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平成22年4月23日 校正すみ

平成16年3月寄稿

終戦50年に思う

濱田 秋朗

 わずか一年十一ヵ月の間であったが、戦場で戦って来た者として、あの終戦の日は忘れようとしても忘れることはできない。まことに無念の思いであった。

 当時の私の乗艦を含む駆逐艦三隻は、来るべき本土決戦に備えて瀬戸内海屋代島(大島)の島影に錨を入れ、連日の空襲を避けながら猛訓練に明け暮れていた。

あの時期の純粋な思い、また、度重なる戦場での危険な場面で「少しでもお役に立って死のう」と思い、全力を尽くしていたことは、今となっても、ひとつも悔いることはない。胸を張って「俺は何も疑うことなく日本のために頑張った」と言い切ることができる。そして、そのことは、今もわが生涯の誇りでもある。

 ただ、生き残った者として、戦死した多くのすばらしい友人たちのことが思われてならない。

戦場では、不利な状況が続くなかで、なんとなくこの強大な敵に勝てるとは思えなくなってきだした。しかし、日本が負けるのではとの思いはまったくなかった。まして、「こんな戦争を始めてはいけなかったのでは」などとは露ほども考えることはなかった。

 私が海軍兵学校を卒業したのは、すでに状況が不利になった一九四三年九月十五日である。卒業式を終えて、そのまま、表桟橋から乗艦し、二ヶ月間の実務教育訓練(南洋群島へ作戦行動をした戦艦山城ほかに配乗)を受けた後、正規の辞令をもらって、それぞれの任地に赴任した。私はシンガポールで巡洋艦球磨に着任、航海士として勤務することになったが、二ヵ月余りの後、マレー半島ペナン沖で航空隊との合同訓練中、イギリス潜水艦の雷撃を受けて沈没した。

 次の乗艦、巡洋艦名取は、七ヶ月余の後(一九四四年八月)南太平洋で夜半アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈された。(この時カッターで漂流、十三日後に比島ミンダナオ島に上陸した。)

 翌月内地に帰ると、次は新造の駆逐艦榧航海長の辞令を受け、まもなく竣工、就役するや、瀬戸内海で訓練の後、再びフィリッピン方面に進出した。マニラに入港したのは、一九四四年十二月初めであった。この時、レイテ島はすでにほとんど見通しのつかない状況にあって、支援補給作戦が打ち切られたところであった。そして、敵の次の上陸地点であるミンドロ島(マニラ湾口の南方)で、夜半に敵の上陸を妨害する作戦に参加し、初めて激しい戦闘を経験した。しかし、時すでに遅く、大勢に貢献するに至らず、乗艦榧も大きな損害を受けて、到底次の作戦に参加できる状態ではなかったので、応急修理の上、単艦で内地に帰還したのが一九四五年一月である。

 本格的修理を終えて瀬戸内海に回航し、残り少なくなった僚艦とともに、戦艦大和を護衛しながら訓練の日々を送っているうちに、沖縄特攻作戦が発令され、四月上旬に出撃することになった。このとき、榧の駆逐隊は別の任務の為、内地に残ることになり、呉で人間魚雷回天を搭載出来るように改造したうえ、前述のように内海で訓練を重ねるうちに、終戦を迎えるに至った次第である。

 続く負け戦の中、せめて一矢を報い、多少ともお役にたつ働きをした上で死にたいと念じつつ、懸命に頑張ったのであったが、ついに思いを果たすことが出来ないまま、無念な終戦を迎えたのである。

この戦争で軍人、軍属、一般人合わせて三一〇万人もの日本人が命を失ったといわれている。

私ども海兵同期六二五名は、その五三%強の三三五名が奮戦の末散った。その中には特攻隊長として先頭を切って突入した者も数多くいる。

 職業軍人は誰しも死ぬ覚悟であったから言うことはないが、終わってみれば無念な敗戦であっただけに悔やまれる。

また、一般の人達の死は余にも無残である。大都市の徹底的な空爆、さらには広島、長崎の原爆犠牲者、そして戦場になった沖縄において悲惨な最期を遂げた一般の人達のことは申すに及ばない。

 運命のなせる業で生き残ったクラス二九〇名は、これら犠牲者の霊を慰めるためにも、日本の復興再建にベストを尽くそうと誓い合った.

 

 日本は、今日どうやら大国の仲間入りしたように言われているが、独立国として本当に立派な国になったかどうか。何か足りないものがあるように思えてならない。

 

  今日静かに考えてみると、開戦前に、日本の指導的立場にあった人達が、戦争とはいかなるものか、総力戦である近代戦に耐える国力が日本にあるのか、また、現代の戦争には必ず終りがある筈だが、最終的にはどう収拾するつもりか等にについて、考え方を確立していたのか、どうも疑わしいように思われてならない。

 また、日・独・伊三国同盟に対する考え方、日ソ中立条約への認識の甘さなどから、自ら墓穴を掘り、ついには「本土決戦竹槍戦法」「一億玉砕」などと唱えて国民を追い込んだ。

 

 開戦前、これらの点について憂慮した海軍の首脳の方々は、慎重な対応をとるように命を懸けて主張し、説得に努められた由であるが、力及ばなかったといわれる。

 あれから半世紀を越えた今日の日本の指導層は、いったいあの貴重な教訓に学んでいると言えるだろうか、疑わしいように思えてならない。

 過去の者が心配することではないと言われるかもしれないが、この大戦に際して三一〇万人の国民の尊い生命が犠牲になっているのだ。

 今日の状態を知る由もない霊魂になんと説明すればよいのか。

ぎらぎらと 海眩しかり      終戦日
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