だけ許して下さい。乗員の態度を乱すようなことは、責任をもってやらせませぬ」と2回も3回もお願いして、やっと許可を得たのに、甚だ残念なことだ。

艦橋に上ってきつくお叱りをうけた。「誠に申訳ありません」と平身低頚した。光入港後光基地との会議も終り、巡検後総員集合を命じて、一同に強く注意したのは勿論である。

6日は回天5基を搭載し、試験潜航のため出港した。そのとき特攻隊員(少尉候補生)が約10名、乗艦実習のため乗りこんできた。私の弟もこの中の一員であった。次の日が本当の出撃となる。

出港後しばらくして、試験潜航が開始された。「潜航用意」、「キングストン開け」が下命され、「キングストンよし」 の報告があって、まさに「ベント開け」の号令が下命される直前、ズシンと身体にひびく振動を感じた。ただちに「キングストン閉め」が下令され、艦内調査が開始された。どうも触雷したらしい。

電池がやられ、電池液が漏れて食糧までやられている。そういえば、数日前に敵機が一機飛来し、不時着したことがあった。ただちに出港して追っかけたが、到着前に敵の水上機が着水して、搭乗員を収容して飛び去り、 残念がった思い出がある。その時機雷を落したのだろう。

潜水艦が未だ水上航走していたので幸運であったが、あと一刻おそく触雷し、潜航状態であったら、そのまま海底深く沈み、全乗員も艦とともに運命を終ったことであろう。まことに幸運であった。電池が大半やられたの で、潜航航走ができなくなり、出撃は延期となった。

 

361潜が交替して出撃し、不帰の客となったが、海兵同期の安東種夫大尉が乗艦していたと思われ、まことに申訳ない気がする。運命とはまとこに紙一重だという感を深くした。わが艦はただちに呉にひき返し、電池や食糧の入れかえを急いだ。

 

空襲の苦難をこえて

呉在泊中に敵機の空襲を2回うけた。第1回目は昼間であり、通常爆弾による攻撃で、海軍工廠が主目標となった。第2回目は夜間で、焼夷弾による市街攻撃であり、この空襲で呉市の大半は破壊された。

20年6月22日、伊366潜は改装工事及び艦底手入れのため、潜水艦桟橋を0800出港して、呉工廠のドックに入った。入渠後排水され、まったく水がなくなった直後に敵機の空襲をうけた。潜水艦は海上であればただちに潜航して姿をくらますことができるが、ドックに入り、水がなく支柱で支えられている状態では、まったく(まないた)の鯉と同様であり、手のうちようがない。「絡息配置につけ」が下令され、扉は艦橋ハッチ一つ更け開いた状態で敵機を待った。

艦橋には艦長、小生及び信号、見張員の4、5名が鉄兜をかぶり、敵機をにらんでいた。敵機が近づくと本当に無気味だ。頭上に近づいて爆弾を投下する。胡麻粒ほどの爆弾数発が飛行機から離れる。ヒユーという音とともに爆弾はみるみる大きくなる。見上げていると、頭上に落ちてくるような気がする。間もなくドカーンという大音響とともに、黒煙が舞い上がる。思わず耳に手をあてた。

艦長の顔をみたら落ちついておられる。これをみて一種の安心感を抱き、小生も艦長を見習うことにする。数次にわたり、敵機が飛来して爆弾を投下した。腕組したまま、敵機をにらんで見上げた。

ヒユー、ドカーンと何回統いたか覚えていない。幸に潜水艦は被害を受けなかった。

「空襲警報解除」の報により、人員調査を命じた。「人員異状なし」 の報告あり、つぎに船体を調査させた。「船体異状なし、ただし、前甲板にこんなものが落ちていました」と、「5×15×25糎ぐらいの鉄片を届けてきた。手にとってみると鋭利な切口をみせる弾片だ。もしこれを直撃でうけていたら即死だろう。

 

しばらくして甲板員が卵型をした白い物を届けてきた。「あるいは敵の時限爆弾ではないでしょうか?」という。無気味だ・・・・。おそるおそる受け取り、手の上で上下左右から確かめた。まったく卵そっくりだ。そのうちに、烹炊員が息せききってかけつけ、「それは私が置いた卵です」という。卵そっくりのはずだ。本物の卵である。安堵するとともに一同ドッと笑った。被爆後のはじめての笑い声である。

