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平成22年4月16日 校正すみ

榛名砲術士の軍艦記

藤田 直司

戦艦 榛名

はじめに

練習艦隊を終え榛名乗組を命ぜられた私は昭和18年の暮にトラックで乗艦着任した。

与えられた配置は、砲術士兼衛兵副司令兼第8分隊士ということであった。以来、昭和20年2月呉で退艦するまでの間、配置変更もなく、「ア」号作戦と捷一号作戦に砲術士として参加した。その間における勤務のうちから、主に戦闘配置に関する事柄に限定して振り返ってみよう。半世紀近くも昔の事であり、記憶違いや間違った思い込み等も少なからずあることと思うので、その点御了承頂きたい。

 

(1) 榛名主砲射撃のしくみ

榛名主砲は45口径36糎(因みに陸奥・長門は40糎、大和・武蔵は46糎)であり、最大射距離36000米、有効射距離30000米で、発射してから弾着まで約1分を要する。これだけの所謂大砲になると、小銃や機銃を打つのとは相当趣が違ってくる。先ず、全体の構成からのぞいてみよう。

 

A 砲台

艦橋の前方に1・2番砲塔、後方に3・4番砲塔と、榛名は2聯装4砲塔を有し、一斉射撃をすれば、8発の36糎砲弾が初速770米/秒で打ち出される。各砲塔は外部から見える円筒だけでなく、円筒はそのまま艦底まで続いて下部は夫々の弾火薬庫になっている。

砲塔毎に砲側の操作員と弾火薬庫員で1ケ分隊を編成し、これで第1分隊から第4分隊までを占め、総称して砲台分隊と呼んだ。

 

B 水圧機室

砲塔の旋回、砲身の俯仰は水圧によった。そのため水圧機室というのがあって、そこで水圧機を運転する。この水圧機員は初め機関科の補機分隊に所属していたが、後に主砲幹部の第8分隊所属となった。

 

C 測的所

測的分隊は第10分隊で、目標の方向・距離・的針・的速等を測定する。前檣楼(しょうろう)トップの10米測距儀(水線上約40米弱)はその象徴とも云えるであろう。尚、後述するように、上空の気温気圧や風向風速も射撃諸元の算出に必要だが、これは測的分隊でなく、艦橋の航海科(第12分隊)からその測定結果の通報をうけた。

 

D 射撃指揮所

前檣楼のトップ(10米測距儀の近く)に所在、砲術長が陣取って主砲射撃全般の指揮をとる。指揮所には方位盤が備えられ、射手・旋回手が直接眼鏡を通して照準を行ない、発射の引き金をひく。射手は俯仰を、旋回手は左右の旋回を夫々専門に担当して常に照準を合わせ、引き金をひくのは射手の任務となっていた。この両者は準士官又は特務士官(分隊士クラス)が充てられ、砲術科の最高水準のベテランが任命されたと思っている。指揮所要員は第8分隊に所属する。

 

E 主砲発令所

艦橋真下の水線下で防禦甲板に囲まれた1室である。此処には、射撃盤と称する約1間四方で腰の高さぐらいの立方体をした機械が、やや中央に位置し、その周囲に何人かの操作員が木製椅子に腰掛けて操作する。射撃盤の上面には各種の目盛盤が並び、側面にはいくつかの手廻しハンドルが取付けてあり、操作員は手分けしてハンドルを操作する。周囲の壁面には各種の計器盤が処狭しと並んでいる。発令所と指揮所とはテレトークで連絡され、発令所と各砲台とは伝令員が電話の送受信器を持って往復の伝令に当る。他にブザーがあって発令所からのモールス信号によって号令等が砲台へ伝えられる。このブザーは指拝所にも繋がっている。

 発令所のテレトークとブザーとは号令官が担当する。最先任の下士官であった。発令所員は、指揮所要員・水圧機要員と共に第8分隊を編成する。第8分隊を主砲射撃幹部と称した。発令所長は第8分隊長が当り、砲術士は第8分隊士兼務で発令所が戦闘配置である。発令所長の補佐と当日修正の算定が直接の任務である。

以上は主に組織機構的な面からみた仕組みである。今度は主砲射撃に直結する各部の機能的な側面をのぞいてみよう。

 

