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平成22年4月18日 校正すみ

第1御楯特別攻撃襲撃隊の記録

(甲飛8期)西村 友雄

 はしがき

この記録は昭和191127日、サイパン島アスリート飛行場在地のB29の群を強襲、銃撃による破壊炎上を企図し、硫黄島基地を発進した252空、戦闘317飛行隊の「零戦」12機と、その誘導及び戦果偵察の任務を帯びて同行した752空偵察12飛行隊の「彩雲」2機の物語である。

この作戦で零戦隊12名中11名が戦死し、1名は攻撃前の故障でパガン島に不時着、彩雲隊2番機(3名)は消息不明、彩雲隊1番機のみ硫黄島に帰着した。

当時は、フィリッピン方面において特別攻撃が開始されてから約1ケ月を経ていたが、この零戦隊は出撃の時点ではサイパン特別銃撃隊と呼ばれ、従って特攻隊としての名称もなかった。しかし2週間後の191210日、戦死した11名は連合艦隊告示第75号によって第一御楯特列攻撃隊として全軍に布告、翌20年1月下旬新聞に公表された。

彩雲隊一番機の機長・南(たけし)少尉(旧姓深瀬、乙飛3期)は翌20年戦死し、操縦員広瀬正吾飛曹長(操練47期)と電信員西村友雄上飛曹(甲飛8期)が現存している。

昭和4810月、予科練之碑保存顕彰会会報第15号に、第一御楯特別攻撃隊の出撃直前の記念写真が掲載されたのを契機に、この作戦の経過を記録し、当日戦死された大村中尉以下14士の御霊に捧げると同時に、御遺族への報告とすべく、広瀬、西村の両名が記憶を辿り、防衛研究所戦史室の資料と同戦史室編纂の戦史叢書(45)を参考にしてこの冊子を作製した。

しかし、残念なことには、戦史室資料に戦闘317飛行隊関係の資料が見当らず、偵察12飛行隊の戦闘詳報及び両名の記憶による部分が多い為、記録の中心になるべき零戦隊の記述が少なく、総体的に彩雲隊側より見た記録になってしまったことである。

ただし、この攻撃隊に参加し、途中故障でパガン島に不時着した零戦隊員1名(氏名.不詳)は、恐らく終戦で無事復員されたものと思われるので、この記録発表により再会の機会を得て、より充実した記録に改めたいと念願している。

 

2 当時の戦況と作戦計画に至るまでの経過

大東亜戦争における日本の敗戦を決定的なものにしたのは、19年6月の「ア」号作戦の敗北・サイパン陥落であったが、その後間もなく、大本営海軍部は米軍がサイパンの航空基地を急速に整備し、B29による日本本土大空襲を企図するものと予想し、その開胎時期を1912月早々と判断した。

その後、9月23日新鋭高速偵察機「彩雲」によるサイパン・テニヤン両島の高々度写真偵察によって、サイパン島アスリート飛行場の滑走路が大型機発着のため約3,000米に延長中であることが確認され、102830日にはトラック島に対しB29 十数機による爆撃が行われた。そして11月1日、B29 1機が初めて関東方面の写真偵察に飛来し、首都上空を悠々飛行した後、南方海上に退去した。

この時私達は木更津基地において、飛行場直上の高々度を4本の白条を引きつつ北上する見たこともない大型機を呆然と見送ったのが未だに忘れられない。かくてB29の本土空襲は切迫しつつあったのである。

かねてB29の本土空襲を予想していた大本営海軍部は、レーダー及び本土南方洋上に配置する監視艇隊による早期発見と、防衛戦闘機隊による迎撃態勢を整える一方、積極的にマリアナ発進基地にあるB29を地上で撃破する陸海軍共同作戦を計画実施した。

即ち、11月2日、6日の両日、硫黄島を中継基地とした海軍の一式陸攻延12機、陸軍の97式重爆延12機、爆装司偵2機は折からの月明を利して夜間爆撃を敢行した。しかしその結果は、攻撃による炎上を認めてもB29の炎上であるか否かの戦果確認は不可能であった。(注)