この空襲では工廠の南半分が殆んどやられ、多くの工員さんや女子艇身隊の人々が犠牲となった。とくに防空壕に避難していて、それが直撃を受けたのもあるらしい。

当日の朝まで本艦が係留していた潜水艦桟橋も、跡かたがない程やられていた。もし本艦がそこに係留していたら、当然撃沈され、1人も生存者はいなかっただろう。ここにおいても幸運の女神はわれに味方してくれた。

 

第2回目の空襲は、7月2日の真夜中と記憶する。次回出撃に備え、訓練のため光に回航する直前である。そのころ急に水雷長に任命され、未だツリム(潜水艦が安定した状態で潜航できるように釣合を保つこと)に自信なく、毎日艦長から宿題をだしてもらい、下宿に持ち帰って計算し、翌日艦長にみていただくということをくり返していた。(少尉に任官後、潜水学校普通科学生を卒業したのみで、ツリムについては短時間しか教育をうけてなく、しかもあまり理解していなかった。ツリムについては大尉になってから、高等科学生でみっちり教育をうけることになっていた)。

当日は久しぶりに飲みに行き、よい機嫌になっていた夜中に、「空襲警報」のサイレンが鳴りわたった。急いで軍服に着かえ、店をとびだした。自分の靴がどれか確認する暇もないので、そこらにある下駄をつっかけた。

先般の空襲時は通常爆弾であったが、今回は焼蔑弾だ。先ず照明弾が落されて、呉の上空は真昼のように照らしだされた。ついで呉市の北側に一直線に焼夷弾が落されて、火災のため真赤となり、ひき続き東側、南側と一列ずつ落されて、呉の市街は浮きぼりにされた。あとは敵機の思うままで、中心部に向って落された。

帰艦を急いでいる途中、民家に焼夷弾が落下、眼の前でバリバリと戸板が燃えはじめた。消火に努めたがなかなか消えない。弾は落下と同時に四散し、油脂状のネバネバしたものが、戸や障子に燃え移っている。足先で踏み消そうとしたが、とても消えない。当時民家では、バケツで水をリレー継ぎして消火訓練が行われていたが、先般の空襲時、通常爆弾でひどく被害をうけ、多くの人が爆死しているので、誰も消火しようとはしないようだ。消火を止め、潜水艦になるべく早く帰ることにした。

爆撃状況をよくみると、1機が爆弾を投下したら、次の1機の投下まで少し時間があることが判った。この合間をみながら、防空壕から次の防空壕へと移動した。少しつつ表桟橋に近づいた。ふとみると海兵団の方に火の手が上っている。真赤な焔を背景に、呉駅方面から東に向けて、煙をはきながら汽車が通過した。まるで映画のような情景だ。

やっと表桟橋附近に来た。あと1時間ぐらいで夜明けである。「この附近で夜明けを待とう」と考え、「さて、どこがよいか」と周りを見渡した。「堺川にかかっている橋がよかろう」と判断、橋のほぼ中央にきて欄干から下におり、橋を支えている支柱のコンクリート部に腰をおろした。ここで一睡して夜明けを待つことにする。「この広い呉市の数多くある橋の一つで、しかもその中央部に敵の爆弾が当るようであれば、天命と自分に言いきかせて仮眠した。

ふと眼を覚ますと、東の空がうす明るくなっていた。一睡のおかげで大分元気づいた。橋の上に登り、橋を渡って潜水艦甚地隊に向う。基地隊は殆んどやられ、潜水艦乗員宿舎も丸焼けになっていた。

出撃直前のことでもあり、出撃中不必要な衣類等は、父かち預かっていたワニ革製のトラック(外国製で父が自慢にしていた品)に全部入れていたので、全滅したらしい。自分の身がわりに焼けたと思えば諦めがつく。

潜水艦になるべく早く帰ることを考え、舟を探した。幸に通船を一隻見つけたので、基地隊に申し出て借用した。乗る直前、航海長の星野政徳大尉(72期)と出会った。2人で交替しながら櫓を漕いで帰艦した。艦長は未だ帰艦されていない。日ごろ艦長から「艦長不在時は、必要と思えば先任将校の判断で出港してもはい」との許可を得ていたので、「出港用意」を下令して出港した。大半の乗員は帰艦していたようだ。

