平成22年4月21日 校正すみ
神の池今昔
安藤 満
安藤 満 | 神の池 付近 |
最近、鹿島に勤務する義弟の案内で、鹿島港を中心とした工業地帯を見る機会に恵まれたが、ここが嘗て、戦闘機の飛行学生が訓練に励んだ、神の池航空隊の跡であることを偲び、又、茨城県神栖町が、昭和59年に発行した 「神栖の歴史」という本の中に、神の池の今昔を知る、貴重な2葉の写真があることを発見し、記念誌への転載を申請した処、町当局の好意的な計らいで、許可をして頂くなどの事もあり、薄れゆく記憶を呼び起しながら、この小文を記す次第です。
舞鶴を18年9月に卒業して、41期飛行学生を命ぜられ、江田島の306名と合流して、霞ケ浦航空隊の九三中練による練習機教程に入ったクラスは20名であった。筑波山を朝な夕なに眺めながら、19年2月未に赤トンボ(九三中練の別称)を修了し、いよいよ実戦用の実用機教程に進む為、戦闘機、艦爆、偵察、水上機、陸攻等に分散していったが、この中で、神の池航空隊の戦闘機教程に入ったのは、兵科の229名と、クラスの10名(山口、牧、坂本、書盛、寛応、本田、岸、角田、日野原、安藤)で、消耗の激しい戦闘機が飛行学生の大半を占めていた。
3月初旬、勇躍、神の池航空隊の門をくぐったが、そこは太平洋の荒波に洗われる鹿島灘に面して、従来、海軍の爆撃実験場であった処に、急遽、航空隊を新設したもので、だだっ広い一面の砂地の原に、そこだけは立派な滑走路が造られていたが、隊舎、学生舎等は、急造されたことを物語るように、粗末なバラック建てではあったが、真新らしいものであった。
写真(掲載略)は、戦後、昭和22年に米軍が撮影したものだが、航空隊とその名の由来となった「神の池」、そして鹿島灘の位置関係が鮮明に写されている。離陸すると、すぐこの海岸線と周囲6kmにも及ぶ神の池が眼下に眺められ、着陸時の大きな目標にもなっていた。
そして、此処でも我々は霞ケ浦の時と同じように、機関科だけが集められるような事は全くなく、一日も早く、全体に溶け込むようにとの配慮から、兵科の中に散り散りに配置された。
その為、特にクラスだけで行動するといった事は殆ど記憶になく、休日になんとはなしに顔を合わせるといった程度であった。
3月15日、海軍少尉に任官、砂嵐の飛行場で、訓練は日毎に激しさを加えていった。訓練用の戦闘機は、零戦を複座に改装したもので、最初のうちは教官、教員が同乗して、伝声管を通して教えてくれるが、なんとなく、肩に力が入ってしまう。単独飛行を許され、独りで大空を闊歩した日は、天下を取ったように快哉を叫んだものだった。
零戦は、正式名称を零式艦上戦闘機というように、陸上の基地で訓練をしていても、航空母艦への着艦を想定して、着地は三点着陸(前車輪2、後車輪1)をする事、然も定点着陸をする事が、大事な訓練の一つになっていた。
これは、かなり慣熟しないと飛行機の姿勢が不安定となり、失速の危険があった。訓練も軌道に乗って、編隊飛行もこなせるようになると、自分では一人前になったような気特になる。
5月23日、空中での作業を終えた訓練機が、編隊の侭、陸上の指揮所上空を通過、編隊を解いて、順次飛行場の周囲を旋回しながら着陸体勢に入る。指揮所では当番の見張りが望遠鏡で尾部の機体番号を読み、「〇番機着陸します」と隊長に報告する。
突然見張りの甲高い声が響く。墜落事故らしい。搭乗割の黒板を見れば山口ではないか。飛行場上空を通過後順次に旋回をし、最後の第4旋回をして、着陸体勢をとった直後の事だった。機首の上げ過ぎによる失速、墜落としか考えられない。直ちに待機していた飛行学生数人と一緒に指揮所の車で現場へ急行する。
