TOPへ  戦記目次

平成22年4月22日 校正すみ

軍令部の想い出

澤本 倫生

 当時の概況

私が軍令部に着任したのは、昭和191210日頃だったと思う。海風(昭和19年2月1日、トラック島南水道附近)と、信濃(1129日、紀州沖)で沈没した私には、もう行く所は、陸上しかなかったらしい。軍令部での仕事は、毎日の戦況取まとめ役で、71期の野村大尉と一緒であった。

後に野村大尉の後任に、早崎が来たので、昭和20年3月からは、早崎と一日交代で、32時間勤務をやり、多数(1日約300通)の電報を整理して、その日の戦況として文章に纏めていた。従って、敗色濃い目前の実況は身に沁みて判っていた。

私が着任したのは、比島沖海戦の後であり、それ以後、硫黄島戦、沖縄戦と、敗戦の連続した時で、当時の戦果は、殆んど特攻によるものばかりであった。従って、逆にいえば、戦果の度に、級友が失われていった時代であった。余りの戦死者の多きに驚き、昭和20年の初めから、級友名簿を作り、戦死者は、赤字でその日と場所を記していた。

この名簿は、戦後、期友の現況として、樋口に渡し、級会名簿の基になったと思うが、日毎に赤字が増し、ある頁では戦死を示す赤字が4分の3を占めるのもあり、全く、暗澹たる思いがしていた。

一方、硫黄島戦、沖縄戦、原爆投下等、大きい変化のある度に、直属上官であった宮崎中佐から「今後の戦争の方向と、その対策」について具申を求められたが、その度に、私の出す結論は、『総力を挙げて、敵に人的大打撃を与え、米国女性の与論を刺激し、何とか、有利に終戦に持ち込む。』というものであった。

何しろ、ガソリンは、幾ら節約して使っても「半年先はほとんど零」という見通しの時代である。如何に松根油を造り、アルコールで練習機を飛ばしても、制海権のない日本では、石油の補充が、到底使用に追いつけない。石油のない近代戦は成り立たないのは明らかである。

 

 原爆投下

 

こんな情況であったが、『何とか敵に人的大打撃を与え、有利に終戦に導きたい。』というのが、作戦指導者の考えであったようである。

聯合艦隊司令部も、日吉の慶応大学の地下に潜ったが、大本営を長野県の山中に移すことも、真剣に検討され、その為の横穴はほとんど完成しかけていた。(今でも、戸倉山付近に横穴が残っている。)

始めて原爆が投下された時、私は霞ヶ関の防空壕内で、電報の整理をしていた。昼過ぎ間もなく、『中国地方、空襲警報解除、敵大型機1機は、南方に退避しつつあり』という電報が来た。

「ああ、単なる偵察だったか?」と思っていた所、30分位後に『広島市全滅』 『敵機広島を爆撃、広島は大爆発を起せり』との電報が続いて入って来た。直ちに航空参謀奥宮中佐に渡したが、『火薬庫がやられたのだろうか?』という位にしか考えられなかった。その後の情報でも、

@ 敵は・・・・機、

A 投下されたのは落下傘つきの爆弾1個、

B 空中で破裂、

C 広島全市がやられた、

というもので、何か、終戦に繋がる不吉な大事故という気がした。

その翌朝、日吉の通信隊から、トルーマン大統領が『本日広島に原爆を投下した。日本が無条件降伏しなければ、更に多数の都市を死の街と化する』と発表したとの情報が入った。夢の兵器と思われていた原爆が、かくも早く完成されようとは、当時の日本では考えられなかったのである。

原爆投下の翌々日、早崎が「甘薯を造り、原爆戦に備えよ」との意見具申をしたのを想い出す。彼の論は、「米麦は、実りの頃に原爆でやられれば全滅するが、地下にある甘薯なら大丈夫である」というものであった。

原爆と同時に、食糧を考えた彼の非凡なる才能の現われである。当時の何人が、原爆と、米麦を結びつけ得たであろうか。

 

 終戦工作

大東亜戦争には2回終戦可能の機会があったと聞いている。その第一が、シンガポール陥落時だという。海軍の一部には、これで終戦すべきだとの意見もあったそうであるが、余りの大戦果の連続に、声を大きくして、それをいい得ぬ内に、チャンスを失ってしまったらしい。その後、ミッドウェー戦の頃に、敵側から(英国〕終戦のさぐりかあったと聞いているが、詳細は知らない。

20年の7月に入ると、私の耳に、「スイスを通じて和平交渉を始めた」とか、「ソ連に仲介を頼んだ」とかの話が、一再ならず入って来た。この事を早崎に話したら、彼は単身外務次官に面談して、一寸した話題を蒔いたようである。