出港後念のため潜航を試みた。計算によるツリムはできていたが、自分の号令で潜航してみたかった。「潜航用意」「キングストン開け」を下命、「キングストンよし」の報告を待って「ベント開け」を下令した。艦は殆んど停止の状態で潜航した。静かに艦首にやや傾き、沈み沈み始めた。そのうち水平に戻ったと思ったら、今度は艦尾側に傾いた。内心ハつとした。再度水平に戻り艦首側に僚き、軽いショックを感じて着底したらしい。このまゝ、傾斜状況を維持していたら、艦首を海底に突っ込んだことになり危険である。そのうちに水平に戻った。海底に無事沈座したことに確信を得て、ホッと胸をなでおろした。約60名の命を預かっているからには失敗は許されない。再度浮上して繋留岸塵に向う。岸壁近くに帰ったころ、艦長が内火艇で帰艦された。残りの乗組員も殆んど帰艦したので、再度出港を下令された。しばらくするうちに、広島方面から敵の艦載機らしいものが近づいてくる。ただちに急速潜航に移る。

「潜航急げ」、「ベント開け」が失つぎ早に下令され潜航した。前回の潜航にくらべ、今回は速力があったことも手伝い、ツリムもできていたので、スムースに艦首側から潜航し着底した。

敵機は先程本艦が試験潜航した海面に爆弾か爆雷を落し、つづいて水上艦艇を攻撃しているようだ。潜っていてもガンガンと響いてくる。こうなると潜水艦は一番安全な状況である。潜水艦乗組員のありがたさをつくづく感じた。

 

夕刻まで潜航着底して、敵機の攻撃終了するのを待ち浮上した。水上艦艇が相当やられているようだ。海面に大小の魚が白い腹をだしてあちこちに浮かんでいる。もったいないので艦長に進言し、これらを捕えることにした。前甲板に1名だして竹竿の先に網をつけ、浮いた魚を拾わせることにした。しかし艦が近づくと、す早く逃げて、なかなか捕まらない。やっと1、2匹を捕えたような気がする。夕食の刺身はおいしかった。

呉港に帰投し、一段落して乗組員を調査したところ、2名不足である。翌日から先任伍長を伴い、市内調査に向った。八幡宮裏の広場に、相当数の遺体を収容してあるとの情報を得て行ってみた。広場一面に遺体が並べられており、広場を埋めつくしている。黒焦げで顔の判別がしにくい人、頭髪まで焼けている人、乳飲み児を抱いたまま焼けだされた母親の姿もあり、痛ましかった。黙祷を捧げたのち、一人一人丹念に探しまわった。

かなりの時間がかかったが、ついに軍服姿の遺体が見つかった。探し求めていた人だ。士官室係をしていた石頭兵曹だ。おそらく下宿で睡眠中焼けだされたのだろう。たいへん真面目で信望の厚い人物であったのに惜しいことをした。

市と交渉して遺体をひきとり、お寺で隊葬し、遺品を集めて両親のもとに送った。あとの1名はどうしても判らない。約1時間後、広島の病院にいるという情報が入ってホットした。彼はそのまま病院に残し、次の作戦に向け出撃した。水中測的の秋山兵曹である。

(資料によると呉空襲は次の5回である。我々が遭遇したのは、6月22日と7月2日の2回と記憶している)

 

呉空襲の記録

昭和20年3月19日   艦載機  350機 呉軍港

5月 5日   B-29 130機 広町 11

6月22日   B-29 290機 呉市、音戸

7月 3日   B-29  80機 呉市

7月2428 -29 110機 呉軍港

           艦載機950機  同

(利根・大淀等水上艦艇が被害をうけた)

 

沖縄戦参加・・・「非理法権天」の織の下、回天3勇士敵船団に突撃する

触雷でやられた艦の修理、電池や食糧の入れかえも終り、呉を出撃したのが、20年7月30日である。艦の修理完了後、光沖において攻撃訓練を実施し、回天搭乗員との呼吸はぴったり合っていた。

私事になるが、呉において父から速達がきて「7月20日に、お前の結婚式を準備しているので帰ってくれ」とのことであるが、手元に届いたのは26日で、出撃直前の忙しい最中であった。「出撃直前で帰る余裕はない。おそらく生きては帰らぬと覚悟しているから、許してほしい」と返事を速達でだした。この速達は終戦後、9月帰郷して熊本で受けとった。

