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平成22年4月22日 校正すみ

ブーゲンビル島沖航空戦について

  

(拙著「空母瑞鳳の生涯」を補完する報告)

 平成17年6月 記述

桂 理平

空母 瑞鳳

まえがき

 平成1110月、太平洋戦争終結以来私は胸に秘めていた「空母瑞鳳の生涯」を出版する宿願を達成したのであるが、顧みるに資料の収集が充分でなかったり、詳しい記録の公表が遅れたりして、次の2つの戦闘について納得の行く記述が出来ていなかった。

 

ブーゲンビル島沖航空戦

昭和1810月下旬から米軍はソロモン諸島の基地航空部隊に加えて新編の強力な機動部隊を動員して、わが軍のソロモン方面の最大基地であるラバウルを航空攻撃して無力化することを目的にして、ブーゲンビル島の中部西岸にあるタロキナ岬に飛行場を開設するために、有力部隊の上陸作戦を開始した。

この時から約10日間、ブーゲンビル島を中心にして日米の航空決戦が行われ、わが軍の悪戦苦闘の戦闘が続いたが、残念ながら敗北に終わったのである。

瑞鳳が所属する第1航空戦隊(略して1SF)の飛行機隊はトラックからラバウルに進出して、勝敗の鍵を握る切り札としてこの激戦に参加したので、詳しく記述したいと思う。

 

空母冲鷹(ちゅうよう)の遭難

ブーゲンビル島付近での戦闘の激化に伴い、空母瑞鳳等が内地から飛行機や軍需資材をトラックに運び、帰りにはソロモンからトラック島に引き揚げて来た傷病兵や転勤者(1航戦の整備兵を含む)を乗せて内地に運んだ。その船団は当然敵の潜水艦に狙われる事になった。

瑞鳳と大型豪華商船を改造して出来た空母(うん)(よう)とその姉妹艦(ちゅう)(よう)とラバウルで損傷し応急修理をした重巡洋艦摩耶が船団を組んでトラック島を出発し内地に向かう途中、昭和1812月4日、八丈島東方で、季節はずれの台風並みの暴風雨の中で、敵潜の雷撃を受けて冲鷹が撃沈された。

嵐の中での遭難であったから当然生存者は極めて少なく、長い間乗組員の遭難の実情が不明であった。

然しながら江藤副長と運用長阿土(あづち)拓司(たくじ)大尉他少数の人が奇跡的に生還しておられ、その証言を集めて、平成13年8月に、長い沈黙を破って「痛恨の航跡―空母冲鷹よ 安らかに眠れ」と題して出版された。

最近、この事実を知ったが、江藤氏は既に物故されているので、阿土氏の了解を得て、ここに紹介させて頂く次第である。

改めて戦没者の霊よ、安かれとお祈り申し上げます。

 

 

ブーゲンビル島沖航空戦

 

 第1航空戦隊(1SF)の再建の概況

(1) 1SF飛行機隊「い」号作戦に出撃す

(2) 右の作戦後の1SFの再建

(3) 搭乗員と整備員の訓練

(4) 搭載した飛行機の内容

 「ろ」号作戦の発動と米軍のタロキナ岬へ上陸

(1) 敵機動部隊を求めてGFがマーシャル方面に出撃

(2) 「ろ」号作戦の発動の経緯
 (3)
タロキナ岬沖に侵入、上陸を開始

 ブーゲンビル島沖海戦(夜戦)

(1) わが海上艦隊出撃するも(1回目)、会敵せず(1031日夜)

(2) 2回目の出撃により海上艦隊同志の夜戦が起る

 

 ブーゲンビル島沖航空戦

(1) 敵輸送船団及び夜戦部隊に対する航空攻撃とラバウル空襲の迎撃戦

(2) 栗田部隊(2F)のラバウル進出とその戦闘

(3) 第1次ブーゲンビル島沖航空戦

(4) 第2次ブーゲンビル島沖航空戦

(5) 敵空母機のラバウル空襲と第3次ブーゲンビル島沖航空戦

(6) 瑞鳳零戦隊の戦闘の概略

(目次 終)

ブーゲンビル島沖航空戦

 第1航空戦隊(1SF)の再建の概況

(1) 1SF飛行機隊「い」号作戦に出撃す

正式空母瑞鶴、翔鶴に小型空母瑞鳳を加えた第1航空戦隊は第3艦隊(3F)司令長官小沢治三郎中将直率の精鋭部隊であった。その飛行機隊は昭和18年4月2日、空路ラバウル基地に進出し、ソロモン諸島とニューギニア東部からの敵米軍の反攻を撃退する航空戦の主役を演じ、わが基地航空部隊の飛行機との合同作戦を行った。これを「い」号作戦といい、戦局の逆転を賭けた作戦であった。

4月7日から十4日までの間、ガダルカナル島やニューギニア東部のポートモレスビー、ミルン湾、ブナの敵航空基地を攻撃して相当の戦果を挙げたと認め、GF山本長官は16日作戦終結を宣言した。

 

零戦隊と艦爆隊の被害が多かったが、出番のなかった艦攻隊は無傷であって、可動のすべての飛行機は命令により18日までにトラックに引き揚げた。

山本長官は前線の海陸軍の将兵を慰問激励するために、180600、一式陸攻に搭乗して零戦6機の護衛の下にラバウル発、ブイン南方のバラレ基地に向かった。

0740頃、双胴の戦闘機P-38の集団が突然現れて、乗機が撃墜され、同乗の数名の参謀諸共に戦死されたことはよく知られた事実である。

 

(2) 第1航空戦隊(1SF)の再建

 