8月に入ると、終戦工作の噂は、益々激しくなって来た。ソ連の参戦に対し、精鋭の関東軍が、殆んど一矢も報いずに敗退した蔭には、日ソ不可侵条約を信じ、ソ連を終戦の仲介者と考えていた当時の指導者層の、反撃無用令がある。「こちらからは手を出すな」といわれて後退した軍隊に、2日後「反撃せよ」との命令を出した所で、後の祭であろう。

日本が負けそうだと知って、大急ぎで、火事場泥棒をやる国に対し「不可侵条約を守ってくれる。」と考えていた当時の為政者の認識不足が、如何に多くの損害を満州で出したか図り知れぬものがあろう。

それにしても、ほとんど無損失で満州を取り、千島を奪った、火事場泥棒のソ連に、へコペコしている今の日本も情ない限りである。

終戦工作の噂の出始めた7月頃から、例の平泉先生門下の愛国者達が、「終戦は、即滅亡である」との意見から、諸方で反終戦の会合をやっていたのも事実である。

 

 終戦前日

8月12日の夕刻、私と早崎は、密かにM中佐に呼ばれた。その時のM中佐の顔は、全く緊張の極であった。言われた事は、『本日終戦の断が下された。然し、これは君側の奸のなせる事であって、決して日本の為ではない。国体護持のためには、一見、君命に反するが如くであっても、徹底抗戦の道を執るべきで、これが真の忠である。吾人は、陸軍有志とも語らい、クーデターを以って終戦工作に反対する。貴様ら二人は、同じ仕事をしている兵学校出として、この壮挙に加えてやるから、今から確悟して準備をしておけ!』ということであった。すぐ、賛意を表した早崎の蔭にいて、私はM中佐の顔を、只、黙って睨み続けていた。M中佐は、「明朝11時までに、決心して俺の所に来い」といいおいて立去った。

それからの12時間は、長く且つ辛い時間であった。陛下の命令に絶対服従するのが忠の道であると、叩き込まれた私の頭に、君側の奸ありとはいえ、陛下の決められた終戦の断に反抗することが、結局は本当の忠義だとの意見は、素直には受入れられなかった。

更に、「今の武器、経済力で、徹底抗戦して、どうやって勝てるのか?」、「どうやって、国体を護持するのか?」、という疑問がある。又一方、「敗戦即亡国」という心配もある。「天裕神助により、何時かは勝てるのではないか?」と神頼みが出る。しかし!しかし!しかし! どうしても納得がいかぬ。

一晩まんじりともせず考えた結論は、「反対!」であった。朝5時頃、「明朝、M中佐に呼ばれたら、『どうしても賛成出来ない』と云おう。それで、機密保持上、『まず血祭りに上げる』と云われたらそれまでだ。とに角、朝のM中佐の出方を待とう」。と心に決め、始めて、仮眠室に横になった。

「日本はどうなるんだ?」 「国体はどうなるんだ?」「俺達はどうなるんだ?」次々に巡り来る想いに、疲れも、時間の経つのも忘れている内、7時になった。顔を洗いM中佐に会わぬよう、当直室を出て食事した。幸に翌日は非番(早崎の当直日)であったので、M中佐に会わぬよう前日の電報を持って、防空壕の隅で前日の戦況を纏めた。

9時から定例会議。M中佐とは離れていた。会議が終るや否や、私は直ちに作戦室を出て、僅かに残った総長官舎の、ヤツデの蔭に行き、M中佐の動静を見守っていた。10分程して、作戦室を出て来たM中佐は、私のいるヤツデの前を通って、海軍省の方に歩いて行った。俯き気味に考え、考え歩いて行った。

午前11時、早崎と二人で、M中佐に会いに行こうと、準備している所に、昨日の緊張し切った顔と一寸違う、M中佐がやって来た。「クーデターの件は取り止めた。終戦が君側の好の仕業でなく、本当に、陛下の、お心から出たものであることが判った。陸軍は知らず、海軍は、只、陛下のお心に添う事に決めた」と、じっくりと言われた。情けないが「ホット」したのが、偽らざる私の第一印象であった。

 終戦前夜

海軍(厚木部隊以外)は、クーデターはやらぬこととしたが、陸軍の一部は、飽く迄やることにしている。又、敵が来れば、戦争責任とやらで、我々末輩まで、命ありとは思われぬ。「我々は己むを得ぬとして、生残った300名の期友のうち、何人かでも、隠れ通して戦後の治った世に、日本再建に残ってくれ」。というのが、我々(早崎と、その当時追浜にいた和泉と私)の当時の考えであった。この為、級友の名の知れる(おそ)れのある名簿、写真、手紙等、14日の夜は焼却処分に時を費やした。

