平成28年9月28日
わが比島戦線苦闘の記
海経33期 深尾秀文 |
この度、岡野さんからのご要望により年令93才を迎えて相当呆けてきた頭の中から遠い記憶を呼び戻し「わが比島戦線苦闘の記」と題し駄文を寄せることにしました。 私は昭和19年6月8日乗組んでいた駆遂艦風雲が比島南方海面で単独作戦行動中敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて轟沈、全身油まみれになり水中爆傷による腸から出血が続くなか漂流すること約5時間、幸い僚艦に助けられて生還、横須賀で残務整理を終えるや当時既にサイパン、グアムが玉砕し次は比島に来攻必至という情勢の下、比島中部セブ島に新設された第33特別根拠地隊付を命ぜられ、昭和19年9月初め着任しました。着任の挨拶に伺った司令官からただ一言「ご苦労、君の命は俺に預けてくれ」と云われ身の引き締まる思いで退出したことをはっきり覚えています。やがて毎日のように空襲が始まり10月にはマッカーサー軍が隣のレイテ島に上陸して世紀の大決戦の火蓋が切られました。相次ぐ悲報に胸を痛めながら敵上陸に備えて陣地構築に追われ、瞬くうちに半年が過ぎた昭和20年3月26日、巡洋艦、駆遂艦数隻に護衛された輸送船10数隻の上陸部隊がやってきました。激しい空襲と艦砲射撃のため水陸作戦を避けて陣地戦を展開すること約20日、陣地の一角が崩れ出したためいよいよ明日は玉砕と覚悟していた矢先、突如4月16日夕を期して北方山岳地帯に転進せよとの命令が下されました。転進後は残念ながら常時超低空を飛ぶ観測桟の監視にさらされて砲爆撃を受けるため昼間はジャングルの樹陰、崖下、洞くつに隠れ夜間暗闇のなか前を行く者の背中の白布を頼りに道なき道をひたすら北に向けて進みましたが、4月末には北進を阻まれたため南下、以後中部山岳地帯を転々とする苦難の行動に終始しました。この間約1週間で携帯食料も尽きた後はとうもろこし、椰子の実、芋類など僅かな食料で命を繋ぎ友軍の反攻にはかない望みを託し生き延びました。かくして8月の終戦まで約4ヶ月半、砲爆撃による死傷のほか施す術もない悲惨な状況下マラリヤ、下痢、栄養失調で多くの戦友が斃れていきました。私は幾度か至近弾に見舞われながら事なきを得、また全身に深い腫瘍のできる風土病に悩まされ7月にはマラリヤにも罹りましたが何とか生き残ることができた運命の不思議さに驚かざるを得ません。 そして8月下旬山を下りて武装解除され9月初めセブからレイテ島北部の捕虜収容所に送られました。そこは一面の椰子林を切り拓いて急造された監視塔のある鉄条網に囲まれたテント張りで、陸海軍将校約3千名が入りました。支給される食事は3食とも肉片はおろか身のないスープ1杯で四六時中腹ペコのなか、時折戦犯摘発のため米軍立会いで比島婦人による首実験(全くの人違いにより戦犯と名指しされ、助命運動も空しく死刑となった在セブ航空隊の海軍中尉の例がありました)が行われたり、同一姓による戦犯嫌疑の取調べを受けたり殺伐屈辱の日々が続きました。 こうしたなか年が明けて昭和21年になると収容所内で従軍記者や陸軍将校有志により米軍の協力を得て「曙光新聞」というガリ版刷りのミニ新聞が発行されることになりました。米軍向けの新聞、短波放送、復負船がもたらす情報、遅れた日本の新聞などをニュース源に編集され1週間ごとに掲示板に貼り出されるこの新聞は情報に飢えたわれわれにとって正に干天の慈雨となり大変な人気を集めました。断片的ながら日本の空爆による惨状とともに復興に向けて少しずつ歩み始めた様子や米ソを中心にした世界情勢を垣間見ることができ、敗残の傷手から半ば茫然自失となった精神状態から次第に立ち直るきっかけともなりました。 一方待ち侘びた復員輸送は昭和20年末頃から下士官兵から始まり年が明けて将校も徐々に始まりました。私は3月末になって復員船乗船が許可されて昭和21年3月26日冷たい雨の降る浦賀に入港したときの光景は忘れることができません。 なおこの曙光新聞は昭和21年12月レイテから全員が復員後も内地で比島戦線での戦死者の慰霊、遺族の親睦、情報交換を目的として一時中断があったもののずっと発行が続けられましたが、今年一杯で廃刊されることが決まりました。これをNHKが終戦秘話として取り上げ、当時実際に新聞をみた数少ない生存者のうち元気な私を探し出して取材を申し込んできました。これに対し私が上述のような感想を述べた状況が先般NHKニュース・ウォッチ・9で放送されました。 こうして比島でのわが苦闘の跡を辿るとき、あらためてすぐ傍らで斃れていった多くの戦友の姿が浮かび哀悼の念、誠に切なるものがあり霊安かれと祈るばかりです。そしてまた昭和18年海軍3校を卒業して戦勢漸く傾き始めた戦線に加わって以来、厳しい訓練と困難な戦況下勇戦奮闘の末、国に殉じた多くのクラスの英霊に対し感謝と哀悼の意を表しそしてまた日本の将来に加護賜わらんことをお祈りするため体調の許す限り「なにわ会」靖国参拝を続けたいと念願している次第です。 以上 |