「い」号作戦によるダメージから立ち直るために、5月3日に1SFはトラックを出港して内地に向かった。瑞鳳は佐世保において兵器の増設と整備を行い、飛行機隊は九州の航空基地で人員と飛行機などを補充しつつ猛訓練を行い、急いで再建を完成することになった。

瑞鳳は更にドックに入って艦底の牡蠣(かき)の除去作業を行うと共に、飛行機の発着艦を容易にする為に飛行甲板を艦首部で約20米延長する工事を実施し、全長が約200米になった。

3空母の整備が完了したので、一旦呉軍港に集結して出撃準備を完了して、航空基地にあった飛行機を母艦に収容して、7月9日内海西部を出撃して、トラックに向かい、15日に無事入港した。飛行機隊は入港の前日母艦を飛び立ってトラック環礁内の航空基地に着陸した。引き続いて厳しい訓練が懸命に行われた。

 

(3) 搭乗員と整備員の訓練

搭乗員は各空母に所属しており、例えば瑞鳳乗組員と呼んだ。然し、飛行訓練は戦隊でまとめて陸上の基地で実施して、いざ出撃となれば当然所属する空母に乗って出撃した。

航空戦となれば各空母から発進して、上空で編隊を組み攻撃に向かった。

整備員は空母にあって受持ちの飛行機の整備に当たった。艦内での整備作業は波浪による艦の動揺があり、狭い場所で作業を行うので熟練と機敏さが要求された。このように特別な技能を修得しているので、空母機関係員を陸上で使用することは出来るだけ避けるべきで、洋上の航空決戦にこそ使用されるべきであった。

 

(4) 1SFが搭載した飛行機の内容

3隻の空母に搭載した飛行機の機種、数量は次のようであった。

艦名 零式艦戦 99艦爆 97艦攻 彗星艦偵 合計
瑞鶴 32 22 16 3 73
翔鶴 32 23 16 3 74
瑞鳳 18 0 8 0 26
合計 82 45 40 6 173

2 「ろ」号作戦の発動と米軍のタロキナ岬へ上陸
(1)
敵機動部隊を求めて、GFがマーシャル方面へ出撃
敵空母機のウエーキ島への空襲やハワイ方面での無線通信の傍受による判断で、古賀GF長官は1SFを主体としたわが艦隊を率いて10月にマーシャル方面に出撃し索敵したが、敵を捕捉出来なかった。空しく根拠地トラックに引き揚げてきたのが1026日の夕刻であった。


(2) 「ろ」号作戦の発動

1027日早朝、ブーゲンビル島南端のわが重要な基地ブインに展開していた第8艦隊長官は、すぐ近くのモノ島の守備隊から敵部隊の上陸を知らせると共に連絡が絶えたと、ラバウルの南東方面艦隊の草鹿長官に報告した。

敵の大規模攻撃の前兆と判断した草鹿長官は、この事実を緊急電報で古賀GF長官に報告すると共に、自隊の実働飛行機数が現在84機(零戦71機、艦爆13機)であることを報告し、反撃能力の不足を訴え1SFの飛行機隊の派遣を要請した。

GFは従来、何回か増援の要請を受けたが、過去に空母機を陸上戦に投入した失敗(い号作戦の事)に懲りてその時でないと拒絶していた。

然し今回はマーシャル方面に出撃したが、会敵せず空しく帰還した古賀長官は短期の派遣を容認する方向に心境が変化したようであった。

 果たせるかな、翌28日に重大な決定が発せられた。

 10280800、「1SF飛行機隊はソロモン方面救援の為に出来るだけ速やかに空路ラバウルに出動すべし」とのGF命令が出た。即ち、「ろ」号作戦が発動されたのである。

 1SFは3空母をトラックに残したまま、11月1日夕刻までに全飛行機を空路ラバウルとカビエンの航空基地に進出させた。

 

(3) 敵輸送船団タロキナ岬沖に侵入、上陸を開始

わが索敵機が1031日朝、モノ島沖に敵の有力な輸送船団を発見した。草鹿長官は新しい攻勢の開始ととらえて、直ちにラバウルの航空部隊と海上部隊にこの船団の攻撃を命じた。

先ず、航空部隊は同日午後、薄暮攻撃隊を2波に別けて出撃させたが、敵を発見することが出来なかった。

海上部隊は航空勢力の劣勢な味方の現状から判断して、得意とする夜戦を挑み砲戦、魚雷戦によって撃破する作戦を立てた。

同時刻頃、海上部隊もラバウルを出撃して、真夜中モノ島付近に進出して、積載している観測機を射出して敵船団を探したが、発見できず、やむなく同じ航路を戻り1日午前中にラバウルに帰着した。

昨日日本索敵機に発見されたが、攻撃を免れた敵輸送船団は11月1日早朝、駆逐艦以下の艦船に守られてブーゲンビル島西部中央のタロキナ岬沖に達し、上陸作戦を開始した。

 

  ブーゲンビル島沖海戦(夜戦)

 (1) わが海上艦隊出撃するも(1回目)、会敵せず。

31日の海上艦隊の行動をもう少し詳しく説明すると

ラバウルにいた第5戦隊(5S)重巡妙高、羽黒と第3水雷戦隊(3Sd)軽巡川内、駆逐艦文月、水無月、時雨、5月雨、白露の8艦を率いた5S司令官大森少将は同日午後ブーゲンビル島の西方を通ってモノ島近海に達して、搭載の観測機を飛ばして敵情を索敵したが、輸送船団を発見出来ず、やむなく反転して、来た時と同じ航路を戻り1日1020にラバウルに帰着した。この日は残念ながらわが方の一人芝居に終わった。

