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平成22年4月23日 校正すみ

思い出の記

福嶋 弘

 前書

道元禅師は「時は飛び去るものとばかり考えてはいけない。飛び去る事だけが時の働きであると学んではならない。時が飛び去るだけであるならば、時と我との間に隙が出来るに違いない。今までに時間空間の道理を明らかにした者がいないのは、皆時が去るものとばかり考えているからである。一切世界のあらゆる事物は、連なっている時である。」(中村宗一 全訳正法眼蔵)と説いている。

 

 53期愛知県出身者

昭和1512月1日、海軍機関学校第53期生徒として入校した愛知県出身者は6名、私以外は全員戦死の悲報となった。

 

 多久二大尉 (一宮中学)

昭和191024日、901空にて比島沖戦死

座光寺一好教官は東港901空において、森中尉の最後の出撃を見送られました。尚戦後「森中尉」の歌を作詞作曲され、墓前で涙と共に奉唱されました。

 

 太郎少佐(岡崎中学)

昭和191113日、201空神風正行隊隊長として比島マニラ東方海面に特攻戦死 (二階級特進)

 

山脇美代次大尉(豊橋中学)

昭和191120日、伊54潜にて比島東方海面にて戦死

 

成瀬秋夫大尉(西尾中学)

昭和20530日、戦401飛にて比島リンガエン平原戦死

 

関谷年男少佐(豊橋中学)

昭和208月3日、戦402飛にて比島イバスラ方面戦病死

 

 寺岡恭平大尉

昭和191028日伊45潜にて比島レイテ方面戦死

母君寺岡富士子様は、昭和46年比島方面戦跡巡拝団に参加され、シブヤン海方面にて戦死された英霊及びレイテ沖にて戦死された恭平大尉を偲ばれて次の歌を捧げられた。

 灯を消せば吾子が笑み見え声聞え

        寝がての夜を重ねつつ来し

○美しと汝が鍛えしは此処かげに

        瑠璃を溶かしてなるかこの海

〇百万の益荒男の子を屠りたる

        海よ何が為 今日碧なる

〇年経なば雲を呼ぶべき蚊竜も

        あまたありけむを 海よ突かずや

〇二十一歳紅顔の子はよき死処と

        悔いなし眠るか この海溝に

○我れ死なば赤飯炊くやと問いし子の

        笑顔海上に 浮かばんとする

○敗戦を予知しながらにこの言を

        この笑をなす 吾子たりしかな

○「呼びかけ」は木霊ともならで沖に消ゆ

           青海原に 島かげもなく

○空に溶け沖に消えゆく「呼びかけ」に

        海溝の底中 応と答えよ

○汝が骨を抱かむ願ひ今日は捨てつ

         永久に汚れぬ 聖域ぞ此処は

○川は渦れ山は崩るゝ世もあらむ

         南溟こそは とはに変らじを

○な患ひそ戦後二十六年漸くに

         頼もしき子らも 立ち初めしとふを

○疑ひそ扶桑千載興るとも

         亡ぶ日あらめや 安じ給え

〇人皆の供花を水尾は皆載いて

         神の果てまで尾を曳くが見ゆ

○いざさらば今は別れむ永劫に

         鎮もりいませ 恭平大尉

(座光寺一好著「海軍少佐小林平八郎の生涯」詩編より転載)

 

又、昭和61年元旦には昨秋國神社に詣でて

杖にすがり 今詣で来るし この母が

         見ゆるか 恭ちゃん 恭平之命

の一首を頂載しました。

又、座光寺教官は寺岡恭平君追悼録刊行記念集会に、前掲2葉の詩画を奉ぜられました。

 

 出陣実施部隊

昭和18年9月15日、高松宮殿下台臨第53期生徒卒業式(111名)

      海軍少尉候補生戦艦山城乗組(村山隆外40名)T3号作戦、

      1015日、トラックに向け出撃、1030日、内地に向けトラック発

昭和181118日、拝謁(宮中参内)賢所参拝∵振天府拝観・海軍大臣招宴

       戦艦長門乗組 (同期候補生は吉本信夫、福嶋弘、寺岡恭平の3名)となり、
       12月1日、着任
 (トラック環礁内)