先ず、指揮所の方位盤で眼鏡によって目標の照準を行なうということは、方向と距離を定めることとなる。それは、旋回角度と俯仰角度という角度の変化となる。この角度の変化が三相交流のセルシンモーターによって各砲台と発令所へ伝えられ、方位盤と同じ角度の変化が表示される。発令所と砲台の壁面には、その角度を示す円盤があり、時計の針のような針が赤と白の2本ついている。そのうちの赤針が方位盤の角度だけ回転する。この赤針のことを(もと)(ばり)と呼ぶ。もう1本の白針を(おい)(ばり)と呼び、これは各砲台の操作による実際の砲身の角度が表わされる。追針が基針に重なれば砲身の向きが方位盤の照準と一致したことになるわけで、発令所でそれが確認出来る。処で、砲台では弾丸と装薬とを装填(そうてん)する訳であるが、装薬は火薬を帆布綿の布で包んだ円筒形のものである。太さは当然36糎で長さは50糎位だったと思っている。これを4ケ装填して常装とする。装薬量は百数十瓩である。この装薬には直接点火するのでなく、伝火薬といって同じ直径の円板状の赤い包んだものを4つ目の装薬のうしろに装填して尾栓を閉じる。そして発砲電路を通じてスパークを飛ばし、そのスパークで伝火薬に火をつけ、その伝火薬の爆発で装薬に点火して弾丸を打ち出す仕掛けになっている。そのスパークを飛ばす電路をオンにするスイッチが方位盤の引き金なのである。つまり、射撃指揮所で射手が引き金を引くと、電路のスイッチが入ってスパークが飛び伝火薬に火がつく。伝火薬の爆発によって装薬本体に点火し、長さ1.5米、重量6百瓩を越す砲弾を秒速800米近いスピードで発射するという仕掛けである。その電路は途中に基針と追針とを経由して居り、基針と追針とが重なっていなければ、いくら引き金をひいても電路は通じない。結局、基針と追針との一致を確認して発令所の号令官がブザーを押している間に、方位盤の引き金を引いて始めて電路が閉じ、弾丸が発射される。

弾丸の出ていくしくみは大体以上の通りである。測的所で測ったデータによって射撃諸元を決定し、水圧機の力で砲を動かし、射撃指揮所で照準、発射する。発令所は、それら各部間の連絡調整に当るが、既述した以外に大きな役割がある。それは照準に必要な修正値の問題である。何の修正もせず、ストレートに方位盤の眼鏡からのぞいた目標に照準を合わせても弾丸は命中しない。それではどんな修正を要するのであろうか?

 

(2) 当日修正

先ず、射撃する自艦も目標である敵艦も、夫々の方向に夫々のスピードで走っているので、この自針・自速及び的針・的速によって双方の関係位置が時々刻々に変化する。つまり、敵艦の方向・距離が常に変化し続けているわけで、この変化を見越して打たなければならないのである。 仮に的速26節とすれば1分間に約800米進む計算になる。従って発射から弾着まで1分かかるとすれば、照準は800米前方に合わさなければならない訳である。射撃盤がこの計算を受持って呉れる。即ち自針・自速・測的距離・的針・的速等のデータを投入し運転することによって、刻々変わる距離を算出し盤面にその答を連続表示する。同時にそれを方位盤と砲側に発信し調定して射距離とする。これを変距射法と呼ぶ。

また、1番砲塔と4番砲塔とは百数十米の距離がある。従って、正横(艦首から90度)方向に打った場合、弾着は百数十米左右に散らばる。90度以外の方向ならば、その角度のサインを乗じただけ散らばる。従って、弾着を一点に集めるために、方向と距離に応じて少しつつ内側に修正しなければならない。この角度を集中角という。更に、弾丸を発射することによって、砲身内側の螺線条溝が摩耗し、その分だけ初速が落ちて弾丸の飛ぶ距離が減少する。それを修正するのに砲齢という単位を使う。常装1発を発射する毎に砲齢1を加算し、その砲齢数によって修正値が定まる。砲齢はその砲身が装備されてからの累計で表わす。

これらは何れも自動的或は機械的に計算される仕掛けになっていて、射撃盤がその主役で、所定の装置を正確に操作すればよいのである。処がそうは問屋がおろさないものがある。そのような修正のことを一括して当日修正と呼び、それを算定するのが、砲戦における砲術士の戦闘配置―任務―だったのである。その内容とはどんなものか。

 

