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平成22年4月21日 校正すみ

軍艦『酒匂』始末記

阿部 達

阿部  達 巡洋艦 酒匂

昭和2010月、私は第15突撃隊 (駿河湾) の残務整理から解放されて復員、東京の兄の所に落ち着き、さて何をしょうかなどとボヤッとしていた処、11月5日付『酒匂分隊長に補す』 との電報を受取り、『アレ俺は未だ海軍の籍があるのか』とビックリ仰天し、(充員召集と知ったのは後のこと)舞鶴へと向った。卒業以来、初めての舞鶴に来てみると、工廠岸壁に武装解除で間が抜け、薄汚れて吃水の浮き上った酒匂が係留され、特別輸送艦への工事の最中であったが、あの懐かしいスマートで精悍(せいかん)な軽巡の面影は見られなかった。

 

酒旬との出会い

私は19年8月、損傷艦『北上』で南方から佐世保に入港するや、佐世保海軍工廠で建造中の第225号艦艤装員に発令された。その頃は、(機)49期の田村賢雄大尉が最先任者で、田村部隊と称していたが、やがて機関長予定の橋口少佐(商船出身現役、(機)43期相当)や艤装員長大原大佐が着任され、1130日引渡し式があり帝国海軍で最後に就役した軍艦、『酒匂』が誕生した。

機関長が副長兼務となり、田村大尉は電機分隊長、私は内務士として内務長尾高大尉(運用出身)の下に配置された。内務士の戦闘配置は防御指揮所で、旗甲板の下にあり、私は初めて機関室以外での配置を経験することになる。即日第11水雷戦隊に編入され、内海西部に回航、やがて戦隊司令部が乗艦する。

機関参謀に(機)45期の大迫少佐がおられ、後に安永教官が引き継がれた。11水戦は水上艦艇の教育部隊なので自艦の訓練の他、司令部の下請けで新造駆逐艦などの訓練指導もあり、内務士は被害想定作りと応急訓練の指導に明け暮れる毎日であった。この頃斎藤君の『宵月』と、上原君の『花月』がそれぞれ一時隷下部隊に入ったことがある。

苛烈な戦局をよそに、内海西部はまだまだ平和であった。長閑な安下庄の春の海を眺め戦争を忘れる余裕もあり、島に溢れている蜜柑をカッターで買い出しに行き、ガンルームでは、手の平が黄色くなる程蜜柑を堪能したものだ。時々司令部の要求で娯楽映画を食堂で上映するのだが、映写機がポロで上映中電球が切れる、抵抗が焼ける、エキサイターランプが切れる等々でいつも冷や汗、映画など見たことがない。映写会の都度、『大和』にいって器材を借りたり等苦労をした。

3月、酒旬は『矢矧』と共に大和に随伴して沖縄に向かうべく勇躍して呉に回航、準備をしたが、出撃直前になって『酒匂は残留して現任務を続行』する事となった。

その後は燃料の枯渇(こかつ)と磁気機雷とで殆ど動けなくなり艦載機空襲時にのみイラを汽醸することとし、呉工廠岸壁に係留して陸電をもらい、後甲板に陸戦釜を並べて炊事をするまでに窮乏する。もう水上艦艇の出番は無くなった。

私は5月初めに、陸揚げされで、大浦の第2特攻戦隊司令部付に転出、ここで斎藤君と一緒になり大浦基地副長でおられた喜多見教官に着任の挨拶をした。やがて詫摩君もやってきて水上水中特攻兵器の修補要員として研修することになった。大尉に進級した時にはクラス揃って喜多見少佐に挨拶に参上し、『オウ、餓鬼共も大尉になったか』との御祝辞を戴く。

その頃酒旬は舞鶴に回航したらしく、間も無く偽装綱を被って終戦を迎える事になったという経緯は今回着任して知った。

 

特別輸送艦酒匂

凡そ半年振りの懐かしい酒匂も乗員の大部分が代っていて、航空部隊から来た『特攻くずれ』みたいなのも多くいた。着任早々の時、機関科の居住区に案内されて入ると数人が花札か何かをやっていて、士官が注意した処、スパナか何かで殴り掛かろうとした者があり、輸送業務の前途多難が思われた。

