伊36潜(天武隊)の回天の戦闘
小灘 利春
平成17年10月
回天が攻撃する対象は当初の菊水隊・金剛隊の頃、敵の前進根拠地の中で停泊してる敵主力の大きな軍艦、空母と戦艦であった。続く千早隊、多々艮隊では敵艦隊が侵攻してきた交戦水域で碇泊、漂泊、或いは遊弋している有力艦船を目標にした。しかし、警戒が厳重なこれら水域に投入された潜水艦は、回天搭載艦であろうとなかろうと、出撃したまま帰らない割合が高くなった。
回天を積んだ菊水隊の三隻のうち一隻、金剛隊で六隻の中の一隻、千早隊では三隻中の二隻、多々艮隊では四隻のうち二隻を喪失すると言う大きな損害を出した。
しかも千早隊、多々艮隊は、共に未帰還の艦からは消息がなく、帰還した潜水艦も戦果が皆無であって、回天を発進させる機会を掴む事さえ出来なかった。
それ程に米軍は対潜水艦防御の能力を質、量とも格段に強化させている一方で、日本側は事態の変化を把握せず、採るべき対応策が潜水艦の装備、用兵の両面とも立ち遅れていた。回天が航行艦を襲撃する研究と訓練は、かなり早い段階から、大津島の基地で進められていたが、
多々艮隊の出撃前に於いても海軍上層部はその能力を評価せず、従来の局地攻撃の方が確実であり、効果も大きいと判断して、これを命令した。
しかし現実に潜水艦を沖縄周辺の戦場に投入すると、集結した敵艦隊へ接近する事自体が極めて困難な事を、第六艦隊司令部は改めて認識せざるを得なかった。
多々艮隊の行動期間の後半に作戦を変更して、沖縄の水域を離れて太平洋側で、洋上の敵の補給線上に出て回天戦を実施するよう指示した。
帰還出来た伊五八潜は、太平洋へ迂回したものの、攻撃の機会がないうちに帰投命令を受けて引き揚げた。
伊四七潜も出撃直後に甚大な損傷を受けて引返していた。
ここで、泊地や交戦水域を離れ、広い洋上を航行中の敵艦船を攻撃すべきであるとの主張が力を持って、第六艦隊司令部は潜水艦二隻だけを試験的にこの戦法に投入する事を四月十六日に決定した。
この様な経緯で、歴戦の伊号第三六潜水艦、伊号第四七潜水艦の二艦が選ばれて回天特攻・天武隊が編成された。
伊三六潜は昭和二十年四月二十二日、回天六基を搭載して光基地を出撃し、徳山に寄港して燃料、清水を搭載し沖縄東方水域を目指した。
同艦に与えられた任務は、沖縄本島とサイパンを結ぶ線の中間海域に在って、米軍補給ラインを攻撃する事であった。艦長は菅昌徹昭少佐。回天搭乗員は
八木悌二中尉(機関学校54期、熊本県)
久家 稔少尉(兵科四期予備士官、大阪商大、大阪府)
安部英雄二等飛行兵曹(甲飛13期出身下士官、北海道)
松田光雄二等飛行兵曹(同、茨城県)
海老原清三郎二等飛行兵曹(同、東京都)
野村栄達二等飛行兵曹(同、東京都) の六名であった。
この出撃の前、交通筒を全ての回天に装備し、随時発進が可能となっていた。伊三六潜は敵の制空権の下で、昼夜を問わず敵機が飛来する都度、潜航を強いられながら南下を続け、漸く四月二十六日夜、沖縄とサイパンを結ぶ線上、沖大東島の北東海面に到着した。
翌二十七日の夜明け前の〇五四〇頃、伊三六潜が待敵の態勢に移る為潜航しようとした時、南方の水平線上に