昭和19年2月1日、パラオへ向けて春島沖を出港。その日、米軍がマーシャル群島
        クェゼリン、ルオツトに上陸して来た。

長門がパラオに入港したのが2月4日で、6日にはクェゼリンの守備隊が早くも全滅した。長門はパラオに腰を落ちつける暇もなく、2月16日西方のリンガ泊地へ、油を求めて出て行く。

航海中連日のように敵潜水艦を探知し、危うい思いをしたが、2月21日リンガへ入港した。リンガ諸島は東経105度、赤道の眞上、シンガポールの南60浬の所に在って、東経140度線に沿うて策定された決戦線からは遠いが、ここまで来ると油は手に入り易い。タラカンもパリックパパンも近いし、昭南の燃料タンクには重油が腐るほど貯まっていた。

長門は内地から回航されて来た空母部隊と合同し、久振りにたっぷり油を積んで、活発な洋上訓練を再開する予定であった。

昭和19年3月15日、海軍少尉青葉乗組「渾作戦」参加

6月3日、渾部隊はダバオから一路ビアクに急行していた。今日一日敵機に発見されないで済むならば、明日は突入出来るのだ。渾部隊乗員もまた、一日千秋の思いで空を見上げていた。

ところがB24に触接され、陸軍機の偵察報告に敵機動部隊の出現が報ぜられ、「渾作戦一時中止」、渾部隊は速やかに北西方に避退せよ」 の電命により陸軍部隊をソロンに揚陸して、アンボンに避退した。

6月10日夜半、渾部隊に第1戦隊(大和・武蔵)、第2水雷戦隊 (能代・駆逐艦2隻)が編入され、ハルマへラ島のパテアン泊地に6月12日集結、新構想の下に着々と戦闘準備を進めた。

6月13日、「あ号作戦」決戦用意が発令、続いて「渾作戦」一時中止、第1戦隊、第5戦隊、第2水雷戦隊、第10駆逐隊、第4駆逐隊は原隊に復帰となる。

6月15日、「あ号作戦」決戦発動となり、青葉は西ニューギニアの後方警戒となった。

昭和19年8月20日海軍潜水学校普通科学生 (第12期)

12期機関科学生は、岩間正春、大山隆三、蔵元正浩、佐丸幹男、椎野鷹、林清之輔、橋元一郎、福嶋弘、室井正、松田清の計10名、戦死は林1名

昭和199月15 日、海軍中尉

昭和20110日、第12期普通科学生卒業イ号401潜水艦乗組

昭和2061日、海軍大尉

昭和20 722 日、嵐作戦発動

水上機を大型潜水艦で目標付近まで運んで殴り込みをかけるという、破天荒な作戦計画であった。

しかし、敵空母がウルシーに在泊しているかどうかが最大の問題であるので、第6艦隊の第1潜水隊に属するイ13 14 2隻に命じてトラック島へ「彩雲」を送ることになった。イ13 14 2潜水艦は大湊軍港に入港し、「彩雲」を2機ずつ搭載した。

714 日、米空母機は北日本を爆撃した。イ13 は翌715 日の朝、大湊を出撃した。イ14 13 の順に2日の間隔で出撃の予定だったのに、イ14 がスクリュー軸系に過熱事故を起こし、イ13 の方が先に出たのだ。

一日遅れて16 日にはイ14 が後を追った。遅れて大湊に入港して来た本隊のイ401 、イ400 という海底空母が僚艦の出撃を見送った。

401・イ400 2隻が大湊に入港中、乗組員は一日の上陸を許され、先発隊のイ13・イ14の出陣を見送った。連合艦隊ではこの間、米機動部隊がウルシーに何時帰るか必死に探りを入れていた。敵空母の動静を窺がう埼玉県の大和田通信隊、出撃命令を待つ神竜特攻隊、殺気を孕んだ数日間であった。