この時点における米軍の行動は次のようである。

指揮官メリル少将が率いる新造の大型軽巡4隻と駆逐艦8隻の海上部隊が31日日没後から、ブ島の北西部にあるわが根拠地ブカ島を約2時間艦砲射撃した後、急ぎ移動して、翌11月1日早朝にショートランド島のわが軍基地を猛烈に艦砲射撃した。

又、指揮官シャーマン少将が率いる空母サラトガとプリンストンを含む機動部隊がブカ島に近づき、その空母機が1日、2日にわたり空襲し、その上ソロモンの基地から発進した敵の飛行機がブイン、ブカの両基地を空襲して、わが方の反撃を封殺しようとした。

 

(2) 2回目の出撃により、海上艦隊同士の夜戦が起る

11月1日午前にラバウルに帰還した5S司令官大森少将は直ちに上司の南東方面艦隊司令部と作戦打ち合わせを行った結果、在ラバウルの可動全力を率いて再出撃し、タロキナ岬沖に出現した敵輸送船団とその護衛艦艇を撃破すると共に、陸軍の上陸部隊を乗せた輸送隊(駆逐艦4隻に分乗)がタロキナ岬付近に逆上陸する作戦を支援する任務を与えられた。

 その兵力を示せば次のとおり。

総指揮官 大森仙太郎少将

 本隊     妙高、羽黒(5S)

 第1警戒隊

司令官 伊集院少将

軽巡川内 駆逐艦時雨、5月雨、白露(3Sd)

 警戒隊  

司令官 大杉少将

新鋭軽巡阿賀野 駆逐艦長波、初風、若月(10S)           

 輸送隊 

駆逐艦天霧、夕凪、文月、卯月

 

1日1500に各隊は出撃したが、途中で輸送隊は上陸用に使う小発を積んだが意外に時間がかかり、遂に予定の時刻に目的地に到着が困難な状況になった。

大森指揮官はこの状況をラバウルの司令部に報告したので、輸送隊は攻撃を取り止め帰還を命ぜられたが、敵輸送船団の攻撃は断固として完遂すべしと重ねて命令された。

2000頃、航行中の川内は爆撃を受け被害はなかったが、敵機に触接されたことを知った。この触接機の報告によって日本艦隊の南下を知った敵将ハルゼー提督は1日朝、ショートランドを砲撃したメリル隊に休む間も与えず再出撃を命じた。珍しく量に於いて優勢な日本艦隊に危機を感じて、果敢な突撃を命じたのであった。

その兵力は次の通りであった。

総指揮官  メリル少将

主隊 

軽巡モントピリア、クリーブランド、コロンビア、デンパーの4隻

この4隻は新造の最新式艦で排水量は1万トンで重巡並の大きさであるが、主砲が15.2p口径砲であるので軽巡と呼ばれた。

主隊の右側にはバーク大佐の指揮する駆逐艦オースバーン、ダイソン、スタンリー、クラストンが位置し、主隊の左側にはオースチン中佐の指揮する駆逐艦スペンス、サッチャー、コンバーユ、フートが位置して出撃し、一路タロキナ岬沖に急行した。

当時、わが重巡には対空電探(レーダー)を搭載していたが、水上射撃については役立たなかった。

 

日本隊は重巡から飛び立った触接機によって敵発見の第1報を受けた。触接機が投下した吊光弾の光芒の下に敵を発見し、旗艦妙高は更に照明弾を発射して敵の艦影を確認した。

米国隊は精密な射撃用レーダーを使ってわが艦隊を比較的遠距離に発見し、その方位と距離を測定し砲戦の準備を整えた。

戦闘は11月2日0050頃に始まり混戦となり、約1時間続いた。先ず、砲戦から始まり、次いで魚雷戦が行われた。

大森司令官は本隊が中央を進み、左側を第1警戒隊が、右側を第2警戒隊が進み敵主力の軽巡群を攻撃したが、メリル少将はバーク隊を北方に分派して日本隊を挟み撃ちにするように行動した。

日本隊で敵に最も近くへ進んだ川内と初風が大きな損害を受け、混戦の中で5月雨と白露が衝突して損傷し、羽黒もかなり被弾した。米国隊はデンパーとスペンスが撃破され、フートが雷撃により艦尾を切断された。

大森司令官は以上の戦闘中にもかかわらず、夜が明けてからの敵機の来襲を回避出来る限度の時間と考えて、0130、全艦の引揚げを命令した。

敵は直ちに追撃に移り、損傷して残っていた初風を撃沈したが、敵も夜が明けてからの日本機の空襲を恐れて深追いを止めて引き揚げた。

敵に最も肉薄した川内は集中砲火を受けて主機械が停止、舵が故障したが、応急員の処置が適切で戦闘終了後も頑張ったが、0530頃無念にも沈没した。

残余の日本隊は0920ラバウルに帰着し、損傷した白露と5月雨も自力で同日午後無事に帰還した。

従来の夜戦でもそうであったが、この夜戦では米国隊のレーダーの利用が断然優れており、わが方は吊光弾や照明弾を利用して戦った。見張り兵器の優劣がはっきりしたと思う。

更に、駆逐艦の使用について米国隊に積極性があったように思われた。

戦闘は互角のまま双方が引き揚げたが、わが方の目的とするタロキナ岬沖に停泊中の輸送船団には一指も染めることが出来なかったのは千載の痛恨事であった。

更に、日米の海上艦隊が夜戦において全力で戦ったのは今回が最後になった。記念すべき海戦と言うべきであろう。

 

 ブーゲンビル島沖航空戦

(1) 敵輸送船団及び夜戦部隊に対する航空攻撃とラバウル空襲の迎撃戦

1日早朝の敵輸送船団のタロキナ岬沖侵入はいち早くブインの第8艦隊から南東方面艦隊に報告された。

ラバウルの基地航空部隊の零戦40機と艦爆9機は出撃しタロキナ沖の輸送船団を爆撃した。敵は迎撃の多数の戦闘機を上空に配していたが、零戦が之と戦っている間に艦爆が輸送船を爆撃した。