(註、当時は空襲などで、内地も混乱が甚だしく、郵便物なども大へんな遅配があった)。

妻は主人のいない結婚式を挙げ、わが家で父母とともに、留守を守ってくれていた。

先般、出撃前の失敗もあり、乗員には厳重に注意してあったので、今回の出撃は実に整々とした態度で乾盃をあげ、キビキビした動作で、もやいを放ち岸壁を離れた。潜望鏡を高く上げて「非理法権天」の織を掲げ、全員日の丸鉢巻をし、艦橋の両側には特攻隊の印の菊水マークをしたのは前回と同じである。

 

受取った作戦命令は、「伊号366潜水艦は、カロリンと沖縄を結ぶ線上にあって、敵の輸送船団を攻撃すべし、回天特別攻撃隊多聞隊と命名する」であった。

私の記憶では、潜水艦の攻撃目標の優先順位は、開戦当初は、戦艦・巡洋艦・空母・・・の順であったが、戦争中期では、空母・戦艦・巡洋艦の順で、輸送船は下位に属していた。末期には、敵の上陸阻止が優先となり、輸送船・空母・・・で、輸送船が最も重視されていた。戦艦等ははるか下位に下げられたようだ。

 

呉出港後、光に入港し、基地において5基の回天を搭載し、成瀬中尉以下5名の搭乗員(特攻隊員)が乗艦した。光出港後、8月1日豊後水道を出るときは、最も警戒を厳重にした。当時日本列島の周辺には、敵の潜水艦が配備されており、とくに各水道の出口は危険であったからである。前2回の作戦と違い、今回は攻撃が主任務である。水道通過後、昼間は潜航したが、夜間は水上を航走し、目的地に急いだ。9日に目的海域に到着、夕刻ソ連の参戦を知る。いよいよ風雲急である。目的地に向う途中、6艦隊司令部から「貴艦の位置知らせ」の電報を受け取る。当日はちょうど曇天で、夜間に星が2つしか見えなかった。航海長の星野大尉は、2つの星で天測位置をだしているので、相当の位置誤差がある。予定航路からかなり東に偏位していた。しかし、この位置が最新の天測位置である。艦長はこの位置を報告することにされた。電文を作製し暗号化して、浮上し打電した。打電時間は約四秒であった。しかし、翌日の夕刻、浮上して受信した6艦隊司令部からの一般放送電報では、「米軍の電報によれば、方位測定による日本潜水艦の位置は、北緯〇度〇分、東経△度△分」と流している。海図にその位置を入れてみるとわが潜水艦の位置にきわめて近く、敵の方位測定技術の正確さに驚かされた。わずか四秒間の電報発信でも、正確にキャッチされていたのだ。

敵艦を求めて警戒航行を続けているうちに、夕刻になった。見張員が「敵艦らしき灯火、左30度、水平線!」と報告した。ただちに「配置につけ」を下命、艦内は緊張した。報告の方向を双眼鏡で見ると、確かに灯火らしきものが見える。しかし、夕暮れ近くに灯火を出して走るとは、常識を欠いている。考えようによっては、何と大胆不敵なことだ。「潜航用意、回天戦用意」が下令され、さらに認知に努めた。しばらくするうちに、灯火らしきものは水平線から少し上った。どうもおかしい。少しずつ上ってゆくようだ。星かも知れないと疑問を抱く。「惑星らしい」ということになり、第3配備に変更され、警戒航行を続けた。

8月11日夕刻、見張員が「敵艦らしきもの、左10度、水平線!」と大声で報告した。今度は間違いないようだ。ただちに「潜航急げ!」「回天戦用意〃」が下令され、慌ただしくなった。回天搭乗員は士官室に用意されたサイダーを2本ずつ掴んで回天へと急いだ。別れの挨拶を交わす暇もない。乗員が回天に搭乗したという報告をうけて、「交通筒注水」が下令され、潜水艦と回天の中間は充水され、まったく離隔された。

