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平成22年4月23日 校正すみ

兵器学生の実態

           山本 省吾

 

 はじめに

 去る510日、私たち兵器学生(正式には兵器整備学生)出身者の最後の全国大会を京都で開催した。兵器学生は18年6月に初めて第1期生(おもに71期)が入校し、4期まで(しかも4期の74期生は在学中に終戦)の短い期間で、現存者は全員でも約80名、その内、われら2期生の(兵)72期は18名の入学生のうち、生存者は溝井、樋口輝喜(現在療養中)山本、コレスでは(機)片山、飯塚のみとなった。

 当日、2期生は樋口を除く4名全員が出席し、本当に久し振りで旧交を温めたが、クラスの人々でも殆ど知らない兵器学生の実態を残しておこうと、古い記憶を辿りながら筆をとることにした。

 他の諸兄のように華々しい戦闘場面に参加することもなく、次世代に備えて地道に黙々と勤務し、また比島山中や南方海域で志半ばにして散華したクラス・メートのいることを少しでも知ってもらえば幸いである。

 

 入校

18年9月、卒業式後、航空隊組は練習艦隊に参加することなく、直ちに霞ヶ浦空に送られ、赤とんぼで発着訓練に明け暮れした。単独飛行が終わった10月下旬、最後の適性検査により次の配属が決められたが、数名の者は「新らしく出来た兵器学生として洲ノ崎航空隊に転属」と宣告された。とはいえ、洲ノ崎空といっても、具体的な面では教官もご存じなく、やっと場所は舘山空の裏にあることがわかった。

 ただ、指名を受けた者たちは、大部分のクラスの者が直接、戦闘に参加できる訓練部隊に転出するのに、まだ学生として勉強を続けるように命ぜられ、なんとなく落ち込みながら着任した。

 その後、練習艦隊勤務を終わった艦船組の諸兄も加わり、11月1日より、2期の兵器学生が結成された。

 72期からは伍長3人を含む18人、その他、機53期5人、70期1人、71期2人、短現技術中尉2人の構成である。

 洲ノ崎航空隊といっても誰も知らないのは当然で僅か5ヶ月前に兵器整備専門に設けられた練習航空隊で、開隊と同時に71期生を中心とした20名の1期生が既に隣の学生舎で学んでおり、その他射撃.爆撃兵器専門の予備学生、高等科練習生、普通科練習生が向かい側の兵舎で同様に特修していた。

 私たち2期生入校の挨拶に当たり、司令・副長より訓示があり、初めてその目的や内容が説明された。

 

(1) 開戦後、戦争の内容は航空機が主体に変わりつつあるが、実際の状況は彼我の航空機の数量もさることながら兵装には大きな格差がある。現在、新鋭航空機やそれに搭載する新兵器を開発中であるが、兵器についてはそれらを運用・管理・指導する兵科将校がいない。諸氏がその先駆者となるのである。

(2) 現在の航空隊組織では機銃、爆弾、電波探知機、偵察写真機、爆撃照準機、航空魚雷等、所管部署が異なっているが、航空兵器全般を統括する部署を創設し、急遽、全部隊に拡充していきたい。

との要旨であった。

 ここにおいて、全員は初めてその主旨を知り、パイオニアとして決意を新たにし学生過程の第1歩を踏み出したのである。

 

 教育内容

大別すると座学(普通学・軍事学)実習(実技、訓練)見学(試作、生産現場)である。

一番参ったのは午前の普通学で基礎理論から始められた。電探用の無線理論や配線図、○○の法則等、光学機器用の球面三角函数や微積分数式、火薬などに関係する成分などは亀の甲に原子記号が並ぶ有機化学の方程式を次々と詰め込まれた。

午後の軍事学は現用、試作中のあらゆる航空兵器の種類、性能、用途等多岐に亘って教えられた。更に引き続いての実習では機銃等の分解、組立から装着、実際に練習機上での機銃発射、偵察写真から爆撃訓練、魚雷調整等々、教員の指導で一通りは全て体験した。全く兵学校教育の延長で(一日の授業時間はそれ以上)休日は日曜のみで勿論外泊や遊興は禁止である。

楽しみは横須賀航空隊に隣接した分遣隊での宿泊訓練であった。すぐ横の航空技術廠に出掛けて、次々と試作されている航空機やその兵装、能力についての講義を受け実際に見学し、これらが一日も早く戦場で活躍することを思って胸を躍らせた。また教官引率のもとに電探、真空管や機銃、爆弾、写真、照準器等を生産している工廠や民間軍需工場の現場状況の見学に出掛けたこともある。この時ばかりは生産過程にいる若い女子挺身隊の女学生に目を奪われ工場幹部の説明は全く上の空であった。

 まさに兵学校同様、「長たる者は、原理は勿論、いざという時には自分が使いこなせなくては駄目だ。」との思想で短期間に徹底的に教え込まれた。

(今になって思えば、日米の戦局が転換し、厳しい状況下、初級将校が不足している間に、よく10ヶ月間も基礎勉強に専念させてもらったことに感謝している。)