米側の資料によると、至近弾により若干の被害があったので、揚陸作業を2時間ほど中断させた程度であったと記録している。

輸送船12隻の内8隻は夕方までに荷役を終り、約14,000名の海兵隊と軍需品約6,000トンを陸揚げした。

この日、既に述べたように1SF飛行機173機は1600までにラバウル方面に進出していた。敵の有力部隊の出現により早くもタロキナ方面での戦闘に投入される事になった。

真夜中にブーゲンビル島沖夜戦を闘って引き揚げ中の敵艦隊を狙って1SFと基地航空部隊は2日0430、ラバウルを発進した。

兵力は零戦65機(瑞鶴25、翔鶴24、瑞鳳16)、99式艦爆18機(瑞鶴9、翔鶴9)と基地航空部隊の零戦24機であった。

先発の索敵機が発見していた新鋭軽巡3隻、輸送船2隻、駆逐艦その他を攻撃した。ソロモンの敵基地から上空護衛に来ていた10数機の戦闘機と交戦すると共に、わが艦爆18機が急降下爆撃を敢行した。

敵の主力である新鋭軽巡の15.2サンチの主砲と駆逐艦の12.7サンチの高角砲の発射速度が向上している上に、新兵器VT信管を弾丸に装備して命中率を飛躍的に向上させていた。

この中でわが艦爆は勇敢に突っ込んでゆき命中弾を投下したが、残念にも6機が帰らなかった。

戦果は巡洋艦1、輸送船2に火災を起こさせ、駆逐艦1を撃沈しF4U戦闘機6を撃墜したと報告した。米側では旗艦モントピリアに爆弾2発が命中したと記している。

攻撃隊は0800頃ラバウルに帰還して再出撃を準備していた時、1140からニューギニアを基地とするB-25(中型爆撃機)76機とP-38(双胴の戦闘機)約80機の奇襲を受けた。

1SFの零戦58機(瑞鶴21機、翔鶴25機、瑞鳳12機)、基地部隊の零戦74機は直ちに反撃に飛び立った。指揮官として瑞鳳飛行隊長佐藤大尉が当たったと記録に見える。壮烈な大空中戦になった。

この戦闘を大本営は次のように国民に発表した。

「未曾有の敵機約250機が来襲したが、わが方は全力を挙げて応戦し、戦果として航空部隊が127、海上部隊が51、地上部隊が23機を撃墜した」と発表したが、不確実な数字を並べたと信用されなかった。各部隊の報告をそのまま集計した数字で、実際には重複することが多いので50乃至60機位というのが正しいと考えられた。わが方の損害は未帰還機が18機であったと記されているが、これは余りに少ないと疑いたくなる数字である。

戦闘は迎撃の最後の零戦が着陸した1430頃までの約3時間半で終わった。タロキナ沖への出撃は攻撃が夜間になるので、取り止めになった。

 

(2) 栗田部隊(2F)の進出とその戦闘

 古賀GF長官は11月1日、栗田部隊は準備でき次第ラバウルに出撃せよと命じた。

タロキナ岬に有力部隊が上陸したとの報に接し、1SF飛行機隊の戦果を拡充する為には海上部隊の投入が必須の事と判断したものであろう。

敢えて批評すると、今回の航空戦においては最精鋭の飛行機隊を投入したのだから、わが方の認識は必ず有利に展開すると楽観していたと思われる。

 栗田長官は4S(愛宕、高雄、摩耶、鳥海)、7S(鈴谷、最上)、8S(筑摩)、2Sd(軽巡能代、玉波、涼波、藤波、早波)を率いて3日朝、トラックを出撃した。5日0600ラバウルに入港し直ちに各艦に燃料の補給を始めた。

現地の草鹿長官は、栗田部隊の進出はタロキナ岬での戦闘の結果や「ろ」号作戦の経過を見極めた上での派遣を希望すると意見具申している。更に言うと戦後の草鹿さんは「当時はラバウルに対する空襲は激しさを増しており、艦艇の進出はとんでもない状況で、来るなとは言えないが、来ない方がよいと思う」と打電したと語っておられる。

さて、栗田部隊はラバウル入港の前日4日午前からB-24(4発の大型陸上機)に発見されて、入港まで触接され行動を全て知られてしまった。

この報告を聞いた敵将ハルゼー提督は大いに驚き、緊急に対策を練った結果、シャーマン隊(空母部隊)に4日夕方緊急出動を命じた。

シャーマン隊の空母は既述のようにサラトガとプリンストンだが、直ちに出動して予定の地点に達して、全力(F6F、52機、TBF、23機、SB2C、22機)で5日0900ラバウルの栗田部隊を空襲した。空母機は全部攻撃に出動させ、自隊の上空直衛はソロモン基地の戦闘機にゆだねるという徹底した攻撃姿勢であった。

迎撃に飛び立ったのは1SF零戦47機(瑞鶴15、翔鶴17、瑞鳳15)と基地部隊の零戦24機であり、艦船や陸上防空隊も応戦した。空母機が引き揚げた後、ニューギニアからのB-2427機とP-3867機の陸上機が来襲し、艦船を爆撃したが、これはほとんど被害がなく1100頃に去っていった。

この交戦の結果は撃墜がF6F、28機、SB2C、12機、P-38が7機、B-24が5機と発表された。味方の損害は零戦4機が未帰還になったと記録にある。

然し、停泊中で燃料補給中の艦船が必死の防御砲火の抵抗も空しく甚大な被害を受けた。旗艦愛宕を始め高雄、摩耶、最上、筑摩と新式軽巡阿賀野、駆逐艦若月、藤波等が大、中、小破された。