回天を潜水艦に繋止している繋止帯は、中央の1本のみを残して他は外された。潜水艦と回天の通話は、−本の電話のみである。

「ジャイロ発振!」、「ジャイロ整合用意!テー」、「350度」と交信して、潜水艦のジャイロと回天のジャイロの整合をやった。ジャイロが狂っていては、いかに搭乗員が闘志満々であっても、回天は指示された方向に進まなくなり、目標に到達することができない。5基の回天のうち、3基だけはまともに作動し整合を終ったが、残り2基は「ジャイロ異常あり」の報告があり、発進を申止せざるを得なくなった。

3基に対してのみ「試運転用意」が下令され、「試運転はじめ」で回天のスクリューが回転するのが、頭上の甲板を通じ振動で判る。航海長は各艇の進行方位及び潜航時間を計算し、各艇に指示した。各艇長の報告が間違いないことを確認して、「各艇発進用意よし」を艦長に報告した。

潜水艦は露頂深度(約16米の深度で、艦は潜航のまま潜望鏡を上げると、潜望鏡の先端が海面から2030糎出で、艦内から海面上を観測できる深度である。この深度を保つのは、水雷長の技価が必要であり、波が荒いとこの深度を保つのに苦労した)を保ち、艦長は敵艦を潜望鏡で注視しておられる(敵までの測距離、敵の針路・速力は、艦長の観測を基礎デーダーとして航海長が計算してだす)。

2〜3回の測的で、敵までの距離、敵の方位・針路・速力を計出し、このデーダーをもとに、回天の進路(針路)及び発進後の潜航時間を計出し、回天に指示する(回天は発進後指示針路に進み、指示時間潜航ののち、潜望鏡を上げると、その地点が百発百中の位置についていることになり、以後は回天の艇長の判断で針路を計算し、敵艦に体当りすることになる。もし1回の攻撃が失敗しても、反転して2回〜3回と攻撃をくりかえすことができ、必中を期すことができる。回天発進地点は、敵艦から1万米ぐらいの距離であるので、敵からは攻撃されることが少なく安全性が高い。(駆逐艦が敵に魚雷攻撃をする場合は、敵から1500米ぐらいまで肉迫しないと.100パトセントの命中は期し得ないとされていた)。

 

数回の艦長測的と、これをもとにした計算に間違いないことを確認して、「〇号艇発進用意!」 「発進!」が下令され、成瀬謙治中尉、佐野元一飛曹、上西徳英一飛曹搭乗の3基の回天は、つぎつぎと潜水艦から離れて行った。心中「必中成功を祈る」を念じて訣別した。

回天発進後、残り2基は交通筒を排水し、搭乗員を収容した。申し訳なさそうな顔をしていたので、「落胆するな、チャンスはいくらでもくる」と励ました。

乗員は静まりかえって攻撃の結果を待つ。艦長は潜望鏡を睨んでおられる。待つ時間の長かったこと。攻撃後230分して、ドカーン、ドカーンと3回にわたり、爆発音がはるか遠くで聞えた。艦内は 「バンザイ」を叫んで士気は大いに上った。

次はわが艦が敵の駆逐艦から攻撃をうける番である。ただちに深度を下げて40米まで潜った。以後自動懸吊装置にきりかえ、すべての機械を停止した。

自動懸吊装置は、帝国海軍の世界に誇る装置であり、指定深度を自動的に保つことができた。すなわち、艦が沈みはじめると、自動的にタンクの水を排水して、わずかに浮上をはじめ、浮上しすぎると自動的にタンクに注水して、わずかに沈下する。わずかの上下をくりかえしながら、指定深度を保持するわけである。この装置は現在の海上自衛隊でも設置されている。

予想どおり敵の駆逐艦らしいものが接近してきた。スクリュー音が次第に近づく。いつやられるか気が気でない。冷や汗が流れる。2〜3回頭上をスクリュー音が往復したが、幸に探知されなかったのか、しばらくして敵は遠ざかった。時間的にも暗夜であったことが幸いしたと思われる。

敵の遠ざかった後、しばらくの間潜航を続け、再度浮上して敵を追いかけることに艦長は決意ざれた。海上はすでに暗夜になっていた。針路を西に向け、沖縄方向に全速力追いかけたが、12ノットではおそらく敵の速力の方が速いだろう。暗夜に双眼鏡及び見張貞用望遠鏡で血まなこになって捜索したが、翌朝までには見あたらなかった。発進中止となった回天は、ただちにジャイロを復旧して、いつでも攻撃できる態勢となったが・・・。翌日からひきつづき敵を求めて警戒に当ったが、終戦までに攻撃するチャンスはなかった

