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平成22年4月20日 校正すみ

海・陸軍大尉の南ボルネオ・
バリックパパンに擱ける陸上戦闘記

旭  輝雄

1 五十鈴沈没

 昭和20年4月7日0900過ぎ、軍艦五十鈴はアメリカ潜水艦の魚雷攻撃をうけ、3本が艫(とも)に命中して機関室浸水、速力停止、遂に沈没の憂き目を見た、総員退去、雉、第34掃海艇に救助され( 戦死189名、生存者約430名)スラバヤ港に帰還し、第21海軍特別根拠地隊の兵舎の一部に缶詰になった。

2 22特根司令部付

 4月14日 第2南遣艦隊司令部より、「旭中尉は明150900第2南遣艦隊司令部に出頭せよ」との令で、司令部に出頭すると、通信参謀の木下少佐から「貴様に只今から当司令部で幕僚教育を行う」と申し渡されると同時に、4月15日付で、「海軍第22特別根拠地隊司令部付」の辞令が渡された。

 司令長官柴田中将、参謀長長谷少将に伺候してから、小会議室で幕僚教育が始まった。かつての今次戦争においての戦訓、バリックパパン海岸の防砦(ぼうさい)状況、タラカン島の戦闘状況、上陸された場合の対策等々、艦船勤務では経験の無い事ばかりに戸惑うばかりであり、如何にして私が選ばれる事になったのか、その不明さが胸につかえ、ある日、木下参謀に質問した。すると「本来ならば大谷少佐に内命があったが、長谷参謀長が偶々生徒の時の分隊監事であったので、参謀長に「身体が本復していないので遠慮したい」と申し出た為、参謀長から「交代者を指名せよ」と言われ「貴様を指名した」と答弁された。しかし、本音は前任者が64期であり、本人は60期であること、既にタラカンに上陸されており、次ぎはバリックパパンであることが明白であること、陸上戦闘の経験が無いこと等々だと思うとも言われ、「貴様は間もなく大尉に昇進するが、其の時は部内限りの砲術参謀に成るので我慢しろ」と釘を刺された。

 多少大谷少佐を憾みもしたが、これが生死を分けたのであった。大谷少佐はバンドンに第5警備隊を編成し(五十鈴の残存員350名を主体とした)副長として勤務しておられたが、戦後抑留地に移動する時、インドネシヤの反乱軍に拘留され、しかも惨殺された。もし私と代わっていなければ、生きて帰れたのにと思うと感無量である。

 15日間、朝8時から午後5時までミッチリ絞られ最後に次の項目を明示された。

1 敵の上陸部隊が前面に出現した時は、水上において攻撃し、上陸を不可能ならしめること。砲火並びに魚雷を以て、敵艦船を叩き、これを撃沈し上陸を不可能にする。

2 第2南遣艦隊(スラバヤ)からも航空部隊を派遣し敵艦船の撃沈を図る。

3 敵は上陸前に、海岸全面に構築してある防砦(ぼうさい)及び敷設してある機雷の除去に艦艇をもって掃海すると思われるので、この艦艇を攻撃しその目的達成を阻み、上陸を断念せしめる。

4 上陸部隊が舟艇で上陸せんとする場合には、重油タンクより重油を海面に流し、これに点火し海岸線を火の海として、上陸を阻止する。

5 もし上陸された時、上陸地点に対して集中砲火を浴びせ、橋頭堡を築かせざるように努める。

6 橋頭堡()を確保された場合でも、間断なくこれを攻撃し、敵上陸部隊の増強を阻止する。

7 万一、上陸が達成され、攻撃が内部方面に開始されても、極力前進を阻止し、出血を与えることを目的とする。

8 バリックパパンの防衛が敵の攻撃により、止むをえず転進を余儀なくされた場合は、密林地帯に誘致し、各種戦法を実施し、連合軍の兵力を釘付けにすること。

 速成教育を終了して、4月28日スラバヤ航空基地よりDC輸送機で.バリックパパンのマンガル飛行場に着陸した。司令部指し回しの車に乗り司令部に到着し、直ちに司令官、先任参謀に着任の申告を行う。司令部のメンバーは次のとおり。

司令官 海軍少将(5・1 中将海兵38期) 鎌田 道章
先任参謀 海軍大佐(海兵48期) 辻橋 文吉
機関参謀 海軍少佐(海機45期) 城野 甫三
副   官 海軍少佐(高等商船出身) 和気 清一
主計長 海軍主計少佐(短現) 石丸 忠富
軍医長 海軍軍医少佐 山岡 三郎
飛行長 海軍大尉 西脇 昌治
司令部付
(部内限砲術参謀)
海軍中尉(20・6・1大尉) 旭  輝雄