機関長は機関学校教官から来られた(機)42期の山野少佐で私は罐分隊長を拝命したが機関のことは既に熟知していた(つもりであった)から、この頃碌に罐室にも入らずにトランプばかりやっていたように思う。敗戦後の虚脱状態から脱していなかったのだろうが、後日当時を回顧して忸怩(じくじ)たるものがあり自分が恥ずかしくなるのである。

輸送の手始めは函館に回航し、そこに集合して待機していた1,000人に近い韓国人を釜山まで送り届ける一航海だった。乗艦早々、『我々は戦勝国民である、士官居住区を我々に開放せよ』などと意気まく団交が士官室で行われる等、騒然たる雰囲気だったが出港して次第に揺れ出すと共に何となく騒ぎも収まった。

ところが時化(しけ)てくると後甲板の特設が使えなくなり、後甲板は排泄物で覆われるに至った。彼等は皆キャベツを沢山もって乗艦したがそれをむしっては紙の代用にしたので、釜山に着く頃には後甲板は汚物とキャベツの厚い層で覆われ、後で甲板は掃除に泣かされ、つくづくと敗戦の悲哀を味わうのであった。

次の航海は暮も押し詰まった頃佐世保を出港し、ニューギニアに向かう。初めて対敵警戒不要の太平洋を航海し退屈する。当直と寝る以外はトランプばかりしていた。ウエワク港外に仮泊、栄養失調で餓死寸前の病人を始めとする陸兵を乗せて即日出港である。

夢に見たであろう故国の土を踏む前に、何人かの命が絶え、水葬にされた。しかし水葬とは名ばかりで、人の死というものに対する感覚が麻痺していた兵隊は、何の感傷もなげに遺体を海面に投入するのであった。

途中、基隆に寄港して高砂義勇軍の兵士約200名を上陸させ、代りに台湾守備軍の、これは我々よりも遥かに血色のいい兵隊を乗せ大竹に帰った。1月の末であったと記憶する。

ここで酒匂は整備を兼ね生まれて初めて一度母港の横須賀に帰る必要があり、私は修理請求書等を携えて復員省や浦賀の管船部に出張を命じられた。ところが帰艦する前に浦賀に指令が来て、『本艦は急遽横須賀に回航するから帰艦せずに浦賀管船部で待機せよ』とのこと、汚い寝具倉庫みたいな部屋に泊めて貰い、寝具にくるまって物凄いノミに悩まされながら一晩を明かした記憶がある。

翌日入港した酒旬に便船で戻ると、酒匂はビキニ環礁での原爆実験の供試艦として、米海軍に引き渡される事になったことを知る。酒旬の初の里帰りは悲劇への旅であった。

横須賀には同じ運命を待つ『長門』も浮かんでいたが、マストも煙突もなく変わり果てた廃艦の姿であった。それに対比して初めて間近にみるアメリカ艦船の雄姿は戦勝海軍の誇りに溢れ輝いて見えた。私は初めて見る最新のアメリカ駆逐艦のシャーラインの美しきと、アイオワ級戦艦の均整美に感嘆の念を覚えた。

 

酒旬の引渡し

早速アメリカ海軍の連中が来て、自力回航への準備にかかった。彼等は沖合に停泊していた戦艦アイオワから派出された100名程の班で、機関長はタイロンパワーのようにハンサムな若いストーン大尉だった。

いつも朗らかな山野機関長は『イヤァあのナイスビリティには脱帽だナ』と苦笑された。我々は皆生まれて初めてアメチャンなるものに接するのであるから、まずは言葉が通じない。

初めは日本人の通訳もついて来たのだが、当時の通訳は上海ゴロとかで極めてお粗末で、専門用語に至っては全然物の役にたたず、かえって混乱させるばかり、手振り身振りの方が通じるので翌日からは来なくなった。