幸いに沈没はなかったが、最早ラバウル港には艦船が安全に停泊できないと判断された。栗田長官は傷ついたものを含めて部下の艦船に直ちに出港し、トラックに回航することを命じた。

 

(3) 第1次ブーゲンビル島沖航空戦

51300頃、1SFの索敵機がラバウルの145230マイル(約450キロ)に敵空母部隊を発見した。今朝の空襲機の母艦部隊と判断できたので、今朝の損害の復仇の念に燃えて熟練の搭乗員が乗っている艦攻14機(瑞鶴7機、翔鶴4機、瑞鳳3機)と護衛の零戦4機を瑞鶴艦攻分隊長清宮大尉が指揮して、1500頃ラバウルを発進した。

触接機に誘導されて戦場に急行し、敵を発見した。既に薄暮になっていたが、直ちに攻撃態勢に入った。

各機は厳しい対空砲火を冒して魚雷攻撃を行ったが、僅か5分で攻撃を終了した。残念ながら指揮官機を含む4機が未帰還となった。触接機は炎上した火柱を見て空母に魚雷命中撃沈と判断し、更に1分後に他の火柱を見て、これも魚雷命中し撃沈と認めると報告した。

然しながら当時の戦場は雲量10に近くて視界悪く、更に夕闇となり正確な戦果の確認が出来なかった筈である。1SF司令部はこの状況を無視して触接機の報告を鵜呑みにしてGF司令部に報告し、大本営もそのまま承認して「この戦闘で、戦果は撃沈大型空母1隻、中型空母1隻、大破 巡洋艦2隻であった。この航空戦を第1次ブーゲンビル島沖航空戦と呼ぶ」と発表した。

米国側の記録を見ると、シャーマン隊は無傷で、随伴していたLST(揚陸艦)3隻と魚雷艇1隻が攻撃されたと記しているのみである。

 

(4) 第2次ブーゲンビル島沖航空戦

 

 

11月8日朝、ラバウルを発進した索敵機はタロキナ岬沖に輸送船10隻、駆逐艦7隻とその上空に多数の警戒機を発見と報告した。

敵の第2次上陸部隊の出現であると認識した1SFは艦爆26機(瑞鶴10機、翔鶴16機)と零戦40機(瑞鶴10機、翔鶴15機、、瑞鳳15機)及び基地航空部隊の零戦31機の最強の攻撃隊が瑞鶴零戦飛行隊長納富大尉の指揮の下に、敵輸送船撃滅を期して勇躍して出撃した。

1000過ぎ、タロキナ沖にT(輸送船又は油槽船)8隻、C(巡洋艦)4隻、d(駆逐艦)7隻の敵輸送部隊を発見したが、上空にはP-38、F4U、F6Fなど合わせて約60機の戦闘機が高高度に待機してわが攻撃隊を待ち構えていた。

零戦隊は果敢にその中に突っ込んで空中戦を開始して、艦爆隊はその隙に急降下爆撃を実施し、輸送船を撃沈破しようとした。護衛の敵艦艇は対空砲火をフルに発砲して輸送船を守った。

上陸部隊の人員が輸送船にいる時に捕捉したので、わが攻撃のタイミングは最高で大きな戦果が挙がるものと期待が大きかった。

日本側はT×2隻、d×3隻を撃沈し、C×1隻、T×2隻を撃破し戦闘機12機を撃墜したと報告したが、損害は零戦7機、艦爆12機が未帰還で、飛行隊長納富大尉が帰らなかった。

敵の艦艇は自分の対空砲力に自信を持っていたようで、横腹を見せたまま闘った、これは魚雷攻撃の最高の目標なのだ。わが方が雷撃機を伴っていたならば戦果が更に大きくなったと想像され、惜しいチャンスを逸したと残念である。

米側の記録は次のように述べている。

1発の250キロ爆弾が輸送船プレジデント・ジャクソンの後部マスト付近に命中し、その上4発の至近弾が落下して大きな被害を受けた。ちなみにこの船は大西洋航路の豪華客船であったのを、そのまま輸送船に転用していた。この他に2隻の輸送船にも命中弾があった。

敵は夕方まで揚陸作業を行う予定であったが、再度の空襲を恐れ折からの雨にまぎれて、泊地を去った。

更に、空母翔鶴の彗星艦偵が1020、モノ島西方30マイルに「戦艦3隻、駆逐艦4隻を発見す」と報告した。次の当直で索敵に出た空母瑞鶴の彗星も1430に、先に翔鶴の彗星が報告した位置の西方約40マイルに「戦艦3隻見ゆ、針路300度、速力20ノット、上空に飛行機なし」と知らせてきた。

この艦隊は明らかにタロキナ沖の輸送船団の支援部隊であった。

戦艦とは最新の軽巡を見誤ったのであるが、構造物が高く、ずんぐりとした艦型で、始めて見たので戦艦と判定したのであろう。

1SFは敵艦撃滅のチャンスと喜んだ。ベテランの艦攻9機(瑞鶴4機、翔鶴5機)は翔鶴艦攻飛行隊長小野大尉の指揮の下に、1530出撃し、更に基地部隊の陸攻12機(雷装)がやや遅れて1600にラバウルを出撃した。

1700敵艦7隻を発見し、1710頃雷撃を行った。戦果として全部撃沈したと報告したが、当時、夕闇に近く天候は不良で雷光、雷鳴がある雨の中で、戦果の視認は難しかった筈で、この報告は納得がゆかない。引き続いて陸攻隊が突撃したが、敵艦の防禦砲火は物凄かったという。

