伊361潜(轟隊)回天の戦闘
小灘 利春
平成18年 4月
昭和二十年五月末、伊三六潜、伊一六五潜、伊三六一潜及び伊三六三潜四隻の潜水艦で回天特別攻撃隊轟隊が編成され、天武隊、振武隊に続いて洋上を航行中の輸送船団を目標として出撃し、米軍の補給路の上で行動した。
伊号第三六一潜水艦は昭和十九年五月に輸送潜水艦丁型の第一艦として竣工し、最初にウエーク島への兵器、食料の輸送に三航海、連続して従事した。
二一年二月七日から横須賀で回天搭載装置の工事を開始、同時に艦首に魚雷発射管二本を装備した。大津島の搭乗員が乗艦し、同艦は轟隊では最初の五月二四日に光基地から出撃して沖縄東方四〇〇浬の水域に向かった。
伊三六一潜の艦長は松浦正治少佐。
回天搭乗員は
小林富三雄中尉(海軍機開学校54期 三重県)
金井行雄一等飛行兵曹(13期予科練 群馬県)
斉藤達雄一等飛行兵曹(同 茨城県)
田辺晋一一等飛行兵曹(同 千葉県)
岩崎静也一等飛行兵曹(同 北海道)
であった。
下士官搭乗員達は何れも昭和十九年九月に大津島に着任した最初の予科練出身の回天搭乗員となった土浦航空隊一〇〇名の組であり、小林中尉は最初から出撃まで搭乗員分隊の分隊士を勤めていたと言う緊密な間柄である。
潜水艦の乗員は出撃回天整備員五名を含めて合計八十一名であった。
伊三六一潜は大津島の回天搭乗員で編成され、爆装した回天を搭載して五月二十三日、大津島から出撃の予定であった。
しかしB29爆撃機が飛来して、大津島付近の海域に機雷を投下した懸念があった為、呉工廠を出た伊三六一潜は光ヘ入港した。よって搭乗員、整備員は五月二十四日朝に大津島から移動して特攻戦隊本部のある光基地で壮行式を挙行、同日光から出撃した。
殆んどの資料が二三日の出撃としているのは誤りである。彼等が「第六艦隊司令部附」を発令された日付も二四日になっている。同檻は出撃以後連絡なく消息不明となった。その状況もこれ迄明かには伝えられていない。
護衛空母「アンジオ」七八〇〇トンは三座の雷撃機TBM十二機及びレーダー装備の単座戦闘機グラマンFM十二機からなるVC13飛行隊を載せて沖縄東方洋上で対潜水艦掃討の任務に就いていた。五月三一日、機長ストパル海軍中尉が操縦するTBM「グラマン・アヴェンジャー」雷撃機は五時間半にわたる捜索飛行の最後のコースを飛んでいた時〇四三六、機銃員がレーダー面上に機首の右二五度、距離六浬の所に輝点を見つけた。画面に写っていた驟雨や雲よりも確実な反応であった。
機長はそれまで〇四〇度の針路で飛行していたが、ゆっくりと右に旋回し、機首が約一三五度に向いた時、距離三・五浬にあったレーダーの輝点が消失した。続いて半周したとき、輝点が右腕前方六浬に再び現れたが、四浬に近付くとまたもや消えた。機の針路は一八〇度であった。
逆に左廻りにおおきく旋回して、針路二四〇度を向いたとき、真正面の距離三浬に輝点が再度出現した。旋回を続けている間に高度が下がって、雲底六百米の積雲の下へ出た。機の針路三三五度。丁度正面の距離三浬に全浮上した潜水艦を発見、約十二ノットの速力で航走中、その針路一五〇度。反航する態勢になった。
時刻は日出の三六分前の〇四四六であり、薄命の中で見た潜水艦は艦体が黒色で、大きさは護衛駆逐艦程と機長は判断した。
艦橋は前方へ拡がっている様に見え、備砲はなかった。天候曇りで、雲量六、視界一〇浬、北西の風四米であった。ストパル機長は旋回して潜水艦の左舷真横のロケット弾攻撃を加える射点に就き、〇四四八、降下角度二〇度で翼下に搭載した四発を発射した。
最初のロケット弾二発は直線距離四五〇米で、次の二発は二三〇米であった。あとの二発が、潜水艦の艦橋の六米手前の海面に着弾するのを電信員が目撃している。左へ旋回中、機長は潜水艦が潜航し始めるのを見た。彼は接近して「二四型機雷」を投下しようとしたが失敗した。