米軍は当初アイオワからランチで通って来ていたが、やがて野戦用のオーブンを食堂に持ち込んで炊事をし、艦内居住を始めた。我が方は艦長以下大部分の者は退艦し、小野寺副長以下必要な幹部とパートの長等だけとなって、後部の第2士官次室や准士官室に移動させられ捕虜のようなものである。

しかし彼等は回航に必要な取扱いを教わらねばならないので、態度は最初から紳士的であった。会話も必要に迫られて次第に慣れ、2、3日で随分判るようになりコンサイスの和英と英和があれば大抵のことは理解出来るようになった。

当初日本人通訳の他に、GHQからアメリカ人の語学士官が一人来ていた。タウナーという名のこの中尉は私より4才程年上で、ミッションスクールのラテン語教師から召集され、海軍の語学学校で半年程日本語の教育を受けた丈だったが、かなり上手に会話も出来た。

彼等が受けた日本語教育のやり方などを聞き感心したが、タウナー氏とは何故か気が合い酒保で話をしたのはホンの2、3回だけだったが、復員後の私をジープに乗って、或る夜ヒョツコリ訪ねてきた。その後アメリカでも会い、彼は大阪の桃山学院に何度もボランティアの英語教師として来日滞在し家族ぐるみの交際を続けている。

アメリカ兵は中々優秀で職務に忠実であり、あの複雑な艦内の諸装置を短い期間によく物にしていったと思う。図面とか取扱説明書とか英語で書かれた資料が一切ないのだから。

初め私は彼等の下士官と兵が同じ服装なのでセーラー服をみな兵だと思い、随分年を取った兵がいるものだと勘違いしたのだが、矢張りこんな特殊な任務には下士官のベテランが多く選ばれたのであったろう。

さて、十日位も経った頃であったろうか、出動訓練というか確認運転というか、一日東京湾内で航走して見ることになった。運転は向こうがやり、こちらは立ち会いといった形だったと思う。巡航運転で出港し、やがて高圧運転に切換え巡航タービンを離脱する時がきた。余談だが米海軍では巡航タービンは嵌脱式ではなく、減速ギアを介して高圧タービンに結合しているので(海上自衛隊の護衛艦も皆この方式になるのだが)今にして思えば彼等は巡航嵌脱という操作の危険性をよく理解していなかったに違いない、一方我が方はそういう彼等の事情は知る由もない。

操縦室でストーン大尉が山野さんに『……OK?』と聞いた時、山野さんもよく把握せずに軽くウンウンと領かれたらしい。巡航タービン離脱が下命され、嵌脱クラッチ離脱の操作がなされたが、巡航タービン蒸気弁はまだ閉め切っていなかったのだ。 

サァ大変、忽ち巡航タービンは唸りをあげてオーバーランし、吹き飛んでしまったのである。機側にいた者は必死で逃げたので幸いにして人員の被害はなかったが、帝国海軍でも前代未聞と思われる大事故が発生した。然し、幸いどうせ沈めてしまう艦ではあり、回航には支障がないので『イヤー、ビックリしたなあモゥ 』で終わったのであった。

片舷の巡航タービンはなくなったが、引継ぎの運転も終わり、日本側乗員は更に大分退艦することになったが、副長、私などと下士官数名は更に残留し、指導を続ける事となる。彼等も気を使って、上陸も出来るようにと身分証明書を作ってくれた。

曰く『……この者は酒匂の元乗員で、我々のインストラクターであるから通行を許可されたい……』旨の事がタイプしてあった。我々は捕虜扱いではなく、インストラクターであると認めた彼等に好意を感じ少しは満足したが、実際には上陸のチャンスはなかった。

会話も終日みっちりやるので随分耳が慣れて、相手の言う事が判るようになる。そもそも私の英語は中学三年からは全然進歩をしていないものだった。機関学校の英語の教務は、舞鶴の本屋でみつけた岩波文庫の 『シャーロックホームズの冒険』を、教科書の下で読んで誤魔化していたものだった……。それでも必要に迫られて使う事で役に立ち、自信がついていった。