そこで、マリアナ攻撃を担当していた第3航空艦隊(3航艦)はこのような夜間攻撃では不徹底であると考え、硫黄島から「零戦」で白昼強襲を敢行し、帰途は航続距離不足の関係上、サイパソ島北方約300キロのパガン島に着陸するという作戦計画が1116日に立てられた。このため館山基地の252空戦闘317飛行隊の大村謙次中尉以下12名の零戦決死攻撃隊が編成され、挺身攻撃の猛訓練が始められた。

このような情勢の内、1124日、米軍はB2980機で東京初空襲(主目標、中島飛行機武蔵野発動機工場)を行った。そこでいよいよ右作戦を決行することになり、3航艦司令長官寺岡護平中将は1126日、12機の零戦攻撃隊をその誘導戦果偵察の任に当る752空偵察12飛行隊の彩雲2機と共に硫黄島に進出を命じたのである。

 

3 作 戦 経 過

1126日、硫黄島北部の半地下濠に集合した零戦隊12名、彩雲隊6名計18名の搭乗員は、航空参謀等数名指導の下に次のような作戦行動の打合せをした。

@、 零戦隊は270800硫黄島を発進後、マリアナ諸島北部のアグリガン島まで彩雲1番機の誘導を受けそこで分離する。以後は米軍の電探を避けるため(特にアナタハン島には敵電探基地存在の見込み大と言われた)マリアナ諸島の列島線に沿って、その東方を列島の頂上を視認する程度離れ、高度50米以下で南下、アスリート飛行場を急襲、在地のB29を銃撃により炎上させる。攻撃予定時刻は1210

攻撃終了後は速かに北方に避退し、マリアナ諸島中部のパガン島飛行場に着陸する。同島には陸海軍合計約3,000名が守備していて、生還搭乗員は12月中旬潜水艦によって救出する。

A 彩雲1番機は零戦隊の誘導機としてその前方を飛行、アグリガン島付近で零戦隊が分離後は、列島線の西方約160qを、高度を上げつつ南下、零戦隊の攻撃開始予定時刻の10分後アスリート飛行場上空に達し、高度1万米以上で垂直連続写真撮影により零戦隊の戦果偵察を行う。偵察コースはテエヤン島南端より北上、サイパン島北端に達する直線コース

B 彩雲2番機(機長・操縦員江浪寅六少尉(13期予備学生)、偵察員藤川高雄上飛曹(乙飛16期)、電信員淵上大四郎一飛曹(甲飛11期)は途中まで零戦隊の後方を飛行し、1000頃単独でパガン島に先行、同島部隊が使用する暗号書等を投下、以後は1番機と同じく戦果偵察行動に移る。

 

◆ 思い出 @ ◆

〔広瀬〕

1126日の作戦打合せに参加して航空参謀の作戦行動に関する指示によると、零戦は目的地点到着後、超低空から一気に高度300米以上に上昇、そこから飛行場のB29に対する急降下銃撃行動に移り、第一撃で必ず1機を炎上させること、引き起して上昇反転、炎上を確認出来なければ同機にもう1撃を加える。1撃目で反転炎上を確認した際は第2撃目で次の1機を銃撃せよ。しかし何れにせよ第3撃目は行なってはならない。(これは対空砲火及び燃料消費等を考慮してのことと思われる)。

第2撃終了後は急ぎ飛行場を避退、次の目的地点(パガン島)に帰投不時着せよ。以上が打合せ時の零戦に対する命令のように記憶している。しかし打合せ終了後、零戦隊員が弾丸を撃ち尽すまで何撃でも銃撃を繰返すと話合っているのを聞いた。

 

〔西村〕

作戦打合せ終了後、参謀の一人が、傍の若い零戦隊員数名に、「パガンに戻るためには、零戦の燃料搭載量ではサイパン上空で5分間しか行動出来ないが(接敵行動中の超低空飛行では燃料消費が著しく増えるため)どうするか」と尋ねた処、全員が何の躊躇いも無く「突込みます」と異口同音に答えたあの声は、30年を経た今日でも私の耳に鮮やかに残っている。