昭和20年7月下旬、旗艦のイ401が先行、一日おくれてイ400がこれを追い、両艦は作戦決行の直前、ウルシー沖で合流する。南下の途上、2隻が一度に沈められないようにという配慮からであった。7月22日の朝、眞夏の太陽が眩しく照りつけるなかを、イ401はゆったりと滑り出した。

「誓って名誉を挙ぐ」 の信号旗がなびいた。帝国海軍最後の奇襲作戦だった。嵐作戦の旗艦となったイ401のマストには代将旗が、艦尾には旭日の軍艦旗が翻った。津軽海峡を抜けたイ401は、速力をあげ、14ノットで南下、艦橋後部に立った有泉司令は腕組みしたまま、小さくなってゆく恐山に目をやっていた。これが彼の見る故国の最後の姿となったのである。

出港後の2日間は海上を、それ以後は、昼間は潜航、夜だけ浮上してバッテリーに充電した。「ウルシー攻撃」は8月7日、早朝に実施すると艦内に発表され、どっと歓声があがる。

401は八月上旬のある夜、浮上して艦内の汚れた空気を入れ替えていた。突如、非常ベルが鳴る。「総見配置につけー」の号令がかかつた時、艦は既に潜航に移っていた。あの巨体が30秒そこそこで水中に没するのだから、さすが日本海軍の秘密潜水艦である。

30分の間、敵の爆雷攻撃が始まった。至近弾で電灯が消え、艦が激しく揺れる。海底空母が経験する最初の爆雷攻撃であった。一時間後にも爆雷音が聞こえたが、かなり遠かった。

艦首では若い水測兵がレシーバーを耳にあて、四式水中聴音機を操作していた。この新兵器はイ400型のほかには「松」クラスの駆逐艦と一部の一等輸送艦だけしか装備していない。

敵艦のスクリュー音が全く消えたのは、翌日の太陽が昇ってからのことであった。2・3日後の夜明にも水平線上に敵影を発見して素早く潜った。艦長南部少佐が潜望鏡を覗き込むと、護衛なしで航行する大型タンカーだった。

「晴嵐」の整備が始まる。筒状の格納庫の内部に並べられていた水上爆撃機のロープが解かれ、整備員は慣れた手つきでフロートを機体から取り外し、エンジンの手入れを行った。

有泉司令は「彩雲」の偵察報告を待ちわびたが、予定の日を過ぎても入電はない。トラック島の彩雲に故障が続出した事など、有泉司令が知る由もなかった。

カロリン諸島東部のボナペ島の南方に浮かび上がってイ400の到着を待ったが、姿を現さない。一日待ちわびたが、やはり追ってはこない。

「よし1隻で決行しょう」。イ401は西進を開始した。ウルシー守備隊の注意は当然、日本側(北方) に向けられよう。その裏をかいてウルシーの東南方から特攻機「晴嵐」を発進させる計画であった。

このまま敵の背後から忍び足で接近しさえすればいい。あとは「彩雲」の偵察を待って、8月17日の早朝、水上機を出すだけである。

ところが、8月14日、醍醐中将から緊急無電が入った。「神竜特攻隊の突入日を25日に延期す」乗組員の顔には、ありありと不満の色が見えた。10日もウルシー沖に待機しているうちに、発見されたら、もう終りである。

連合艦隊では、米第38機動部隊がウルシーに帰る気配がないので、攻撃予定を延期したのであろう。前日の13日朝も、米空母は千葉県犬吠崎の東方僅か100浬に迫って、東京空襲の艦上機を発進させているからである。

8月16日の夜明け、イ401の艦内に「日本敗る!」の噂が流れ、大騒ぎとなった。敵前に潜航して機を窺がう潜水艦には、前日の終戦を知る由もなかったのである。

第6艦隊からの帰投命令で内地に向かいながらも、未だ敗戦は信じられなかった。食事が出ても、誰も箸をつけようとはしなかった。みんなが放心状態だった。司令も艦長も部屋に閉じこもったきりであった。