A 風向・風速の影響

ミサイルのようにエンジンを持たず、誘導装置もない弾丸は、秒速800米弱の初速のみに頼って飛んでいく。その間に必ず風に流される。それは弾丸の方向と風の方向との交角、風速、射距離の3つの変数によって規定される。実際には、それらの変数を何等かの方程式等に代入して計算する訳ではなく、その計算結果を一覧表にした数表(丁度対数表のような形式のもの)があって、それによって所要の修正値を読みとるのである。その数表は分厚い1冊の本になって居り、表紙は真赤な色で軍極秘だった。名称を射表という。

射表をひくときは対数表や三角函数表をひくときのように比例部分の計算がつきものとなる。場合によっては縦にも横にも比例部分の計算をしなければならない。

 

B 大気密度の影響

大気密度が大となれば弾丸が飛ぶときの空気抵抗が増し、大気密度が小となれば空気抵抗が減る。それに従って弾丸の飛ぶ距離が伸縮するので、その修正をしなければならない。

大気密度を測るのは気温と気圧とによる。その測定のため艦橋からラジオゾンデを飛ばす。

ラジオゾンデは測定高度と共に気温・気圧を自動的に測定し発信する。それを受信した艦橋(航海科)から発令所へ受信結果を知らせる。発令所では砲術士がそのデータによって射表をひき、大気密度の影響による修正値を求める。高度が伴っているのは、射距離によって弾道の形が違い、ある高度の弾道に占める割合が違う。

例えば、或る射距離では高度3000米の大気密度の影響が何%、高度5000米の密度の影響が何%で総合していくら、というような具合である。この測定を一口に高層気象の測定といったが、高層気象には必ず高度が伴ってくる。

 

C 地球自転の影響

弾丸が飛んでいる時間中も、地球はその表面に目標を乗せたまま南北を軸として自転している。従って目標は、弾着までの問に自転の分だけ位置が変化する。照準に当ってその分の修正を行うのが地球自転の影響である。

真東又は真西に向けて打つ場合の修止は、遠近方向に最大となり、左右方向の修正は零となる。真北或は真南に向けて打つ場合は左右方向に最大となり、遠近の修正は零となる。それ以外の方向に打つ場合には、左右方向と遠近の両方に修正が必要となる。その修正値は射距離によって違い、又、所在の緯度によって違う。それらもまた射表をひいて算出する。

射表をひいて求める結果は左右方向と遠近の2種類の修正値である。左右のことを笛頭(びょうどう)と呼ぶ。笛頭は「左(右)へ寄せ4」というように表わす。数字は百米単位で「目標の左(右)方400米を狙え」という意味である。 距離は「高め(下げ)6」というように表わす。「目標の600米遠方(手前)を狙え」という意味である。風向風速、大気密度、地球自転夫々に射表から算出した修正値を、笛頭は笛頭、距離は距離で代数和を求めて一本化し、「当日修正、左へ寄せ4、高め6」という形にまとめて指揮所へ報告する。当日修正量は方位盤の射手用、旋回手用の眼鏡を反対方向に調定する。その眼鏡で目標を照準すれば、当日修正量が赤針に反影して砲身の向きが当日修正通りに修正されることになる。現在であれば、測的結果やラジオゾンデのデータをコンピューターに入力して即座に当日修正を算出する所であろう。もっとも誘導弾であれば当日修正そのものも必要がないのかも知れない。あれこれ考えれば正に半世期にわたる時の経過に、うたた感無量といわざるを得ない。

それはともかく、当時はこの当日修正を正確、確実、迅速に算定することが砲術士としての忠義のみちであると一途に打ち込んでいた。どうすればより正確に、より確実に、より迅速に出来るか、ということばかり考えていた。射表をひく速さをどうすればより速くできるか、射表の頁をめくる時間が惜しく思えて仕方がなかった。また、一番悩んだのは射表をひく都度やらなければならない比例部分の計算である。算盤もなく電卓もない。すべて暗算か筆算の繰り返しである。もし、計算を間違えれば不忠になる。また、欄を一欄間違えて読みとっても不忠になる。それらは自分の精進努力で解決するとしても、途中何回も何回も比例部分の計算をしなければならないわずらわしさは解決出来ない。手数がかかるということはそれだけ時間がかかるということである。勿論、榛名に乗艦し砲術士を命ぜられてすぐにそのようなことを考えたわけではない。私にとって初陣となったア号作戟の時は、教わった通りに射表をひくのが精一杯で、あれこれ考える余裕などある筈はなかった。問題点として意識し始めたのは、ア号作戦の後リンガ泊地で何度か射撃訓練を行った頃からである。リンガ泊地では、大和・武蔵・長門からなる第一戦隊、金剛・榛名の第3戦隊など、艦隊主力が月々火水木金々を画にかいたような猛訓練の連続であった。そんな状況の下で、毎日の猛訓練に加えて、当日修正算出についての前述の問題点をどうして解決するか、全く解決出来ないまでも少しでも能率をあげるにはどうすればよいかということが念頭から放れず、余り優秀でもない頭で考えをめぐらせては悩んでいた。しかも、来るべき決戦も遠からずという時間的制約が加わり、心理的にも追いたてられるような感じで 悩みは倍増していた。