沖縄に向かう敵の大船団を発見して直ちに潜入、艦長は魚雷戦用意と回天戦用意を命令した。六基の回天全部に発進用意を命じたが、二基は故障であった。船団は四列縦隊の約三十隻であった。数隻の駆逐艦らしい護衛艦艇の速力は十ノットくらいと艦長は見たが、船団の速力を九ノットと観測した。次第に近付いて来たものの、魚雷発射距離まで船団が接近してくる見込みがないと判断して、艦長は回天だけで攻撃する事に決定した。方位角右五十度、距離七千米の好射点に着き、各艇に進出針路と進出速力二十ノットでの航走秒時、浮上した時見える筈の目標の方向、予想態勢を指示し、〇七四五頃、発進を開始した。八木艇、松田艇、安部艇、海老原艇の順に、四基が一分間隔で次々と発進していった。
天候は晴で、海上は平穏、視界は艮好であった。護衛艦艇が接近してきたので、伊三六潜は深度四〇米に潜入した。あと、大爆発音と艦体に響く程の震動が伝わってきて、計四回の爆発音を聴いた。
艦長は、各艇が順調な機械音を残して走り去ってから長い時間が経った様に感じていたが、後で発進後十分過ぎの事と聞かされた。
夜に入って「米艦船を四隻撃沈した」との戦闘速報を第六艦隊に打電、折り返し帰投命令を受けた。伊三六潜は内地に向かい、四月三十日光に帰遺して、甲板上に残った回天二基と搭乗員・整備員を基地に戻し、五月一日呉に帰着して第六艦隊司令部へ状況を詳細に報告した。
二十七日、伊三六潜が遭遇した敵輸送船団は、サイパンから沖縄に向かっていた戦車揚陸艦LST 、及び中形揚陸艇LSM等の上陸用艦艇の、五縦列編成三〇隻以上の大集団であった。
戦車揚陸艦の速力は九ノットであり、船団はこれに合わせて航行した。船団の基軸は第三縦列であって、その先頭艦のLSTの前に位置して、船団全体を先導していたのは高速輸送艦「リングネスl であった。同艦は速力十一ノットで戦車揚陸艇の速力に合わせて針路を左右に頻繁に変えながら、基準針路二九七度で航行を続けた。
ソナーは常時使用し、左右九十度の範囲の対潜水艦音音響探査を実施した。船団は之字運動を行わなかった。
高速輸送艦は護衛駆逐艦の汽罐(ボイラー)の数を減らして貨物倉に改装した艦型であり、排水量一四五〇トン。
主砲の五吋砲は一門だけであるが、四〇ミリ連装機銃三基、二〇ミリ機銃六挺を装備した。速力はやや低く、最大二四ノットであった。LSTは満載排水量三八八〇トン、LSMは一〇九五dである。
日本時間の〇八二三、「リングネス」の艦橋見張員が右舷後方距離約千米に浮上する「潜水艦又は魚雷」を発見して当直将校に報告した。
最初は鯨かと思われたが、一分後に、明らかに「魚雷」の航跡が「リングネス」の艦尾のわずか十五米程後方を
走り過ぎていった。魚雷は海面下を一直線に走り、同艦を約千米通りすぎたのち右に四五度程急激に変針して疾走を終えた様に見えた。直ちに総員が戦闘配置に着き、船団の全艦船に「潜水艦と魚雷に警戒せよ」と警報を送った。その直後〇八二五、潜望鏡を左後方、距離三百米に発見、「潜水艦」が潜望鏡を海面に現わし飛沫を上げた。
速力は十〜十二ノットという、潜水艦にしては異常に高速の様に思われた。直ちに機銃が射撃を開始、主砲も火を噴いて、弾丸が潜望鏡の周囲に、雨の様に落下する中で、潜水艦は潜入した。「リングネス」は取り舵一杯で左転し、潜水艦の推定位置に向首した所、「二本目の魚雷」が前方から急接近して、艦首から七米以内の僅か前を通過して行った。魚雷の気泡は全く見えず、ただ海中に青く白い航跡だけがはっきりと見えた。この魚雷は極めて直線的に航走し、最後まで直進して見えなくなった。