兵学校出身は司令官、先任参謀と私の3人であり、いささか大変な感じがした。

 着任後、各部隊を廻り、状況把握に努めた。敵部隊の上陸作戦があると認めた時点で、バリックパパンにある各部隊は第22根の司令部が中心となり、第2警備部隊を編成し、22根司令が統括戦闘に当たるので、当然司令部が作戦担当する事になる。

 其の傘下部隊は次ぎのとおりであった。

第102海軍燃料廠  廠長 海軍少将 野宮 三郎 (海機出身)
第101海軍燃料廠? 廠長 海軍少将 黒原 退蔵 (海機出身)
第2港務部水警隊? 司令官 海軍少将 山田 省三 (海兵37期)
第102軍需部 部長 海軍主計大佐 今里 (海経出身)
第102海軍施設部 部長  海軍技術大尉 杉橋  渉  (海軍技術士官)
第21糧食生産隊 隊長 海軍主計大尉 橋本 睦男  (短期現役)?
東印空部隊(381空を含む)? 海軍少佐 黒澤 丈夫  (海兵63期)
陸軍山田部隊 隊長  陸軍少佐 山田
バリックパパン民政部 長官 海軍司政官   杉山 俊郎

邦人関係各会社、南ボルネオ新聞 南ボルネオ水産、日本製鉄、その他

 バリックパパンには上記各部隊で約1万1千人の兵力ではあったが、戦闘部隊としては22根だけであり、其の中でも陸軍山田部隊の1500と第2大隊の1800が陸戦要員であり、他は砲台要員であって陸戦経験が無い兵隊で、極めて不備な陣容と感じた。また、司令部は司令官、先任参謀と私の3人でしか、作戦計画、命令伝達、戦闘指揮、前線視察等々が行えず、私は専ら走り使いであり、充分な事が出来ないと感じた。

3 現地視察

 私が「艦に乗せるか、戦闘部隊の大隊長にして呉れ」と余りにも陳情するので、5月3日先任参謀から本日より1週間、陸軍の森田中尉とともに後方陣地の構築と物資集積の設置場所を主体に調査の目的で、スモイ、スパークからバタンバル街道、48キロ地点からバリック迄の実地調査を命じられ、バリックより大型プラウで遡行してテンパトン、スモイに向った。船中で杉山司政長官と御一緒する。戦のない川筋はマングロープの緑に覆われ長閑(のどか)なものであった。スモイで指揮官の遠藤海軍大佐(102燃の機関大佐)に御会いして状況を聞き、スモイ・スパーク地区を見て廻り、スパークよりバタンバル街道の48キロ地点への山道の踏査に向う、驚いた事に山ヒルの落下、青ヘビが狙っていると驚かされる、海の男が山男に成るのだから大変である、陸軍の森田中尉はさすが陸軍だけに平気でスタスタと獣道をスマートに歩いて行く、羨ましい一時であった。

 48キロ地点に出て、視察の主目的である転進時における道路の状態、輸送においての注意すべき事項、軍需物資の格納場所、陣地構築、配備についての精密な視察、等々今考えても山積する視察事項をチェックしながら森田陸軍中尉と共に一歩一歩歩いてバタンバル街道をバリックに帰ったが、この道が、2ヶ月後には転進経路に成ろうとは夢にも思わなかった。

 途中第5砲台に立ち寄り視察して司令部に帰った。(この砲台は12,7センチ高角砲一門で敵上陸時私が直接指揮して遠隔射撃を敵の上陸地点に対して砲撃した唯一の大砲であったし、戦後相手より大変被害が出たと言われたものである)

 帰って直ちに,森田陸軍中尉と共に膨大な報告と幾多の提言を纏め報告書を作成し、先任参謀に提出して早急に実現される事を願い出た。この広く長い海岸線の防御に、純然たる陸上戦闘部隊は第2大隊の1800人足らずと陸軍山田部隊の1500人前後の専門部隊しかなく,水際で防御するには水上特攻しかないと感じていたので,6月1日に海軍大尉に進級し、部内限砲術参謀の辞令を受けると同時に再度魚雷を持って敵侵攻艦船を撃つ特攻隊を編成し指揮を取らせて欲しいと先任参謀に切願した。しかし「お前がいなくて誰が後の面倒を見るのだ、ベタ金4人の世話も大変だし、お前の言う事もよく分かるが、司令官が絶対承知しない」と言われ、何とも致し方無く引き下がったのであった。