発射スイッチを「ロケット弾」から「爆弾/魚雷」に切り替えるのを忘れていたからである。
雷撃機が増水艦の上を通り過ぎた時、艦橋はまだ海面上にあったが、六〇秒後には波間に見えなくなり、機がもう一度左へ旋回して戻ってきた時は、潜没した後の渦がクッキリと見えていた。機長は手動の緊急投下装置を使って爆弾倉の「二四型機雷」を渦の六〇米前方に投下した。投下時刻〇四五二、機の針路二五度、速力一三〇ノット、高度七五米であった。聴音ブイ六個全部を機雷に次いで連続投下した。全てが正常に作動し、多数のブイから音が聞こえた。その一つからはっきりした推進機音が聞こえた。機雷投下の約四分後、電信員はいきなり、激しい音を聞いた。蒸気が噴出する毎にその音は大きくなり、電信員がイヤホンを頭から外したほどであった。時刻は〇四五六であった。
その音響は始まってから約三〇秒後に小さくなり、代わって「石油缶を潰す様な破壊音」が起こった。
この後、小さな空気が抜ける音が続いたが、その後聴音ブイには微細な音だけしか入らなくなった。
他の捜索機は交戦地点から約二浬離れて居たが、聴音ブイが発信する爆発音を聞いた。
約一五浬の距離にいた護衛駆逐艦からも、激しい衝撃を感じたと報告があった。
ストパル機は〇五〇〇現場を離れ、交替した飛行隊長ウィリアムズ大尉が同機が投下した六本及び別の二本の懐音ブイからの発信を後四時間、ひっきりなしに聴いた。しかし変化は無かった。〇五二二の日の出の直ぐ後、海面に油が見えた。油の浮上は続き、かなり大きな油膜を形成した。油膜の広さは観測の度に大きくなり、〇九〇〇油膜の大きさほ概略長さ約四キロ幅約三百米に拡がっていた。護衛駆逐艦二隻が交戦現場に到着して捜索を開始、重油の油膜の中心に入って潜水艦を撃沈した証拠物件を拾い揚げた。木甲板の破片、ニス塗り及びペンキ塗りの木片、コルク片、麦藁、蝋燭、日本文字を捺印した真空管入りの小箱、日本語が書かれた紙などであった。
交戦地点は北緯二二度二二分、東経一三四度〇九分であった。
母艦「アンジオ」では、帰った乗員三名を一人づつ呼び出して日本潜水艦の写真を見せ、彼等が攻撃した潜水艦はどれかと訊ねたが、三人共「伊一六一潜」であると、ためらう事無く指摘した。しかし、海大四型の伊六一潜は海戦直前に事故で沈没しており、昭和十七年五月にそれらが番号を付け替えた「伊一六一潜」なるものは存在しない。米海軍の写真集作成者のミスであろう。同形艦はすべてが既に戦没していて、類似の「海大五型」なども、当時行動出来たものは伊一六五潜のみであるが、同艦も轟隊で六月十五日に出撃してマリアナ東方を行動し、六月二十七日に沈んだ。いずれにしても、伊三六一潜はこれらとは艦形がかなり違うので、三人の艦型識別能力には疑問があるものの、艦砲を持っていない事まで認識しており、日出が近い薄明時に艦の真横から頭上を低空で通過しているのであるから、若し回天を積んでいれば当然に気付いた筈である。
搭載回天五基が既に発進を終えていた可能性は否定出来ないと思われる。
五月二十四日に光基地を出撃した伊三六一潜が交戦地点までは直航距離で約七三〇浬であり、この航程であれば同艦は余裕をもって到着し、上記交戦までに回天を発進させる機会があったと思われる。ただ、当時この水域を航行した米軍輸送船団などについての調査はまだ済んでいない。
同艦の目的海域は沖縄の東方的四〇〇浬であって、交戦地点の緯度「北緯二二度二二分」は略予定通りである。
それを、内外の各種の記録の殆どが北緯二〇度二二分としており、一部記事が「伊三六一潜は指示水域に到着後、予定地点より遥か南に急速移動した」としているのは緯度二度のミスによる誤判断であろう。正しくは、攻撃した雷撃機の戦闘報告書にある通り、北緯二二度二二分である。
又、交戦の日付を五月三〇日とするものが多いが、事実は三一日である。
出撃の日付もさる事ながら、交戦の地点、日付共に誤った記述が多い事に注意を要する。
(小灘利春HPより)