 

ついに戦い敗れる・・空しい戦後処理

我々が終戦を知ったのは、昭和20年8月15月夕刻でぁった。電信長が小生に届けてくれた新聞電報(朝と夕方、毎日2回一括放送される電報で、ニュース等はこれで知ることができた)は、詔勅を電文化したものであった。艦長に「敵の謀略電報ではないでしょうか」と言うと、「まさか」という返事がかえってきた。他の乗員には知らせることを禁じ、ひきつづき索敵行動を続けた。

同日夜、6艦隊司令部から:〔戦争終結、ただちに呉に帰投せよ」の電報をうけとり、本当の終戦を知った。艦長は呉帰投を決せられ、「只今から呉に帰投する」と艦内に令達された。ただちに針路を北にとり、警戒航行を解いて通常航海にきりかえ、水上航走のみとした。呉に着いたのは18日昼ころである。

戦場に行くのには、潜航と水上航走をくりかえしながら、しかも之字運動をやりつつ航走したので、約1週間かかったが、帰りは2日半ぐらいで帰ったことになる。通常航海とはいえ、敵機及び敵艦に対しては、やはり気を配り警戒した。

呉入港後参謀が乗艦され、苦労をねぎらわれた。そして写真を見せ、「8月6日にこんな爆弾が広島に落ちた。広島は廃墟(はいきょ)となったらしい」と説明があった。「まるで入道雲みたいですね」と返事し、これを見ただけでは、あんなむごい状態になっているとは、想像できなかった。「戦いに敗れたからには、軍人は容赦しないだろう。まして学校出身の正規軍人(戦後職業軍人と呼ばれる)は、とうてい生かしてはおかないだろう」と覚悟を決めた。「いつでも自決できるよう、短刀をいただきたい」と申したところ、翌日届けてくれた。これは特攻隊が出撃前いただくものらしい。今でも大事に保管している。かくてわれわれが青春をかけ、祖国の必勝を念じ戦いぬいた大東亜戦争(戦後太平洋戦争といわれる)は、敗戦という結果で終結したのである。

 

呉に帰投した8月18日から、別の意味で忙しくなった。毎日6艦隊司令部に集合し、会議が開かれた。艦長は艦長会議に、小生は先任将校会議に出席した。皆血気盛んな青年将校ばかりで、歴戦の勇士である。「われわれは戦争に負けてない!」、「今からでも弾薬・食糧を搭載し、出撃して最後の一兵まで戦いたい!」、「わが艦は海賊船と言われてもよいから、どこかの島影を基地として出撃し、神出鬼没で敵艦をやっつけるつもりである!」

等々、意見百出である。

このままでは誰一人としてひき下る気配はなかった。何日後か記憶してないが、艦長・先任将校一堂に会した席上で、ついに第6艦隊司令長官が「諸君の気持はよく判る。しかし天皇陛下は、国民の滅亡を懸念されて、戦争終結を決断された。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」と言っておられる。ここは陛下の御意向を体し、命令に従ってくれ」と涙ながらに訓示された。みんな静まりかえって、今までの空気は一変した。一同陛下の御意向に従うことになったのである。今まで張りつめていた気持が急にくずれた感があり、全身の力がぬけた。

帰艦後、総員集合して陛下の御意向を伝え、これに従うよう示達した。その後艦内神社及び軍艦旗を一同の前で焼かせた。急に涙がでてどうしようもなかった。鳴咽(おえつ)の声があちこちで聞えてきて、いまにもわっと泣きだしそうになり、これをこらえるのに苦労した。あとで別の軍艦旗を止りだし、乗負の数に合わせて切り、その一片一片を各自に渡し、「これを記念として、将来日本の繁栄のために頑張ってほしい」とつけ加えた。

士官室にて会議を開き、「戦争に敗れたからには、乗組員を一刻も早く、無事に故郷に帰さねばならぬ。乗員は3組に分けて帰そう。故郷では食糧や衣服が極端に不足していると聞く。衣服の調達は私がやる」と言い、先任伍長を伴い、被服倉庫に交渉した。