4 敵機来襲

 毎日、100から150機、時には200機を超す米軍のB2524の爆撃を受け、重油タンクが次ぎ次ぎに破壊され黒い煙に包まれる日々であった。敵部隊の上陸は間近いものと確信しているが、物資,食料、弾薬の移転も遅々として捗らず、イライラは募るばかりであった。しかし一応は生産隊、施設隊がトラックで一部物資を後方に移送していたが移送集積場所は8キロ地点が主であり、進言した30キロ以遠には余り行われなかった。

5 敵艦見ゆ

 6月15日 ハーレーの単車を操り陸軍部隊並びにマンガル飛行場防備の釜井部隊の平射砲台を巡察して司令部に帰還途中、B-24の爆撃をスピンガン飛行場に差し掛かった時に受けたので、東印空部隊の防空壕に避難した。

 其の時、突然見張より「敵艦隊見ゆ」とガナル様な叫びが届いた、ビックリして上がって見ると、巡洋艦を先頭に20数隻が見えた。「ジーン」とする。いよいよ来たか!」・・・・大急ぎで司令部に帰る。艦型に関して副官と激論を交わすが連合艦隊上がりの私の意見がとおり、結局「クレベラント型軽巡洋艦4隻を主体とする艦隊であり、後でケント型重巡が加わった。

 駆逐艦,掃海艇を合わせると30余隻の艦隊で、バリックパパンの前面海域を周回しつつ艦砲射撃を加えて来た。第2警備部隊が発令され、在バリックパパンの部隊、民政部商社まで22根の指揮下に入り「戦闘体制」が施行されたのであった。ただ水上機隊は2南遣艦隊に直属、隣スラバヤに転進した。

 敵艦船が現れてからは、空爆が激しくなり200機から300機のB-24、B-25が連日やって来てバリック全域の我が陣地に爆撃を加え、高度も漸次下がって大きな機影が真上に迫って来る。司令部の建物も617日の爆撃で壊滅したので、兼ねてより戦闘時の指揮を取る戦闘山の防空壕に移り、戦闘指揮に当った。毎日々々、200から300のB-24・B-25が上空に0800から1700まで間斷無く爆撃をする。

 制空権の無い戦闘は、艦隊にいるとき、比島沖海戦で嫌と言う程感じさせられたが陸上戦闘においても悲惨である。その上艦艇よりスコール射撃である。しかし1700になるとピタリと止む。休息出来る一時であった。6月25日の夕刻「薄暮攻撃でスラバヤより中攻7機が敵艦船に攻撃をする」旨の連絡が第2南遣司令部よりあった、薄暮直前に戦闘山の頂上に登り観察待機すると、午後7時過ぎ中攻7機が茜(あかね)色の南の空に見えて来た、敵艦船は艦砲射撃を止め、大型艦、駆逐艦、駆潜艇、掃海艇の順に順序よく奇麗に並び艦首、艦尾にアンカーを打ち停泊している、朝より夕方5時までのスコール射撃は嘘のようで一幅の絵の様である。そこに我が軍の空襲である、慌てて対空砲火を打ち上げる。「南無八幡ヤッツケテ呉れ」と祈り乍ら観戦していると、サッーサッーと敵艦より火炎が上がる。まるで艦全体から火の柱が空に立っているようである、その上に1機2機と突っ込み爆撃を開始したが、今度は1機2機と火を吹いて海面へ落ちて物凄い煙が上がる。まるで艦艇が爆沈したような煙であり、これでは撃沈と誤認が出るのも無理は無いと思う。突如我々の上空を海に向って大鷲が飛ぶ如く黒い影が飛んで行った。アッ・・・体当たり!と誰もが思ったであらう。次ぎの瞬間である、駆逐艦の艦橋に吸い込まれるように突っ込んだ・・・初めて見る体当たり、将に特攻である! 全身がゾッーと感激に震えた一瞬である。その駆逐艦は全体が火に包まれ艦形がクッキリと浮かび上がり次いで轟然と爆発して沈んで行った。将に特攻である。我々クラスが沖縄でもこれと同様な特攻を繰り返して居るのだと思うと「ヨシッ俺も頑張るゾッ」と身震いした。