×   ×   ×

1127日早朝、硫黄島第2飛行場に集合した18名の搭乗員は、寺岡長官の訓示と激励を受けた後、記念撮影を終ると直ちに夫々の乗機に搭乗した。0800まず彩雲2機が第1飛行場を離陸、上空を緩やかに旋回する間に、第2飛行場を発進した零戦隊がこれに合同、彩雲1番機を先頭に零戦12機の編隊、その後方に彩雲2番機が随伴するという隊形を組み、0810硫黄島を後にサイパン目指して進撃を開始した。進撃高度は、3,200米であった。

 

◆ 思い出 A ◆

〔広瀬〕高々度飛行と誘導飛行について

@ 昭和1812月、私は横須賀航空隊に着任直後から試作機彩雲の実用試験に従事、以後、数回高高度飛行に参加したが、過給器を1速から2速に切り替え後、8千米から1万米迄の上昇方法が、ややもすると時間的に急ぎ勝ちとなり、失速の恐れがある(これをやると急降下し空中分解の危険がある)。

なお、高度8千米付近での上昇飛行中は敵機に狙われる機会でもある。彩雲2番機が当日打電も出来ず未帰還になったのは恐らくこの何れかであると思う。

以前にもこの様な状況らしい未帰還が数回あり、当時私は偵察12飛行隊の全操縦員に対し、「彩雲は6千米から1万米以上に達する迄は、操縦員・偵察員・電信員三者一致して特に見張りに注意、敵機に発見される前に敵機を発見したならば、直ちに上昇を止め、水平全速飛行にて一旦避退、三者安全を確認の上再度急速に上昇飛行に移らなければならない。

勿論この間の燃料消費の計算には充分注意、燃料コックの切替えを間違っては(左右のタンクを平均に使用する)自滅の危険がある、上昇を急ぐ程機首を抑える積もりで、即ち速力に余裕を持って上昇することと」など・・・

以上の要点を特に講義した事を記憶している。

A 零戦を誘導するには零戦の巡航速度に合せるため、彩雲は巡航速度180ノット(330q)なので40ノット近く速度を落さねばならない。このため離着陸用のスロット翼かフラップ翼を少々有効に使用して速度をコントロールしないと、自分で失速まではならずとも操縦が難しいが、かと言って1番機は、ジグザグ航法操縦は許されない。

 

〔西村〕

誘導飛行中、機長南少尉と広瀬飛曹長の会話から、広瀬飛曹長が誘導速度保持に苦心している様子がはっきり感じられた。彩雲2番機は零戦の巡航速力に合せるのが困難なため、その後方をゆっくり右に左にとジグザグに随伴していた。

開戦後2年位は敵戦闘機に対し絶対優勢を誇り、全戦域を制した零戦の性能も、この頃は優劣逆転しつつあり、日本海軍の栄光の翼をこのような決死的作戦に使用せざるを得なくなった戦局を思うと感無量であった。

しかも、一応の帰還計画はあっても、零戦隊全員が全く生還を期せず、決死の覚悟である事を知っていたので、飛行中後続の零戦隊を見守るように後方に向いた電信席に坐っている私は、その悲壮な雄姿を永久に瞳に焼きつけておこうと凝視したものであった。

×  ×  ×

 1000、彩雲2番機はパガンに先行すべく予定の分離行動に移り忽ち視界から消えた。間もなく左前方断雲の下にマリアナ諸島最北端の火山島ウラスカが見えてきた。頂上から白い噴煙がゆるく棚引いている。

1040、アグリガン島の手前で零戦隊1番機大村中尉は3、4回バンク(翼を左右に交互に傾けること)するとみる間に、緩やかに左に翼を傾け降下姿勢に入り、列機11機がそれに従う。いよいよ別離の時である。我等3人声もなく挙手の礼でこれを送る。見る見るうちに12機の零戦は小さくなり、点となり、忽ち視界から消えた。