担当の海軍少佐の人が好意的に申し出を聞いてくれ、全乗員の制服及び靴を供給してくれた。内火艇で作業員を出してうけとらせ配布させた。食糧については、艦内の米及び缶詰を必要量最小限に艦内に残し、他は全部分けてやった。毛布も持てるだけ持って帰らせた。

乗組員の帰郷については、遠方の人から優先的に帰すことにし、3組に分けて順次退艦帰郷させた。退艦者は一列に並んで、つぎつぎと敬礼しながら交通艇に乗りうつる。永く住みなれた艦を、敗戦という形で去るのは何ともいえない感情だろう。見送る人と去る人も、涙を流しながら帽振れで別れた。

3回目に乗組員が帰郷したあとは、艦長以下約10名が残り、急に淋しくなった。あとは司令部からの命令待ちである。いつ捕えられ殺されてもよいという心境になっていた。乗組員の大部分を無事退艦させることができ、大任を果したような気がした。

間もないある日、兵科の1兵曹が飲酒して帰り(他艦で飲酒したのか)、相当酔っぱらって行動不安定である。言うことも筋が通ってなく、居住区に行ってあちこちぶら下がったり、諸弁に手を触れて廻そうとしたり気にかかる。

キングストン弁やベント弁でも廻したら、艦は沈んでしまう心配がある。呼んで注意したが効果がない。「戦争に敗れた」という悔しさも手伝っているのだろう。心情は判るが、ここで艦を沈めてしまっては末代までの恥である。非常手段を決意し、艦長の許可をえて、本人を拘束して航海長及び砲術長と交替で一晩中見張った。一晩過ぎたら酔いも覚めたので退艦帰郷させた。

小生は艦長とともに、最後まで居残ることにしたが、艦長が「先任将校は新婚だろう。故郷に奥さんが待っているそうではないか。何か用件ができたらすぐ知らせるから、その時は来てくれ、ひとまず帰りたまえ」と言われた。

終戦直後の米軍に対する懸念は大分変わり、将校も殺されそうにないという情勢になった。必要な時は馳せ参ずることにして、艦長のご好意をうけて、ひとまず帰らしてもらった。永い間苦労をともにした伊366潜水艦を、後ろ髪をひかれる思いで去ったのは9月7日であった。

 

ああ! わが伊号第366潜水艦との痛恨の訣別

 

帰郷後、艦長からの便りを待ったが、何ら連絡はなかった。気になりながら食ってゆくために農業の手伝いをはじめた。そのころ田舎も都会も極度の食糧難、衣料品難であった。

幸に父母が一反歩程耕作していたので、当座は間に合ったが、すぐ食うに困るようになり、父は東奔西走して、「来年返すから」と約束して、米一俵を借りてきた。妻はきていたし、弟も戦地から帰ってきた。

(海軍少尉に任官し、回天搭乗員として、光基地で訓練をうけていた)ので、急に大人5人になり、どうしても食ってゆけない。ちょっとした地主であったので、小作人に集ってもらい、事情を話して少しつつ返してもらった。田畑合せて一町ぐらいにはなった。返してもらった田畑であるので、遠方で不便なところが多かった。農業一年生として、牛を使っての耕し方も教えてもらった。自作しても米の供出が厳しく、白米などめったに頂けず、満足なものは食えなかった。

こんな状態のとき、艦長から「潜水艦を佐世保に回航した」という手紙が届いた。回航要員として呼んでもらえなかったことに内心不満を抱きながら、佐世保に急行した。係留中の伊366潜水艦に乗艦したときは、久しぶりに夢にまで垣間みたわが艦であり、感無量であった。

艦長はたいへん喜ばれ、「よくきてくれた。実は身体の具合がよくないような気がするので、艦長を交替してくれないか」とのこと。「回航前お知らせいただければ、お力になり得ただろうに残念でした。艦長にご苦労をおかけしたのだから、明日からでも交替しましょう」と即答したが、艦長は「新婚だろう?奥さんを佐世保に回航しろよ、永くなるかも知れないので……、そうしてくれないと頼みにくいが……」という返事であった。

ただちに上陸して借家を探した。幸に知人の紹介で一間だけ貸してくれる家をみつけ、即日帰郷して妻を伴い佐世保に行った。艦に帰ってみると、艦長から「あと一週間ぐらいで、艦を処分するらしい。俺も艦の最儀をみとどけたいから居残ることにする。先任将校も手伝ってくれないか」とのこと、快諾した。