 やはり25日の事であったが、敵掃海艇がバリック前面海岸に設置してある防砦(さい)の杭と機雷掃海のため近付いて来た。これに対して第3砲台(長10サンチ連装高角砲門)が火を吹いた。そして1隻を撃沈した。頭に来た敵艦隊は全艦が3砲台に集中砲火を浴びせたが、3砲台は丁度擂鉢(すりばち)を逆さにしたような山の頂上にあるので中々命中しない、其の合間を縫って3砲台より掃海艇に対して砲撃する。せめてもの溜(りゅう)飲を下げた一齣(こま)であった。しかし砲爆撃は猛烈になって来て上陸が間近く感じられた。30日午前に敵舟艇部隊約200隻がバリック前面海岸に押し寄せるが一回りして引き上げた。

6 敵上陸開始

 司令官は陽動作戦と判断されたが、先任参謀は上陸予行であるとして前線部隊特に第1大隊に厳重警戒の命令を伝達する。明ければ7月1日である。朝靄(もや)の中より上陸用舟艇が雲霞()の如く迫って来たと見張所より連絡が入る、それ上陸だ!戦闘命令を発する様に司令官に進言するも、陽動だとして、打ち方始めを命令されない。先任参謀も戦訓より1日であるから上陸であると進言するも承知しない、為に15サンチ平射砲台にも砲撃開始の命令が出せず、まして重油流下点火も遅延した。セサが進言したときに発令されれば水際での戦闘が変わったものといまでも感じている。戦闘命令が出た時は既に遅く徒らに無傷で敵の手におちた。勿論第1大隊の守備線はアット言う間に突破され、8サンチ野戦高角砲も何等役立たず、大隊長との連絡はとれず、大隊長が行方は不明で、1大隊は四分五裂となった模様であったので、山田陸軍部隊をマンガル防衛線より第2大隊左方へ移動展開せしめる。毎日訓練を行い、馴れた陣地を捨てて転陣する心境は実に気の毒であり申し訳ない気持ちが一杯であつた。転進が完了した時点で漸く重油が点火され海岸一面が火の海となった、山田隊長は一挙に敵上陸地点に突入し追い落とす作戦を進言される。私も是非にと懇願する、が、しかし司令官は「一度追い落としても再度上陸された時は全然抵抗力がなくなる、第2警備部隊の目的の「敵を引き付けて常に背後を脅かし敵軍を釘付けにする」ことが出来なくなるゆえ上陸地点への全兵力での反撃夜襲は採択されなかった。山田部隊長の無念さがシンシンと身に迫った。次ぎの日,戦線の一段落により山田部隊は自己の陣地へ再び復帰となり「喜んで此れで思う存分に戦いが出来る」と言って苦労を厭わず帰って行った。山田少佐の心中実に敬服に値するものだと思った。また、前述したが、一日敵30発の砲撃を行ったが弾が無くなり「打ち方やめ」を令した。戦後、豪州軍から損害極めて多く何故連続射撃をしなかったかと聞かれたとの報告を受けた時は、なぜ後方視察の報告書のとおり弾薬を移さなかったのかと地団太踏んで憾み残念の極みを味わった。次ぎに上陸戦闘においてもっとも活躍した砲台は3砲台ともう一つ活躍した砲台がマンガル飛行場警備の釜井隊の平射砲台である。マンガル飛行場を奪取せんとする敵部隊が戦車3両を先頭にマンガル飛行場に突入して来た際、陸軍山田部隊と協力して平射砲台で敵戦車を次々に砲撃、命中擱座(かくざ)させ容易に飛行場に進入を許さなかったが衆寡敵せず後退を余儀なくされた部隊である。 

 0900頃である。戦闘山の司令部より一つ南の小高い山の稜線に自動小銃を肩にぶら下げ上半身裸の外人兵士が数人で歩いているのを発見し、ビックリするやら戦闘状態が全く不明で、これでは司令部の防衛が心もとないと感ずる。セサも直ちに第2大隊に連絡1個中隊の派遣を要請し「旭、連絡ついたら本部中隊と合同で防備に当らせろ」と命じられる。暫くして中波中尉指揮の1個中隊が到着し、セサが中波中尉に「旭の指揮に従え」と言い渡された。そして2大隊にはバタンバル街道の3キロ付近に展開し防衛線を築くように命令が出された。第1大隊の状況は全く不明であり大隊長の行方も判らず全滅との報も入り五里霧中の状態であった。