ただ1機になった彩雲1番機は列島線西方を、高度を上げつつ南西に飛び、列島線から約160km離れた地点から南下する。間もなく広瀬飛曹長から見張りを厳にするよう指示があり、高度5,000米で酸素マスクを着用する。高度7,000米付近で増槽を投下し更に上昇を続ける。テニヤン島西南西の地点まで南下した後、左に変針一気にテニヤン島に向う。零戦隊の攻撃開始予定時刻1220にはテニヤン島南端上空10,450米の高度で偵察コースへ進入する。同時に機長南少尉は垂直写真撮影用の固定航空写真機K8型の自動撮影スイッチを入れた。周囲には雲一つない絶好の天候で直下のテニヤン・サイパン両島共その全貌を我々に見せていた。テニヤン島を通過、サイパン島上空へ侵入する。もうそろそろ零戦隊攻撃による黒煙が見えそうなものだが何の変化もない。

今か今かと待つうちにサイパン島北端を航過するも異常を認めない。計画ではそのまま帰途につく予定であったが、敵戦闘機激撃の兆候が認められないので180度旋回、今度はサイパン島の北端から南へ向う。1240テニヤソ島南端に達する間も依然としてサイパン島に変化がない。

この2航過で18センチ×24センチのフィルム115枚全部を撮る。機長南少尉はこれ以上の偵察行動続行不能(燃料・酸素の残量等から)と判断、残念乍ら戦果偵察を断念、帰途についた。

 

◆想い出 B◆

〔広瀬〕

サイパン上空に30分以上、敵機に対する心配もなく、高射砲の弾丸も届かない高度1万米以上で悠々飛行したと云うことは、彩雲の性能を100%発揮したことになる。銃撃予定時刻を30分以上待つとも状況確認が出来なかったが、これ以上高々度飛行を続けることは、燃料・酸素・温度(零下30度)の関係上、許されない。折角撮影したフィルムを硫黄島まで持ち帰るためには残念だが帰途につかざるを得なかった。

 

〔西村〕

写真撮影に入り、固定写真機を垂直に保持する私の手には、10数秒置きに作動するシャッターと、フィルム巻き上げの動きが感じられる。機はピタリと定針したまま飛ぶ。

空気が稀薄なため、爆音も伝声管の声も聞えない、静寂そのものの1万米の高々度では、空中の一点に静止し、時の流れも停止しているような奇妙な錯覚が生じ、思わず胴体の下にあいている写真窓と固定写真機の僅かな隙間から直下の島を見る。

ゆっくりと風景が後へ流れるのを見て一安心。この頃には摂氏零下30度の機外の寒さは、夏の飛行服のままの我々の体を冷し、膝から股にかけてジーンと痺れさせ、指は凍えて思うように動かない。

高々度から眺めたサイパン島は、北西地域のサンゴ礁であろうか、黄緑の絵具を溶かしたような色鮮な海面。濃緑の森林、茶色の大地で彩られたサイパン、テニヤンは、飛行場と俺体に点々と見える数百の飛行機等がなかったら戦場を感じさせない風光明眉そのもので、数ヶ月前の死闘が信じられなかった。

サイパン、テニヤン上空の30分は、零戦隊攻撃による黒煙を求めての焦立ちの裡に経ってしまったが、零戦隊は無線連絡を取らずに奇襲攻撃する打合せであったから致し方なかったものの、上空を離脱する時は後ろ髪を引かれるような気がしてならなかった。

×  ×  ×

帰路は敵戦闘機の攻撃圏を脱した後、「偵察終了、我帰途につく」の打電をしてから、パガン島の情況を確認するため、1325、高度1,000米で島の上空を飛び、飛行場に不時着している零戦1機を認めた。

1517 硫黄島第1飛行場に帰着、機長南少尉は直接寺岡長官に情況を報告この日の任務は終った。

 

四 その後の情況

このあと我々は彩雲2番機の帰還を飛行場で待ち続けたが、燃料切れの時刻を過ぎるも遂に帰らなかった。2番機はパガン島に暗号書を投下後、戦果偵察に向ったところ迄は確認されているが、無線連絡のない儘その後の消息は全く不明である。

 

我々が硫黄島に帰着後知らされたことは、

@、硫黄島無線室が傍受していたマリアナの米軍放送は我々がテニヤン上空を離脱した時刻から暫くして、急に慌てた口調で零戦隊がサイパンに接近した日本軍空母から発進したものと判断し、その空母に対する索敵機を出すようにとの命令も聞えたと云う。