横須賀への帰途、8月20日にイ401は暗号書を焼却し、魚雷も砲弾も「晴嵐」さえも海上に投げすてた。涙なしには出来ない自らの武装解除であった。27日の深夜、艦橋の見張員が叫んだ。

「米潜水艦がみえます!」

401の半分もないアメリカ潜水艦が2隻跡を追ってくるのだ。1隻は「セグンド」という艦でイ401を巡洋艦だと思ったようだ。やがて彼らも実体を知り「ジャップのキングサイズの潜水艦だ」と、驚きの声をあげた。

セグンドの艦長ファルプ中佐は 「総員戦斗配置につけ」 の号令をかけた。そろそろ夜明け、あと2日で内地に入港できるのに……。米艦のマストに国際旗施信号があがる。「降伏せよ」 である。

401は速力を緩め、「セグンド」はぐんぐん近寄ってきた。

有泉司令は艦橋に立ち、米艦をグッと睨んでいた。

第1潜水隊にて、この作戦に参加した期友は、

   イ 401潜機関長付 福嶋 弘大尉

    400潜機関長付 森川恭男大尉

   イ 13潜機関長付 林清之輔少佐(戦死)

   イ 14潜機関長付  田清大尉

   第1潜水隊整備長  海原文雄大尉

   の計5名である。

 

昭和2010月1日、海227号海防艦機関長。比島、中国、満洲よりの引揚輸送に従事し、陸軍部隊及び在留邦人延約2万人を内地に輸送する。

昭和22年1月10日、引揚業務完了、復員帰郷する。

 

 座光寺一好教官

復員輸送完了後、焼土より復興の槌音が響き始めた名古屋に¨帰郷し、思案にくれていた時、一号当時の19分隊監事座光寺一好教官と邂逅し、商売も又眞剣勝負であり、弁当箱一つ売るにしても一騎打の心掛である。商売とはこうしてやるんだと訓示を受け、勇気づけられ、かつ、励まされた。爾後、座光寺教官には、時に教えを乞い、教官との雑談の中に心の糧を得て人生を過ごして釆ました。

先輩は道元禅師を心の師とし小松均先生に日本画を学ばれ、日本美術院の院友として、現在神戸市に在住画禅堂なるアトリエを持たれて居り、お尋ねする毎に車座となって道元の心を教えられて居ります。

従って今回の思い出の記の「詩画」は先輩の好意に甘えたものであり、読み返す度に、心を打たれ、禅の流れをひしひしと感じて居ります。又、座光寺教官発行の19分隊新聞には、「ある本で、イラクは嘗ての軍国日本の様に見えるが、クエートは将来の日本のような気もする」と言うようなことを書いてあった。馬鹿なことをと一笑に付することは易しい。だが考えてみよう。

「金持ちになって生活の苦しみはない。3Kといわれる仕事は外国人にやらせ、戦争はやらない、金だけ出す。軍隊はなく、万事は下手にでて謝って済ます。

こんな国に少少野蛮な国が無理難題を言ってきた時、即ちイラク的国家が日本に向かってきた時、日本に消滅の危機が無いと誰が言えるだろうか。魂の無い日本に自らの危機を救う道があるのか。そんな時我々が受けた教育の価値が見直される。そんな思いがするのです。

特に、戦死没者の思いを、再度、眞剣に考えねばならない様に私は考えるのです。」と警鐘を鳴らして居られます。

 

 やさしい環境作りに就いて

環境が破壊され、水と緑が消え、砂漠化されてゆく地球の悲痛な叫びを聞くと、人生の締めくくりとして、地球の環境浄化に取り組み、美しい地球を次の世代にバトンタッチしたいと、元愛知県環境部環境整備課長森田祐三氏の御指導を受け中電系のテクノ中部環境部共々身近な河川の浄化、生活排水の対策に取り組みつつデーターの整備を急ぎ要請あらば全国各地にて実施協力に当ろうと使命感に燃え決意して居る次第です。