 戦闘山周辺の電探山で若林通信隊が攻撃を受け撤退しつつありと連絡が入る、流言蜚語(ひご)が乱れ飛び1大隊の統制がこんなに悪いとはと歯軋(はぎし)りする。司令部は戦闘が身近に迫ったので、8キロ地点に構築してあった千早に移動して全体の指揮を速やかに取るために月光の輝くもと、真っ赤に燃え上がっている海岸を後にして徒歩でセサと2人黙々と千早に向った。翌朝1大隊の馬場中尉が6人の兵隊を連れ司令部に退却してきて「大隊は全滅した」と報告する、私は「馬鹿な事を言うな、全滅などして居らん、ここで暫く待っておれ」と怒鳴りつけた、案の定、来るは、来るは殆どがやられずに退却してきた。再度編成して今度は10キロ地点に拠点を築き、戦闘態勢の充実を図らしめた。戦闘山の警備に着いている本部中隊と中波中隊も引き上げて、夫々の本隊に戻す。其の途中の戦闘で中波中尉は右手に貫通銃創をうけて医務隊に入院する。

戦後であるが3砲台は敵の侵攻に対して全中隊員が突撃、隊長宮原中尉は頭を打たれ倒れていた所を濠軍に救助されたが途中で死亡したことを聞いた。戦後第一線では火炎放射器を使って退避壕を噴射しその後手榴弾を投げ込み、為に我が将兵は成す事無く倒されて行った事を聞き申し訳無い気持ちで一杯になる。

一部の分隊では応戦しつつ後退して戦闘山に避難したが、ここも危なくなり再度後退した分隊もあったが、戦死戦傷者が大分出て分隊の編成を解き外に転属した分隊もあつたが対応する武器が足りず恐怖といかに生き延びるかに翻弄されたと聞き装備の悪さ戦闘開始の遅れに腹立たしさを感ずる。

7 アミーバー赤痢に苦しむ

 7月3日の宵にセサと共に3キロ地点の第2大隊本部に状況視察に行く、大隊の士気は旺盛であり「一安心」を感ずる。会談の合間に私は喉が乾いたので、沸かした湯を2大隊副官平野少尉に頼むと「後何日の命か分からない、湯なんか必要は無いでしょう」と言うので、水を其のまま飲んだ、2、3日経過して「アミーバー赤痢」に感染し、下痢に血便が混じるようになったが、医務隊より薬を貰い抑え乍ら勤務に付いていた。敵が3キロ地点の防衛線に攻撃をしかけて来て防戦に終始するも観測機が上空に居て艦艇より砲撃目標を指示する為、各個撃破の様相となり退陣を余儀なくされる。司令部も27ロ地点の鷹取山に移す。其のころより下痢、血便頻繁となり司令部の中で寝ていた。セサは「お前が逝かれたら大変だ」と従兵に申しつけ看病に全力を上げて頂くも良く成らず、此の侭では残念とセサに「ダイハツ1隻と魚雷2本を下さい、敵艦艇に突っ込みます」と御願いするが許されず髀()肉の嘆をかこっていたが、丁度其の時、五十鈴で一緒であった寺戸軍医大尉がやって来て「甲板、アミーバーだと聞いてきた、貴様に逝かれると大困りするので、とっておきのドイツ製エメチンを持って来た、最後のドイツ製の物だ。1クルー打てば必ず治る。注射器も一緒にあるから毎日1本自分で筋肉注射しろ、そうすれば完全に治る。管理を充分にするのだぞ」といって消毒液と共に持参して呉れた、イヤ有り難かったこと、筆舌には尽くし難いものであり、親友の有り難さに満腔(こう)の感謝を捧げると同時に、手元にあったタバコ一カートンと司令部の厨房より乾燥卵の一缶を副えて御礼の代わりとする。次ぎの日、寺戸軍医より「美味かった本物のタバコの味、部下にも分けて喜んで貰った有難う、今より10キロの第一線大隊本部に向かう」との手紙を寄越したが。その帰り道で狙撃を受けて戦死した。何と言って良いか無常を感ずるものであった。病状は御陰様で日々良くなり、一週間の一クルーが過ぎて完治した、セサも大変喜んで「一時は如何に為るかと心配したが、良かった」と申され御心配を御掛けした事を深く心中に刻み込んだ。