処分の前夜は、佐世保港入口の漁村に回航し、横づけして「どうせ潜水艦は明日処分することになるので、片舷機と1日分の食糧があれば足りる。その他のものは何でも持って行ってよい」と申しでた。間もなく数人の工員さんと思われる人々が来艦し、われ先にと、米とか貯糧晶を思い思いに持ち去った。「自分たちのことしか考えないのかなあ」と思っていたら、再度現われて、今度は機器や機械類を分解しはじめた。主機械の片舷機も徹夜で分解し、明け方近くに陸上に上げて持ち去った。

いよいよ処分の日である。逐次出港して向後崎沖に集まり、米軍の指示によって、2列の縦陣をつくり南下した。縦陣列の外側には、米軍の駆逐艦が警戒しながら同行した。各艇の前後距離300米、隣の艦との間隔は500米くらいであったろう。

「隊列はあまり気にすることはない。どうせわれわれはもう軍隊ではないのだから」と横柄にかまえて、隊列もいい加減に考えて進んだ。そのうち駆逐艦からマイクで、「左列の何番艦は距離をつめよ。隊列からはみだすな」と日本語で指示してきた。聞えぬふりをして平気で進んでいたら、再度日本語で指示し、「了解したら帽子をふれ」との催促である。いたし方なく帽子をふり、隊列に入った。昼近くになって現場についた。各艇機械を止めて漂泊した。やがてLSM(上陸用舟艇)が近づき、3名の米兵がそれぞれ、30×20×15糎ぐらいの鼠色をした箱を持って、潜水艦に乗りこんできた。われわれはこれと入れかわりにLSMに乗り移り、潜水艦を離れた。LSMはLST(上陸用艦)に横付けされ、これにわれわれは移乗した。

移乗後、せめてわが艦の最後を見収めたいと、デッキの上からわが艦を見ていると、米兵が小銃をつきつけ、「DOWN DOWN」と連呼した。いたし方なく下甲板に下りようとしたら、他艦の爆沈されるのを垣間見ることができた。小銃をつきつけられての短時間であったが、瞬間的な時間差で、艦尾・艦首・中央の順に爆破され、浮いた潜水艦は艦尾から沈んでいった。最後には艦首を上に向け見えなくなった。軽く黙礼して下甲板に急いだが、おそらく伊号366潜水艦も、これと同じ状況で沈められたと思われる。かくしてわれわれがともに苦労し、ともに戦った伊号366潜水艦は永遠に還ってこなくなった。感無量である。

しばらくして、LSTのエンジンの振動が伝わり、動きだしたらしい。米兵がきて、ベラベラとしゃべりながら、われわれの持ち物、とくに腕時計や軍刀をとり上げていった。戦に敗れたとはいえ残念である。英語の堪能なある先任将校が、米軍の将校にかけ合いに行かれた。

約2時間の航海ののちエンヂンが止った。ランプゲートのドア(LSTの艦首にある上陸用の扉)が開かれた。・LSTは艦首を砂浜にのし上げ、ドアの桟橋がかけられていた。

場所は佐世保駅のすぐ裏側だったと記憶する。われわれはつぎつぎと下船した。下船直前に、先程没収された腕時計や軍刀は返却された。おそらく米軍将校にかけ合われた結果、没収した米兵は叱られ、返却するということになったのだろう。

終戦後、戦争に関係ある資料等は焼却するよう指示され、田舎でも米軍が来て、証拠となる軍刀をもし持っていたら、戦犯に問われるとのデマがとんだため、持って帰った資料等も殆んど焼却してしまい、一つだけ残していた軍歴表をもとに、思い出すままに記述したので、不備な点が多いがお許しを乞いたい。

パガン島輸送作戦、トラック及びメレヨン島輸送作戦、及び沖縄作戦において、われわれが死を覚悟しながら戦い、いずれも作戦目的を達成し、戦果を収めさせてくれた潜水艦。われわれがここを戦い場所と定め、男らしく戦死したい、死なばもろ共と苦楽をともにした伊号366潜水艦は、昭和21年4月1日、長崎沖(五島沖ともいえよう)において、その一生を終了した。

(なにわ会ニュース72号 平成7年3月掲載)

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