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平成22年4月16日 校正すみ

比島クラーク地区に眠る級友を偲ぶ

金枝 健三

昭和191023 捷一号作戦発動、この時、私は「クラーク」基地の一つ、中飛行場にて142空附(機種月光)の整備士として、分隊長土橋稔大尉(51期、戦死)の下で任務についていた。中飛行場の北方向「マバラカット」飛行場からは、戦史に残るあの神風特攻が初めて敵艦目がけて突撃していった時期であり、その時は知らなかったが、我が級の近藤寿男兄が、義烈隊として彗星特攻 191027日) で「レイテ」に突入した時期でもある。


 この頃の夜間戦闘機 「月光」 の任務は、夜間の敵機を遊撃するのではなく、比島東方海面での敵機動部隊の索敵、並びに250キロの爆弾を両翼に抱え、「レイテ」島「タクロバン」方面への攻撃が主任務であった。然し米軍は夜間でも次第に反撃能力を増大させ、無事帰還が次第に困難な状況になって来たのである。

191115日、私は141空から戦闘804飛行隊附となった、これが所謂空地分離と云う事で、当時第一線に居た我々には、ここら辺の事が今一つはっきりとしなかった。実際の任務は何も変らず、12月に入ると部品の調達も困難になり、ましてや内地からの空輸補給もなく、可動機は一機又一機と減ってゆき、191228日には戦闘804から851飛行隊に又々移ったが、仕事は一機でも飛べる飛行機をと云う事で、我々整備は部品のやりくり、修理に追われ苦労のみ多く成果の少ない毎日であった。

この時、比島西方の南支那海を北上中の敵機動部隊、船団を発見、この時の特攻に園田勇兄 20年1月6日突入)が居り、部下数人と共に勢い込んでこちらに向って来る搭乗員、それが園田であった。彼も急いでいた気配、私も仕事の途中、そんな状況で立話しもいいところ、「よお」「元気だ」「頑張れ」「じゃあ」と云う様な片言を交わしただけの別れとなって仕舞ったが、彼はその時、特攻の事は何も云はず、私も又それを知る由もなく、それが彼との最後となって仕舞った。

20年1月6日、「クラーク」に居る部隊は「クラーク」防衛海軍部隊 (KBKと略称)を編成、陸戦兵力として急遽「クラーク」西方山中に復廓陣地を構築し、「クラーク」基地の防衛に当る事となる。そして、その配置は別図(略)の如く北より1314151617の戦区とし、指揮は26航空戦隊の杉本少将が執る事となった。

20年1月9日、米軍「リンガエン」湾に上陸、我が陸軍部隊は之を邀撃中との報入る。陸戦部隊となった我が隊の仕事は、連日の敵襲、附近土民の「ゲリラ」等の障害はあったが、山中陣地の構築(我が隊は専ら火薬を用い山腹に横穴を掘る)、あるだけの武器、食糧の収集と陣地後方への搬入、又野営に必要な用具集め等々に追われ、この間各隊の搭乗員は陸行で「エチャゲ」「ツゲガラオ」に向い、そこから台湾、内地に行くとの事であった。

各戦区の内容は

13戦区 (「オードネル」 の南西方向)

141空、201空の半分、北比空の一部の部隊 

指揮 中村子之助大佐 141空司令)、私はこの司令に仕えた。

14戦区 (屋島、富士地区)

761空、291空の半分の部隊 

指揮 松本中佐 761空副長 生存)

木光雄兄は空地分離の前、761空附であったから、私の体験からすればこの戦区に居ったと思われる。

15戦区 (天神山、高千穂地区)

221空、北比空の一部の部隊 

指揮 宮本中佐(37警備司令)

増井吉郎兄は空地分離の前221空附であったから、この戦区に居たと思われる。

16戦区 (赤山、黄山地区)

763空、153空、北比空の一部の部隊、

指揮 佐多大佐(763空司令、生存)

17戦区 (奥山地区)

341空、北比空の一部の部隊 

指揮 舟木中佐 341空司令)

関谷年男、成瀬秋夫の2兄は空地分離の前341空であったから、この地区に。

そして、国生真三郎兄は北比空附であったが、別動隊になった模様である。

 

この1317戦区に司令部 (KBK) を中心として、約2萬人の海軍将兵が日夜陣地構築、食糧の確保に当ったのである。

然し急な陸戦隊編成の為、武器は無く飛行機搭載の機銃、爆弾を解体しての手榴弾の製作等で、武器集めには苦労をした。それに加えて、食糧が又大変で、多くの飛行隊長が捷一号作戦で、急遽内地から飛来して来た、いはば、身体一つで「クラーク」へ来たと云う部隊が多かったので、北比空に頼らざるを得ず苦労された事と思う。