 

 最後に、平成元年、國神社の神前にて奏上した祭文を揚げ、これをこれからの人生の指標としたいと覚悟して居ります。

 

 

謹んで海軍兵学校第72期、海軍機開学校第53期、海軍経理学校第33期の戦没者諸兄の英霊に申上げます

平成元年のなにわ会参拝クラス会に当りご遺族教官のご参加を頂きこの國のご神前に額づき、昭和1512月1日栄ある海軍生徒を拝命してより昭和18年9月15日勇躍出陣の日迄寝食を共にして、共に切磋琢磨した生徒館生活に帰り心静かに語り合い現況を報告し度いと生存者一同ここに相集いました。

今この國の杜に至高至純の尊い身を国に捧げられました兄らと共に、手を取り合って語り合い兄らの面影を偲びますと痛恨断腸の思いに耐えません。

蛍雪の功なり白装束に身を包み、悠久の大義に生きようとの決意も新たに太平洋戦争に馳せ参じ、海に空に陸に全力を振り絞って勇戦敢斗致しましたが護国の任を全うし得ず、はた又、さきがけられた兄ら殉国のみ霊のご加護もおよばず、昭和20年8月15日敗戦の日を迎えたのであります。

矛を収めて44年、兄らの御両親も既に鬼籍を数えられた方々が大半となりました。ご高齢のためここ國の社頭にお出かけ頂ける方も少なくなりました。まことに寂しき極みであります。

回天の勇士としてウルシー海域に散華された豊住和寿君は最後の出撃を前に呉水交社の庭園で静かに豊後水道の素晴らしい景色を称え、この美しい緑と水の祖国を生命にかえて守るのだとの言葉を残されましたが、彼の国を愛し家郷に思いを巡らした心底からの叫びが今尚耳菜に残って居ります。

兄らが悠久の大義に殉じ共に守り抜いたわが日本は世界第一等の経済大国とはなりましたが、緑と水に包まれた44年前の日本ではなくなりました。

現在では全世界に亙りフロンによるオゾン層の破壊が進み人類生存をも脅す萌しが芽生え始めました。美しい日本の美しい地球の緑と水を守り人類の生存を守って21世紀にバトンタッチすることこそ生き残った我々の務であると覚悟して居ります。

又 昭和1811月我がクラス総員の最後の集いとなったあの宮中参内と拝謁を賜った昭和天皇が全国民のご平癒の祈願も空しくこの1月7日崩御遊ばされ平成と改元されたのでありますが、この日は兄らが後に続くものを信じ命にかえて守り抜かんとした日本人の本質が発揚され戦後民主々義とか象徴天皇制とかの宣伝に終始して日本人の自由を束縛していたマスコミの幕がズタズタに破れた時でもありました。

御不例が続く間に他人の眼も自粛論議もものともせず全国各地の記帳所に出かけた人々の数は昨年暮迄に800万人を超えたと報じられ、天皇崩御の翌日1月8日の日曜日には全く自由に奉悼の意を表すべく人波は続々と皇居前に集まり続け、崩御後の10日間に皇居前だけで233万人を数えたと言はれました。

昭和60年の大行事 天皇の歌会始めお歌でも

遠つおやのしろしめしたる大和路の

歴史をしのび今日も旅ゆく

とお詠み遊ばしましたが、皇統は連綿として悠久の古代にも通じ生きている日本人だけの天皇ではないことを国民の前に示されたものであり、兄らの志が連綿として悠久に受けつがれて行くことが今回はっきりと認識されました。

今残された我々生存者は60代の半ばを越しましたが諸兄のご遺志を継ぎ殉国の大義を顕彰して、併せて国家の平和と繁栄と人類の生存のために微力を尽くし兄らの尊い犠牲に報いる所存であります。

願わくは在天の英霊末長く御加護を腸はりますように。

 

平成元年6月4日 

なにわ会代表 福嶋 弘

(機関記念誌253頁)

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