諸兄既にご承知の通り、72期の兵学校アルバムは、その年の7月末に全部出来て、横空の和泉の所にあったのである。その内約10部を残して焼却されたのも、全く期友1人でも救いたい、という在横空同期生の気概から出たものである。勿体無いことをしたと思う人もあろうが、終戦当時の異常心理を想い出して頂けたら、諸兄も残念がる前に、横空にいた、クラスの友情を知って貰えるだろう。

軍機書類等を焼却している内、夏の夜も白みかけて来た。と、ダダッダダダダッと機銃の音と、駈け過ぎる軍靴の音が聞え出した。

「来るな」と、早崎と眼を合せ、「若し反乱兵が来たら、『終戦は陛下のご意志である。誤ってはいけない』と静かに説き伏せようではないか。それでも気が立っている反乱兵だから、血祭りに挙げられるかも知れない。見っとも無くないよう、褌から着替えて来よう」と話しあった。

緊張した、悪夢の如き一夜は間もなく明けたが、軍令部には、反乱兵の乱入もなかった。

 

 終戦の御詔勅

8月15日、『正午に特別放送あり』、との通達に、海軍省、軍令部の全員が、海軍省前に集合した。何の為か判らぬ人が大部分であったようであるが、  私等は知っていた。陛下のお声を聞いて、ジーンとした、処々方々から、啜り泣の声が聞えた。私も、眼から溢れる涙を、どうしょうもなかった。この瞬間、涙を浮べなかった期友はおるまい。感無量。残念! 不忠の感!

私は、感謝と感激の涙であった。

当時の戦況、人心を可成り知っていた私にとって、如何にして、日本の国体を傷付けぬように終戦に持ってゆくかというのが、絶えざる宿題であった。しかも、不可能に近い。

未曽有の、陛下の肉声による放送を聞き、私は、「これがなくては、終戦は出来ぬ。陛下は、総てを投げうって、国民の全滅を防ぎ給うた。何と有難い事か!」というのが、私の涙の正体であった。

 

 敗戦夜話

終戦は決った。国体はどうなるか判らぬ。

我々の命はもとより……‥…・

その日、我々(和泉、早崎、私)に、新たに与えられた使命は、『万一、国体の危なくなった(とき)或いはそれが如何ともし難い秋の、何年、何10年後にでも、開戦から終戦までの本当の姿を後世に伝える事』であった。この為、和泉と、早崎は非常な苦労をしたことと思う。

15日の夜、何処から手に入れて下さったか、生ビール一樽が、我々軍令部付の士官に賜った。当時軍令部付のケップガンであった私は、全員に集合を命じた。

夜8時、全員約30名が、防空壕作戦室に集った。30人に一樽の生ビールでは、極めて少ない量ではあるが、酒の乏しい(というより全くない)当時としては貴重であったし、また、この位で、30人が、相当酔えた。私はケップガンとして、終戦に至る、私の知る限りのことを話し「これを聞いた諸兄は、何とか生き残って日本再建に努めて欲しい」と結んだ。

皆、小声で話し、飲み、やがて悲憤慷慨(こうがい)喧々諤々(けんけんがくがく)たる内に僅かなビールは消えた。「本日はこれを以って散会する。本日の主旨をよく体し、今後に処するよう」と宣告した私の言葉の下から、やおら立上った男があった。予備学生出の人(中尉)である。

「諸君!我々の報国の道は終った。潔く屋上に行って、割腹しようではないか!」何と痛快なる一言! 思わず立上った者は、10人近くいた。

大喝一声私は叫んだ。

「黙れ〃‥スタンドプレーは止めい!‥」

「死にたい奴は勝手に死ね!  脳天をつんざくように、私は叫んだ。

「卑怯者!‥先ず、こやつの首を刎ねて行こうかい」 悲憤の士は軍刀に手をかけ、にじり寄って来た。

「切らば切れ! 但し、本日切腹せぬ諸兄は、終戦が陛下のご意思丈により、辛うじて出来た事を後世に伝えて欲しい」。

私の言を聞いて、悲憤の士

「えい〃‥卑怯者の血に汚すも刀の名折れじゃ、賛同者はついて来い〃‥」 足音高らかに外に出て行った。付いていく者約5名。

(当日軍令部関係の死亡者なし。私の一声で少なくとも5名の士官が命を永らえた。私の怒声が役に立ったのはこれだけか。)

(なにわ会ニュース1515頁 昭和43月掲載)

TOPへ  戦記目次