或る時独りで揚錨機室にいて電源が必要になり、主管制盤室まで行くのも面倒だと直通電話で呼び出すと 『メインコントロール′』と応答がある。物は試しだ、いつもの『揚錨機に電流送れ』の直訳で『センド(?)、カーレント、トゥ、アンカーエンジン′』 とやってみた。すると向こうさん何かブツブツいっていたようだが間もなく揚錨機管制器にバッと電源標示灯がついたではないか。英語でも話せば分かる(?)ものだと嬉しかった。

電機のチーフペティオフィサーはスノウという名の優秀で愉快な男であった。彼に揚錨機の運転操作を教えていた時、(揚錨機はワードレオナード方式で発動停止の操作がちょっと面倒くさかった)『アメリカではこんな複雑な装置ではなく交流モーターのまま揚錨機でもウインチでも回す』というので、どうやって回転を制御するのかと尋ねたら、1,000ドルくれたら教えてやると得意げにハナを蠢かした。(電動油圧式であることは後で知ったが、この約11年後私は元アメリカ駆逐艦『あさかぜ』機関長になって揚錨機の電動油圧ポンプを見た時、スノウを思い出して懐かしかった。)

スノウと云えば彼はある時自ら、私と電機の柴田という一曹の散髪をやってくれたことがある。当時私の頭はほとんど長髪になっていたが柴田一曹はイガクリの儘であったから、彼も珍しかったと見え、電気バリカンで刈った後を撫でて『スムーズ』といって片目をパチッと瞑ってみせた。彼は課業止め後ボランティアとしてセーラーでも誰でも散髪をやってやるのを見たが、チーフといえば泣く子も黙るアメリカ海軍社会での、日本海軍では到底考えられない、予想外な一面を見た思いがし感銘を受けた。また、進駐軍からインストラクターの扱いを受け、散髪のサービスをやって貰った日本人は私が最初ではないかと思ったりもした。

物の面での優劣はなによりも痛感した。最も卑近な例は懐中電灯であった。我々の使っていたのは木を繰り抜いた筒とブリキの金物で出来ていて、電池は交換しても一日もつかどうか、と云えばオーバーに聞こえるが倉庫で既に自己放電していたのかも知れぬ酷いものだった。

彼等のは完全防水で(我々のようにサックをかぶせなくても)デザインも素晴らしかったが電池の立派さには感心した。艦内令達器さえも米側になったら、今迄と違っていやに音斗朗々と鳴ったが、これは声量のせいか真空管のせいか。

内火艇も石油機械にガソリンを使ったのかモーターボートのように白波を蹴立てて走るのを見た。舟艇の高速ディーゼルにも驚いた。それはかの有名なグレイマリンエンジンの響きだったのだ。

 

酒匂とのわかれ

珍しさでは浦島太郎のような毎日であったが、竜宮城とは似ても似つかぬ環境である。一日も早く帰りたかった。いよいよ放免になる前頃、スノウが私と柴田一曹だけビキニまで乗っていって欲しいのだが、と申し入れてきた。ちょっと迷ったが柴田君は嫌だと言うし、断った。

だがこれは惜しいチャンスを逃がしたものだった。あの時行くといっていたら(実現したかどうかは判らないが)色々面白い展開になったかもしれないと後々までも後悔したものだ。

いよいよ退艦の時がきた。約20日間近くに亘る幽囚にも似た身分から解放される喜びと、酒匂を去る寂しさとの混じりあった複雑な気分で、見送るアメリカ乗員等に手を振り今や完全に我々の手から離れ星条旗の翻る『元酒匂』の舷側を離れた。

我々を乗せたLCT(戦車揚陸艇) は久里浜に着いた。北風寒い日だった。久里浜の桟橋には今南方から着いたばかりの引き揚げ者達が、ぞろぞろとポロを纏い無表情に足を引摺って歩いていた。その彼等のむくんだような土色の顔と、つい先程まで私の周りにいたアメリカ兵の赤い顔色との余りの違いに、一気に敗戦国の現実に引き戻された思いで駅に向って歩いた。

私も今度は本当に復員した。

酒匂は1946年7月1日ビキニ環礁での原爆実験で大破。翌2日沈没。

(機関記念誌313頁)

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