8 最後の戦い

 元気に成ると早速仕事に追いまくられる。セサとシカとの連絡。シカに決済を求める事が度々で、時にはセサとの意見が異なる時には私が説得に当ることになり、怒られ役と同時に必ず「お前は私の長男と同じ年だ、文句を言うのは未だ早い」と怒られる。また時には余りしつこくせっつくと「天皇陛下の御命令で行っているのだ」と言われると一言もなく引き下がらなければ成らず、実に骨の折れる仕事だと痛感することしばしばであった。10キロの戦線も整理後退せざるを得ない状況となり、第一線は18キロを第2大隊で担当する事と成り、司令部も42キロの足柄山に設置し移動した。これより切り込み隊が一隊5名程度で編成され5日間の食料を持ち敵陣営へと向う。正確な戦果の報告は判らないものの大部分は余り成功しない様に感じたが、釜井中尉を指揮官とする切込み隊は出発後まもなく敵兵の腕を切ってぶら下げて帰り、実際に敵陣営に切り込んだ証拠として持参したと報告し、シカ、セサから褒美の言葉を授かり、合わせて一升と肴を貰って帰って行った。ここでセサの考案によりトラックの荷台上に3連装の25ミリ機銃を設置して移動する機銃とした事である。これが敵索敵機の複葉偵察機を撃墜する。そして移動して存在を判らぬようにする極めて重要な最大の残された砲火であったし、有効な存在であった。がしかし、敵の反撃たるや物凄く盲目打ちのスコール射撃にP38戦闘機まで動員してバタンバル街道沿いに機銃掃射をする、陸上の敵よりは迫撃砲の乱射が行われ其の為当方の動きも鈍った事はジャングル内の戦闘においては一応の戦訓と成った。敵も中々遊撃部隊を出しバタンバル街道を行き交う我が軍の連中を狙撃して来る。そしてバタンバル街道と海側の中間に攻撃道路を作り迫撃砲にて攻撃して来たので一個中隊で制圧せんと攻撃すると、既に退却して損害から逃避する。全く危ないと見るや逃避し砲爆撃を徹底して行う、将にイラク戦線と同じである。膠着状態が続いていたが18キロの前線への食料補給が狙撃やら砲撃爆撃で頓挫し第2大隊の戦闘員は蛸壺の中に入ったまま空腹を我慢して握り飯の届くのを待って居たのである。蛸壺に入った侭だと雨に打たれ蚊に刺されマラリヤ、テングに掛かり救うに術なくキニィーネも不足し戦病者が増大して行った。闇に紛れて医務隊に運搬するも患者の増大と医薬品の欠乏は患者の見殺しに繋がった。出来る限り自力で歩行出来る者は杖にすがりつつも、バタンバル街道をボツボツと歩んで行くが、47キロ地点で急坂が100メートルもあり、登るに上れず倒れるものあり周りで手を貸して急坂を登っても其れから10キロ近くが獣道であり途中に医務隊の病棟が有っても辿り着くのがヤットであった。其の獣道の傍らに小さい水路があり水を求めてはいずり水辺まで行って倒れ命を絶つ者あり戦病者の墓場道であった。8月17日にセサと共にあるいてサマリンダに向かった時は死屍累々として死臭紛々たる状態で悲惨なる敗戦をシミジミ感じたものであった。

9 敗戦

 8月15日重大放送有りとの第2南遣艦隊司令部よりの無線あり、司令部無線室での受信を待つ、敗戦、戦闘中止の無線に涙が溢れたことを思い出す。しかし我々は戦線の終結を図り、部隊を纏めてサマリンダに集結せしめる努力を開始したが、連絡不充分と47キロ地点での急坂突破に思うような行動が取れず。第2大隊と本部中隊は現地に残り豪州軍のワープリズナーキャンプに収容される羽目になった。残りの第2警備部隊はサマリンダに移ったものの、バタンバル街道沿いに取り残された戦病者は出来る限りの救出作戦を行ったが、其のまま死地に着くものあり、非情ではあるが戦争の惨状を露呈せしめる事となった。9月3日シカ、セサが豪州軍に降伏する為、サマリンダより船でマアカム川を下り海上に停泊していた軍艦上で降伏文章にサインして当バリックパパンの戦闘が終結した。

 陸上戦闘とは辛いものであり、司令部幕僚勤務は手兵なく只走り使いであり、自分自身の行動が取れず艦隊勤務とは非常にかけ離れたものである事を痛感した。ただ、私が生きて帰還出来たのは大谷少佐の推薦であり、まかり間違えば私が大谷少佐のようになったのかもと思うと深く御冥福を祈るものである。

 抑留生活に関しては別文する。4月28日に着任の為、戦犯にも成らず、堂々と抑留生活で全部隊を統合した思い出も深いものがある。

(なにわ会ニュース90号60頁 平成16年9月掲載)

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