 

(3) 螳螂(かまきり)の斧

そんな状況の中で、何時の間にか射表の内容をグラフ化することを考えるようになっていた。グラフから適当な寸法の目盛を読みとるようにすれば比例部分の計算はしなくても済むようになる筈だ。また、一枚の紙面にグラフをまとめれば射表の頁をめくる費消時間もなくなる訳だ。これは名案だとばかり、(わら)半紙にフリーハンドで色々なグラフを書いては考え、書いては考えしながら、風・高層気象・地球自転の各要素をグラフに織り込み、一枚のB4版の中に数個のグラフを書いて縦・横に関連づけ、次ぎ次ぎに代数和が読みとれるような工夫を重ねた。そんな明け暮れを過ごしているうち、天の恵みか神の助けか、狙っていた内容を(やや)満足するようなものが遂に固まってきた。しかしそれは、こうなる筈だと確信出来るものではあるが、あくまで構想図的な段階であって、いはば一種の模型的原稿にすぎない。実戦の用に立つものとするには、それを方眼紙に画いて完成品とし、グラフから読みとった答を実際に射表をひいて得た結果と照合確認しなければならない。勇躍して私は、早速方眼紙を用意し、古いベニヤ板に貼りつけて作成準備をしたのであるが、その方眼紙やベニヤ板は艦内の何処でどうして入手したのか、いくら考えても、なさけないことに全く思い出すことが出来ない。奇妙なものである。さて、方眼紙を横長にして左上(すみ)に真方位目盛を入れた円を画き、その中心に、ピンで何枚かの透明板又は透明の棒状のものを止めて回転できる様にしたのであるが、実はその透明板の材料に困り果てた。適当な材料がどうしても用意できないのである。

万事(ばんじ)窮するかと思ったが、窮すれば通ずというように、ふとした拍子に私物の歯ブラシの容器が無色透明のセルロイド板であることに思いつき、これを鉄で切って分解、折り目を伸ばして板状にして間に合わせた。これだけは何故かハッキリと記憶に残っているから不思議である。それから射表と首引きでグラフの作成にかかった。当時私は、砲術士の他に衛兵副司令兼務となっていたので、碇泊中の軍艦旗揚げ降しには衛兵隊の指揮に当たるのが任務の一つであった。夕方、軍艦旗降し方が終るとあとは副直以外特に用件もなかったので、この時とばかり、早速ガンルームの寝室にこもってグラフ作成に没頭した。当面副直当番もなかったし、公室では何となくざわついて落付きがなく、綿密な仕事には不適当と考えたのである。相当時間経過した頃、入口の方で「砲術士」と叫ぶように呼ぶ声が耳に入ってきた。私はとっさに従兵が「食事用意よろしい」の報告にでも来たのだろうと思って「オー、今いくぞ」と返事をしようとしたとたんに「巡検」という、例の独特の声がひびいてきた。私は「シマッター」と思った。初級士官はその心得として、巡検には副長に従って一緒に艦内を巡るべきものとされていたのである。私はそれに遅れてというか、気付かずにというか、随行出来なかった訳で、一瞬どうしたらよいか、頑の中が真っ白になった。無意識のうちにその場で直立不動の姿勢になっていた。先導の下士官の後から副長が廻って来られ、「どうしたのか?」というような意味の言葉と共に机上の作りかけのグラフと横においてある射表とをのぞき込まれた。そして何も云われずにそのまま室外へ去られた。私は心身共に硬直して、何も言えず、何も出来なかった。副長のあとから私以外の兵科のガンルームがぞろぞろついて来、そして同じようにぞろぞろ出ていった。全員無言のままだった。私も一言も発することができず、一人取り残されたような格好になった。グラフの作成を続けるべきか、今からでも巡検について行くべきか、頭が混乱した。迷いに迷った挙句、私はどちらの行動もとらず、机上を片付けるとガンルーム公室へと向かった。