A 列島線東方を超低空で南下中の零戦1機が、プロペラで波を叩き、プロペラの先端が変形、飛行困難となり攻撃を断念、パガンに不時着したとの連絡があった。(我々が帰途視認したのはこの機である。これは甲飛11期の松下武男君であり、彼は潜水艦で脱出したが、2月16日東京上空で戦死したことが、つい最近判明した)。

B B29を攻撃した零戦11機中の1機だけがパガンに戻ってきたが、搭乗員(氏名不詳)が被弾していた為、着陸時椰子林に突っ込み炎上戦死した。

 

翌日、航空参謀三沢少佐から「この攻撃は特攻隊と同じであるから、何とかして戦果を確認してやりたい」と言われ、零戦隊がサイパンに接近し2930日と2回サイパンへ飛んだ。この2回の操縦員は風邪で飛行不能になった広瀬飛曹長に代って、3番機(2番機行方不明のため、28日に増援機として木更津から飛来)の神崎十四春上飛曹(乙16期)であった。

しかし29日は島の上空に多量の雲があり、殆んど地上が見えず、30日はアナタハン島近くまで行ったが、エンジン不調の為引返し、遂に戦果確認を果すことが出来なかった。

27日のサイパン・テニヤン両島撮影フィルムは現像の為、直ちに木更津に送られ、航空写真地図に作製・解読したところ、B29 百数十機、P51・P61等約2百機、その他軍事施設の所在が明かにされた。この航空写真は間もなく天覧の栄に浴したと聞くが、我々ペアも見せて貰い、偏流修正もほぼ正確でサイパン、テニヤンの全貌を余すところなく捉えてあったので安堵した。  

本攻撃の戦果確認に意をつくした大本営海軍部は、後に東京空襲で撃墜したB29搭乗員から「攻撃隊は極めて低空で来襲し、地上のB29に対し、3度繰返し烈しい銃撃を行なった」との証言を得たという。

実際の戦果は、戦後の米軍側資料によると、B29 4機を破壊、6機に大損害を与え、22機に小損害という大きな戦果を挙げた。この為、第21爆撃団司令官ハンセル準将はアスリート飛行場のB29をグアム島に移動分散する処置をとり、硫黄島攻撃の強化を計画した。

然し、零戦隊12機中11機、彩雲隊2機中1機計12機が未帰還になったことは、この種攻撃の続行を困難とし、以後零戦によるマリアナ攻撃は一度も実施されなかった。

― 附 ―

機密 連合艦隊告示(布)第75

(昭和191210日)

第一御楯特別攻撃隊

戦闘第317飛行隊附

海軍中尉     大村 謙次

海軍飛行兵曹長 以下略 10

 

昭和191127日戦闘機を以て長駆「サイパン」島「アスリート」飛行場を急襲し、熾烈なる防御砲火並に敵戦闘機の妨害を意とせず、所在B29に対し、挺身必殺の低空銃撃を数度に亘り反覆して、大なる戦果を収めつつ壮烈なる戦死を遂ぐ、殊勲を認め全車に布告す

 

− 解  説 

〔零戦〕=大東亜戦争が始まるや、大航続力、上昇力、空戦機能、最大速度の優秀性を生かし、全戦域に亘って大活躍、「ゼロ」ファイターと呼ばれ米英のパイロットから恐れられた。その栄光の翼も敵新鋭戦闘機の出現に抗し得ず、遂には250sの爆弾を抱いて敵艦に突入を命ぜられ幾多の若者と共に散っていった。

〔彩雲〕=開戦後設計され実戦に参加した唯一の軍用機で、19年6月敵メジュロ基地の偵察に始めて使われた。高度1万米以上の連続飛行、4,000km以上の航続力、650kmの最大速度を駆使し、敵基地の写真偵察・敵機動部隊の索敵等、終戦迄航空作戦の偵察任務を一手に引受けた。広瀬飛曹長は19年9月のサイパン偵察の時、同高度でP38数機に発見され追跡を受けたが、全速を出して10分位でP38を引き離した事があったそうで、彩雲の性能に絶対の信頼を持っていた。

(なにわ会ニュース3220頁 昭和50年3月掲載) 

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