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伊159潜(神州隊)回天の出撃

小灘 利春

平成17年11月10日

伊号第一五九潜水艦は昭和五年に建造され、排水量一六三五トン。既に艦齢が高くなり、性能も低下しているため、昭和一七年七月以降は潜水学校の練習潜水艦となり瀬戸内海で行動していたが、二〇年四月以降は回天を積載する設備を施して、瀬戸内海西部こある各訓練基地から九州、四国の沿岸の陸上基地回天隊へ回天を潜航輸送する任務に就いた。

同様の輸送任務に従事したのは伊一五五潜、伊一五六潜、伊一一五七潜、伊一五八潜、伊一六二潜であり、毎航海回天二基ずつを積載した。

しかし、各艦は戦局の急迫に伴って順次、回天搭載の作戦潜水艦に切り替えられ、先ず伊一五九潜が八月はじめに編成された回天特別攻撃隊「神洲隊」の一艦となって、平生基地で回天二基を搭載し八月一六日に出撃することが八月六日前後に決定した。

艦長      三宅辰夫大尉

回天搭乗員 斉藤 正少尉 四期予備士官  宮城県

   今田新三一飛曹 十三期予科練 大阪府

八月六日には広島に原子爆弾が投下された。九日に突如ソ連が参戦したので、回天の搭乗員たちは米国艦船を攻撃する訓練をしていたのであるが、このソ連参戦によって急遽、同艦は日本海に向かい「ウラジホストック」のソ連艦船を攻撃することになった。

出撃基地に回航する直前の八月一一日、伊一五九潜は整備中の呉工廠が米戦闘機P−51の空襲を受け、その際片舷主機械などが損傷した。工廠も既にたびたび被爆しており修理が間に合わず、やむなく平生にそのまま回航して、回天と搭乗員を乗せて出撃した上で日本海沿岸の舞鶴に回航し、舞鶴工廠で修理したのちにウラジホ方面へ向かうことになった。

八月十五日正午、平生基地では総員がラジオで玉音放送を聞いたが、その音声は雑音が多く聞き取り難かったので、一同は終戦とは受け取らず、予定どおり出撃することに決定した。ひとつには、後の推移に備えるにも舞鶴まで行き、主機械を修理しておく必要があった。

八月十六日昼に同艦は回天二基を搭載して出撃、豊後水道を経由して日本海へ向かった。下関海峡には当時、B29が磁気機雷を多数投下しており、通航は危険であったのでこれを避け、九州の南を廻って日本海へ向かったのであるが、若し途中で米艦船と遭遇した場合はこれを攻撃するよう指示を受けていた。平生を出撃後、豊後水道を潜航南下して一七日、大隅半島を潜望鎧で遠望出来る地点まで到達した。米艦船は終戦で撤退しており、その艦影を見なかった。

  ここで平生基地から無電で呼び戻されて反転し、一旦宮崎県の油津に入港して浮上し、甲板で機密書類を焼却した。搭乗員斉藤少尉にはその火が夕暮に赤くあざやかだったことが強い印象として残っている。一八日油津を出港、水上航行で豊後水道を北上して午後平生基地に帰着した。

伊一五九潜へ帰還命令の打電を手配したのは平生基地の特攻隊長であり、神洲隊伊三六潜で出撃する予定の橋口寛大尉であった。その橋口大尉が、終戦を迎え十八日の未明に自決を遂げた。

基地に帰還した斉藤少尉に、後追いを危惧した同基地の先任搭乗員根本 克大尉が「早まったことはするな」と昂った調子で少尉に声をかけた。

大津島基地では伊一五六潜、伊一五五潜が交通筒を整備して回天の発進訓練を重ねており、神洲隊として八月二五日頃出撃する予定であったという。

(小灘利春HPより)

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