ガンルームのテーブルの片隅に私の分の夕食が、淋しげにポッンと置かれていた。結局私は夕食もとらず、就寝時間(巡検)になったのも気付かないでグラフの作成に没頭していた訳である。文字通り寝食を忘れていたことになる。そんな一幕を演じながら作業を継続し、とにかく一式弾用のグラフを仕上げたのは、捷一号作戦発動間近の頃であった。自分で測的データ等を想定し、射表をひいてみてグラフと比較した。結果は大成功だった。両者の結果が見事に一致した。これで比例部分の計算から解放され、計算間違いを起こす心配もない。更に嬉しかったのは、そのグラフによれば当日修正値100米が1糎の目盛りで示され、およその目分量でも10米単位の精度で読みとれることだった。正に鬼の首をとったような喜びを全身に感じとった。そんな時、リンガ泊地を出てブルネイに向かうこととなったのであるが、その時には確か、一式弾用のグラフに次いで零式弾か三式弾かのグラフ作成にかかっていたが、どちらの分だったかは、残念乍ら記憶にない。何れにしても、こちらの方は未完成のまま、ブルネイを出撃してレイテを目指すこととなった。このとき作りあげた一式弾用のグラフを、自分で内心「榛名式当日修正計算盤」と勝手に命名、一人で悦に入っていたことを懐かしく思い出す。

 

レイテ沖海戦については、色々な戦記物もあることなので詳しいことは省略する。もっとも私はずっと榛名の主砲発令所に籠りきりだったので、外界の状況は一切見ていない。だから、書こうと思っても書けないのである。発令所にいて私の理解出来たことは、榛名は確か敵空母と巡洋艦を追撃、単艦で南又は南東方向へ相当の距離を走ったということである。そして、その時の主砲射撃精度が良く、敵空母、巡洋艦に命中弾を浴びせた筈で、榛名の黄色の着色弾によるカラー水柱は、大いに敵の心胆を寒からしめたに相違ないということである。しかし、具体的な戦果等については、今の私には確かめるすべもない。主砲射撃の精度は、砲術長の指揮のもと、先ず測的の正確さが基礎であり、砲台における操作や方位盤の照準発射操作の良否、発令所の機能発揮の具合等、各種の要素が混然一体となって始めて期待出来ることは云うまでもない。当日修正もそれらの要素の中の一つとして考えられる。

その当日修正という一翼を担った私の青春は、斯くしてレイテ沖に開花し、そしてその後2度と芽をふくことはなかった。燃え尽きたと云っても過言でない。及ばずながら自分なりに全身全霊をつくした積りである。それは、今顧みて些かの悔いもなく心残りもない。何時か何処かで「青年は熱であり、意気であり、顧みるときの微笑みである。」という言糞をきいた。その時、正にその通りと我が意を得た思いが強く、この言葉は、それ以来未だに忘れ得ない私の一番好きな言葉となっている。

それは、榛名×ホシ×として全身全霊を打ち込んだ自称「榛名式当日修正計算盤」をひっさげて、捷一号作戦に参加した青春の一こまと重なり合っているのである。

 

―あとがき―

捷一号作戦後、榛名は内地へ回航、呉でドック入りし、昭和20年を迎えた。私は2月に潜水学校普通科学生を命ぜられて榛名を退艦、大竹の潜水学校に着任した。

その後榛名は陸上砲台の代用となった由であり、やがて小用沖で赤腹を出したときく。自称「榛名式当日修正計算盤」という蝙蝠の斧がどうなったかさだかでない。

 

(注記)

1 表題の×ホシ×は海軍部内で常用された書き方で、×と×とに囲まれた部分が略号であることを示す。ホシは砲術士の略号であった。

2 榛名の主砲々弾は3種類あった。艦隊決戦用の徹甲弾を1式弾、陸上砲撃用の瞬発弾を零式弾、対空射撃用の散開弾を3式弾と呼んだ。

3 自艦の弾着観測を識別する便のため、3戦隊では着色弾を用い、弾着に際して上昇する水柱に着色するようになっていた。旗艦の金剛は赤色、2番艦の榛名は黄色だった。

(なにわ会ニュース6717頁 平成4年9月掲載)

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