「リングネス」は「潜水艦」の潜入した場所と「魚雷」の航跡から、潜水艦の伏在位置を推定して、面舵一杯で艦首をそこへ向け、投下時期を見積もって〇八二八頃、爆雷四個を投射した。潜水艦の深度を浅いと判断して、起爆深度は十五米、二三米、十五米、二三米に調定し、この順に発射した。あと速力を落してソナーで探索に努めたがソナーには最初から終り迄、全く反応がなく、何も探知出来なかった。そのうち爆雷が爆発した箇所の波が収まった水面を、油膜が浮いてきたと思って、その周囲を広く探索しているうち、突如として大爆発が起こった。海水が六〇米もの高さに、柱の様に噴き上がった。
時刻は爆雷投射の十七分後の〇八四五である。「リングネス」は「潜水艦が水中で爆発した」と判断して短艇を下ろし、浮遊している筈の破片を探し集めようとして作業を始めた。何も見つからないうちに、輸送船団の指揮官から「直ちに最大速力で船団に戻り、護衛任務に復帰せよ」と命令が来て、短艇を揚収して全速で船団に合流し、哨戒配備の位置に就いた。本戦闘の地点は北緯二四度〇七分、東経一三二度三九分。沖大東島の東南東約三〇浬になる。北の微風があったが、海上は異常な程に静穏であったと記録している。
四月二十七日 〇七四五頃に発進した回天は水中速力二〇ノットで接近し、距離七千米を約十二分で走る。一挙に命中すれば、艦長が知らされた通りのほぼ十分後の命中になる筈であるが、伊三六潜が聴いた「四発の回天命中の爆発音」とは〇八二八頃に「リングネス」が投射した爆雷四発の爆発音である。船団の中で「潜水艦」を攻撃したのは同艦だけであり、大型駆逐艦「ファラガット」は付近で観戦していたが、両艦ほかどの艦も爆雷投射の前には何の爆発も見ていないからである。そうなると、「命中の爆発音」実は爆雷は発進から約四三分後であった事になる。
伊三六潜の乗員の一人は日記に「〇七四五、無事発進。〇八二五、爆発音、四発。世紀の大轟音、艦内に響き渡る」と記銀していた。
そして「〇九一〇、誘爆音らしい一発」と記している。伊三六潜が回天の命中と思った爆発は、予想した約一〇分の経過時間ではなかった。また回天が自爆した〇八四五の爆発音は誘爆音とし、時刻も違っている。約一時間後の自爆であるが、回天が洋上で突撃を繰り返す場合、大体一時間前後で航続力が切れる。そうなって戦士は、敵に近い所でと、一気に自爆したものと推察される。
「リングネス」が投射した爆雷四発は一斉爆発ではなかったから、伊三六滴側は個々の回天の爆発と判断したのであろう。そして発進した回天の全部が戦果を挙げたと喜び、しかも自艦は爆雷攻撃も受けないので、一方的な勝利と決め込んでいた様である。
米側は日本の潜水艦が少なくとも二隻いて、夫々別な場所から「リングネス」を狙って魚雷を発射したと信じている。その潜水艦の一隻を同艦が爆雷攻撃で撃沈、後の潜水艦は見失ったと報告しているが、同艦が見た「潜水艦」も二本の、別々の方角から来た魚雷」も、全てが一基の回天である事に、気付かなかった。まさか、魚雷に潜望鏡が着いていたとは、夢にも思わなかったであろう。
○ 同日の米海軍の被害
この四月二十七日、米軍輸送艦「カナダ・ビクトリー」が沈没した。満載排水量一〇八五〇トンの性能向上型戦時標準船である。同日に発進した回天は伊三六潜の四基だけであるから、一部の外国刊行の戦記は伊三六潜の回天が撃沈したと記述している。しかし艦長が提出した戦闘詳報を調べると、これは航空特攻の戦果であった。