艦攻2機が未帰還になり隊長小野大尉が帰らなかったし、陸攻機5機が未帰還になった。

新式軽巡は最新の口径15.2センチ砲3連装4基を搭載していた。その砲弾は口径12.7センチの高角砲の砲弾よりも2倍重く、その破壊力は4倍と考えられた。

これらの砲弾にVT信管を装着して射撃するので、命中率は格段に向上していて、わが飛行機の被害は急増したのであった。

敵艦隊の構成は次の通りであった。

 司令官   デュポーズ少将

  艦艇 軽巡 サンタフエ(旗艦)、バーミンガム、モビール 計3隻

    駆逐艦 ジョンロジャース、ハリマン、マッキー、モーレー 

計4隻

日本機約40機が雲の切れ目からわが艦隊を発見し、攻撃をしてきた。

1717魚雷1本がバーミンガムの右舷後部に命中し、10分後もう1本が左舷艦首に命中し、爆弾1発が4番砲塔に当たったと記録している。

夜に入って接触中の陸攻が「1745、敵艦1隻、尚炎上、漂流中」と報じたので、陸攻4機、艦攻7機が発進したが、敵艦を発見出来なかった。

大本営はこの日の戦闘を第2次ブーゲンビル島沖航空戦と呼んで、次のように発表した。

撃沈   3隻、巡洋艦 2隻、

   駆逐艦 3隻、輸送船 4隻

撃破   1隻、巡洋艦 3隻

撃墜 飛行機 12機以上 

国民は勝利の知らせに飢えていたので、非常に喜んだが、実際の戦況は大きく異なっていた。

 

(5) 敵空母機のラバウル空襲と第3次ブーゲンビル島沖航空戦

11110500、わが偵察機彗星がブーゲンビル島の南方に「大型空母2隻、小型空母1隻、巡洋艦、駆逐艦合わせて12隻を発見す」と報告した。これは新しく戦場に出現したモントゴメリー隊と後になって判明した機動部隊であった。

その他に、わが方が5日の航空戦で撃沈したと信じたシャーマン隊の2空母が無傷で、ブーゲンビル島の北東220マイルを行動している事を全然知らなかった。

0650、ラバウルが多数の敵空母機の奇襲を受け、危急を知らせる空襲警報が発令された。1SFの零戦39機(瑞鶴12機、翔鶴15機、瑞鳳12機)と基地部隊の零戦68機が直ちに迎撃のために緊急発進した。

モントゴメリー隊とシャーマン隊のF6F約70機と艦爆及び艦攻合わせて約60機とラバウル上空で激しく闘い、次いで陸上基地から来襲したB-24、PB2Y、P-38の合計約70機と戦闘を交えた。激闘の末、敵機は0830頃、引き揚げた。

地上砲火によるものを含めて約60機を撃墜したが、零戦11機の犠牲を出した。

港は低い雲が多かったが、敵の攻撃は主として港内外の艦艇を狙った。停泊していた2Sd、10Sの艦艇は港外に出て応戦したが、駆逐艦1隻が撃沈され、1隻が大破された。10Sの旗艦阿賀野は魚雷1個が後部に命中し、舵が故障した。

草鹿長官はこの状況を見て最早艦艇はラバウル港に止まることが不可能と判断して、トラック回航を命令した。この日以後、艦艇、輸送船の姿をラバウル港で見ることは極めて稀になってしまった。

空襲警報は0830に解除されたので、今朝発見した敵機動部隊の攻撃を決意した。索敵機2機を先行して発進させた後、1SFの現存勢力の総力を挙げて1000から順次出撃した。

1SFを直率する小沢治三郎3F長官は1年振りの敵機動部隊との決戦であるので、正に必勝の信念で闘うべしと搭乗員を激励して送り出した。

零戦33機(瑞鶴9機、翔鶴15機、瑞鳳9機)は瑞鳳飛行隊長佐藤大尉が、艦爆23機(瑞鶴7機、翔鶴16機)を翔鶴飛行隊長小井出大尉が、又、艦攻14機(瑞鶴5機、翔鶴5機、瑞鳳4機)を瑞鶴飛行分隊長梼原(としはら)大尉が指揮して出発した。

 

 

 基地部隊の零戦32機も同じく出発したが、途中で母艦飛行機隊と連絡が取れなくなり、やむなく引き返した。

母艦飛行機隊は1140に敵を発見し、上空の戦闘機と闘い激しい艦船の対空砲火を潜り抜けて空母を狙って雷爆撃を行った。戦果として艦爆隊は空母1隻中破、同1隻大火災、駆逐艦1隻撃沈、3隻を炎上させたとし、艦攻隊は全機が未帰還になったので戦果は不明であった。艦爆隊は17機が帰らず、零戦も12機が帰らなかった。しかも3人のベテランの飛行隊長が全て未帰還となった。

被害の甚大なことは予想外であって、全力を出し切って決戦を挑み、反対に返り討ちにあった1SF司令部は唖然として声が出ない状態になった。

基地航空部隊は昼間の攻撃に参加出来なかったので、夜間攻撃を実施した。雷装の陸攻11機が1600に、最後には雷装の艦攻10機が2030にラバウルを発進した。

然し、悪天候のため、敵を発見したのは最初に出撃した陸攻のみで、攻撃の後、暗闇の中で火柱を見たが戦果は確認出来なかった。

大本営は11日の昼夜にわたる敵機動部隊との戦闘を「第3次ブーゲンビル島沖航空戦」と命名して発表した。

表向きには勝利の航空戦と発表したが、実情は全くの敗戦であり、何故こんな結果になったのか、米側の資料を基にして実情を明らかにしたい。

日本機が米機動部隊の200マイルの距離に近づいた時、レーダーは確実にその姿を捕らえた。モントゴメリー少将は落着いた判断で、ラバウル空襲から帰って来たばかりの飛行機に急いで給油した後、全部発艦させて空母内をカラにして、40マイル先の高高度の上空にF6F戦闘機を待機させ日本機を待伏せした。