この点我が141空は9月下旬には「マニラ」の「ニコルス」に進出、そして「クラーク」へ移動したので、(但し貨車輸送の食糧等は 「マニラ」 「クラーク」中間の「パンパンガ」川の鉄橋が破壊された為全部を「クラーク」搬入と云うわけにはゆかなかった) 他の部隊に比べれば少しは余裕があった。

そんなわけで、我が戦区を偶々通りかかった成瀬をみつけ、粥をご馳走して大変喜ばれた事を思い出す。彼ともそれが最後であった。当時の我が隊の食事は親指の太さの芋2本ずつ、そして夕食は粥一杯のみで、それで、日中は横穴掘りの重労働を続けるのだから体調不良者続出、風呂代りの裏山の小川での行水は「カイセン」の伝染するところとなり、栄養、衛生状態は次第に悪化していったのである。

この頃、自分も此処が死に場所になるなとの思いに至り、遺書を書いた記憶あり。そして死に対し意外に心の動揺もなく、静かに落着いて居られた事を今想い出すのである。

想えば、「カイキゴウカク」の電報を受け取り、辛かったが充実した生徒館生活、太平洋戦争勃発、緒戦の大戦果、米軍の反抗、11名の級友と共に卒業した18年9月15日、戦艦山城での候補生としての体験、追浜空での整備学生としての生活(同期30名)、そして

19年6月30  香取基地 322空附

19年7月10  141空附(共に機種月光)

19年8月    南九州鹿屋→都城(習熟訓練)

19年9月    台湾高雄→比島「ニコルス」

1910    米軍「レイテ」上陸

「ニコルス」→「クラーク」 へ移動

そして、冒頭の捷一号作戦になるのである。実戦部隊に着任してからの約半年間の目まぐるしい移動、環境の変化、そして戦況の悪化には只々与えられた使命を遂行し、最後は国の為、家族の為に死ぬのみと覚悟を定めた次第である。

20年1月15日頃 司令部より高雄からの空輸作戦が開始される。就いては各部隊は士官1名下士官10名を選抜し、台湾において新部隊を編成するとの事。我が戦闘851飛行隊も私以下11名が選ばれ、夜間着陸を誘導する為我々がその任に当る事となり、山を下り中飛行場に待機する事となった。高雄から夜間飛来した中攻は、「エンジン」も止めず、一人でも多くの人を乗せる為、荷物は駄目、身体一つと云ふ状況で直ぐ飛び立つという慌しさであった。

リンガエン湾に上陸した米軍は、予想以上の速さで陸軍の防禦線を突破、 戦車を先頭にしての南下した。

20年1月20   「タルラック」進出

20年1月24   「パンパン」進出 そして

20年1月26   「ダウ」駅進出

中飛行場にも姿を見せたが、陸軍が之を撃退する。

そして当26日の夜間着陸が台湾高雄からの空輸作戦の最後となったのである。翌27日も高雄からの空輸作戦は続行されたが、中飛行場は米軍の占拠するところとなり、「マニラ」の「ニコルス」に着陸を変更したとの事である。我々851飛行隊の11名も高橋中佐(141空副長)と共に、この最後の便にて高雄に帰れた次第である。

高雄に着いて先ず会ったのが小暮新八。彼は私の栄養失調、意気喪失の姿を見て「どうした、元気を出せ」と云って呉れた言葉に感謝している。この一言で自分でも「ハッ」と目が覚めた思いがしたのである。命令とは云え、敵に背中を見せた卑劣さ、そして多くの上官部下を置き去りにして台湾に戻った、この何ともやり切れぬ申し訳なさ……。何時までも心に残る痛恨事である。

最後になったが、実はこの記事を書く前に、クラスの室井の計らいで平成3年2月頃、「マニラ」「クラーク」基地に行く計画が実現直前まで進んだのであるが、比国の政情不安に加えて、突然始まった湾岸戦争の為、当分延期となった事は残念であった。

機会を待って彼の地を訪ね、そこに眠る青木、菊地、国生、関谷、成瀬、堀、増井、松山、山崎、そして搭乗員の岸昭諸兄の霊に合掌したい気持で一杯である。出来得れば遺族の方の同行があれば、尚喜んでくれる事であらう。

そして更にもう一言。表記題名に反し、菊地、関谷、堀、松山、山崎、そして岸の事に関し何も書けなかった。且つ自分の事を専ら書いた形になって仕舞ったが、当時私が「クラーク」で体験し想った事は、亡き級友も体験し思った事(おこがましい言い方かもしれぬが)であろうと信じ、自分のことを書き綴った次第である。

追記

文中、小生の記憶違いの箇所もあらうかと思いますが、予めお詫び申上げ、出来得れば御指摘戴ければ幸甚と存じます。

(機関記念誌116頁)

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