又同型の輸送船「ボーズマン・ビクトリー」も同日、損傷を被って「人間魚雷の攻撃により損傷」と報告し、公式に記録されている。しかし米側の詳細な資料から見ると、日本陸軍又は海軍の水上特攻艇の肉弾攻撃によるものであろう。共に日付がたまたま合っている為に、伊三六潜の回天が挙げた戦果と推定されたものであろうが、
両船共場所が沖縄本島の至近であり、残念ながら回天が攻撃したものではない。駆逐艦「リングゴールド」も同日、回天と戦闘したと記述する戦記があるが、この日は同艦は全く別な場所にいた。艦名が似ているための錯覚であろう。
○哨戒船「シオ」の潜航艇攻撃
米海軍の大型、中型の艦隊随伴タンカー数隻が護衛空母「サラモア」と駆逐艦群の護衛を受けて、サイパンと沖縄の航路の中間で遊形弋し、機動部隊への燃料補給と対潜警戒に当たっていた。大型航洋曳船「シオ」 一六四六トンは五月三日、ウルシー泊地を出て、護衛艦艇の一員として対潜哨戒任務に就いていた。三吋砲一門と、四〇粍連装機銃二基、二〇粍単装機銃二艇を装備し、速力十四ノットである。
五月十四日、護衛空母の哨戒機が海面上に浮かぶ航空機の補助燃料タンクを発見して報告した。「シオ」がその物体を銃撃処分する様命令を受けて現場に向かい、潜航艇をそこで発見した。潜航艇は水面上に僅かに浮いており、うねりに乗った時に姿が見えるが、完全に停止した状態であった。攻撃されると思って「シオ」は距離を二二〇米とって、四〇粍連装機銃で一四〇二、射撃を開始した。弾丸五二発を発射し、五発の命中を確認した。潜航艇は爆発する事なく、水平を保ったままで静かに沈んでいった。泡が僅かに浮いたが、油も破片も見えなかった。潜航艇の長さは約十五米で頭部は魚雷の形であった。
潜望鏡を上げており、司令塔はないが、ハッチが付いて居た、と報告して居る。紛れもなく、これは回天である。しかも長い間、海上を浮遊して居たのであろう、海草が付着して褐色になって居たと言う。位置はさきの「リングネス」の交戦地点に近い北緯二四度〇三分、東経一三二度三九分であった。伊三六潜の回天が発進してから十七日後の事である。地点とこれらの状況から見て、この回天が四月二十七日、伊三六薄から発進し、敵船団に突進を繰り返して、ついに命中出来なかったのであろう。
搭乗員は回天を停め、敵が近付けば機械を発動して、冷走ながら最後の突撃で体当りしようと、待ち続けるうち、
搭乗員の生命が尽きたものと想像される。上記の二基の他は、付近の水域での回天との米軍艦船の交戦記録や損害報告は、目下の所発見されていない。
この九ノットと言う艦長が判定した通りの低速で、直進している目標に対して、四基の回天が繰り返し突撃して、一基も命中しないとは、ある筈もない事である。
伊三六潜水艦長が爆発音を四回聴いて、全基命中と確信して報告したのは当然と言える。伊三六潜から〇七四五頃に発進した回天は、遅くとも〇八〇〇頃には船団に突入したと思われるが、この頃、船団側に異変が見られないのは、各回天が正確に目標に命中しても、全てが艦底を通過してしまったのであろう。回天の搭乗員は「輸送船」を攻撃する様命令を受けていた。
平穏な海上でこの速力の直進目標を攻撃する事は、平素繰り返していた訓練通りの状況であるから間違いなく命中するであろう。それが、反復突撃でも爆発して居ないのは、相手の吃水への対応が全て、誤って居た為と判断せざるを得ない。そのようになる理由があった。