先ず、制空権を争う戦闘機同士の決戦が始まった。F6Fの防禦陣が零戦の攻撃勢力より優勢であったようだが、その戦闘の隙に99式艦爆が敵空母をめがけて急降下に入った。

3隻の空母は1500メートルの距離をおいて三角形を作り、その外側を軽巡と駆逐艦合わせて9隻の護衛艦が囲んでいた。軽巡の15.2センチの主砲と空母、駆逐艦の12.7センチの高角砲が一斉に砲門を開いた。その結果、意外にも次々に急降下機を打ち落としたのである。97式艦攻の場合も同様であった。

その秘密はVT信管にあった。砲弾の中に小型のレーダーを仕込んでいて、砲弾から発射した電波が物体に当たり反射する量がある基準を超えると、砲弾が破裂する仕組みがあって、飛行機が空中で砲弾の数メートル以内を通っただけで爆発した。

米軍はその存在を厳しく秘密にしたので、わが軍は戦争終結後にやっとその事実を知ったのである。

更に40ミリ、20ミリ機銃の激しい弾幕をくぐらなければ、空母を攻撃出来なかった。

新造空母と新造軽巡には最新式の兵器を装備したので、わが方の飛行機の損害が飛躍的に増加したのであった。この日の闘いは残念ながら明らかな敗戦となった。

小沢3F長官から損害のみ多かったこの戦闘の経過を報告された古賀GF長官は翌12日に、「ろ」号作戦の終結を宣言し、残った飛行機隊をトラックに直ちに引き揚げるように命令した。

この結果、大きなダメージを受けた1SFの飛行機隊は約10日間の悪戦苦闘の末に、やせ細った姿で13日にトラックに帰ってきた。

反対に、米機動部隊は今後有力な日本機の襲撃を受けても撃退出来るとの確信を持ち、無敵の艦隊となったとの自信を確立して、本格的反攻の第1歩となるギルバート諸島タラワ、マキン島の攻略戦の発動予定日20日に間に合うように、この戦場を去って東方に移動した。

  

(6) 瑞鳳零戦隊の戦闘の概略

零戦隊員として古参の搭乗員岩元 勉飛行兵曹長がいた。彼は日支事変中の昭和15年秋、重慶、成都航空攻撃に参加したベテランの搭乗員であるが、大村航空隊教員の配置から昭和1711月、空母瑞鳳乗組みに転勤を命じられた。1SFの飛行機隊で改めて猛訓練を積んで、18年4月のい号作戦に参加した。隊長佐藤大尉(63)や分隊長日高大尉(66)に率いられ、大いに活躍した。

5月3日、い号作戦の損害からの再建、整備の為にトラック発内地に帰還した。

5月の後半から7月初めまで鹿児島基地で飛行訓練を再開し、戦死して欠員になった人員や失われた飛行機を補充し、充足して21機となった零戦は夜明け、午前、午後、夜間と連日の猛訓練を続けた。小世帯なので良く纏まり家族的雰囲気があった。

主な面々は前記の佐藤隊長、日高分隊長に続いて分隊士として河原政秋少尉、山本旭、岩元勉各飛行兵曹長がいて、先任下士官に川端純徳、大野安次郎各上飛曹がいた。更に歴戦の下士官として松井松吉、石原泉、鹿野至、小八重幸太郎の各兵曹の顔が揃っていた。

瑞鳳は改造や整備が完了したので、飛行機隊を収容して7月9日に呉を出港して、15日にはトラックに進出した。飛行機隊は入港の前日瑞鳳を飛び立ってトラック島内の春島航空基地に着陸し、再び訓練に入った。

内地出撃の時、分隊長日高大尉が転勤となり、後任として中川健二大尉(67)が着任した。又、分隊士も入れ替えがあった。

訓練の内容は単機の射撃、空戦に始まり、編隊の空戦、夜間の戦闘、大型機との空戦、射撃に至るまでの技術の練磨と心身の鍛練を行った。

1028日、突然古賀GF長官から1SFの飛行機隊に対して「準備出来次第、全力ラバウルに進出せよ」との命令が下り、隊員は出撃準備に急に忙しくなった。岩元飛曹長は遅い昼食を取るために、歩いて食堂に行く途中の道路で、後ろから来たトラックに不用意にも右足首をひかれて負傷し、歩けなくなった。

知らせを聞いて佐藤隊長や分隊士が心配して小型ランチを手配して、2時間も掛けて夏島にある海軍病院に連れて行き入院させられた。診察の結果、骨折はしておらず捻挫のみだったが、基地に帰して貰えなかった。11月1日の出撃者名簿から除外されて、空しく病室から戦友の出撃を見送ったのである。

佐藤隊長とは彼が霞ヶ浦航空隊で飛行練習生時代に、隊長も飛行学生で一緒に飛行訓練を受けた仲間であった。その後、瑞鳳で隊長の部下となり2番機を勤め、最近では第2小隊長としてその後姿に続いて、生死を賭けて共に闘ってきた上官であった。

ラバウルの戦局が苦戦であると聞き、単機でも出撃させて下さいと参謀に直訴して許可され準備中の13日に、飛行機隊が多大の損害を出して引き揚げて来たが、その中に隊長の姿がないのを知り愕然と驚き悲嘆の涙が止められず、自分の不注意により隊長の最後の出撃に際して共に闘うことが出来なかったのは極めて残念だったと述懐している。