不幸中の幸いというべきか。現場は農家を外れた畑地のような処だったと記憶する。機体はストンと落下した格好で破損していた。山口を操縦席から曳きずり出す。
胸に手を入れてみると、心臓はすでに止まっていた。下着は汗で濡れていたが、まだ温もりがあつたのを覚えている。実戦参加を目前にして、訓練中に殉職するとは、さぞかし残念なことだろう。
隊内での葬儀を済ませ、角田、牧、安藤の3名が遺骨と短剣、遺影を捧持して両国駅を経由、当時の京橋区にあった山口の家まで行った。神の池での悲痛な思い出として、今でも昨日の事のように思われてならない。
辺鄙な場所にあった航空隊では、休日は唯一の楽しみであった。東京へ行く希望者が多かったが、佐渡駅へ行く隊のバスは30名も乗ると満員で、いつも大部分の者はあぶれていた。
窮すれば通ずで、息栖まで民間のバスに乗り、そこで小舟を雇って、利根川対岸の小見川駅に出る者、または利根川河口の波崎までバスで行き、対岸の銚子へ渡しで行く者、国鉄を利用する事は同じでも、佐原から乗るのに較べると大変な時間が掛かる。そうまでして、東京へ行く何かがあったのだろうか。今以って不思議な気がしてならない。
悠々と、基地周辺の散策をする者も少なくなかった。鹿島神宮、息栖神社、潮来、または鹿島灘の海浜辺りが、その目標のようだった。北浦に懸る神宮橋は100米もあったろうか、湖上を渡る風が何ともいえず、気持が良かったのを覚えている。
19年7月末、飛行学生を卒業、待望の実戦部隊へ発令されて喜ぶ者、教官を命ぜられてボヤク者、悲喜交々であったが、戦勢挽回の使命を双肩に、第一線へと飛び立ったのである。それから終戦までの僅か一年余りの間に、6名のクラス(牧、坂本、吉盛、寛応、本田、岸)が散華した。兵科の戦闘機乗りも合わすと、104名にも及ぶ若い命が、西太平洋の各地に淡々として散っていった。
遺書を残している者は殆どいない。戦いに明け暮れた毎日が、其の侭遺書であり、後へ続く者への遺言であった。攻撃重点主義から無防備に近い零戦も、性能が優位を保っていた間はまだしも、高性能でしかも充分な防護装備を有する敵機の出現からは、日に日に、落日の思いを噛みしめさせられたのだった。特攻、空戦、陸戦、不慮の事故死等、死に方は一様ではないが、誰もが、殉国の至誠を貫き通したものだった。
廃墟と化した故郷に復員した。あれから45年、日本は見事に復興したばかりか、経済大国といわれるまでになった。
神の池の一帯は、鹿島港という国際工業港に変貌し、日本の一流企業が数十社、港の周辺の緑地帯の中で操業している。
写真(略)は、国土地理院(前の写真)が写したのと同じ場所を、昭和45年に撮影したものという。
人間の英知が造り出した港の様子がよく判る。嘗ての「神の池」はその大半が埋め立てられ、現在は南西部の5分の1程度が僅かに池として残され、町の人々の憩いの場所になっている。
滑走路のあった辺りは、中央航路と北航路に挟まれた、住友金属の工場辺りという。ガイドの話では、その日、岸壁に繋留していたのは、18万噸の鉱石運搬船で、オーストラリアから鉄鉱石を運んできたものだという。大企業の林立する煙突からも、黒煙ひとつ出ていない。ここは模範的な公害の無い工場地帯だという。嘗ての日、祖国防衛の若き戦士を育んだ神の池航空隊が、今、日本の最先端をゆく工業貿易港に生れ変わり、東京とも高速道路で直結しているばかりか、世界各地との交易にも密着して、盛大に発展している。
亡き友よ、もって瞑せられよ。
(機関記念誌103頁)