 

4、卒業・配置

慌しくも楽しい10ヶ月はあっという間に過ぎ、19年8月30日に卒業、恩賜の銀時計は戦死した森山君が頂いたと記憶している。

72期の配置先は

 後輩教育の教官及び電探専修学生  7名

 実施部隊配属           11     

であったが、実施部隊配属のうち6名は戦死し、不帰の客となった。

 

5、部隊配置

実施部隊配属者は当時まだ少尉であったにもかかわらず、兵器分隊長の辞令を受け取った。山本は901空本隊に配属されたが、直ちに士官室入り。一番困ったのが(諸兄には全く考えられないことだが)卒業以来ずっと学生生活ばかりだったので初級士官教育は全くなく、初級士官の心得や躾。当直や分隊内の日常業務など全く無知で、僅かに生徒時代の乗艦実習で2、3回教わったのみである。

901空は当時、本隊を台湾の東港に置き、大艇、陸攻を主体に編成され、索敵、船団護衛が主任務の航空隊で館山、大村、高雄、三亜、比島各地に派遣隊があり、東港本隊は司令部機能を兼ね持っていた。

クラス諸兄の搭乗員も数名配属されているが連中は一日中、殆ど指揮所に詰めて搭乗しており、夜の休息や食事はガンルームなので、顔を合わしても話をする機会がなく本当に寂しかった。

判らぬことを聞こうにも士官室には司令官閣下をはじめ参謀など佐官以上の大先輩ばかりで話をするのも畏れ多く、他の分隊長は親父のような年齢の特務士官ばかりである。士官室では、いつも最初に出掛けて食事を待ち最末席で小さくなって緊張していた。

 次に新しく兵器分隊を設立することになり、従来バラバラの部署に配属されていた分隊士や兵隊さんたちが集められた。分隊士は射爆、光学、電探と専門教育を受けた理工系の予備学生出身者、兵器の調達・管理専門の掌飛行長とさまざまおり、纏まりをどうするかに頭が痛かったが、幸い殆どの下士官、兵隊さんは志願兵のマーク持ちで10代、20代の若い人たちばかりで、今まで各分隊でマイナーの部屋住みの身から自分たちのだけの分隊が出来たことを非常に喜んで融和団結も早く、和気藹々として士気も大いに上がっていった。

米軍が比島上陸以後は絶えず空襲があるので、当直勤務の時は適切な命令を出さねばならない。見よう見まねで配置についていたが果たしてどうだったろうか。(他の兵器出身の者もきっと苦労していたに違いない。)

戦局が厳しくなると送られてくる兵器の数は少なくなり、その質は低下しつつあった。爆弾や機銃弾の信管には不発のものが混じっていたり、部品不足の兵器もあったりする。特に電探のメイン真空管は不良品が多い。一個づつ綿に包んで送られてくるが半分以上は不適正で、正しく作動しない。このような武器で戦う仲間たちを思うと、どうしょうもなく、若さの至りで副長の承諾を得て、空技廠で習った教官に実情報告と改善願いに出掛けたこともある。(幸い901空は館山に派遣隊があったので)。

 

「飛行機のない航空隊では兵器分隊が主役?・・・」。

台湾沖航空戦を境にして、所属の飛行機は櫛の歯が抜かれるようにドンドン消耗してゆく反面、敵のほうは、夜間は爆撃機、昼間は戦闘機の襲撃が厳しくなってきた。搭乗員は次々と戦死したり転属し、残りは幹部級の将校とあとはいわゆる地上員ばかりに変わっていく。

当初、空襲時は全員防空壕に退避していたが精神衛生上芳しくない。折角、予備の機銃や弾薬があるのだからと、これも副長の承諾を得て、わが兵器分隊が対空機銃隊を編成することにした。海岸沿いの飛行場端に20粍機銃数門を急造の銃架に載せ土嚢で囲んだ機銃陣地をいくつか造り、その間は壕を作って連絡し、敵戦闘機来襲時には応戦した。敵のほうも結構勇敢で、着陸寸前の所まで突っ込んでくる。こちらも半身乗り出して応戦するが、スピードが速くてなかなか命中しない。1ヶ月ほどの間にグラマン1機に命中したのが唯一の成果で、撃墜地が隊外であったので陸軍のほうで処理をしたらしい。わが分隊のみが応戦しているとの自負のためか他分隊に比べて士気はきわめて旺盛であった。

毎日の空襲により兵舎の下敷きや火災、防空壕に閉じ込められるなどで被害者が出たが、幸い当分隊では常時敵と向き合っていたにも拘わらず数名の軽傷者が出たのみですみ、日に日に自信と余裕が出来てきた。

 

2期の兵器学生の多くが比島で戦死しているが、きっと彼等も兵器を駆使できるエキスパートとして自信を持ち、いちばん最後まで隊の中心になって戦ったに相違ない。改めてその冥福を祈るのみである。

 (なにわ会ニュース9314頁 平成17年9月掲載)

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