また、小八重幸太郎飛行兵曹も次のような追悼談を残している。

同兵曹は昭和18年始めに瑞鳳乗組みを命ぜられて佐藤大尉の部下になった。訓練に励んで格段の進歩を遂げて、若年ながら大尉の3番機に指名された。ちなみに2番機は先輩の松井松吉兵曹であったが、この指名は私にとってはこの上ない名誉なことで「全力で頑張るぞ」と心に誓ったのである。隊長は頑丈な身体で恐い顔付きをしておられたので、泣く子も黙るような威風堂々としていたが、話せば甲高い声を出しておられた。

操縦の技術が抜群の上に、洋上航法の名手であって良く教えて頂き、私が空中戦の後で長距離の洋上を無事に帰還出来たのは隊長の教えの賜物であった。

今回ラバウルに進出した直後に、敵機2機を撃墜して喜んで着陸した時、隊長は顔を真っ赤にして

「小八重、お前の今日の空戦は何だ、俺が集合の合図をしたにもかかわらず、あんなに深追いをしたら命がいくらあっても足りないぞ」と叱られた。

私は3番機である事を空戦と同時に忘れていた、その事は一言も責めず私の身を案じてくれた気持ちを思った時、心にジンーと来るものを感じ、この隊長の為なら何時でも死ねると誓ったのであった。

1111日の第3次ブーゲンビル島沖航空戦では午前敵機動部隊撃滅の為に隊長の3番機として出撃した。出発前に「お前等は今日も俺から決して離れるな」と云われた。この日は高度5,000メートルを進撃したが、入道雲が多く雲中飛行となった。時計を見るともうブ島上空に来ている筈だからタロキナ岬がすぐだろうと思うが、この雲では敵影がなかなか見えない。

然し、敵は我々の大編隊をレーダーでもうキャッチしている筈だから、見張りを厳重にして何時でも射撃が出来る態勢をとった。

一瞬、後ろ上方を見た途端、雲の切れ間からロッキード戦闘機の編隊が襲い掛かってくるのが見えた。私は無線で敵襲と味方に知らせると同時に7.7ミリ機銃を発射しながら右に、2番機の松井兵曹は左に反転した。

私には3機が襲ってきたが、500メートル下方で隊長機が5機の敵機と交戦していた。之を支援するべく敵機の後方に迫り射撃した。全力を出して闘ったもののわが機が被弾したが、致命傷にはならなかった。その直後、1機のロッキードが隊長機の後ろ上方から銃撃しながら迫っているのを見た。私は夢中で敵機めがけて20ミリ機銃を発射していた。命中だ 白煙を噴出しながら墜落していった。

然し、これと殆ど同時に隊長機も火を噴いて急降下していった。私は涙がこみ上げて来たが、周囲は敵機ばかりなので隊長の死を悲しんでおられず、反撃しながら敵中を離脱した。傷ついた乗機をいたわりながら集合地点に戻ると、味方機を発見して合流し帰途についた。その途中、隊長の最期を思い、失った悲しさに改めて涙が出た。機上で一人男泣きしたあの日の事は生涯忘れられず、現在でも胸に痛みを覚えるのである。

ラバウルの飛行場に着陸するとただちに中川分隊長に

「隊長はどうされたか」と聞かれて

「申訳ありません、隊長は自爆されました」と報告すると、「そうか」と一言返事があって後は全員無言のまま沈黙が流れた。悔し涙が溢れ出て止まらなかった。

中川分隊長は、当時は航空戦闘の経験が未だ浅かったが、佐藤隊長の片腕として良く補佐の任を果たしつつ、実戦で戦闘能力を急速に向上させていった。隊長戦死の後は後任者として零戦隊を率いた。

1120日、ギルバート諸島タラワ、マキン島は敵の機動部隊の多くの空母機に空襲された。次いで22日になって海兵隊が圧倒的兵力で上陸を開始した。トラックに引き揚げていた零戦約30機がマーシャル諸島マロエラップ基地に出撃した。中川大尉、岩元飛曹長が参加している。このとき以後、中川大尉が飛行隊長になったと思われる。

しかし、タラワの守備隊が衆寡敵せず玉砕したので、やむなく12月6日頃トラックに帰投した。

ラバウルがあるニューブリテン島西部に米軍が上陸したという情報が入り、之を攻撃する為、15日に在トラックの1SF飛行機隊に出動命令が下った。瑞鶴派遣隊と称して18日朝、戦、爆、攻を合わせて約50機が中川機を先頭にしてラバウルに再出撃した。

これは桂少尉候補生等が空母瑞鳳乗組みになり、トラックで着任した翌日の出来事である。

ケプガン村岡中尉に引率されて内火艇に乗って春島基地に行き、出撃時の小沢3F長官の訓示の現場や、エンジンの轟音を立てて勇ましく出発する搭乗員の姿を目撃して、大きな感銘を受けた事は今も忘れることが出来ない。

瑞鶴派遣隊のラバウル撤退以後、中川隊長はトラック経由内地に帰還したが、休む暇もなく再建に努力して、飛行隊長として再び瑞鳳に乗組んで、サイパン沖海戦を続いて比島沖海戦を戦い抜いた。

最後にはルソン島バンバム航空基地から少数の零戦を率いて翌1911月3日、レイテ島タクロバンの敵を攻撃する為に、早朝出撃したが、敵のレーダー監視網に捕捉されて待ち伏せ射撃に会い、遂に還らなかった。残念至極であります。

中川隊長の活躍の詳細については拙著「瑞鳳の生涯」に書いているので、ご一読下されば有り難いと思います。

(なにわ会ニュース93号29頁 平成17年9月掲載)

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