米軍が上陸部隊に膨大な兵器、弾薬、資材などを補給するには、通常の輸送船ならば、交戦場所で長時間かけて荷役作業を続ける事になり、危険である。しかも硫黄島でも、沖縄でも、港湾施設は皆無、或いは既存の施設を米軍が艦砲射撃と爆撃で破壊し尽くしていた。
それで米軍は、砂浜にのし上げて、前扉を開けて荷役する上陸用舟艇型の各種輸送艦を主用した。いずれもそのため、平底であって、吃水は見掛けの艦の大きさから感じるよりずっと浅い。特に艦首の吃水が浅くしてある。
戦車揚陸艦LSTは満載状態でも吃水は艦首二・四米、艦尾四・四米。貨物がない状態では艦首吃水は僅かに〇・七米の、すっかり浮き上がった状態になる。LSMは満載状態でも平均吃水が二.二一米に過ぎない。
「リングネス」を攻撃した回天は、発進から約四〇分後の〇八二四に突撃をした。
「輸送船より軍艦と戦いたい」との思想から、最初に護衛艦艇を狙ったのではなく、恐らくその前にLSTやLSMへ何度か突撃を重ねた揚げ句に、眼前に現れた目標であったと思われる。駆逐艦など警戒艦艇は運動性能がよく、しかも随時大幅な変針、変速をする。見張り態勢もかなり艮い。回天が攻撃する対象として、好ましい相手ではない。護衛駆逐艦などが吃水が浅いことも、搭乗員は知らなかったであろう。この場合は目標を「輸送船」に限定して、深度を極力浅くしてでも、命中爆発を第一にすべきであった。命中深度が浅くても、轟沈は間違いないのである。
「回天の深度」は艇の下面の深さであるから、深度を三米にとれば、直径一米の回天の上面は二米の深さになって、速力がやや落ちるが、深度三米でも浮力調整さえ艮ければ、回天は全速で安定航走が出来た。回天の搭乗員は、目標が軍艦であれば艦種別の吃水を承知しており、適切な突撃深度を選択出来るが、輸送船になると吃水についての知識が十分ではなく、さらにその吃水が積み荷の状態で大きく変化することなど、知らなかった。
搭乗員は平素の操縦訓練では深度五米、或いはそれ以上の深度を常用して居たので、相手の吃水に強い認識がなければ、慣れた深度を無意識のうちにとったであろうと想像される。
「輸送船」とはどんなものか。又その頃、米軍が戦場で使って居る輸送船はどんな様式なのか。
日本海軍の軍人は一般に商船について関心が薄く、知識が乏しい傾向があったが「これからは、輸送船を狙え」と命令した第六艦隊の参謀さえも、その前提となる筈の輸送船の船型、性能、特に吃水については、知識も、調べようとする意欲もなかった様である。実際に、生命を捨てる攻撃に向かう回天の搭乗員に対して、輸送船攻撃の要点について指示注意した形跡がない。古手の搭乗員である私自身、知らなかった。「ああ、堂々の輸送船」と言う当時の歌の文句に釣られて、総トン数が数千トン級から一万トン以上の、満載吃水が六〜八米はある貨物船のイメージしか浮かばなかった様に思われる。
「軍艦でなければ商船」程度の、大雑把な概念にとどまって、米軍が小型で、吃水の浅いLSTを一千隻も建造し、
大部分を太平洋の前線に投入して輸送の中心に置いていたとは、考えもしなかったであろう。春秋時代の中国最古の兵書「孫子」以来、「敵を知らず、己を知らないものは必ず負ける」の戒めがある。
このあと、洋上の航行艦攻撃に出撃した回天隊が遭遇した敵の輸送船団は、大部分がやはり、LSTの群であった。
そして「魚雷が艦底を通過した」と報告したLSTがやはり何隻も出た。致命的な誤りでも、気が付かない限りは、何度も繰り返すことになる。
(小灘利春HPより)